第一話 バス停と持ち主不明の本
天岳市は天候が移ろいやすい。朝のニュースでは晴れと予報されていても、よく雨になったりする。だから、市中の住民はどこかへ行くとき、必ず折り畳み傘を携帯するのだ。
しかし、その日の僕は傘を持っていなかった。つい昨日、委員会の後輩に貸したままで、返してもらうのを忘れたからだった。
雨が降った。空には雲なんてないのに。狐の嫁入りというやつである。僕は帰宅路の途中にあるバス停へ駆け込んだ。制服を着たままであるから、僕は濡れるのが嫌だった。生乾きの何とも言えない臭いは嫌だった。バス停には屋根があるおかげで、雨宿りにちょうどいい。
僕はこの町へ高校入学と共に引っ越して来た。まだ一年半ほどしか住んでいないが、経験則から長雨だと思った。やることがないから、学生鞄から文庫本を取り出して読み始める。ここは廃線されたバス停だから、邪魔する者は誰もいないと思った。
雨は心地よい。連続する自然音は脳波にいいと聞く。それが眉唾物だとしても、しんみりとした気持ちで読書ができる。どこかに風鈴があるのか、時折りんりんと軽やかな音も聞こえる。
読書をしながら、混ざり合う音色に耳を傾けていたからか。その足音に気付いて、僕は顔を上げた。
「おっ、先客か」
そう言いながら入ってきた彼は、僕と同じ高校の制服を着ていた。雨除けとして頭上に乗せていたタオルを、彼は絞った。彼の顔が露わになった。見覚えがある。でも、どこで見たのか思い出せない。僕が彼の名前を捻り出すよりも早く、彼は僕を思い出したようだった。
「お前、赤城だよな? ……やっぱりそうだ、図書委員の赤城だ」
「そうだけど、君は?」
僕が尋ねると、彼は心外といった顔をした。
「お前と同じ学年で同じ図書委員だよ。名前は白崎洋祐。何度か委員の当番でペア組んだろ、もう忘れたのか?」
「ああ、白崎くんだね」
僕はあまり他の生徒と話さない。この町には、中学校も高校もそれぞれ一校ずつしかない。彼らは全員が顔見知りで、途中から転校してきた僕は馴染みにくかった。だから、休み時間は自分の机で読書をしているのが、ほとんどだった。
とはいえ、図書委員としての交流はあった。彼と話すのは少なかったが、ペアとしての行動は何度か共にした。彼は接客で、僕が本の貸出管理。本の裏表紙に貼ってあるバーコードを読み込んで、貸出状況をパソコンに記録するのだ。
「……そういえば、赤城の好きなジャンルは?」
話題がなかったのか、彼はそう聞いてきた。自分から話し掛けたのだから、自分から話題を提供しなければ、とでも律儀に考えているのだろうか。でも、僕には共有できる話題なんてなかったのだから、ありがたかった。
僕は文庫本を閉じながら答えた。
「推理小説。そういう白崎くんは?」
「俺はあんまり本とか読まないからな。図書委員になったのも、それしか選択肢が残されていなかっただけだし」
何だよそれ、そう僕は思ったが、声にはしなかった。
といいながらも、彼は与えられた仕事は必ずこなすタイプである。図書委員として本の入れ替えや、表紙の補修も真面目にやる。彼に悪い印象は抱かなかった。
彼は言い訳するように続けた。
「まあ、本が嫌いなわけではないが、本を読む習慣がなかっただけだ。この町の図書館は俺が生まれる前に閉館したみたいだし、小中学校の図書室は貸出カードってのを採用していて恥ずかしかったしな」
「貸出カード?」
「赤城は転校生だもんな、知らないよな。本の裏扉にカードが入っていて、借りる時に自分の名前を書いてから提出するんだ。だから、その本を前に借りた人の名前が他人に筒抜けで、俺は恥ずかしかったんだ。男のくせに、料理本を読んでいるんだぜ」
彼は妹の弁当を作る必要があったから、と笑った。意外な一面もあるもんだ。
それにしても図書カードか。僕は一度も触ったことがないけれども、考えられたものだと思った。
「それにしたら、俺たちの高校は偉大だよ。本の裏側に貼ってあるバーコードを読み込めば、パソコンが勝手に管理してくれるんだぜ。…………あれ、じゃあ、赤城が前にいた学校だとどうしていたんだ?」
「僕? 僕がいた小中学校では、本に金属の識別チップを入れていたよ。だから、本を持ったまま図書室から出ると、勝手に貸出記録が付くんだ。返す時も一緒だね」
「くー、やっぱ田舎とは違うなあ。時代の進歩に追いつけないぜ」
彼はなんだか悔しそうだ。
しかし、彼が言うほど天岳市は田舎ではないと思う。少し過疎化の傾向はあるが、大きなホテルもあって観光客は絶えない。どちらかといえば、都会寄りの田舎といったところか。
僕がそんなことを考えていると、彼は何かに気付いたようだった。
「ところでさ、……そこに落ちている本は赤城のものか?」
彼の目線を辿る。言われて初めて知った。確かに、そこにはブックカバーの掛かった本が落ちていた。僕は彼が来る前からバス停にいたはずだが、眼中にも入っていなかった。
僕は地面から本を拾い上げて、付着していた土汚れを払った。
「傷んでいないな」
彼の言う通り、その本は数日以内に落とされたようだった。ブックカバーは僅かな土汚れがあるにしても綺麗で、雨にも濡れた跡がなかった。本の題名はわからない。裏返しても、所有者の名前も何もそこには書いていなかった。
僕はブックカバーを外した。どうやらこれは店で貰えるものではなくて、自前のクラフト紙を折って造られたもののようだ。クラフト紙を再利用した手造りだから原価無料で環境にもいい。本好きの僕も同じことをするから、よくわかる。表面に傷が付かないよう大切にしているのが鑑みられて、この本の持ち主へ好感が湧いた。
「あっ、見ろよこの本。最近出版されたばっかの人気作じゃねえか。俺が図書室に入庫したから覚えてるぜ」
なるほど、僕も名前を知っている推理小説だった。いつか読みたいと思っていたのだけれど、誰かが借りているのか図書室にはずっとなかった。だから、この町には図書館がないのもあって、本屋で買うしかなかった。しかし、この本は堅表紙でもないのに、値段は千円を超える。購入するには躊躇していたのだ。
僕が一通り見ると、彼は尋ねてきた。
「何かわかったか?」
「名前も書いていない。このまま置いておくよ」
警察に届ける案もあったが、僕は放置を選んだ。交番はここから町の反対側で、いささか遠い。それに、ここで放置していた方が、持ち主へ戻る可能性が高いと思ったからだ。
僕がその本にブックカバーを掛け直してベンチの片隅に置こうとしたら、彼は気迷ったのか、面白いことを言った。
「なあ、赤城。お前、推理小説が好きなジャンルって言ったろ? この本の持ち主とか推理してみないか?」
「はあ?」
「いや、俺もお前も暇だろ。雨が止むまで推理してみようぜ」
とても面倒くさい。僕は推理小説が好きだが、自分で推理なんてしたことがない。そもそも小説と現実は違うのだ。そんな簡単に推理できるはずがないだろう。そこのところを彼はわかっていなかった。
だから、僕は遠回しに断ろうとした。
「僕は小説を持ってきているから、あまり暇じゃないかな」
「俺が暇なの。ということで、発案者である俺から始めるよ。その本、貸せよ」
何かが彼の心に火を付けたようだった。僕から本を受け取ると、ブックカバーを剥がし、まじまじと顔へ近付けて眺めたり、においを確かめたりしていた。
僕は諦めて彼の行動に付き合うことにした。推理できてもできなくても、あまり僕には関係ないのだから。それに、彼と二人きりの状態で、僕だけ読書するのは耐えられなかった。
彼はきっかり三十秒ほど観察してから、こちらを向いた。
「何かわかったの?」
僕が問いかけると、彼は毅然とした態度で言った。
「何もわかんねぇ。お前の番だぜ」
笑えない冗談だ。彼から始めた物語なのに。
僕は乗り気ではなかったけれど、差し出された本の観察を始めた。そもそも、本の持ち主を推理するなんて不可能だ。天岳市の人口は五万人を超えているのだから。適当な推理でも聞かせてやれば、彼も納得するだろう。そう考えながら、裏返したり触ったりして、どこかにあるかもしれない手掛かりを探す。
すると、ざらりとした感触が掌に伝わった。裏表紙の表面である。見た目では把握しづらいが、触ると僅かに感触が違うのだ。範囲は縦三センチ横五センチ程度か。なぜか完璧な長方形で、本の下側だけにある。まさに貼り付いていたテープを無理やり剥がしたかのような。
ということは、この本の持ち主は。推理なんてするつもりなかったのに、その持ち主の人物像が心中に浮かび上がった。
「おっ、何か気付いたって顔だな」
どうやら顔に出ていたようだ。少し不服だが、僕は頷いた。
