限りなく透明になりたい。
*
バレンタインの一週間前だった。端から端まで文字だらけになった黒板を残して、公民の先生は退室した。
私は最後の板書を早々に写し終えて背中を伸ばした。隣の席にいた須藤くんは必死にシャーペンを動かしている。青い字で河合塾とはいったシンプルなシャーペンだった。机の端には駿台の文字をかたどった緑色の消しゴムが転がっている。
教科書とノートを鞄にいれて、お弁当箱を取りだした。いっしょに昼休みを過ごすグループに合流するため、日当たりのいい後ろの角へ向かった。いつも昼食を食べながら、だべっている。転々とする話題が近々のバレンタインになった。
イベントの話は、だいたいリーダー格の子が話し始める。今回はまわりを気にするように小声で始まった。
「今年のチョコどうする? あの噂ってほんとうなのかな」
私はその噂を知らなかった。冷凍グラタンをつついて、となりにいた美紀にたずねた。
「噂って何なの」
「男子にはあんまり言えないんだけど……。チョコレートに入れる血は左手薬指からがいいっていう話」
メガネの位置を直しながら答えてくれた。指先に針を刺したような痛みが走った。親指の腹でこすって痛みをごまかした。そこには薄いほくろのような点がいくつかあるだけだった。
別段すきな人がいない私には関係ない、と話半分に聞いていた。私以外の人はみんな面白がっていた。どんどん話が進み、最終的には全員が噂のチョコを作って渡すことになった。不参加を表明できる空気ではなかった。
ちょうど日直が最後の板書を消していた。「自己決定権」の文字が白く薄い痕跡を残して消えた。ラーフルを掃除する音を合図にグループは散開した。私も最前列の席に戻った。
数学の準備をしていると、昼練に行っていた生徒たちが教室に滑りこむ。それに続いて、大きなコンパスと定規を小脇に抱えた先生が冷たい風とともに入ってきた。
やっぱ晴れてても寒いな、と須藤くんに話しかけられた。そうだね、としか返せず、会話は続かなかった。
バレンタイン当日の終礼おわり、学校全体が色めき立って騒々しくなった。雑音に紛れこませて、須藤くんの肩をたたいた。
「これ、須藤くんへのチョコ」
赤色のリボンで軽く装飾したものを差し出した。彼は恭しく受け取ってくれた。そして、鞄にそっとしまった。
「久しぶりに女の子からもらったよ、ありがとう。今年は妹にからかわれないや」
感想はLINEで送るよ、と部活動に行った。彼は写真部に入っていた。私は帰宅部だったので、そのまま帰途についた。
帰り道にもバレンタインの風が吹いている。いつもは通学路に同化しているパン屋さんが目についた。窓に色とりどりのハートが散りばめられていた。パン屋は木目調のドアの隙間から甘い匂いを漂わせている。そこから出てきたカップルはハート型のもっちりしたパンを手に持っていた。ちゃんと二個セットになっていた。
私は目をそらした。
大きな通りから横道にそれ、ひと気のない区域にさしかかった。倒壊しかかっている長屋が立ち並んでいる。昔は駅前の赤線として栄えていたらしい。この裏にママと二人で住んでいるアパートがある。
また鍵の回りが悪くなっていた。ただいま、とドアを開けた。スウェットに着替えて、夕飯と明日のお弁当の準備をした。ひとりで作る料理も手慣れたものだった。
十八時をすぎたあたりで、もう寝間着になっていた。スマホをみると結構な通知が来ていた。グループLINEでは、悲喜こもごもとした吹き出しが並んでいる。手作りのチョコは生理的に無理と突っぱねられた人もいた。私は受け取ってもらえたとだけ送信しておいた。
寝る前に宿題をしていたら、須藤くんからLINEが届いた。
めっちゃおいしかった。
ずっと食べていたい味だった。
また作ってきてよ。
ありがとう
じゃあまた作るね
それから須藤くんにチョコをねだられるという奇妙な関係になった。
関係はホワイトデーを迎えようとしても続いていた。私はチョコを作り続けていた。さらに頻度も高くなっている。いまでは二日に一度のペースだ。
