不愉快が私を育てている。この薬がなければ、私はほとんど廃人であったはずだ。コップに入った水を口元へ運ぶのでさえ億劫な堕落人であったはずだ。だから生きるためにはこの不愉快、必要不可欠な代物なのだが、しかし私はこの不愉快がイヤでイヤでたまらない。なんでったって私たちはこうも苦しく生きてゆかねばならぬのでしょうね。ああ、違った、主語が違った。「私」です。個人の問題をすぐさま全体の問題に変換する私の悪癖が露呈しちゃった。ところで皆さん、あなた方は生に義務を感じていますか?
私は痛切に感じている。この義務なかったら、今頃その辺に転がってるね。
絶望も高じれば希望へと変わるが、希望はすぐに義務へと堕つる。ここが終着駅なんだ。そうして義務に伴う哀しい悪徳を考えてごらん。義務の道はどこまでだって続いているのだから、よしんば横道に逸れてもあるのは死だけで、しかもこれはただの死ではない。終わりなき死だ。虚無の果てに切り立つ崖の上に、バベルの塔がガラクタみたいに積み上げられている。雷が止まない夜の中で私たちは終わらない祈りを捧げる。全く馬鹿らしくなってきた。たなびく風に耳を澄ますと人の悲鳴。葉の一枚に目を凝らすと絶望の表情。甘い花の香りは、焼けただれた人の肌の匂い! もうたくさんだ。発狂の叫びをあげるとそれは空にすっかり吸われ、辺りは真っ白な静寂だった。目を瞑ると黒い闇で、私はまばたきを繰り返した。白黒以外は何もないこの退屈ですばらしき世界にいったい何を望もうかしら。
ええ、言います。今すぐにでも言ってやります。あの女は酷い。余りにも酷い。悪魔でございます。古来より人を騙し、弄んできたあの醜悪で悪辣な悪魔でございます。許さない。許さない。ズタズタにしてやらねば気が済まない。はい、はい。すみません。もう一度落ち着いて申し上げます。少々、血が熱くなってしまいました。あの女のことを思うとどうも正気ではいられない。でもそれも仕方がないことであると、今からの話を聞けば、皆様方、裁判長だってお思いになるに違いありません。だって、だってそうでしょう。あの女は私から全てを奪ったのですから。こんな仕打ちがあるものか。神様だってあの女を許す道理はないはずだ。神様だってきっと私の味方だ。はい、はい。少々横道にそれてしまいましたね。どうもいけない。これもあの女のせいでしょうか。きっとそうだ。そう思うとにわかに落ち着いてきました。もう心配はありません。先ほどから私の頭の中に巣くっていた憤怒の虫はもうどこかへ飛び去りました。私はあの女に屈さないと心に誓っているのです。さあ、今一度、私の話をお聞きください、裁判長。そしてあの女を殺してください。
あの女は泥棒です。人の男を奪った泥棒です。今にきっと酷い目に遭う。いや、あの女は酷い目に遭わなければなりません。これはもう決まったことです。あの女にしてみればさぞや残念のことでしょう。だけれども、これはもう決まったことだ。全くもっていい気味だ。あの女の傲慢が裁かれる時がきたのです。さあさあ皆さん、早くあの女を殺してください。
私はあの女に恩を仇で返されたのだ。あの女が降り止まぬ雨に困っているとき、私はいつも傘を差し出してニコッと笑ってあげたのに。あの女が、行く道も分からぬままに右往左往しているとき、私はいつも手を差し出して引っ張ってやったのに。それがなんだ。男に見せたあのはにかみ。思い出すだけでも腹が立ちます。あの女は始めから男に色目を使うしか能がない女だった。私は馬鹿だから今の今までそれに気がつかなかったのです。ああ、あの女は売女です。恋も友情も何もかも忘れて色欲に溺れる売女です。だから殺せとはまさか私、言いませんですが、女のその属性によって不義は行われたのですから、しかるべき処置をとらなければならないはずだ。いや、とるのですよ。それが一番の解決で、あの女だってそれを望むべきです。あの女に身の潔白のあろうはずがありません。それは私以上にあの女自身がよく知っているはずです。私が居なければあの女は幸せを掴むことが出来なかった。私が居なければあの女は無邪気ではいられなかった。