「うん、嫌な推理になるけどね」
「教えてくれ」
僕の推測だけれど、と前置きしてから話始める。彼は素直に聞く姿勢だ。
まず最初に、このブックカバーだ。これは自前のクラフト紙を折った手造りである。普通なら本屋で文庫本を一冊買うごとに、一枚のブックカバーが貰えるはずだ。それなのに、なぜそれを使わずに、わざわざ手造りなのか。
彼は悩んだ素振りをして、言った。
「知らねぇけどよ、ウェブショップで購入した時ってブックカバーが付かなかったよな」
まあ、その線もあるかもしれない。他にも、店で貰えるブックカバーを使うのが、ただ単に恥ずかしかったり。
しかし、実はもっと嫌な理由だ。僕は唇を舌で濡らした。水筒を取り出して水分補給したかった。
僕が推理した内容は、こうだ。この本の持ち主が、最初の持ち主ではないということだ。もっと限定すると、僕たちの高校の図書室にあったものである可能性が出てくる。
「ん、急に話が理解できなくなった……ぞ?」
そう推測できる理由は、この一点。本の裏表紙に僅かな破れがあることだ。
僕は彼に本を渡す。彼は指定された箇所を触った。
「どういうことだ? …………いや、まさか!?」
そのまさかだ。
彼が言っていた先ほどの言葉を思い出せばいい。この町には図書館がなく、小中学校では貸出カードというものを採用していると。対して、僕らの高校では、本の裏側にバーコードを貼っている。それに加えて、この本の裏表紙には、まるで貼り付いていたテープを無理やり剥がしたかのような跡。
ここから推理できるのは、僕らの図書室に入庫した本を無断で持ち出し、誰かが私物化したのだということだ。そう考えると、ブックカバーを掛けているのは、表面に傷が付かないようにするためではなく、その逆。バーコードを剥がした跡を隠すためなのだ。
「……なるほどな、理に適っている。それで、赤城はどうするつもりなんだ?」
「どうもこうも、始めから放置するつもりだったよ。理屈が通っていても、事実がそうだとは限らないから。真実は闇の中ってね」
僕が茶化して言えば、彼は凄い凄いと捲し立てた。
「本当に凄いよ、たったこれだけの手掛かりで推理できるなんて。推理小説が好きだからか、それとも頭がいいからか。どちらにせよ、俺には真似できねぇ……」
彼は感慨に耽るように少し黙り込むと、うんと頷いた。そして、なぜか右手を突き出してきた。
「なあ、赤城。俺と友達になってくれよ。お前のような友達がいれば、毎日が刺激的だと思うんだ」
「……僕と?」
「ああ。どうせ赤城は友達が少ないんだろ」
図星だ。いつも自分の殻に閉じこもって新しい交流をしようとしないのが、僕の悪い癖なのだ。これはいい機会なのだ。ここで彼の掌を握れば、僕は僕を変えられるのだろうか。
僕は一瞬だけ躊躇った後、同じく右手を差し出した。
「…………よろしく」
「おうっ、よろしくな!」
それは狐の嫁入りが終わり、傘も雨宿りも必要なくなる時のことだった。
第二話 温泉と残されたメッセージ
天岳市は天候が移ろいやすい。朝のニュースでは晴れと予報されていても、よく雨になったりする。よく雨になったりするから、夏場はじめじめとしている。湿度が高いのだ。
そのじめじめが嫌いであった僕は、白崎に連れられて市内の温泉へ来ていた。
「どうだ?」
「凄い……本当に、凄いよ」
「そうだろ、この町の自慢さ」
そう彼が言うのも無理はなかった。それは僕の故郷でも見たことがないほど、広大な施設だったのだから。大本としては観光ホテルで、それに天然温泉が備え付いていて、日帰り入浴も可能。他にもカラオケ施設やジムだってあるようだ。都会でいうところの、大規模レジャー施設であった。
存在としてはこの町へ来る前から知っていたが、見るのはこれが初めてだった。まさに百聞は一見に如かず。僕は頓狂な顔をやめられなかった。
最も驚いたのは、更衣室で浴衣のような館内着に着替え、財布も含めた荷物を全て預けたことだ。代わりに、リストバンドを携帯するらしい。これは館内の決済時に使うもので、財布を持ち歩かなくてもいいみたいだった。この施設にいる間は外界のことを考えさせない、という施設の粋な計らいだ。千葉にある某テーマパークと一緒の思想である。
いや、あながちテーマパークと違わなかった。浴衣姿の僕と白崎を迎えたのは、江戸の町並みだった。古めかしい建物が並び、道路には人力車が走っている。横道は小粋な石畳で、所々にある井戸では水分補給ができるようだ。香ばしい匂いが漂ってきたので、そちらを見ると、『二八蕎麦五百円』と書かれた屋台があった。二八とは、つなぎ粉と蕎麦粉の割合が二対八であることを由来としている。現代要素を徹底的に排除していて、本当に江戸へ迷い込んだみたいだった。
「空を見てみろ」
「そら?」
「天井が低いだろ?」
確かに、白崎が言う通り、青く塗られていても天井がそこにあるのがわかった。思っていたより高さはない。白崎はこの上に温泉以外の施設があるんだぜ、と言った。ホテルやジムなどのことだ。なるほど、それは江戸の町並みに似合わない。別階層にするのは正しいのだろう。
「とりあえず、温泉はこっちだぜ。散歩は後にしよう」
「……あ、ああ」
僕は茫然としたまま、彼の背中を追いかける。江戸の町並みの一角にその温泉施設はあった。脱衣所に入る。今回は学校の創立記念日、つまり本来の平日に来たため、それなりに空いていた。
僕と白崎は浴衣を脱いで、ロッカーの中に放り込んだ。身に付けているものは何もない。いや、リストバンドがあった。僕はロッカーの中に入れるかどうか悩んだ。湯舟で落としたら、探し出すには苦労するだろうし、罰金もあるだろうから。幸いロッカーの中には、リストバンドのような小物を置く場所があった。僕はそこにリストバンドを置くと、タオルだけ持ってロッカーを閉めた。代わりにその鍵だけ右腕に付けて、温泉へ向かう。出入口の扉を開くと、むわっとした熱気が頬を撫でる。湯気に包まれた温泉が眼前に広がった。
またしても、僕は驚嘆することとなった。凄く広い。何種類もの湯舟がある。普通の湯舟に、高所から温泉が叩き付けられる滝湯に、ジェットバスさえ。あちらにある扉は露天風呂へ続いているのだろう。
白崎は先に湯船へ浸かっていた。僕は全身に掛湯だけして、彼の隣に入り込んだ。温かい。ほっと息を吐いた。身体中の筋肉が弛緩する。湯の温度は三九度ほどか。僕の家と同じ温度だ。ほのかにヒノキの優しい匂いがする。ヒノキは確か細菌の繁殖防止効果や抗酸化作用があるから、浴槽にしても腐りにくいのだ。でも、そんな理由よりも、このヒノキの香りが心安らぐから浴槽にするのだろう。普段の悩みとか全てを忘れて、僕はお湯へ心身ともに預けた。
そんな時だった。彼の声が響く。
「ここの温泉は二枚の大陸プレートが生み出したんだぜ。海側のプレートが海水を引きずり込んで、高圧力に耐えかねた源泉が大陸側のプレートを突き破ってくるんだ。もともとが海水だから、ここの温泉は塩分濃度が凄く高い」
「へえ」
「といっても、これだけ広い湯船を満たすほどの温泉は湧き出ないからさ、一部は薄めているんだ。上階のホテルだと宿泊客専用の源泉掛流しの温泉があるみたいだぞ」
薄まった温泉でさえこの心地よさなら、その源泉掛流しという温泉はどれほどのものだろうか。無性に僕は気になった。とはいえ、体験することはないだろう。同じ町のホテルに泊まろうとは流石に考えられないのだから。
とりとめのない考えを僕が浮かべていると、彼は予想もしなかった話題を出した。
「ところで、さっきの紙だが……」
「紙?」
「七二番のロッカーに貼られていただろ?」
「…………見ていないよ」
僕は横を向いた。立ち込める湯気の先に、白崎が僕と同じ姿勢で湯に身体を預けていた。
彼によると、七二番のロッカーに紙が貼られていたらしい。赤い文字で内容を強調するように、メッセージが書かれていたようだ。内容はこのようだ。
『七二番のロッカーをご使用のお客様
お話ししたいことがございます。
お湯から上がり次第、
外の窓口にまでお越しください。 』
僕と彼は同じように行動していたはずだが、僕はそのメッセージに気付かなかった。あの時も一緒だった。僕は彼よりも早く雨宿りをしていたはずなのに、バス停に落ちていた本に気付かなかった。そして前回と今回の流れが同じなら、彼が次に言う言葉は簡単に推測できた。
「なあ、赤城。前みたいに推理してみないか? このメッセージの目的とかさ」
「僕はいいよ」
「んじゃ俺からな。俺はロッカーを使用している人に用事があると思ったんだ」