昼休み、須藤くんが職員室に呼ばれて教室にいなかった。その隙をねらって、美紀に相談した。彼女は色違いのお弁当箱を二つ見せて、胃袋をつかんだってことよ、とズレた答えを返した。そのままとなりの教室へ行った。
コンタクトになって垢抜けた美紀を見送った。自分のお弁当箱を鞄から出した。ついでにアルミホイルで包んだチョコも出しておいた。やっぱりズレている。
その日も頼まれて、帰宅した後にチョコを作っていた。夕方に帰ってきたママは顔をしかめた。ウンパルンパを雇ってみたら、と揶揄された。ウンパルンパとはなんぞと調べたら、児童小説の登場人物だった。チョコレート工場で働くちっちゃなおじさんたちだ。
気分転換にコンビニへ行ってきた。入り口正面の棚にはクッキーの詰め合わせが置いてあった。バレンタインのチョコの詰め合わせが数箱、最下段に追いやられていた。半額になっていた。
レジテープが貼られた箱を片手に、玄関に入ると鼻が曲がった。チョコレートの臭気が充満していた。そのにおいで薬指がうずいた。チョコを作るたび、針を刺しつづけていた。点々としたかさぶたは小さくとも深くなっていった。その奥にある角張った痛みが膨張している。
がまんできなくなって、夜に須藤くんへLINEを送った。
チョコ作りはやめる
ダメだ、毎日作ってほしい。
もういやなの!
作ってくれるだけでいいから。
画面に並んだ吹き出しの数だけをみると、会話が進んでいる風だ。けれど、堂々巡りで、何も進んでいない。須藤くんは血の入ったチョコしかみていなかった。私という人間はおまけでしかなかった。今日作ってしまった分は生ゴミに分別した。
わかった。明日の放課後はなそう。
日の入りは遅くなっていて、教室は夕日で染まっていて、コントラストが強くなっていた。誰かがコンパスを落として空いた床の穴もいつもより深くえぐれているように見えていた。掃除が終わってから二人きりになるまで、その穴の底を凝視していた。
ドアや窓は隙間がなく閉められていた。ようやく二人になった。まだ暖房はついていて生暖かい空気がまとわりつく。外で部活動をしている生徒たちの声はくぐもっていた。
「これから、いっさいチョコを作らないって決めたの」
自席に座っている須藤くんに話しかけた。席替えをしてから少し離れた場所になっていた。
「どうしてなんだ。それだけをしてくれればいいじゃないか」
彼は足を細かく揺すっていた。それに合わせて机も一緒に揺れている。
「それが嫌だって言ってるの! 分かってくれないなら、須藤くんとはやっていけない」
既製品のチョコを投げつけてやった。彼の足元に落ちた。中のチョコは割れているだろう。揺すっていた足はびたりと止まった。彼は組んでいた手をほどいて机の下にやった。
「……一週間に一回でいい」
「いやよ」
「一ヶ月に一回なら」
「一年に一回のバレンタインだっていやよ」
懇願を否定するごとに、彼の顔が徐々にこちらを向いた。黄色く膿を持ったニキビが見えた。
彼は机の中からカッターナイフを取りだした。勢いよく椅子を倒して立ち上がった。隔てていた物をなぎ倒して迫ってきた。カッターナイフが一閃する。カーディガンとブラウスは一挙に縦にきりさかれた。私は馬がゲートを飛び出すように、教室のドアを突き破った。
職員室をめがけて廊下を走り、階段を一段飛ばしで駆け上がり、また廊下を走った。後ろからは上履きを打ち付ける音が響いていた。今日に限って、校内に誰もいなくて、二人の足音が反響するだけだった。
挨拶なんてする余裕もなく職員室へ逃げ込んだ。須藤くんはカッターナイフを振りかざしたまま飛び込んだ。コーヒーを飲んで歓談していた先生たちが一気に緊張する。女性教諭は悲鳴を、男性教諭は怒声をあげた。
須藤くんはすぐ取り押さえられた。数人にのしかかられても、カッターは強く握り締めている。逃すまいと血走った目で私を睨んでいた。その視線は担任の体で遮られた。