あの女は私に無数の恩がある。あの女はそれがご自身気に入らなくて私に意地悪く振る舞い続けただけなのです。争いごとを収めるための心得、相手の名誉を尊重すること。あの女は何も分かってなどおらぬのです。恩があるなどもいったい気づいておられるかどうか。聞けば必ず讒訴だと騒ぎ立てられます。でも、だからといって私、それを恨みに思うなどはありません。それはとんでもない事だ。彼女は美しいお人なのです。清く正しく愛というものを理解していた。けれども、けれどもだ。それならばあの女は私に対して、優しく声をかけてくださるなり、自ら私の手を取って信頼の力を籠めるなりと、何か慈愛の実践というものをほんの少しでもやってくれたって良かったはずだ。あの女は私に身体を支えさせながら、私なんかいらないみたいに、私を自分の人生における路傍の人のように扱おうと努めていたのです。あの女は時々私を代替可能なモノのように扱う。ご自身気が付いていないが、絶対にそうなのです。私はあの女のような無邪気や天真爛漫とは無縁の生まれ方をしてきましたから、反対にある謀略や悪意には嫌でもにおいで気が付くのだ。本人未自覚の嫌なものまで目ざとく感知してしまうのは私の悪徳に違いないが、でも事実なのです。
あの女は冬のショッピングモール内で、私の名前を呼んで、ふと「さっちゃんとも、もう随分な付き合いになるね。あなたのことは分かっているつもりだよ。だからそんな顔をしたら、いやだな。だって、そうでしょう。私なんかよりよっぽど、どんな世界でもうまくやれるはずよ。さっちゃんが笑って世界に接すれば、世界はそれに呼応するように笑顔をくれると思うわ。なんなら、あげた笑顔に利子がついて、いたわりだってくれるかもしんない。だから、辛いからってその辛さを見せつけるようなマネはしちゃいやよ。それは全然優しくないわ」そう言ってくれて泣きたくなった。お声は胸に染みゆき、暖かかった。暖かかった! しかし、それだけでもあったのです。私はあなたが死ねば、死にます。世界などは何でもない。笑顔などは要らぬのです。私はあなた一人、私のことを分かって下さったら、もうそれだけで良かったのです。あなたのためなら人殺しくらいはやってのける。ですから、くだらない冗談はおよしになってください。
私には昔から考えている夢があるのです。それはあなたが私たちの生まれ故郷に小さな家を建て、くだらない生活やら男やら思想やらから全部離れ、そこであなたは小さな学校の先生として、子供たちを目一杯可愛がるのです。優しくて、虫一匹でさえいたわる男の方とご結婚なさってくださいませ。私は家の家政婦さんとして毎日毎日、あなた方のお世話をします。あなた方ご夫婦はいつでも仲睦まじげに微笑みを交わし、私はそれを満足気に眺めます。貯めたお金で、無論、私も出資しますが、孤児院なんかも建てたりして、子供たちの笑顔が溢れる光降る国をつくるんです。そう言ったらあの女は「私は今までなかったわ。あなたみたいなそんな奇跡が。私なんかにはもったいないくらい羽ばたきは良いものになるでしょうね」と明るく、けれどもだんだんと小さな声で「だからそう、あなたにはやらなきゃならないことがあるのよ」寂しげな満面の笑みがあり、それからすぐに歩き出したので会話は続かなかったのですが、後にも先にも真剣にお話が出来たのはこのときばかりに思われます。ああ、私はあの女を愛している。私は一人で天国へ行くよりも二人で地獄へ行きたいのだ。引き裂かれるくらいなら何回だって私があの女を殺してあげる。あの女の周りにいるのは所詮インテリと俗物だけだ。自殺は思考の放棄だろうけれども理性ある選択だと私は思います。彼らは理性を勘違いしているのだ。いったいどれだけ人間を高尚にする気なのだ。あの女の周りの輩は幸福にならなければいけないという強迫観念に溢れすぎている。何が幸せだ。彼らの多くは己の腕っぷしだけが自慢で、他者の襟首を正し、手足を揃えさせ、幸せの道を歩かせるのに必死である。そうして自分自身、良いことをしたと思いあがっているのだ。ひとの顔を見ていない。あの女の愛の意味など、てんで理解していないのだ。あのお方の愛の尊さを知らないのだ。私は愛ゆえのあの女の純然の美しさを信じている。そうして熱烈に愛している。それなのに、あの女はどうして私の実直な奉仕を全然分かって下さらぬのか。ああ、やっぱりあの女を殺してください。そしてその前に少々昔話になりますが、聞いて下さい。