その僕の言葉は、否定の意味だった。だが、彼は肯定の意味で捉えたようだった。仕方ない。諦めて今回も推理ゲームに付き合うこととした。
彼は事前に推理していたみたいだった。立て板に水のごとく、彼は言葉を続ける。
「例えばさ、時々こんな放送があるだろ。『お車ナンバー1729でのお越しのお客様。急遽お伝えしたいことがございますので、受付窓口までお越しください』とかさ」
僕もその放送は聞いたことがある。だいたいの場合、車のハザードランプが付いたままなのだ。もし付いたままだとバッテリーの電力が切れてしまい、エンジンが掛からなくなる可能性がある。
「今回も同じことなんじゃないのか。その人に何か用事があって」
「……それは違うんじゃないかな」
僕もその線は考えたが、反論した。理屈に合わない。
「その放送だと、車のナンバーが一致するその個人に用事があるよね。でも、ロッカーのメッセージは相手に用事があるとは思えない。だって、そのロッカーを使用している以外に、個人を特定する要素がないのだから。車はみんな違っても、ロッカーはどこを使っても同じでしょ?」
説明があやふやだが、白崎には伝わったようだ。
「じゃあさ、例えば、ロッカーの中で電話が鳴っていたりさ」
「それだけでスタッフが張り紙をする理由にはならないよ。そもそも電話が鳴っている瞬間にスタッフが居合わせなければならないし。今は着信履歴だってあるんだからさ」
彼はんーと頭を捻って考えていたが、わからなかったみたいだ。万策尽きたといった表情で僕を見た。白崎は僕に推理を促すだろう。だから、既に可能性が高い推測を完成させていた。
「…………俺には何もわかんねえ。次はお前の番だぜ」
僕は頷く。身体を起こし、湯船の淵に腰掛ける。火照った身体から、湯気が立ち昇った。このまま浸かっていたら、他の温泉へ行く前にのぼせてしまいそうだった。対して彼はまだ浸かるみたいだ。僕もそれなりに長湯が好きだったけれど、彼には勝てそうになかった。
僕は推理を語り始める。今回の謎は連想していけば、すぐに答えへ辿り着く。
スタッフはロッカーを使用している人に用事があるわけではない。ロッカー自体に用事があるのだ。そう考えると、メッセージの『お湯から上がり次第』という言葉は『ロッカーの使用を終え次第』と言い換えることができる。つまり、そこを使用している人がいたら、解決できない。それはなぜか。鍵が掛かっているからだ。では、鍵が掛かっていれば、解決できない用事は。
「あっ、そうか。前の使用者がロッカーに忘れ物をしたんだ。それなら今の使用者が鍵を掛けているから、忘れ物を取り出すことができない。だから、使用を終えたら来るようにと、メッセージを残したんだ」
そこまでは合っている。ただ、もう少しだけ考えなければならない。なぜ、忘れ物に気付かなかったのか。僕がそう言うと、彼はうんうんと頷いた。
「確かにそうだな。前の使用者も今の使用者も忘れ物に気付かなかった。どちらも馬鹿だな」
その通り。忘れ物をしたのはまだ理解できる。けれども、他人の忘れ物があるにも関わらず、それに気付かずロッカーを使用するのは、両目が節穴だとしか思えない。しかし、それも仕方ないとしたら。例えば、小さい物だったら、どちらも忘れ物に気付きにくい。
「小さい物って、俺ら荷物を全て更衣室で預けただろ。ロッカーに忘れるようなものなんて、浴衣と携帯電話ぐらいしかないぞ」
白崎はわかっていなかった。
僕はロッカーに、加えてあるものを入れた。館内の決済時に使うためのリストバンドだ。ロッカーの中には、そんな小物を置くための場所があった。そこに僕はリストバンドを入れてきたのだ。もし七二番のロッカーを前に使用していた者が同じことをしていたら、見落として忘れやすいだろうし、今の利用者も気付かないだろう。まあ、他にも眼鏡だったりの可能性はあるだろうが、おおまかにはこれが僕の推論だ。
「……凄えよ、どこにも反論できない。理に適っている。やっぱり赤城は凄い、名探偵にもなれるな」
「ありがとう。でもね……」
僕は言う。
「でもね、これはただの推理だよ。真実は闇の中なんだ。確かめようがないし、確かめたいとも思わない。真実は闇の中なんだよ」
前回と一緒だ。僕は推理をするだけで、それは意味のない行為である。けれども、白崎には違ったようだ。
「事実がどうであれ、俺は凄いと思ったんだ。それが事実で真実なんだぜ、赤城」
少し面映ゆかった。僕がなんと返事をしようか考えていると、彼はいきなり湯の中から立ち上がった。ざばりと小波が広がる。彼は間延びした口調で言った。
「熱い。完全にのぼせてしまったぜ。他の湯にも浸かりたかったが、上がらせてくれ。でなければ、ユデダコになっちまう」
「じゃあ、散歩しようよ。ここはかなり広いみたいだね。案内してよ」
「ああ」
彼はずっと湯に浸かっていたけれど、湯舟の淵に腰掛けていた僕は少し肌寒く、くしゅんと鼻を鳴らしたのだった。
第三話 大道芸と足りない小銭
天岳市は少子化が進んでいる。小中高の学校はそれぞれ一校だけしかなく、図書館も閉館されたらしい。とはいえ、ホテルも兼ね備えた大規模レジャー施設が建設されてから、多くの観光客が来るようになり、少しずつ発展しているようだった。
そんな天岳市に、世界的有名なマジシャンが来ると決まったのは、先週のことだった。急なことで驚いたが、話が少しややこしかったらしい。そのマジシャンは天岳市の出身で、今回はただの里帰りのはずだった。しかし、それを聞いた市の運営者が急遽、マジックショーを開催すると決定したようだ。そのマジシャンにとっては甚だ迷惑な話だが、ショーを見るために観光客がかなり来たようであった。
僕と白崎はそのショーを見に、町の中央広場まで行くこととなった。本来ならば朝市場などを開くためのそこは、特設の舞台が設計されて、大規模の観客席も用意されていた。最前列は子供たちの場所だから、僕と彼は観客席の中ほどに並んで座った。
「楽しみだな。なにせ、世界最高峰のマジシャンだぜ」
彼は少年のように瞳を輝かせて言った。僕はそうだね、と同意する。テレビなどで見たことがあるけれど、実演をその場で見るのは初めてだった。彼には負けるかもしれないが、僕もそれなりに楽しみだった。
「ところで、先に言っとくけどさ……」
彼は言葉を濁した。
「なに?」
「いや、いつものように推理とかするなよ。マジックは種がわからないから面白いんだ。となりで解説とか始めたら、興覚めだぞ」
「わかっているよ。そもそも、そんな簡単に種がわかるようなマジックなんてしないでしょ」
白崎は僕を疑っているようだった。心外だ。僕は空気を読む男である。ここには子供だっているのだ。子供たちの夢を壊すような真似はしない。
僕がそう心に誓っていると、舞台にスポットライトが当たった。次の瞬間、そこには誰もいなかったはずなのに、マントを靡かせた男が現れた。大音量で音楽が流れ始める。ショーが開幕するのだ。
『やあ、みんな。僕のマジックショーに来てくれて本当にありがとう。最後に大切な話もあるから、どうか終演まで楽しんでね』
男は頭に乗せていたシルクハットを手に取り、僕たちに見せてきた。中には何もない。彼は再度、それを頭に被せると、どこからともなく取り出したステッキで叩いた。次の瞬間、シルクハットを押し退けて、中から白い鳩が飛び出してきた。鳩は観客席の上空を一周すると、彼の腕に留まった。万雷の拍手が鳴る。いい始まりだった。
『みんなは知っているかもだけど、僕はマジシャンであり大道芸人だ。だから、二つの技術を融合した技をご覧にいれよう』
彼は虚空から五本のナイフを取り出すと、お手玉の要領で投げ回し始めた。危ない技だ、下手すれば手が切り裂かれてしまう。僕が驚いていると意外なことに、彼は開いた口内からトランプを吐き出した。僕は目を疑った。
それは、よくテレビで見るマジックに似ていた。種は簡単で、両手に隠したトランプを口内から吐き出したように見せるだけである。でも、彼の両手はナイフを操っている。従来の種では不可能だ。僕が不思議に思っている間でさえ、彼の口内からトランプが滝のように流れ出し、舞台にハートとダイヤとスペードとクローバーの泉を形作っていた。
『どうかな、凄いでしょ? 世界でこれができるのは僕だけなんだ。だから、異次元の魔術師と呼ばれる』
彼が自慢するのも無理はない。一度も見たことがないような技を次々と繰り出す。天井もないのに虚空へ踏み出し、色とりどりの炎を咲かせた。その炎が全て純白に染まり、鳩となると一斉に飛び去る。大音量でアップテンポな音楽に負けじと、僕は拍手を送った。他の観客も熱狂している。
