福井県小浜駅のホームに現れた人影は背伸びしているみたいに細く伸び切っていた。自販機で買ったペットボトルはたちまち結露し、垂れ落ちた水滴が影の足にまだら模様を作る。時間感覚が曖昧になり始めたのは一体いつからだっただろう。いつまでも続くと思われた夕間暮れは、あっけなく終わりを迎えようとしている。
改札の外、出来損ないのロータリーを眼前にして、僕は北西に針路を向けた。宿への近道は去年真帆に教えられていたが、到着したら何をおいても海を見るのだと電車の中で決めていた。海岸通りに出る頃には、まばらの街頭が灯り始めていた。
鉄柵の刺さったコンクリート塀が東西に延び、その向こう側で紺青の海面が穏やかに揺れている。備え付けられた小さな階段から塀を越えて消波工に降り立つと、視線の先で消波ブロックがぼんやり輪郭を浮かび上がらせていた。けれど、ここは内海で、ブロックは必要なさそうに思える。潮騒は虫がさざめくよりも小さい。
視界の右からは内外海半島、左からは大島半島が迫り出していて、海というより湖畔と言った方がしっくり来る。往路で見た琵琶湖の方がよほど海らしいと思えた。
海風が吹き返し、潮が香る。僕からの光景がどうであれ、しかし、ここが海であることに変わりはない。二つの半島に守られた安全な海辺に僕はいる。
消波工を西へ。靴底がコンクリートに擦れ、淋しい音を響かせる。白黒の車ばかりが並ぶ駐車場を抜けると、マーメイドテラスに出た。テラスと言っても、二体の人魚像を欄干が半円状に取り囲んでいるだけの小さな空間だ。像の傍らには、この場所をロケ地にした連続テレビ小説を紹介する看板が誇らしげに立てられている。
ここまで来るとようやく視線が通るようになる。目を凝らすと、無音になった音声波形のように、内外海半島の稜線の先が直線に変わっている。見た目十五センチ、実際にして約二キロの水平線だ。
不意に真帆の声が耳許に蘇る。
──あの水平線が見える?
昨年の十月、恋人だった女性の部屋で縊死体が見つかった。床には彼女が普段食事と勉強に使っていた木椅子が転がっていて、両足の裏には座面の縁の痕が一文字に刻まれていた。実際に見たわけではない。全て人伝てに聞いた話だ。しかし、その残酷な一線はまるで太陽を凝視した後のように、ずっと僕の脳裏に焼き付いている。
*
僕も真帆も文学部の学生で、一年生の間は専攻というものがなかった。一年間で研究の方向性を探るというカリキュラムが組まれていたのだ。近年の学問細分化の風潮に煽られてコース自体は多かったが、僕らの志向は似ていたから、きっと遅かれ早かれ出会うことになっただろう。
その日は梅雨らしく朝から雨が降っていて、僕は三限を受けた教室と屋根続きになっている文学部棟の食堂を暇潰しの場所に選んだ。水曜日の四限だったこともあり、食堂内に人は少なかった。簡体字の書き取りを始めて暫くすると、傘をバサバサしながら女学生が駆け込んで来た。窓外を見ると、雨脚はかなり激しくなっていた。
それは僕の中で「会えば世間話を拒まない」という集合に分類される人間だった。宮瀬真帆は食堂内を一瞥して僕の姿を認めると、こちらへつかつか歩み寄って来た。
やがて真正面に立つと、出し抜けに、「今日が休講だったなんて知らなかった」と言った。のっぺりした声音だったが、それが却って羞恥心を覆い隠そうとしているようでもあった。
「教室まで行ったの?」と尋ねると、彼女は傘の紐を留めながら、
「教室のドアにも休講連絡を貼り出してほしいわ」
「先生が来ないんじゃ、他に誰も貼れない」
「それは、ほら、授業補助の人がいるじゃない。なんて言ったっけ」
SA、大学が雇っている学生アルバイトのことである。
彼女は僕の向かいの椅子に鞄を置き、その横に座った。水曜の四限は本来〈哲学入門a〉の授業があるが、今日は休講である。時間割には「学会のため」と理由が記されていたが、理由を気にする学生はいるまい。やるか、やらないか。それだけで十分なのだ。
〈哲学入門a〉は一年生の選択必修科目の一つであり、ある議題について班ごとに論議するという演習授業である。望めば一週間ごとに班を完全に組み替えることも可能だが、そこは日本人の惰性というか資質というか、今のところ初回から変わっていない。真帆とはA班の意見を共に捻り出すだけの仲である。そんな彼女の質問に僕はわざとらしく首を捻ってみせた。
