そういえばと思い出し、私はリビングの隅に置きっぱなしにしていた段ボールを開けた。最初に見えたのは底から生えた、たくさんの棘のようなものだった。ときどき節のようなものがあって屈折している。節のところが薄紫色に変色していて、ホコリのような、靄みたいなものが全体に覆いかぶさっていた。それがびっしり段ボールいっぱいに埋まっている。
私は全身の血液の巡りが一瞬止まってしまったかのように思えた。心臓がドキリとして、胸がつかえるような感覚が残った。これは半年ほど前に祖母からもらったジャガイモだったはずだ。だとするとこの棘のようなものはジャガイモの芽なのではないか。そう思って恐る恐る奥を覗いてみたら、確かにジャガイモたちが潜んでいた。
あのときのジャガイモがこうなったのか。
数分眺めてから段ボールの蓋を閉めた。その上からタオルを掛けて、私はまた部屋の隅に追いやった。
*
私は大学生一年のときから同じ弁当屋で働いている。アルバイトとして週五回、二十七歳になるこの年までずっとだ。
筍や菜の花を使った春らしい総菜が並び始めた今日、トリウミさんがこの店にやってきた。彼は新しいアルバイトだ。私の横で店長からもらったエプロンを被っているトリウミさんは、髪も眉も髭も伸ばし放題で、ロン毛の髪の毛は無造作に束ねていた。
トリウミさんはいい加減な見た目だけれど、仕事を覚えるのが早かった。たった数時間でレジは完璧にこなせるようになってしまった。
「いやぁ、暇っすね。俺、バイトって暇な方が無理なんですよね」
昼前のピーク時を過ぎるとほとんどお客さんはやってこない。
「佐伯さん、もう何かやることってないんすか」
「ないですね」
本当に何もないわけではない。私は客側と店を隔てる透明シートの先に透ける世界を眺めながらいつも夢想している。もしかしたら私は何者かによって映像を見させられているのかもしれない。
まず難しく考えることをやめるようにぼうっとしてみる。するとなんだか見ている景色が絵画や映画のように感じられる。最初はそれが怖かったけれど、小学校の中学年くらいにはうまく使いこなせるようになってきて、授業と私を切り離してきた。
「早くこのバイトに慣れるといいですね」
私もトリウミさんも十八時に上がった。トリウミさんは原付に乗って去って行ってしまったので私は一人で歩いて帰る。帰り道には私が通っていた大学がある。覗いてみると、机が屋台のように並び人があふれかえっていた。あれはきっと新歓だなと、この大学で一つもサークルに入っていなかった私は思う。
家に帰ると鍵が開いていた。もしかして、と思ったらやっぱりお姉ちゃんだった。
「おかえり。勝手に上がってごめんね、メールはしたのよ」
私の家の合鍵を持っている姉はたまに酒を持って私のアパートにあがっている。隣県の化粧品メーカーで働くお姉ちゃんは、忙しいと言いつつも一カ月に一回は私のもとを訪ねてきてくれるのだ。
薄力粉の量が少なかったのか水の量が多かったのか、さらさらしたシチューとご飯を二人で食べた。シチューにしようと思いついたとき、あのジャガイモが頭をかすめたが加えなかった。
「瑞樹は最近何かないの」
上司や彼氏の愚痴をひとしきり話し終わると、いつも気まずそうにこちらのことを聞いてくる。
「何もないよ」
「まぁね、あんたの場合、ずっと同じところでバイトしてるんだもんね」
「あ、今日新しい人が入ってきた。多分三十歳くらいの人」
「へぇ、男の人?」
「うん」
「いいじゃないの。……あ、でもフリーターか、三十でフリーターは無理だね」
「私も無職なんですけど、一応」
流し台に食器を持っていて、水につけ、洗剤を垂らす。
「あたしは好きにすればいいと思うわよ。就職とか結婚とか別にしなくていいと思うわ」
「ありがとう」
どっちもお姉ちゃんに任せる、と私がふざけて言うと、任せられてもね、とお姉ちゃんが眉をひそめた。
「でもあんた、新年にも帰ってこなかったでしょう」
「また今度帰るよ」
「今度ってあんたねぇ。お母さんもお父さんもあんたには何も言わないかもしれないけど、あんたを心配して不安がってるのよ。その度にあたしがなだめているんだから」
次の盆には実家に帰ることを念押しして、お姉ちゃんは帰っていった。明日の仕事のための準備をしなければいけないらしい。