時が経つのは、本当に早かった。様々な演目を鑑賞している内に、二時間ほどが経過していたようだった。そろそろ夕刻とでもなりそうな時、彼は一礼してから言葉を発した。
『これで今日のイリュージョンは終演なんだよ。楽しんでくれたかな。ところで、みんなに大切な話があるんだ。僕はマジシャンであると同時に大道芸人であるから、みんなのお気持ちがなければ生活していけないんだよ。凄いと思った方は、前にこのシルクハットを置いとくので、具体的な気持ちを届けてください。できれば、折り畳めるものだと幸いです』
投げ銭の要求だ。僕は素直に凄いと思ったので、投げ銭をしようと決めた。とはいえ、僕と白崎は観客席の中ほどにいる。先を子供たちに譲らなければならない。そんなことを考えていると、件の子供たちは席を立って、とてとてと走り去る。
「ん、なんだ?」
白崎がその光景を見て、疑問を漏らした。だから、僕は言った。
「親御さんの元へ行ったのだと思うよ。投げ銭を入れたいから、貰いに行ったのさ」
僕の予想通り、子供たちはお金を両手に握りしめて、大道芸人の方へ向かった。口々に凄いだとか格好良かっただとか感想を述べながら、両手の中身をシルクハットの中へ入れる。その後、前方が空いたところで、僕と白崎はマジシャンの元に向かった。白崎は凄かったとの言葉と共に、五百円を放り込んだ。僕も一緒に五百円を放り込む。少し無粋だが、僕はシルクハットの中を覗いてみた。黄金一色で重そうだ、と思った。
本当は千円札とかを入れたいほど感動したのだけれど、僕はバイトもしていない高校生だ。おこづかいに頼るしかない僕は、五百円も大金だったのだ。そう言えば、白崎はバイトをしているのだろうか。僕と白崎は友人ではあるけれど、互いのことを深くは知らない。でも、彼がお金に困っているところは見たことがなかった。
「凄かったな、圧巻だった」
「うん」
「まあ、それはいいとして、飲み物を買わないか? ずっと何も飲んでいなくて、喉がカラカラなんだ」
僕は同意した。二時間も熱中していたのだから、僕も喉が渇いていたのだ。広場の近くにあった臨時の出店へ向かう。このマジックショーの観客を対象に開いていたみたいだ。ペットボトル飲料が一本百六十円。少し高いが、他に自動販売機なんてないし、仕方がなかった。
しかし、ここで予想外の問題が起こる。彼が千円札を店員に渡すと、相手は使えないと言った。
「すいません。小銭が足りないため、お釣りを渡せません。細かいお金で払っていただけませんか」
白崎は珍しく困った顔を見せた。
「……小銭はさっき投げ銭で入れた五百円が最後なんだ。お札しか持っていない」
財布の中身を僕はちらりと見た。いくらかの硬貨があるから、彼の飲料を一緒に買っても余裕はあった。僕は三百二十円を取り出し、店員へ渡した。
「僕が出すよ。また次回にでも返してくれればいいよ」
「本当か。恩に着る、赤城」
自分のペットボトル飲料を持つと、揃って店を出た。既にほとんどの観客は帰ったようで、特設ステージは解体が始まっていた。異次元の魔術師なら、その魔術で解体とかできそうだと思った。
彼と僕は購入したペットボトル飲料を片手に、ベンチを見つけると座った。無言でキャップを開けると、少しだけ飲んだ。炭酸では王道のコーラだ。例えるなら、キャラメルとスパイスの混沌風味だろうか。あれほど熱狂した後だからか、炭酸のしゅわっとした喉越しがよかった。白崎の方といえば、ミントソーダを飲んでいた。
「……うん、ミントソーダ?」
「これか? いや、置いてあったから、お試しで購入してみたんだ。メロンソーダみたいな味かなと想像していたが、薬草の苦みが強くて予想外だったな」
それはそうだ。なぜならミントなのだから。といっても、割と美味しいのか、彼はかなりの速度で飲んでいた。僕もコーラを口内に含む。揃いも揃って黙々と飲み続け、中身が空になると彼は思い出したかのように話した。
「で、さっきの小銭の話なんだがな……」
「今日のところは、もういいよ。次に返してくれればいいさ」
「いや、それは助かるんだが、俺が話したいのはそうじゃなくてさ。さっき店員が、小銭が足りないからお札で払うなって、言ってただろ。なぜ小銭が足りないんだ?」
「なぜって、それは……小銭が足りないからだろうね」
僕が何も考えずに答えると、彼は首を振った。ああ、この流れはいつものやつだ。僕は頭を働かし始めた。どうせ、この推理ゲームを断れやしないのだから。
「その理由が知りたいんだよ。どうだ、ここはいつものように推理してみないか?」
「……わかったよ」
しかし、今回ばかりは考える時間がない。無計画だが、推理を始めよう。
まず、前提条件だ。あの臨時出店には小銭が足りなかった。なぜ足りなかったのか。小銭が不足する原因があるはずだ。僕が言うと、白崎は仮説を述べた。
「これならどうだ。俺と同じように前の客も、その前の客も千円札とかで支払ったんだ。お釣りとして小銭を渡したから、俺の時にはなくなっていた」
その説は有力だけれど違うと思う。千円札で払う客がいるとすれば、小銭で払う客もいるからだ。その比が極端にでもならない限り、小銭のプラスとマイナスは打ち消されて、不足するにまで達さないだろう。いや、考え方としては正解なのか。千円札を渡し、小銭を貰う。だから、小銭が不足する。同時に、小銭が目的だとすると。
「……両替か」
僕が思ったことを、彼は言葉にした。
そう、両替だ。多くの客がこぞって両替したとすれば、小銭は不足する。
「でもなんで、両替なんてするんだ?」
僕にはわかった。あの出店は臨時の出店だ。なぜ出店したのかといえば、そこでマジックショーをしているからだ。ということは、出店の客はほとんどショーの観客である。また、両替が目的であり、小銭が必要なことといえば。ここから導き出される結論は、観客が投げ銭を用意するために両替をしたのだ。
「……でもさ、あの大道芸人が『折り畳めるものがいい』とか言ってたよな。折り畳めるものって、お札だろ? なんで、お札をそのまま入れずに、わざわざ小銭へ両替するんだ?」
これも簡単だ。子供がいるからだ。
「子供?」
例えば、の話だ。まだ金銭感覚がわからない子供にとって、千円札と五百円はどちらが価値のあるものに見えるだろうか。片やただの紙切れで、片や金ぴかに光り輝く宝石である。こう考えると、子供には千円札よりも五百円の方が価値あるはずだ。そして、マジシャンに感謝を伝えるなら、五百円を選ぶ。そこまで見越した親御さんたちは、先に両替をしていたのだろう。子供想いの親である。
だから、僕がシルクハットの中身を覗いた時に、黄金一色で重そう、そんな感想を抱いたのだ。ただし、全ての親御さんが両替していたとは思えない。いくらかは普通に出店で購入していたのだ。二時間もぶっ通しでマジックショーを見ていたのだから、僕らのように飲み物を購入する客だっていたはずだ。どちらにせよ、小銭が不足する原因はこれで説明が付く。
僕が持論の解説を終えると、彼は何度も頷いた。
「…………なるほどな。凄いぜ、赤城は」
「まあ、真実は闇の中だけど」
「だとしてもだ、赤城は子供が見ている世界まで考えていた。俺は自分が見ている世界が真実だと思っていたけど、違うんだな。そして、俺と赤城の世界も違う」
「……そうだね」
僕は既に実感している。僕は確かに彼と違って理論的な推理ができるかもしれない。でも、彼のように違和感を持つことはできない。バス停に落ちていた持ち主不明の本も、温泉であった残されたメッセージも、大道芸が生み出した足りない小銭も。
そして、何よりも。
「俺は赤城が羨ましいぜ」
そして、何よりも僕は白崎が羨ましい。彼は僕と違って、物怖じせず誰とでも話せる。自分の殻に引き籠っていた僕とだって彼は話せる。でも、それは最初からわかっていたことだ。僕は僕の人生を歩むしかなかった。
僕は空になったペットボトルをゴミ箱へ入れながら、言った。
「じゃあ、帰ろうか」
彼と僕が帰路に就いたのは、夕焼けを背景に鴉が巣へ戻る頃だった。
第四話 短編小説と明かされない結末
『最期の卵かけご飯』
フランスのパリ郊外にて。
ある男は最後の晩餐を迎えようとしていた。いや、この表現ではよくない。こう聞けば、かの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた作品を思い浮かべることだろう。正しくは『最期の晩餐』だろうか。とにかく、その男はもう明日を迎えることができない人生なのだ。
「何が食べたい?」
男の妻は聞いた。