あの女は初め、私の確かな親友でありました。現在私二十四になりますが、あの女と初めて出会ったのは私がまだ十二の頃でした。お互いまだ幼く、無垢なる心を持っていました。少なくともその時の自分だけはそう信じておりました。桜舞い散る朝、中学入学の折、私たちは出会いました。つまらない校長の話や式典行事の諸々終わって、いよいよ教室で、自己紹介となりました。もはや印象にない確か小太りの三十くらいの男でしたでしょうか。その担任が自己紹介を指示したのです。私たち別段抵抗もなく、むしろワクワクとした心持ちを携え、一人、また一人と、自らを開示してゆく喜びと愚かとを感じました。私の番もやってきて、私は名前と出身学校、それから諸々のことを滔々と語り、まばらな拍手をもらいました。落ち着いて、座り、後ろを振り返ると、あの女がいたのです。女はツヤのある髪と一緒にふわりと立ち上がり、不安げな瞳を一瞬揺らしたものの、すぐに澱みのない声で、軽やかに自分を語りました。自己紹介の後にはその日一番の大きな拍手がありまして、私も感服を受けました。最後に見せた困ったような照れ笑いは、女の私でさえ惚れそうになった。天の光が人の形をしてやってきたのだとさえ思ったのです。そうして同じく恍惚と彼女を見る男どもと女ども。彼女の余韻に教室は未だに色めきだっていた。自己紹介は次の人で、ふと見た彼女の顔、曇り。私は突然何もかもが全部腹立たしくなり、お前たちは一体なんなんだ。光の尊さも理解せずして群がる蠅ども。今の私の鬱憤は神をも殺せるのであるぞ。心の中で唱えた後、私は精一杯の誠意を込めて、彼女を見つめて莞爾と笑った。それに答えてにこりと笑うあなたのお顔。私は生きてきて良かった。生まれた原罪すらも洗い流されていくようでした。はい、はい。いいえ。私はちがうのです。私は何を言っているのだ。私はあれで騙されたのです。
鉄の仮面。人は私を冷たいと言う。泣かない女。気持ちが悪い。涙とは何ぞや。優しさの証明か。泣いている人はいたわりたい。しかし我が身可愛さの自己防衛にも見ゆる時あり。さればいたわりにもかすかな侮り。私は機械チックだ。規則正しく笑う。慈眼を装い目を細め、見破られぬかと辺りをちらちら。目が合ってあっ!と叫びそうになる。でもって人間の発見。不具には目ざとい周りの大人。ではお前はどうなんだ。言い返せずだんまり決め込む。我が卑怯噛み締め、相手を憎む。仏はなくなり、センセーショナルな時代の寵児を待つ。時代の寵児が神様だったら、私は死んだって構わなかったんです。博愛主義だと嘘をついていました。だから裁きを待っていたら、待っていたら、あれだ。起こってはならないことが起きたのです。裁きなんて生易しいものではなかったです。
私は今の今まであの女にたっぷりと尽くしてきたのだ。そして、それは至上のよろこびでした。中学三年の秋、あの女の方から私の受ける高校に一緒に行きたいと寄ってきて、私は欣喜雀躍しました。無事二人受かって、高校に入学すると、ふっくらとした唇が思いやりを包むように優しく引き結ばれていたあの女のお顔は、ますますその美妙を増し、一種の聖的な清らかさすら漂い始めていました。その頃には私たち、とっくに確かなる親友になっていまして、私たちの高校はそれなりの進学校で、あの女は地頭は良いのに勉強はあまりしてこなかったらしく、私が付きっきりで教えてあげ、やたらめったら部活に誘われるので、活動のほとんどない私の文芸部に入れてやり、大量のラブレターや告白なんかにも逐一私が相談に乗ってあげていたのだ。ああ、あの頃が懐かしい。輝いていた。時の砂まぶして、戻りたいくらいだ。あの女には天性の、人を感動させる情緒的な何かがありました。私が部室にて「ああ、不幸せな青い鳥よ。