それぞれの場面で重みを引き受けてくれる人のおかげで生きられることに感謝しながら、私は横たわった。就職では一社もひっかからず、アルバイトをしていれば社員にしてあげるという店長の言葉は果たされることはなく、私はずっと無職である。
目をつぶると、急にあのジャガイモの存在を強く感じた。
野菜のなかでもあのジャガイモだけを使い切ることができなかったのは、私がジャガイモが苦手なわけでも、ジャガイモ調理には時間がかかるからというわけでもない。おそらく、台所から一番遠い玄関の隣に置いてしまったためだ。
思えばあのジャガイモは私の悪い所が詰まっているように感じた。部屋の中の数メートル、台所からたった三、四歩歩けば良かっただけの話だ。あまりおいしくならないかもしれないけれど、毎日味噌汁の中にでも入れさえすればすぐになくなっただろう。
それから掃除や洗濯をしてみたが少しも片付いた感じがしなかった。一年前に買った六万円もする大容量冷蔵庫が憎い。この中に入れておけば絶対に使いきれていたはずなのに。
ジャガイモを送ってくれた祖母は五カ月ほど前に亡くなった。そのときは、そういうものか、としか思わなかった。絶望みたいな極端な感情には権利があって、その権利を私は持っていないのだと感じた。しかし、段ボールを眺めながら、私が生きているだけでいいと言ってくれる人はもういないのだなということはなんだか淋しかった。
次の日からトリウミさんと私はほぼ毎日顔を合わせることになった。二人ともフリーターなので、平日朝から夕方のシフトに入っているためだ。
トリウミさんはいつだって自由だった。たくさんシフトに入る人には店長が強く出られないことに気が付いたトリウミさんは、とうとう髪の毛をピンクにして叱られていた。結局私は一カ月たっても彼の年齢も、なぜこの弁当屋で働いているのかも知らないままだった。
トリウミさんと一緒にカウンターに並んでいても、私は相変わらず眺めていた。この店は音もいい。公園が近いので子どもの転がるような笑い声が流れてくる。かき分けるように耳を澄ませば川のせせらぎまで拾えるこの弁当屋の立地を、私は気に入っていた。
しかし、ふと考えてみると、きれい、とか映像に見えてくる、とかそういうのは全部、私とかかわりがないからかもしれなかった。あの木や家を、植えたり建てたりしたのは私ではない。当然私には子どももいない。だからこうやって無責任にそういうことを考えていられたのかもしれないと思ったら、なんだかとてもつらくなった。
私との間合いのとり方に慣れてきた様子のトリウミさんは、躊躇せず話しかけてくるようになった。ある日、トリウミさんがこんなことを言い始めた。
「佐伯さんってけっこう美人ですよね」
こういうことを平気で言ってくるタイプか、とうっとおしくてたまらない。たとえ社交辞令だとしても私は消えてしまいたくなる。
「ありがとうございます。これでも昔はキッズモデルをやっていたんです」
自分でも意味のよくわからない冗談を言ってしまった。
「ああ、なんかそんな感じします」
そう返されてしまって閉口した。
この言葉の中には、本当にかわいいとかきれいという意味がないということは分かっているので、誰かに弁解したくなる。私はちゃんと分かっているのだ。こういうことを軽々しく言えるタイプの人はこの世の中には一定数いて、大した意味などなくて、当然私はそれを真に受けるようなイタイ女ではない。都会の駅に行ったときに見たナンパの男を思い浮かべて、そういうのが口癖なんだと思うことにする。しかし、言われているうちに、もしかしたら自分は実はほんの少しだけでもきれいなんじゃないかと思うようになってきてしまった。そんな気持ちは、久しぶりに人からもらったプレゼントだった。
すっかり浮かれていた私はとうとうトリウミさんと連絡先を交換した。その帰り道、久しぶりに電話帳を開くと、一昨日からの着信がたくさん溜まっていた。すべてお姉ちゃんからだった。
「何してたの」
開口一番にそう言ったお姉ちゃんは、「バイトか、そりゃあそうに決まってるわよね」といら立ちを隠さない声で言った。
「ごめん。気が付かなかった」
「もう盆だよ。いつ帰ってくるの」
私が答えられないでいると、奥からお母さんの声が聞き取れる。「私たちはもういいから、瑞樹を責めないであげて」