男の病は末期だった。これまでは余命を縮めるだろうから病人食しか与えられなかったが、町医者からこの夜は越せないだろうと彼は言われた。だから、今日ぐらいは豪勢な食事でも何でも食べさせてあげたい、という妻の粋な計らいであった。
男の家は貧乏である。家業には成功したのだが、病の薬が洒落にならなかったのである。とはいえ、最期の晩餐なのであるから、有名レストランのフルコースでも頼もうかと思っていた。
しかし、男は予期せぬ言葉を発した。
「卵かけご飯が食べたい」
男の故郷は遠い島国である日本だ。そのため、最期になって質素でも懐かしの味を思い出したのだ。
だが、ここはフランスの地である。生卵には多量のサルモネラ菌が含まれているため、食べればすぐに食中毒を起こす。日本の生卵とは違う。男の妻はそう主張したが、男はどうしてもと意を翻さなかった。食中毒になろうがなるまいが、男の余命は半日なのであった。
米を炊き、生卵を落とす。数年前に賞味期限が切れてしまった日本製の醤油を掛けた。
男は震える手で箸を掴み、口内に掻き込んだ。
「ああ、TKGだ」
既に視覚もほとんど失われ、その黄色さえ朧げながらにしか視認できない。また、味覚も感じられなかった。
だが、それでも男は涙目で卵かけご飯を食べ続けた。思い出の中に、はっきりと味を感じているのだ。黄身のまろやかさに醤油のアクセント。かつお節を上にはらりと掛ければよかった。
男はもう長らく日本へ帰っていない。両親の束縛から逃れたいがために、日本を飛び出しフランスへやってきた。後悔はしていなかった。優しい妻と出会えたのだから。
でも、今更になって、母親が作ってくれた卵かけご飯が心に浮かぶ。いつも厳しい母親だったが、卵かけご飯は美味かった。市販の卵と醤油でも、三人で食べた卵かけご飯は美味かったのだ。男は両親が好きだったと気付いた。泣きながら食べた。
男が食べた最期の晩餐は卵かけご飯だった。
彼の死因はまだ特定されていない。
僕はその一節を読み終えると、その本を閉じた。彼は見計らったように聞いてくる。
「どうだ?」
「どうだって、何さ。普通に面白いと思うよ」
この妙な会話は僕が図書室に来てから始まった。急な狐の嫁入りがあり、僕は雨が止むまでは図書室で暇つぶしをしようと思ったのだ。すると、ちょうど委員の仕事が終わったばかりの白崎に引き留められ、ある短編集の一節を読まされることとなった。
彼は僕の素直な感想に、いやいやと首を振った。
「いや、面白いって。俺が聞きたいのは感想じゃねえよ。この短編って結末がないよな?」
「結末?」
僕が問い返すと、彼は我が意得たりと頷いた。
「男の死因だよ。病による衰弱なのか、なんたら菌による食中毒なのか」
「それはそうだよ、この短編はリドル・ストーリーなんだから」
なんだよそれ、と彼は言った。僕は溜息と共に説明を始める。彼はなんちゃって図書委員だけれど、これぐらいは知らないと仕事が務まらないだろう。
リドル・ストーリーとは物語形式の一種だ。作中の謎を意図的に伏せて終わり、それぞれ読者の想像に結末を委ねるものである。有名どころの例えだと、芥川龍之介の『羅生門』だろう。あらすじはこうだ。
ある下人が主人に暇を出され、やることもなく羅生門の下で惚けていた。金もない彼は盗みか殺しでもしなければ生きていけないが、彼にはその覚悟がなかった。すると、死人の髪毛を抜いている老婆に出会う。その老婆は「生きていくため」に髪毛を抜いていると言った。下人はそれを聞きくや否や、老婆の着物を剥ぎ取り、闇の中へ逃げて行った。そうでもしなければ、自分は餓死する運命なのだから、と自分を納得させながら。
そんな話だ。しかし、この話で重要なのは、下人が闇の中へ逃げたその後にどのような人生を辿ったのか明記されていないことだ。盗みを繰り返し生き延びるのか、いやいや、盗みは悪いことだと改心して餓死の道を選んだのか。その結末は作者以外にはわからない。
「ふうん、ということは……この短編小説もその『羅生門』と同じリドル・ストーリーってやつで、結末は読者の想像に任されるってことか?」
「そうだね」
僕は雨音に耳を澄ませながら、同意した。この物語の結末は明かされていない。男の死因が何か。それを読者が想像するのはいいだろうが、知ろうとするのは無粋である。しかし、僕の思惑には乗らず、彼は無粋なことを言った。
「じゃあさ、その結末を考えてみないか」
三秒悩んで答える。
「……わかったよ」
僕に選択権はなかった。結局、いつも付き合うことになるのだから。とはいえ、雨が止むまでの暇つぶしにはよかった。もちろん、バス停で雨宿りした時とは違い、今日の僕は折り畳み傘を学生鞄の中に入れていた。けれども、なんとなく図書室に来たのだ。バイトもしていないし、時間だけは余るほどあったのだ。
「それでだけど、俺の見解では……この男の死因は食中毒だと思うんだ。始めから医者には余命が半日と宣告されていた。それほど弱っている身体でなんたら菌を含んだら、常人に耐えれても病人である彼に耐えれるはずがない。病は間接的な死因で、直接的な死因はサル……なんたら菌による食中毒だと俺は思う」
彼はサルモネラ菌を言えないらしい。それはそうとして、僕は反論する。
「僕の見解だと……食中毒ではないと思うかな。彼は確かにサルモネラ菌を含んだ。でも、余命半日の間に食中毒を起こすとは考えられない。例えば、ノロウイルスの場合だと確か潜伏期間は一日以上だから、サルモネラ菌も同じぐらいじゃないかな。しかも、彼は病人だから、食中毒の可能性が発生するほど多く、卵かけごはんを食べれたとは思えないよ」
「それはただの予想だろ? 食べた量の記載なんて本文にはないし、高齢者だから致死量が普通より少なかったりするかもしないぜ」
「だからだよ、結末は読者に委ねられるんだ」
僕が言うと、彼はしぶしぶといった表情で頷く。どうやら、理解はしていても納得できていないみたいだった。僕も彼の不満な顔は少し不本意だったから、言葉を繋げる。
「……事実はわからない。でも、別の方向から考えてみようよ」
「別の方向って、なんだ?」
「どちらの結末がより結末らしいのか、だよ」
僕から率先して推理を始めるのは珍しい。そんな感想をいだいた。
僕は本を開き、該当する頁まで繰った。そこには一枚の挿絵が乗っている。医療用ベッドに座る男と、隣にいる妻が描かれている。服装と髪色などから、だいたい八十歳ほどだろうか。男は卵かけご飯を食べていて、妻はそれを優しく見守っていた。
この挿絵と先ほどの会話から考えると、病も食中毒も死因としてありそうだ。どちらもありそうだから、どちらの可能性も考えてみればいい。
まず、男が食中毒によって死んだとする場合。それが判明するのは、詳しくは知らないけれど、たぶん検視官が確認してからだろう。この時、病でなく食中毒により死亡したと判明するのだから、そこには事件性が出てくる。だとすれば、警察が動き、最初に彼の妻が疑われるはずだ。妻想いの男にとって、それは意に反している。例え男はどれほど卵かけご飯が食べたかったとしても、自分の妻を危険に晒すことはするまい。そして同時に、そんな悲しい結末を筆者が望むこともないであろう。
だとすれば、男が病による衰弱死だった場合。それだと妻にどんな危険もない。しかし、そもそも妻に危険が及ぶかもしれないことをするだろうか。そう考えると、男は自分が病によって死ぬと自覚していたのかもしれない。よくある、頭の上に死神が立っているという状況だ。男は本望を遂げ、妻は男の願いを叶える。誰にとっても最上の結末だ。
でも、と僕は思う。
「普通に考えれば、やっぱり病によって死んだとするのが最上の結末だよ。でも、その普通のことを筆者は書かなかったんだ。そこにはきっと理由があるし、僕はそれを解き明かすのは無粋だと思うよ」
「そうかなあ……読者に解き明かしてほしいという筆者のメッセージだと思うぜ、俺はな」
僕と彼の意見は食い違った。もとより、千文字以下の短編から結末を推測するなんて不可能なのだ。僕は強引に話題を纏めてしまう。
「まあ、どちらにしても筆者が結末を述べなければ、永遠にわからないんだ。真実は闇の中なんだよ」
僕がそう言うと、はっとした顔を彼は見せた。
「なあ、白崎。その真実は闇の中って言葉はなんだ? 前も言ってただろ?」
「……前も?」
「ああ。本の持ち主を推理した時も、メッセージの意味を推理した時も、小銭不足の理由を推理した時もだ。何か意味があるのか?」
そうだったかな、と僕は頭を捻った。古い記憶を思い出す。雨宿りをしにバス停へ駆け込んだ時だった。彼と出会い、暇つぶしとして落ちていた本の持ち主を推理した。二人で温泉を浸かりに出掛けた時だった。ロッカーに残されたメッセージの意味を推理した。世界最高峰のマジックショーへ見に行った時だった。小銭が不足した原因を推理した。