お前の苦難を聞かせておくれ」という詩句を思案してやっとこさ創り出すと、それを目にしたあの女が「ああ、愛よ。今は悲しくていけない。ちょっとで良いからそっとしていて」とさらっと書き切り、私は思わず服従しました。孤独とばかり思っていた愛にも理解者は案外いるのかも知れぬと思いました。私はますますあの女にのめり込むようになったのだ。それから、大学受験を意識する段になり、あの女はわざわざ都内のW大学の教育学部に行くと言うので、私は不可思議で、なんなら嫌な予感すらあったのですが、今から考えると納得がいきます。私はだが、その時はあの女の崇高を信じていたので、そして教育学部なんてのは私の念願でもあったので、嬉々として勉強を教え、オープンキャンバスを手配し、あの女は客観的にはあまり良い家庭に生まれたとは言えなかったので、奨学金や、上京後の計画にいちいち私が、相談に乗ってあげて、そしてそれはひとえに恋や友情なんかよりも壮大で豊かなあの女への愛ゆえのものでありました。私も同じ大学へ行くと伝えたときのあなたの笑顔は私、一生涯忘れない。永久に分かり合える日が来ると、そう信じていたのであります。
しかし、上京し、大学に入ってしばらくしてから、私は何やらイヤな違和感を覚え始めました。大学で、私たちの共通の友人に同学部のある男ができました。男は半戦闘態勢とでも言おうかしら。顔もそうだし、いつも歩く際に、体にしっかりとした軸があるのを他人に強調、でも完全にそうは見せたくない気の弱さも持つので、手先足先はぷらぷらとしていた。自身の痛みに過剰で、他者の痛みには配慮の欠片もない無関心。弱さを武器にしやがるくせに他者の弱さは許さないらしい。でも、顔は良かったな。顔と言うより雰囲気が良かった。芯がない笑い方に特徴があった。基本、気が回って余裕があり、大変落ち着いているけれども、確かに深い心の傷を負っていて、故に女には困っていなさそうだった。眼の奥の無責任な暗さもそれを確実に物語っていた。私は嫌な予感がたまらなくして、そして実際、あの男が部活の後輩の男達に暴力を平気で振るうさまを目撃したので、それをあの女にきつく言ったら、あろうことかあの女は、「気に入らなかったからってそんな適当を言うなんて、いくらあなたでも見損ないます」そうして男を語るときのあの女のとろんと下がった目尻、照れ笑いの桃色の頬、過剰な擁護。考えれば考えるほどそうとしか思えず、私は見てはいけないものを見てしまった心持ちだったです。いったいどういった風の吹き回しでしょう。いや、それは分かっていたのだ。私が認めたくなかった、それだけです。夏祭りの実行委員会の打ち上げの際、六個入りのたこ焼きを二つ、屋台の店主から貰った男は、それを皆に配るわけでもなくあの女と二人で半分こした。あの女はそれを貰って平気な顔、どころか顔を赤らめ、媚びを含んだいやらしい微笑を張り付けていました。本当にこんな事、言いたくもありませぬが、まさか、こんな貧しい精神の持ち主に恋、それも情欲から発露された特別な感情を抱いたのではなかろうかという疑いがむくむくと沸き起こり、危機感の爆発。美しいものが手遅れになる。私はこのままではあの女が完全に堕落してしまうと思い、とにかく口惜しくて仕方がなかった。なんていう、まあ、卑俗の景色なのでしょう。
そんな事件もあったので、私はあの男さえ消え去ればと思い、密かに時機をうかがい、一度男が明らかな不義を働いた際に「あなたは組織から出ていくべきです。真面目にやれないのなら彼女からも離れることです」と怒鳴ってやるとあの女は執着の眼をもって、私を睨んだことが一度だけあり、大変なことだと思いました。あなたともあろうお方がそんな眼をなさってはいけません。それは卑小な人間のする顔だ。男は髪型は控えめだが、ピアスをつけ、香水振りまき、それは本当に良い香りだった。黒い色の瞳がいつもいつも、うっとりするほど綺麗でありました。あれは私の男だ。ふざけるな。顔だってあの女の神秘的な眼と微笑には適わぬだろうけども、私だって若い女だ。それなりに美しい立派な女性だ。奉仕精神なんかは私の方に圧倒的な優位がある。あの女は自分一人では何も生活出来ないのですから。生活力全般に欠けているのです。勉強でも何でも私の方がよほどできる。それでも私はあの女のために何もかも捨てて生きて来たのだ。完全にやられた。あの女は他人の男を泥棒したのだ。いや、違うです。いったい私はあらぬことを言っています。どうか皆様、お許しください。今のは全部嘘の事実です。そんなふしだら、あるわけない。