刃は地肌まで到達していたみたいだ。腕から結構な血が流れていた。保健教諭に付き添われて病院に行った。
診察室のベッドを借りてママを待っていた。縫合し終わった傷口を見た。青みがかった銀色の糸が手首から内肘にかけて縫い付けられている。百足梯子のように一直線のそれから血がにじんでいる。部屋の外では遅れてやってきた担任が忙しそうに電話をしていた。手首から垂れそうになった血を眺めていた。
迎えが来た。先生はママにひたすら謝っていた。夜になっていたのもあって、事件の協議は後日となった。駐車場に出ると思っていたよりも満月が高く昇っている。
私は後部座席に乗り込んで、呆としていた。ママは仕事場から直接来たのだろう。ロングカーディガンを羽織って運転していた。オーガンジーで二の腕が透けていた。
後続車のハイビームが車内を照らした。眩しい光がミラーに反射してママの顔を照らした。鮮やかなルージュに目が止まった。すると赤いルージュが震えだした。
「私も杏も運がないのよ」
かすれた声が届いた。二人になって初めてかける言葉がそれだった。思い当たるとすれば、離婚したパパだった。
「あの時と同じよ。彼も襲ったのよ。とても優しい人だったのに、急に人が変わったの。あのままだったら危なかったわ。彼から離れて落ち着いた生活だと思っていたら、杏が襲われるなんて……」
私は相づちを打てなかった。初めて聞いた離婚の原因に違和感を覚えた。パパとの交流はもう十年ほどないけれど、優しかったという印象だけが残っていたから。
何枚ものオブラートが溶けて、包まれていた核心が見えそうになっていた。
後ろの車は左折して再び車内は暗くなった。黙ったママから目をそらした。縫合した腕の大きな傷より、指先の小さな傷の方がうずいていた。
*
今よりもだいぶ小さな手だった。初めて包丁を握った日、そのまま怪我をした。シチューの具材だったニンジンを切るとき、丸い表面を滑らせて左薬指の薄皮をそいだ。向こう側が透けるくらい薄い皮は、かろうじて指に繋がっている。痛くはなかった。
他の部分よりピンクがかった真皮が空気に触れた数秒後に、つぷつぷと赤い珠が浮き上がった。
となりにいたママは大慌てで救急箱を取りに行った。赤い珠が一つになって決壊した。指を伝って流れた血が垂れて、ニンジンに細い模様をつけた。
手持ち無沙汰からつい指先を口に咥えた。そのとき、舌の上に極上の味が広がった。これまで食べたどんなお菓子よりも繊細な甘さだ。
まわりが白っぽく変色している傷を大きなバンドエイドで覆ったママにこういった。
「血っておいしいね」
何いってるの、と肩を押されてキッチンから追い出された。大発見はキッチンに置いて行かざるをえなかった。ただ、口に残った薄皮をずっとしがんでいた。
翌朝の朝食を準備するため、キッチンに入ったら、血は跡形もなくなっていた。あのあと、ママがきれいに掃除したのだろう。小さな染みがあったはずのマットも洗濯されているようで、マット自体がなかった。
おいしい発見を流されたと拗ねた。パパが毎朝飲むコーヒーにいたずらをした。コーヒーの準備は私の仕事だった。
ゴミ捨てに行ったママが帰ってこないうちに、名札の安全ピンで指先を刺した。
いつもティースプーンで入れる砂糖の代わりに、小さく空いた穴から血を一、二滴垂らす。黒く半透明のコーヒーに落とした鮮血は、三次元にゆらゆらと広がって消えていった。最後に一混ぜして持っていった。
パパは新聞を読みながら一口飲んだ。今日のはいつもよりおいしいね、と新聞を置いたパパに頭をなでられた。その日からコーヒーに血を混ぜるのが日課になった。朝忙しいママには全然ばれなかった。
パパの水筒の中身が緑茶からコーヒーに変わった。パパはタバコを吸うようになった。ママは杏がいるのよ、とそしる。ささいなことでパパの怒声が響いた。例えば、食卓に置く朝刊がなかったとか、テレビの音量を下げたとか。
家の中では、不協和音が鳴っていた。自室で寝ようとしていると、一階のリビングからケンカが聞こえてきた。パパの怒鳴り声は獣が唸るような低音から徐々に大きくなる。離れていても鼓膜が破れそうだった。