確かに、僕は同じ言葉を言っていたかもしれない。だけれど、全て無意識で無自覚だ。
「……強いて言えば、語呂がよかっただけかな? 深い意味なんてないよ」
「つまりあれだな、探偵が推理を成功した時の決め台詞ってやつだな!」
彼は僕の話を聞いていなかった。僕は探偵の自覚なんてない。あの三回はたまたま推理が成功したのかもしれないが、全て本当に無意識の言葉だった。とはいえ、次は俺がその台詞を言ってやる、と呟いている彼にその事実を伝えても、意味がないだろう。僕は溜息を付いた。
「君は……推理が好きなの?」
「ああ、赤城みたいに推理ができるやつって格好いいだろ? 俺も推理できるように、最近は推理小説とか読んでるんだぜ? 俺もお前みたいに推理できるようになったら、二人で高校生探偵バディが組めるだろ。あれだ、工藤新一と服部平次のような関係だ」
よくわからない理論だ。そもそも、某アニメの工藤と服部はライバルであり、バディではないと思う。僕が呆れていると、白崎はあの日のように右手を突き出してきた。
「というわけで、よろしくな相棒!」
気が乗らなかったが、僕はその掌を握り返した。
それは既に雨が止み、綺麗な虹が空へ駆けていた時のことだった。
第五話 ラーメン屋と優しい嘘
天岳市立高校の定期テストは午前中だけ実施され、午後は部活動もなく家へ帰される。次の日のテストに備えて生徒が勉強するための半休だ。そのため、その時間に生徒を町中で見かけることはない。
しかし、定期テストの最終日は別である。テスト返却がなければ午前中に解放され、生徒は思い思いに平日の午後を過ごすことになる。僕と白崎もそうで、町中の駅前横丁にまで繰り出して、ラーメンを食べるために来ていた。
「それで、その噂のラーメン屋はどこにあるの?」
「天岳駅前だ。こってりとした豚骨スープが凄く旨いんだぜ。赤城は行ったことないのか?」
「ないよ。ラーメンは嫌いじゃないんだけど、わざわざ一人で食べに行くことはないね」
僕はあまり外食しない。金銭的な問題、というよりも気質に合わないだけだ。昔は母親によくラーメン屋へ連れて行ってもらったが、一人で行けるほど気が強くはなかった。そもそもの話として、最近の僕は麺は麺でもラーメンより蕎麦が好きだ。特に二八蕎麦。いつだったか白崎と風呂へ行った時に食べた二八蕎麦は、とても美味しかった。
僕がその時の鰹出汁に想いを馳せていると、彼は思いっきりの笑顔を見せた。
「なら、俺が誘って正解だったってわけだ。あんなに旨いラーメンを知らずに生きるなんて、人生の半分は損してるからな」
ハードルを上げすぎじゃないだろうか。人生の半分を占めるほど美味しいラーメンとはどんなものなんだろうか、そう僕は思った。いつだったか、彼と共にマジックショーへ行った時、彼はミントソーダを飲み干していた。そんな白崎の味覚は少し信用にならなかった。
僕らが踏切で線路を越えれば、その店はすぐにあった。大通りに面したかなり大規模な店舗で、和風というか古風というか、全体的に漆塗りの木材で建てられている。広い駐車場もあって、同時に五十人とか入店できそうだった。店の名前は『〇源』であった。記号を使っていて、洒落ていると思った。
「面白い名前だろ?」
「〇源は洒落ているね」
白崎は暖簾をくぐり、先に店へ入った。僕も続けて入店を果たすと、豚骨スープの香りが鼻孔をくすぐった。親しみと食欲を掻き立てる匂いだ。天岳市に来てからはラーメン屋に行ったことなどないものだから、とても久しぶりで何もかもが懐かしく感じる。
昼時ではなかったからか、店内は空いていた。僕と白崎は雑談しても迷惑にならないよう、四人掛けの半個室式テーブルに座り、メニューを見る。一番人気の〇源ラーメンに、王道の博多ラーメン、女性人気の白葱ラーメン、男性人気のニンニクラーメン。そして、そのどれもにお得なセットメニューがあった。天津飯をラーメンに付ければ、一般価格から百円引きだ。しかも、学生証を見せれば、さらに五十円引きだ。安い。学生に優しい。とはいえ、僕は運動部でもないし小食だから、セットで頼むことはないだろう。
「で、どれにする?」
「少し待って。ラーメン屋は久しぶりだからね」
「俺も悩んでいるんだよなぁ。いつもならニンニクラーメンを頼むんだが、赤城は気にするだろ?」
気が利くやつだ。そうでもない、と僕は言おうとも考えたが、彼の好意をありがたく受け取ることにした。彼は明るく大雑把な性格に見えるが、実は細かいところまで気配りしている。だから、同級生や後輩に慕われているのだ。
お冷が入ったコップと共に、店員が注文を取りに来た。彼はまだ悩んでいるようだったから、僕から注文しようと思った。
「ご注文は何にしますか?」
「僕はこの白葱ラーメンをお願いします。麺の硬さは柔らかめで、スープは薄めでお願いします」
「……なら、俺は赤唐辛子ラーメン、バリカタの濃いめで」
僕は首を傾げた。そんなラーメンあっただろうか。メニューを見返すと、その一番端にあった。インド産のハバネロを丸ごと使用しているみたいだ。最も辛い新メニューらしいが、そこまで辛いのならば豚骨スープの味などわからないだろう。前のミントソーダの件もあったし、白崎は風変わりなものが好きなのだろうか。
「ご注文を確認します。白葱ラーメン柔麺スープ薄め、赤唐辛子ラーメンバリカタスープ濃いめですね。以上でよろしいでしょうか」
「はい」
繰り返された注文はどこか呪文みたいで、ほとんど聞き取れなかった。滑舌がいい人しか、ラーメン屋の店員は務まりそうになかった。そういえば、白崎はバイトをしているみたいだが、何をしているのかは聞いたことがない。機会があれば尋ねてみよう。そう僕が心に決めた時、白崎が身を乗り出すように言った。
「ところで、赤城は本当にこの店へ来たことがないのか?」
「うん。外食はあんまりしないからね」
「ふうん……このラーメン屋は二年前にできたんだ。市内ではかなり有名で、俺らの高校で一度も行っていないのは赤城だけだと思うぞ。なんでも市中で最も人気な飲食店に選ばれたぐらいだからな」
「へえ、〇源がねえ」
「とはいえ、ラーメンの美味しさだけで市内一位なわけではない。他の飲食店にはない強みがあるんだ。赤城は何だと思う?」
なんだろうか。ラーメンの味ではない。それなら店舗や設備に関することだろう。僕は辺りを見渡した。しかし、ここは隣のテーブルと壁で分け隔たれた半個室タイプで、厨房まで見通せなかった。他の客も鑑みることはできない。
「……わかんないね」
「それだよ。半個室にいるから他の客も店員も見えない。見えないから、気にせずに喋ったり食事に集中できたりする。リラックスできる空間が人気なんだ」
へえ、引っ越してくる前はそんなこと考えてもなかった。僕は素直に感心した。
そんな他愛もない話題に花を咲かせていると、店員が盆にラーメンの器を二つ載せて来た。よくもバランスが崩れないものだと思った。
「お先に赤唐辛子ラーメンバリカタスープ濃いめのお客様」
「はい……うげぇ」
目の前に器を置かれた白崎は、腹の底から形容しがたい声を出した。それも無理はない。赤い、そんな感想が浮かぶ。僕の語彙では言い表せないほど赤いスープに、これでもかと赤唐辛子がトッピングされている。僕の対面へ置かれたはずなのに、刺激的な匂い、というか臭いが鼻につく。もはやラーメンでさえない。まるで地獄だ。地獄が地上にあれば、こんなものになるだろうと思った。
珍味好きな白崎でさえ引くのだから、こんなもの誰が頼むのだろう。絶対にネタ商品だ。メニューに小さい文字で〇源天岳市店限定ラーメン、食べきれない場合は別途五百円を回収しますと書いていた。限定ラーメンなら僕が知らないのは当り前だ。
「では、白葱ラーメン柔麺スープ薄めのお客様」
「はい」
僕の前に器が置かれる。こちらは白葱がトッピングとして山盛りされているのを除けば、いたって普通だ。白崎が少し涙目でこちらを羨ましそうに見て来た。自業自得だ。僕は絶対に交換しないからな。僕のそんな心の声が聞こえたのか、白崎は咳ばらいをした。
「ごほん……では、食べようか」
「うん、いただきます」
僕は箸を取り、麺を持ち上げた。つややかで、豚骨スープが染み込んだようないい色だ。匂いの方は、白崎の方から漂ってくるスパイシーな刺激臭でよくわからなかった。口内に含む。ずずっと飲み込んだ。やはり豚骨スープが麺にしっかりと絡まっていて美味しいし、しっかりとした喉越しが丁度いい。懐かしさを感じさせる味だ。次はスープをレンゲで掬い、一緒に食べてみた。美味しいし、あったまる。白葱をスープに浸しても美味しい。