私はただ、辛くて辛くて仕方がなかっただけなのです。心臓をえぐりとりたいほど苦しくて、介錯人を探し続けているだけなのです。私を偉いとか言って褒める奴らは、頼むから、そんなことよりも、私を、殺せ。延命装置を壊して下さい。ああ、やっぱり、あなただけです。尊い人よ。私を絶え間なくぶってくれるのは。握手しても、頭を撫でられても、労りでさすってあげても、てんで暖かみなどなかったのに、あなたの鋭い攻撃はいつまでも私を暖めます。分からない。分からない。アンビバレンスに殺される。それは本望? 分からない。私は誰かに抱きしめられたかっただけなのだ。いやいや違うです。口が滑って、あらぬ事を口走った。私が言うことは全部デタラメの滅茶苦茶です。何もかも信じないでいてください。私自身も混乱している。ああ、燃え上がった潤んだ眼は、それは私の誤解ではなかった。汚れなき精神の死。等身大の少女への変貌が嘆かわしい限りでした。神の愛への操は一体どこに失われたのですか。その時からです。私の中に「殺」というおぞましい字が住まうようになったのは。
それからすぐ、大学生活の終わりが見え始める時期になりまして、私は少々不満に思いながらも、男も含め、私たち全員、周りの大多数も皆、東京に残ることになりました。近頃のあの女は「弱くいちゃ可哀想なの。その弱さは誰かが拭いとらねばいけないものね」と想像した架空の苦しさに憐憫する周りの連中みたいなことを言い出したかと思うと、「あの人、この前泣いてたの。ホントに悲しい人なのよ」なども言い出し、この時ばかりは私も流石にぎょっとした。表面の苦しさにだけ騙されて、この人もとうとう気が狂ったのだと思いました。あの女ともあろう者があまりにも月並みな言葉を吐くので驚愕しました。私はあの女を、汚らわしいとさえ思いました。あの女から聖らかを嗅ぎとったかつての自分の浅はかさが全く馬鹿らしくなってきて、なにが聖女だ。浅ましい。あの女はただ夢見がちな凡俗の少女だったに過ぎないのです。思春期にちょっと背伸びして、大層なことを言いたかっただけなのだと合点して、私はせいせいした気分にもなりました。大笑いしたいほどの爽快さえも感じました。
それでもあの女の浮かべる微笑だけは変わらず綺麗で、私はそれだけを信じたく、かつて聖女様が語った、抱え込むのが大事なんだという教えと、苦しい時こそ楽天の仮面をつけろ、という鉄の掟がいったい何度、それからの私を救ったか。決めました。私がやろう。これ以上の醜態が晒される前に、私が、愛情による殺人をするのだ。あの女を思いっきり殺してあげる。そうして私も潔く死ぬのだ。愛のために死ぬのは本望です。報いは抱きとめます。世界を覆う暗闇の雲。他人から見たら砂粒。私は一人でも愛の実践をやってみせるつもりだ。
はい、はい。すみません、泣いたりして。随分と興奮して語ってしまいました。はい、もう大丈夫でございます。落ち着いて話しますのでお聞きください。 それからまた少し経ち、実際の就職やら何やらで忙しくなる頃、あの女は結婚して家庭に入るなどとくだらないことを言いだしました。「あの人のお仕事支えながら、主婦をやるわ」なんて、当たり前の通俗を言い出して、私は失望でフラフラとする思いでした。あなたがかつて語った夢はどこへ行った。あなたには崇高なる理想があったはずで、つまりそれは世界に対する啓蒙で、慈愛で、教育で、救いで、あなたの幸せだったはずじゃありませんか。何故だ。何故だ。どうしてですか。そんなことをお考えになってはいけません。教師になるのが夢だと言っていたのに。あなたならばさぞ素晴らしい先生になる。迷える子羊を照らして、手を取り、正しき道に導きたもうと信じていたのに。今では盲目の馬鹿連中率いて、飲み歩くのが楽しいだなんて笑う始末。私はあの女の心の錦だけは信じていたのだ。このままでは絶対駄目だと思いました。あの女の醜態もこれまでだ。私が終わらせてあげねばならない。せめて、美しいままに死んでください。私の鮮血も被せましょう。決意はさらに固まり、私はその夜、天を睨みつけるようにして何時間も月を見つめておりました。