いつの間にかパパがずっと家にいるようになった。
大晦日だったと思う。朝起きると体中が痛くて、シーツが汗まみれになっていた。インフルになったのだ。もちろん安静にしなければならなくて、朝の日課もお預けになった。
ママを腕にひっつけたパパが、叫びながら私の部屋に入ってきた。まどろんでいた私は何を言っているのか理解できなくて、あえぎ声を上げるので精一杯だった。パパの顔はみるみる赤くなっていった。直後、手を振り上げた。
激痛が走って飛び起きた。夢だった。でも普段見るモザイクだらけの夢ではなかった。とっくに風化したはずの過去だった。優しかったパパのイメージは溶けきった。想像で補っていたとしても、充分に生々しいリアルを残していった。
誰にも言えない罪が露わになった。掛け時計の音が聞こえる静けさ。空は白んで部屋が薄く照らされていた。昨日縫った傷が鈍く輝いている。
眠っているあいだに美紀からLINEが来ていた。すでに噂は広まり始めている。
須藤くんに切りつけられたって聞いたよ
そんなことする人なんて知らなかった
なんでも手伝うから言ってね。
須藤くんは傷害の現行犯として警察に連れて行かれたらしい。小さな記事ではあるものの、新聞にも載っていた。彼に前科をつけるわけにはいかなかったので、結末は示談になった。直接彼と対面することはどうしてもできなかった。体が震えて歩けなくなるのだ。
まわりの人たちは、男子に襲われたからしょうがないと、被害届を出さないなんて優しい子だとなぐさめた。彼が狂った原因を知っている私はひたすら目をつむっていた。
*
大学に入って三回目の夏になろうとしていた。無色な人間になろうと決めてから、消極的な人間になった。同じゼミ生と美紀を除けば友人もいなかった。
午後にさしかかったキャンパスを一人で歩いていた。図書館に行く予定だった。三々五々に談笑する中庭のそばを通った。半袖を着はじめている人がちらほら見えた。怪訝な顔で見られる季節がまたやってきた。そのたびに、日焼けしたくないのと説明した。今年は何回嘘をつかないといけないのだろう。
学生証を警備員に提示して図書館に入った。司書さんが私に気づいた。軽く会釈をしてさっさと地下の書庫へ降りた。
午前にゼミの発表が終わった。「薬物アレルギー性肝炎における好酸球の血液像の変化」というテーマを題材にした。最近は臨床データを取りに病院へ通っていたので、図書館には久しぶりに来た。
書庫には半地下の読書室がある。他の利用者はいなかった。定位置に腰掛けトートバッグを椅子の背もたれにかけた。取ってきた本をテーブルに積んでおいた。文系の本ばかりだ。今は反ユダヤでの血の中傷について調べている。
閉館の放送がかかった。本から顔を上げると外はとっくに暗くなっていた。書架に本を片付けた。めぼしい収穫はなかった。階段を上ると、書庫に入るときと同じ司書さんがいた。また軽く会釈をした。
正面玄関をでるとアーク灯がぽつんと一本たっていた。とはいえ一本では全くまかないきれておらず暗かった。その脇にある桜の木にはセミの抜け殻がくっついていた。半透明の茶色は幹と同化していた。輪郭はぼやけ立体感だけがあった。まだセミの鳴き声は聞こえなかった。聞こえていたのは電灯内で電気が反射する音だけだった。
桜の木の下にある背もたれのないベンチに腰かけた。LINEの通知音が鳴った。美紀からだった。
グループの発表準備でもう少しかかりそう
もうちょっと待ってて
ごめんね。
りょうかい
いくらでも待つからゆっくり
借りた本を読みながら美紀を待つ。大学に入ってルームシェアをしていた。
美紀の彼氏が恋人のひとり暮らしは嫌だ、と言いだして、同じ大学に進学する私と一緒に暮らしている。町で一緒に歩いていると、美紀目当てで声をかけてくる人がいるので、彼氏の気持ちもわかる。遠距離恋愛だからと物ぐさにならず、美しさにさらに磨きがかかっていた。