喉が脂っぽくなってきたと思えば、お冷で洗い流すのだ。僕は昔からこの温度変化がさっぱりして好きだった。卓上の黒コショウを少し掛けてみる。こうすることで、この店のラーメンは一段と味のレベルが上がる。より纏まりが出て、アクセントにもなる。やはり美味い。ここの店舗を教えてくれた白崎には感謝しなければ。
かつんと箸が器の底を叩いた。いつの間にか、完食したらしかった。美味しすぎて夢中で食べていたのだ。お冷を飲んで、ほっと一息付いた。
白崎の方を見ると、彼はまだ赤唐辛子ラーメンに苦戦していたようだった。顔中から汗水垂らして、はふはふ言いながら食べている。可哀そうだが、まだ三割ほど残っていた。早く食べ終わった僕へ恨めしそうな眼を向けていた。
うん、まだ十分ほどは食べ終わりそうにないな。僕はそう判断して、鋭い視線から逃れるように、そそくさトイレへ向かった。
そのトイレは新店舗らしく、とても綺麗だった。木目調のタイルが敷き詰められていて、さながら和のトイレだ。ただそこには場に相応しくない注意書きが貼ってあった。洗面台のところだ。
『この水は飲めます。〇源天岳市店』
こんな注意書きがあるのは初めて見た。白崎がこれを見たのなら、推理ゲームを始めそうだ。けれど、この注意書きに謎なんてない。ただ単に水が飲めることを主張しているだけだ。きっと白崎のように、あの辛そうな赤唐辛子ラーメンを頼んだ人用なのだろう。まあ、水道水だから飲めるのは当り前だが、トイレの蛇口から水を飲む人なんているのだろうか。
そんなことを考えながら僕が席に戻ると、白崎は口元を真っ赤に腫れさせながらも、なんとか赤唐辛子ラーメンを食べきったようだった。彼は学生鞄からハンカチを取り出し、顔中に滲み出していた大量の汗を拭った。半袖シャツの第二ボタンまで開放していて、とてもだらしなかった。
「おつかれさま」
僕が声を掛けると、彼は彼に似合わない覇気のない眼で僕を見た。
「……ああ、本当に疲れたぜ。割と辛い物好きだけれど、もう絶対に頼まない。次は無難なニンニクラーメンとさせてもらうぞ。異論は認めない」
少しだけ元気が出てきたみたいだ。白崎は水差しからお冷をコップに入れ、ぐびっと飲み込んだ。そして、思い出したかのように言った。
「そういえば、お前がトイレ行っている間に考えていたんだが……」
「うん?」
「赤城って、やはり以前にこの店へ来ているだろ」
空気が変わった。
鋭い疑問だ。どうして、そう感じたのだろうか。
「……ううん、一度も来ていないよ。何でそう思ったの?」
僕は愛想笑いをしながら問い掛ける。
「まず一点目だ。この店の名前は〇源。記号を使っていて特殊だから、初見だと読めないはずだ。俺でさえ無理だったのに、赤城は普通に読めた」
なるほど。確かに、〇源という店名に小説のようなルビは振られていない。だから、初見で読めないだろうという彼の意見は僕も同意する。だけれど、それだけだと反論ができてしまう。
「それで来たことがあるとはならないよ。どこかで店名を聞いたことがあるだけかもしれないし」
「そうだな……けど、他にも可笑しな点があるんだ。二点目。赤城は白葱ラーメン柔麺スープ薄めを頼んだ。なぜそんな頼み方を知っているのかだ。普通の店だと、麺の硬さは要求できてもスープの濃さなんて要求できないだろ。俺が知っているのは、ここ〇源だけだ。メニューにも載っていないから、そんな頼み方は何度も通い詰めた者しか知らない。お前はそれを普通に頼んだ」
彼は本格的に疑っているようだ。僕は彼の疑いを晴らすために、またもや反論する。
「僕は天下の台所である大阪出身だよ。そこだとスープの濃さを変えれる店なんて多かった」
嘘じゃない。だけれど、なぜ〇源でも濃さが変えれると知っているのか、その疑問には答えられないと自分でも思った。しかし、彼はその矛盾に気付かなかったようだ。危なかった。僕がほっと安堵すると、彼は言葉を続けた。
「三点目だ。この店内はラーメン屋として少し珍しい内装をしている」
彼は辺りを見渡した。カウンターといくらかの四人掛けの半個室テーブル。思い返せば、確かに珍しい内装だ。テーブル間は壁で隔たれていて、半個室になっている。とはいえ、何が疑問なのだろう。僕が頭を捻っていると、彼は言った。
「このように店内は壁が多いから見通しが悪い。なのに、赤城は迷わずトイレへ向かった。これも初見では難しいだろう。以上の三点から導かれる結論は、赤城は以前に来たことがあるということだ」
僕はすぐさま否定しようとしたのだが、彼はまだ流れるように言葉を続ける。
「なら、なぜ赤城は初めてと嘘を付いたのか。簡単だ、俺の面子を壊さないようにするためだろう? いつだったか、飲料代を立て替えてくれたように赤城は優しい。だから、新しい店を紹介すると張り切っていた、そんな俺を気遣って、優しい嘘を付いたんだろ。あれだ、いもしないサンタクロースを演じてくれた父親みたいな優しい嘘だ。けれどさ、俺とお前の仲だろ。お前は俺に気遣わなくていい、嘘なんて付かなくていいからな」
息継ぎもせずに言い切った彼は、最後の台詞を発した。
「まあ、真実は闇の中だがな」
先日、彼が言いたいと述べていた決め台詞だ。とはいえ、彼はその用法を間違っていた。僕がその言葉を発したのは無意識だったけれど、どれも言葉通りの意味があった状況だ。バス停での一件では文庫本の持ち主なんて確かめようがなかったし、温泉でのメッセージも結局のところ本当の意味なんてわからない。小銭不足の件だってそうだ。実際に両替でそうなったのか店主以外にわからない。だから、真実は闇の中。でも、ここに本人である僕がいるなら、彼の決め台詞はどこか可笑しかった。
そんなことよりも、彼はもっと大きな間違いを犯していた。
「違うよ、違うんだ。その推理は間違っているよ、白崎くん」
彼はわからない、といった顔を見せた。僕は溜息と共に真実を言う。
「〇源はね、全国チェーン店なんだ。僕の地元にもあった」
「…………まさか!」
そうなのだ。名前を読めたのも、特殊なメニューの頼み方ができたのも、トイレの場所がすぐに予測できたのも、どれも〇源の他店舗へ行ったことがあるからだ。でも、僕はこの町に新店舗ができたことを知らなかったのだから、この店へ来たことがないというのは事実。しかも、白崎に連れられて来て初めて、僕は〇源の天岳市進出を知ったのだ。だから、残念ながら白崎の面子を壊さないように気遣ったわけでもなく、初めてと嘘を付いたわけでもない。
僕がその事実を伝えると、彼は目に見えて狼狽えた。
「そ、そうか、俺が間違っていたのか……」
「そうだね」
「俺は負けたのか……」
いったい何に負けたのだろうか。彼はとても悔しそうだった。
それを見て、僕ははっと思った。僕は間違えてしまった。僕は少しも優しくなかった。もし優しいのなら、彼の推理を全て肯定するべきだった。優しい嘘を付くべきだった。そうすれば彼はきっと笑顔を見せただろうに。僕はやはり優しくなかった。僕は彼が描く優しい僕とは違うのだった。
「……じゃあ、会計に行こうか」
「うん」
僕は小さく頷いた。
後悔の風が僕を蝕んだのは、夏の終わりを感じさせたある昼下がりのことだった。
夏章完結SS 迷探偵白崎の迷推理
赤い夕焼けの中、俺と赤城はとあるラーメン屋へ入った。
半個室のテーブルに座った。店員がお冷を携えてやってきたものだから、俺はメニューを見ずに注文した。赤唐辛子ラーメンバリカタスープ濃いめだ。トラウマのあるラーメンだが、今日のために俺は激辛料理でトレーニングを行ってきた。だから、一瞬で食べきるのも簡単だろう。ついでにトッピングとして唐辛子倍盛りもしておこう。
俺がそう決意すると、赤城が店員へ言った。
「えー、じゃあ僕は白葱ラーメンでお願いします」
赤城が注文するが、俺は待ったを掛けた。
「ちょいまち。ここでは麺の硬さとスープの濃さも選べるんだぜ」
「……なるほど、白崎くんは物知りだね。それなら硬さは柔麺で、スープは薄めで」
店員が注文を繰り返す。
「赤唐辛子ラーメンバリカタスープ濃いめ、追加トッピングの唐辛子倍盛り。白葱ラーメン柔麺スープ薄めですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか」
マシンガンのように早口で飛んでくる言葉に頷くと、次の瞬間、テーブルの中心がパカリと開いた。何と、中から二つのラーメンが出てきた!