今思えば、私には生きることも実質的には自殺と同じ行為でした。いや、死ぬなんかよりはるかに厳粛で静かな道でした。私は生きている限り、誰にも何にも顧みられぬと分かっていましたから。結局辿り着く場所というのは一つしかなく、そうしていざその場所で、自分のみに頼ろうと考えてみると気がつくのです。自分の中に何かを求められるほど、私は健康的に育てなかった。改めて見直すと自分という寄り木があまりにか細く、今にも朽ちそうに立っていたのに気がつくのです。それでもあの太陽を見つけた時ばかりは、私も光を目いっぱい浴びて、寄り木もいつしか大樹になって、自然を形づくっていくのだと思いましたが、あれは全く夢でした。私は、自らの清らかなる魂の存立基盤だけは無事健康だと勘違いしておりました。本当はとっくに汚れきっていて、とても見るに堪えるものではなかったのです。私は己の卑俗を知っています。無実と不浄。私が生まれてきたばかりにこの世の災難が一体何個ほど増えたのでしょう。数えられるだけでも四つはあるわね。
死んでも治らぬ不治の病。私は分からなくなりました。愛とはなんぞや。心緒の共鳴か。ならば私は誰も知らない。誰も私を知らない。昨日見たあなたの笑顔もまるで信じられなくなった。愛には常に条件があるのだ。差し出すものなければ人は誰からも愛されない。笑い事じゃありませんですよ。こっちは真面目に言っているのだ。すみません、違うな、謝っちゃあいけない。笑いたきゃ好きに、笑え。私は笑顔を信じませんですから、どっちにしたって同じなのです、そうでした。そうでした。私はただ誰かと手を繋ぎたかっただけなんですよ。あれ、これも違ったでしょうか。とにかくお聞きになってください。
私はあの女を殺さねばならぬ。世界があの女を知らなかったらそれは世界の不幸であり、世界が私を知らなかったらそれは世界の幸福なんです。私とあの女にはそれくらいの絶対の隔たりがあって、私はその絶壁をたまらなく愛しいとさえ思っている。誰からも認められずとも、許されずとも、私はあなたのお傍に居られればそれで良かった。私は価値のない人間だから、あなたが死ねば必ず死にます。躊躇なくあなたを想って殉死するです。だから、あの女を殺して、私も死ぬのだ。私にしかやれない愛の実践。私が一番にやらなきゃいけないのだ。
私は二人が同棲を始めたというアパートに半ば強引に押しかけの形で、夜ご飯を誘いました。いよいよ決戦の日でした。その日は男も女も何の予定も入っておらず、私は密かにチャンスをうかがっていたのであります。あの女は私をアパートに上げ、大変寒い日でしたので、水炊きのお鍋などを準備していて、男はどうやら買い物にでも出かけているようでした。私を迎え入れたあの女は私の顔を見るや否や、右眼からほろりと涙を流し、ひどく思いつめた顔で、私の右頬を撫でて下さり、私の今までの考えなどが全部分かったような気配すらあり、ぎゅっと下唇を噛み始めました。いつしか、ぽろぽろと涙が零れはじめ、私はその涙の一粒一粒が頬をつたって流れ落ちる度に、怒りや悲しみが全部消え去り、あなたへの愛だけが膨らんでいきました。ああ、泣いている姿さえ美しい人よ、私は君の涙を愛す。私は泣くことが出来ないから。それはかけがえのない君の美徳だ。君の涙の輝きに私はいたわりと悲しみとを感ずる。そうです。あなたはいつでも寂しかったのだ。可哀想に。私の過剰な信仰もあるいは重荷になっていたのかもしれない。あなたは何にも悪くない。あなたはいつでも美しかった。弱い者にも強い者にも優しかった。まさしく女神様でした。私はあなたに、罪のないことを知っています。