実際、最近になってストーカーらしき影がちらついていた。郵便受けにぬめったコンドームが入っていたり、ゴミが何回か漁られていたりと不審な出来事が続けざまに起こっていた。被害届を出そうと言っても、彼氏を心配させたくないと断られた。へんな頑固さを発揮していた。
三分の一ほど読みすすめたハードカバーを膝の上に置いた。
美紀が手を振ってやってきた。ゆったりとした半袖に空気をはらませ揺らしていた。初めて見る服を着ていた。一緒に住んでいるはずなのに、美紀はいつ見ても違う服を着ている。この日の服は袖のレースが印象的だった。外灯に照らされたレース模様の影が二の腕に映っていた。
「私から誘ったのに、遅くなってほんとごめん」
「いいよ、美紀、最近ひとりで帰るの怖いんでしょ?」
「そうなんだけど、けっこう待たせちゃったから」
私は謝罪を聞きながら、本をしまって立ちあがった。
並んで歩き始めると、私のひじから先に美紀のトートバッグがぶつかった。淡い青色に染められた革のトートは氷河にできる深い深いクレバスのように角張っていた。縫合痕を服の上から何度もなぞられ、見えないはずの傷跡が浮かび上がってきた。汗の蒸発した熱い空気がまとわりついた腕から冷たく浮かび上がった。
道にまで響き渡る一気飲みのコールに、私たちの歩みは速くなった。入学してから大学近辺の治安が悪くなった。毎晩深夜になると、奇声を上げながら走る人、道路脇にうずくまり動けない人をみる。
住んでいるアパートに繋がる狭い路地を通ると、室外機の上にアルミ箔とストローが捨てられていた。
アパートの玄関に着いて、郵便受けの中を確認する。怖がっている美紀の代わりに私の新たなルーティーンとなっている。本日の中身は真っ白な封筒のみだった。液体や卑猥なものでないだけましだった。差出人は不明なので、常備しているビニール袋の中に手を入れてつかんだ。
ダイニングの床で手紙をあらためた。キッチンでは美紀が料理をしていてこちらには目も向けていなかった。封筒だけではなく手紙上にも、差出人の情報はまったくなかった。ストーカーからだろう。
『僕たちはあなたを調べている』
端麗な文字で一文が書かれていた。潔癖さが見えていた。僕たち、たち。ストーカーは複数で行動するものなのだろうか? この手紙はストーカー自身が存在を知らせたかったから? 彼らを突き動かす動機がわからなくなった。
「ご飯できたよ、いただきますしよ」
新たな考えに触れそうになった瞬間に現実に戻された。美紀はみずみずしいトマトをのせたボウルを持っていた。湯気が上がっている麻婆豆腐と白ごはんはテーブルに並べ終えていた。
向かいに座った美紀に手紙を見せた。
「この手紙、一文だけなんだけど、どういう意味かな」
美紀が素早く一文に目を通した。
「ストーカーのすることなんか、知らない。気持ち悪いからそんなもの見せないで。冷める前にはやく食べようよ。あっ、食後にチョコレートでもどう?」
あまり興味をしめさない風に美紀はスプーンを持った。目は頑なに合わない。
ただ、美紀に隠し事があるとわかった。私はトラウマでだまるから、不都合な詮索をしようとすると、だいたいチョコの話題を出される。
これ以上の反応がないと知り手紙を封筒にしまった。証拠品を集めている小さい籐かごに入れた。気味わるい青いコンドームを厳重にいれた五、六の不透明な袋の隙間に刺さった。
黒いビニール袋に囲まれた白い封筒は目立っていた。赤黒い餡にうもれた白い豆腐をすくうでもなく見ていた美紀とあいまって記憶に染みついた。機嫌を損ねた美紀は一言も喋らなくなった。
後片付けが終わって、生ゴミをまとめているときに、
「明日はゴミの日だね」
と確認したらうなずいていた。ストーカーの影で郵便受けを見るのは嫌がるようになったのに、火・木のゴミ捨ては続けていた。やることが増えるかなと覚悟していたのに、肩透かしをくらった覚えがある。
次の日の講義の準備をしてから就寝した。隣のベッドでは、まだ美紀のスマホが光っていた。寝返りを打ってブランケットを目元までかぶった。