先進的な店だ。そう思いながら、俺はラーメンの器を持つと、大口を開けた。そしてピンクの悪魔みたいに吸い込む。ずるずる。辛いが旨い。能力のコピーだってできそうだ。ふうっ、と汗を拭う。僅か五秒での完食だ。どうやら最速のタイムレコードみたいで、店員からトロフィーを貰った。部屋に飾るとしよう。すると、赤城が俺の手を握り、ぶんぶんと上下に振る。
「す、凄いね白崎くん。世界で最も辛いラーメンを平らげたよ。尊敬しちゃった、僕を弟子にしてよ!」
「いや、尊敬するほどでもないさ。俺ほどになると簡単なもんだ」
とはいえ、赤城を弟子にするのはいいかもしれない。彼は伸びしろがあるし、能力も高い。ホームズとワトソンである。もちろん、俺がホームズで赤城がワトソンである。ぐへへ。
俺と彼の二人で様々な難事件を解決する、俺がそんな様子を脳内で繰り広げていた時。
どさり、と。
隣でラーメンを食べていた女性客が倒れた!
「なんだ、なんだ! こ、これは毒殺だ!」
赤城が叫ぶ。倒れた客はぴくぴくと痙攣し、口内から泡を吹いていた。そして急に血を吐き、ぱたりと動かなくなった。どこからどう見ても事件だ。
「現場から動くな。これは事件だ」
俺はすぐさまそう言った。事件が起こった場所には探偵が必ずいる。つまり俺だ。虚空からステッキを取り出し、チェック柄のマントを靡かせ、キセルを咥える。ぷかぷかと白い煙を出せば探偵気分だ。もちろん帽子は名探偵を象徴するディアストーカーである。
さて、推理の時間だ。まずは倒れた客が食べていたラーメンを口内に含む。
「ペロ……!? こ、これは……トリカブト!!!」
見た目は子供で頭脳は大人な某少年探偵のような台詞だ。パクリではない、オマージュである。オマージュ、お饅頭のような響きで素晴らしく心地よい。
とりあえず、これで犯人は決まった。ごほん、と咳払いをすると、俺はきりっとした表情で言う。
「真実はいつも一つ。犯人は……」
びしっと、彼に指を向けた。
「お前だ、赤城!」
「な、なんだと!?」
赤城は見るもあからさまに狼狽えた。そして狼狽えながら俺に聞いてくる。
「ぼっ、僕が犯人である証拠はあるの?」
「あたりまえさ」
俺は自信満々に答える。
「倒れた瞬間に赤城は毒殺だと叫んだ。まだ脳梗塞などの可能性が残っていた段階なのにだ。なぜお前は毒殺だと断定できたんだ?」
「そ、それは、毒の可能性が高いと思っていたからだよ。そもそも、僕は白崎くんと一緒にラーメン屋へ来たのに、どうやって毒を混入させるのさ。そもそも、毒がトリカブトなら、それを舐めた白崎くんは倒れるはずだよ。そもそも、僕がその女性客を殺す必要性はあるの」
なんだと、そんな反論は考えていなかった。俺は考える。考えるが、わからなかった。真実は闇の中なのだ。俺は誤魔化すように推理を続ける。
「それはともかくとして、もし赤城が犯人だったら、最も疑われにくいんだ。なぜなら、お前は俺の助手である。古来より探偵とその助手は犯人になりえない。その前提があるからこそ、お前は俺に疑われない。…………そう考えたのだろうが、そんな小手先の技術は効かない。俺は名探偵白崎だからな!」
「な、なんだと!」
びしっと決まった。俺は優越感に浸る。とはいえ、ここで推理をやめるのは忍びない。まだ証拠が残っているのだ。俺は叫ぶように言う。
「そして、お前が犯人だと決定付ける最大の証拠がある!」
「な、なんだと!」
「赤城、自分自身の服装を見てみろ」
彼は自分の服を見下ろした。靴は黒、靴下も黒。ズボンは黒で、上着も黒。顔には犯罪者らしい目出し帽子を被っていて、両目だけが白く爛々と光っていた。
「いいか、古来より黒づくめの人物は犯人と相場なんだぜ」
「な、なんだと! 何でそんなことを知っているの!?」
「迷探偵コナソをフォローしているからさ!」
ふっ、決まった。俺がドヤ顔すると、赤城は急に走り出した。アイツ、逃げるつもりだ。しかし、そんなことをさせるわけにはいかない。俺はベルトの金属部分に触れた。その瞬間、亜空間からサッカーボールが出現する。同時に靴の側面にも触れると、電気の磁場が発生してビリビリと両脚のツボが刺激される。これで筋力が圧倒的に強化されるのだ。
「くらえ、赤城!」
俺は爆発的な脚力を持って、サッカーボールを蹴った。勢いよく飛び出したそれは、凄まじい勢いで赤城の背中に直撃した。彼はごろごろと転がり、壁にビタンとぶつかって停止した。赤城はポケットから白旗を取り出し、ひらひらと振った。
「ま、参りました……」
「思い知ったか、赤城。お前が名探偵である俺に勝つのは六兆年と一夜も早いのだ。これに懲りたのなら、俺をもっと本編で活躍させろ。ふは、フハハハハハ……
僕は時計をちらりと見た。十二時五十分。そろそろ彼を起こさなければ。僕は彼の両肩をゆさゆさと揺らした。
「白崎くん。そろそろ昼休みが終わっちゃうよ」
僕が彼の耳元で言うと、ふははは……、と意味不明な寝言が聞こえた。いったい、どんな夢を見ているのだろうか。こんな悪役っぽい寝言なんて普通は言わないだろう。
とりあえず、彼を起こすのが先だ。僕は先ほどよりも強く、ゆさゆさと白崎の肩を揺らした。震度で表せば、五強あたりだろうか。
「だから、早く起きてよ。次の授業が始まっちゃうよ。国語の先生は遅刻を許さないし、怒ると怖いよ」
むにゃむにゃ、とぐずりながらも彼はのっそりと起き上がった。腕を枕にしていたからか、両頬に跡が残っている。こうしていると、白崎は年齢よりも幼く感じた。しろざきくーん、おねんねの時間はお終いですよー、とでも言ってみようか。言わないけど。
そんなことを考えていた時だった。覚醒した彼は僕を見るや否や、トリカブトの犯人だ、とよくわからないことを叫んだ。僕は頭を捻った。
「……トリカブトの犯人?」
僕が尋ねると、彼はぱちぱちと両目をしばたたいた。
「え、あ……夢か」
「夢?」
「……ああ、夢だったみたいだ。俺が凄い名推理をして、赤城が感服する夢。トリカブトとかラーメンとか断片的には覚えているんだけれど……もうあんまり思い出せないな」
彼が名推理する夢か、僕は凄く気になる。
ラーメン屋で白崎が推理したのは、先日の時だ。間違って推理した彼を指摘して、僕は酷く後悔した。だから、今回は趣を変えてみようと思った。彼主体の推理だ。僕は提案する。
「ねえ、白崎くん。僕と一緒に夢の内容を推理してみない? まだ五限目が始まるには少し時間があるんだし」
「ああ……それはとても面白そうだ」
白崎はいつものように笑った。
僕らがいつものように推理ゲームで盛り上がったのは、図書室へ優しい風が吹き込む、秋の始まりだった。