とにかく、ごめんなさいと詫びたかった。あなたの御心はいつでも玲瓏たる黄金の鈴だ。それなのにあなたのことを殺そうなどと思って、包丁なんて危ないものを鞄に入れて持ってきて、私は狂っておりました。あなたの柔肌に刃物を突き刺すなど、なんという罪深きことを考えていたのでしょう。ですが御安心なさいまし。もう今からはあなたの髪一本まで大事に守ります。こうなったら男も来い。猫も杓子も来い。あなたの周りの馬鹿連中だって悪くなかった。一緒に祈りを捧げよう。もう一度仲良くやりませんか。私たちは皆、彼女の笑顔がたまらなく好きでしょう、と大らかな慈愛が自然と身体全部を覆いつくし、口に出しては言えなかったけれども、私は世界全部を、私自身のこともなんだか初めて、許せた気がした。地上が光ある楽園に見えました。やがて男が帰ってきて、私は「お邪魔しています」と何の邪念も無く言うことが出来て、男も「いらっしゃい」とこれまた純粋無垢な少年の笑顔を見せました。あの女も「せっかくだからシャンパンを開けましょう。この前、この人が貰ってきたのよ」と、いつになく上機嫌で、明るく、通りの良い快適な空気が部屋中を流れておりました。談笑を交わし良い時間が過ごせた。私はもう完全に改心した。これからは二人の幸せを毎日祈ろうとさえ思い、それが私に託された天命だと言われた気がしたんです。
だがしかし、食事も酒もある程度進んで、皆がちょっとした小休止に入ったころ、ふと、酔っ払った男が言いました。「前々から言ってるけどさ、僕はある女の人のジェラシーに醜さを感じる。僕はその人が嫌いです。第一、顔がとても不吉だ」急に冷たくなった。時計の針の音が嫌に神経に触りやがる。あの女もそれに追従するように「確かに人相が悪くなったね。随分と不幸せな運命に堕ちたの。あの子は生まれてこなければ、そっちの方が良かったのかもしれない、でも──」私は血が熱くなり、あの女が私を擁護する言葉を吐くその一拍前、男の方をちらりと盗み見、仕方ないわね、この人も、そう言わんばかりの困り笑いを微かに浮かべたので、私はもはやこれまでだと観念しました。苦しくて、苦しくて、怒りは決して湧かなかったが、さっきまでの神聖な空気は消え去りました。凄冷な眼差しだけがありましたの。殺さなければ。強く思った。手遅れだ。私が全部間違っていたのだ。取り返しがつかないくらい嫌われている。こいつらは最低なとんちき野郎だ。私を散々いじめ抜いた挙句、最後はこんな惨たらしいことをするのか。涙が出た。びっくりした。本当に久しぶりに流したのでした。お別れの夜がこんな冬の寒い日なのは寂しい。でも、いい気味だ。私は今こそ、対等の真の意味を理解しました。復讐への侮蔑なら好きなだけなさるが良い。「ずっと大切な人だから」あの女が何か言ったようで、私はちゃんと聞こえていたのですが、意味を理解する余裕などなく、自分のなすべき事業だけを見つめておりました。これは絶対の宿命だ。そうだ。やれ、存分にやるのだ。陳腐な美顔への悪魔の鉄槌。
私は鞄から包丁をそっと取り出し、男の頭目がけて思い切り振りかぶって投げました。包丁はあっけなく男の頭に突き刺さり、噴き出した男の血がテーブルを飾り、あの女の悲鳴がありました。死にやがった、簡単に。思っていたより楽ちんでした。それから、私はゆっくりと立ち上がり、微笑を浮かべてあの女の方に近づきました。あの女は怒りも悲しみも喜びもなく、ただ打ち震えておりました。
男を殺した私に向かって、投げたコトバは涙を浮かべた「ごめんなさい」私はあの女、いえ、あの女神さまが人間になるのを恐れていました。まったく、まったく見ていられなかったのです。そうして気づいたら血だまりだったです。「無期懲役」なんとも神聖な。いただきましょう。ありがとう。私は歪なヒトもどきです。私は人に愛される素養なくこの世に生まれつきました。だから私には神様しかなかったの。うふふふ。あはは。獄島幸子。私の名です。私はこの悪魔みたいな血と、古臭い名前とオサラバしたくて。だってちっとも神様とお近づきになれないのだもの。