正午ごろ、目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。スマホの画面に一度触れると美紀から、LINEの通知がきていた。
昨日はごめん
朝食が机の上にあるから食べてね
先に出とくからちゃんと鍵かけてね。
ありがとうと返信して、置いてあったサンドウィッチを食べた。途中でテレビをつけると、通っている大学がニュースで取りあげられていた。蔓延している薬物についてだった。だいぶ不名誉な取りあげられ方だ。
快晴の空のもと、校門近くでの取材が流れていた。やんちゃそうな人ばかりがインタビュイーに抜擢されていた。偏った人選のなかでも、赤く染めた髪の男性が特に異彩を放っていた。大学に三年間通っていて初めて見る人だった。
『この大学では薬物が蔓延しているという情報がありますが、どんな薬物なんですか?』
『あんま大きな声では言えないんすけど、めっちゃキマるらしいっす。なんか赤い覚醒剤とかいう話は友達から聞きましたっすね』
『赤い覚醒剤、赤いんですね。どうやって入手しているか知っていますか?』
『いやなんか、ツイッターで売人がいるらしくて、そっかららしいっす。物陰とか死角とかに置いておいて、場所を指示するみたいで、売人自体を見た奴はいないんすけど』
なかなか頭がハッピーな回答だった。あまり人と関わらないようにしているのもあって、赤い覚醒剤の存在をはじめて知った。
赤髪の次に映ったのは、食紅で色をつけたような粉がさらさらと落ちていくカットだった。黒い背景との対比でなお毒々しかった。苦手な血を連想した。
薬物報道のガイドラインでは、依存者を刺激しないように白い粉のイメージ映像は使わないことが望ましいとされていると聞く。色が違えばいいだろうというメディアのエゴも感じた。テレビを消した。
ツイッターを開いて赤い覚醒剤を検索すると、すぐに売人らしきプロフィールが見つかった。名前はクイーンで絵文字も写真も無い簡素な構成だった。今日も悪びれる様子もなく堂々とした投稿をしている。
夕焼け放送局のニュースで紹介されました
扱っているのは合法の物です
安心してください
それでは今日もいってらっしゃい。
……強烈な既視感があった。堂々としているからではない。一文を区切るのは改行で、最後の最後だけに句点をつける。私はこの癖を持つ人を知っている。信じたくなくて遡って読んでいった。スクロールする親指が発火する寸前になるまで画面を擦った。
はじめましてクイーンです
今日から赤い塩を販売します
希少なのでご購入はお早めに。
最初のツイートは二〇一九年四月の火曜日の夜だった。私たちが同居しはじめて最初のゴミの日の夜だった。
きっとストーカーの話も美紀のでっち上げだ。ゴミ袋からナプキンがなくなっても怪しまれないようにしたのだ。触らないで、と言われていた鍵つきの引き出しには、どうせ青いコンドームと私のナプキンが入っているだろう。
頭に血が上って立っていられなくなった。ベッドに倒れ込んだ。無害な人間でいようと努力してきた。私が狂わせたのはパパと須藤くんの二人だけのはずだった。けれど今日知ってしまった。大勢の人生を狂わせていた。
限りなく透明になりたかった。体中を駆けめぐる赤を吐き出したかった。体の中にある温もりが煩わしかった。
ベッドからキッチンを経由してバスルームへ移動した。二つある蛇口のうち、青い方だけをひねって浴槽にためていった。ゴボゴボと冷水がたまっていく。体を滑りこませた。徐々に上がっていく冷たさに喜びの鳥肌がたった。十分に冷水がたまったとき、持っていた包丁を寝かせて肋骨のあいだに深々と刺した。そして、抜いた。三次元にゆらゆらと水中に広がっていった。水が朱に染まっていけばいくほど、私はどんどん透明になっていく。耳鳴りは砂嵐のような音だった。体液がにじんだ瞳に優しい顔つきに戻っているパパと須藤くんの顔が映りこんだ。