「あたしは明後日まで実家にいるからそれまでに帰ってきて」
「悪いけど明日も明後日もシフト入ってるから、すぐには帰れない」
「休みますって連絡すればいいだけでしょ。一日でもいいのよ」
「でも明日は私ともう一人しかいないから、私がいないとまわらなくなるんだよ」
「社員がいるでしょ」と鼻で笑うお姉ちゃんに私もムキになってしまう。
「どうして笑うの」
「あたしは休み取るのに結構苦労したのよ。子どもがいる人が優先って言われて、頭下げて、休む分の仕事なるべく詰めてやって、すごく取りづらかったんだから」
「ごめん、でも学生の子が実家に帰ったりしてて、私が出なくちゃいけないの」
電話口から大きなため息が聞こえてくる。
「お母さんもお父さんも心配してるだけなのよ。そういうのってさ分かるでしょう。普通に」
謝りたいとは思ったけれど、お姉ちゃんが電話を切ってしまったし、何に謝ればよいのか私はよくわからなくなってきてしまった。
その日の夜には夢を見た。部屋中に芽の出たジャガイモが繁殖している夢だ。私の足元にジャガイモが触れて、思わず声が漏れた。底で静かにしているジャガイモを覆うように芽が伸び続けている。うねりながら伸びる紫の芽はムカデのようだった。前にも後ろにもある芽のせいで後ずさることもできず、私は棒立ちしていた。
すると、意志を持ったように私の方に動き始めた。やがて足先から私の身体の上をのぼってきた。私は猛烈な吐き気を感じながらよくわからない言葉を叫んでいた。私の身体を包むように撫で上げた芽は首元まで来ると一気に力が入った。首に巻き付いてはがれない。私は腕を使って必死に払おうとしたがうまくいかず、ただ苦しんでいた。
目が覚めたのは翌朝の六時三十分で、アラームをかけた時間ちょうどだった。
弁当屋に行って、社員さんと一緒に総菜を仕込む。開店の三十分前になるとエプロンを着たトリウミさんが売り場にやってくる。二人で品出しをして、接客して、今日も同じ時間にあがる。
「佐伯さんって廃棄の弁当持って帰らないよね」
このころのトリウミさんはもうため口になっていた。トリウミさんは毎日すごい量のお弁当を持って帰る。おそらく休みの日の分も含めて三食まかなうつもりなのだろう。
「飽きるほど試食してるし家で何か作るの好きなんだ」
「バイトでずっと料理してんのに家でもやんのか、すげえな」
すげえ、と言われてやっぱりうれしい。
「なに作るの」
「なにっていうのはないけど、ここで作らないようなものが多いなぁ。汁物とか」
トリウミさんが「食ってみたいな」と言うので、私は「じゃ、この後うち来る?」と聞いてしまった。いいの、とトリウミさんはうれしそうだ。原付のトリウミさんは酒でも買っていくよというので、住所を教えて私は先に家に帰った。
この後どうなるのか、わかっているようなわかっていないような不思議な気分のまま、私は味噌汁に入れる大根を切り始める。鱈が焼けたころ玄関のチャイムが鳴った。鍵を開けると、ビニール袋いっぱいに酒とおつまみを買い込んでいるトリウミさんがいた。
お姉ちゃん用の座椅子を取ろうと私が押し入れを開けた時、トリウミさんが「うわっ」と大きな声を上げた。
「なんだよこれ、気持ち悪いな」
見ると、トリウミさんがあの段ボールの中を覗き込んでいた。
「ジャガイモか? 初めて見た、こんなに気色悪いの」
「なんていうか、その、違うの」
一瞬で心の温度が下がってしまったみたいでつらい。どうしてそんなところに置きっぱなしにしてしまったのだろう。どうしてトリウミさんが来る前に押し入れにでも隠しておかなかったのだろう。
しかしトリウミさんは心底引いているわけではないようだった。
「ゴミ袋、ある?」
私ははじかれたように顔を上げた。ゴミ袋を手渡すと、トリウミさんは「うわ」とか「キモ」とか言いながら、素手でジャガイモを掴んで袋の中に入れていった。
「放っとくとこんなになるんだな」
みるみるうちにジャガイモは袋の中に吸い込まれていった。
「外に捨ててきてやろうか」
なんだか熱いものがこみ上げてきて、うまく返事ができなかった。
「おい、どうして泣いてるんだよ」
「ありがとう。お願いします」
味噌を溶かした後に煮立たせてしまったことに気づいて、私はあわてて火を止めた。