「どうかな。藤先生はアナログな人だから」
補助員がやってくるのは、大掛かりな機械を使ったり、百人単位の出席を取ったりしなければならない授業だけである。〈哲学入門a〉の場合はどちらにも当てはまらない。
しかし、これでは回答としてあんまりだと思い、「リアクションペーパーに書いたら改善してくれるかも」と付け足した。
しかし、真帆はそこまでやろうとは思えなかったようだ。
「リアクションペーパーと言えば」と横のトートバッグからクリアファイルを取り出した。
「先週来なかったでしょ」
授業の終わりには、班の意見とは別に自分自身の考えをリアクションペーパーに書くことになっている。これは評価要素の一つであり、且つ出席確認も兼ねている。
真帆がファイルから取り出したのは、僕が二週間前に書いた「トロッコ問題」のリアクションペーパーだった。リアクションペーパーは、基本的に翌週に班ごとに返却される。先週、自主休講して教室にいなかった僕のものを彼女は一週間持っていたようだ。差し出す際に、彼女は「関係ない……」と呟いた。
「班の意見を擦り合わせたときに言ったことと、全然違うことが書かれてた」
顔を上げると、彼女の視線とぶつかった。書いたものが読まれた羞恥心から反射的に目を逸らす。だが、それが凶と出たらしい。
「五人を救うために一人を殺すんじゃなかったの?」
班内の話し合いでそう言ったことを思い出した。真帆は「分岐器を操作するべきではない」と主張したが、結局、他の班員も加わって、総意は「分岐器を操作して一人の従業員を殺す」となった。
「殺すんじゃないよ。五人を救うんだ」
「そう言われたわね。おかげで恥ずかしい思いをしたわ」
班長として意見を述べたのは真帆だった。
「別に深い考えがあったわけじゃない。言ってただろう。ユニークなことを書くと点数がつくんだ」
僕は「一人にせよ、五人にせよ、それが自分と無関係なら命の価値は等しい。従って分岐器を操作する必要はない」と書いたのだった。
「そこに書いた通りに言ってくれれば〈操作しない派〉が勝っていたのに」
真帆は本気で残念がっているようだった。
早く話題を打ち切ってしまいたかったが、こればかりは「操作しないんじゃない。する必要がないんだよ」と訂正せずにはいられなかった。この二つは似ているようで異なっている。
「興味がないのね」
そう言った彼女の目尻は下がっていた。興味を失くしたのは君の方だろう、という台詞は胸の裡に留めておいた。それからは他愛のない話をして、四限の終わりを告げるチャイムがなった頃、彼女が「八嶋くん、この後は授業?」と訊いた。
「国文学史概論」
短く答えると、彼女は両手を合わせた。
「あら、気づかなかった。三須先生の?」
首肯する。
「じゃあ一緒に行きましょう」
断る理由は見つからなかった。
*
〈海嘯〉は海岸通りに面した小さな民宿だ。クリーム色の壁に瓦屋根が載っかっている。入ると、真帆の叔母に当たる日和ゆき子さんが「いらっしゃい」と出迎えてくれた。一見、表情も声音も記憶にあるものと全く変わらないように思えたが、目が合うことは一度もなかった。
寝る前に汗を流そうと思って部屋を出て、浴場の前で賢二郎さんと遭遇した。彼は真帆の従兄弟で、実家でもあるこの民宿で働いている。年齢は真帆の二つ上で、僕の三つ上だと去年聞いた。両腕には籐籠を抱えている。
視線が交錯すると、賢二郎さんは怯えたような顔をした。
「困ったことがあったら言ってね」絞り出された声は掠れている。瞬く間に遠ざかっていく背中に、気付いたときには僕は声を掛けていた。話したいことなんてなかった。話して欲しいことならたくさんあった。しかし、どう切り出せばいいのか判らない。賢二郎さんは廊下の先に立ち竦んでいる。
「明日、自転車を、貸してもらえませんか」
考えた末に僕の口から出た言葉はそんなものだった。賢二郎さんは何か言いかけるように口を半開きにしたが、すぐに閉じて「いいよ」と言った。
明朝、ガレージの外に出しておくと賢二郎さんは言った。〈海嘯〉の裏手は日和家の住居になっている。頭を下げると、彼はそれじゃあ、と言い残して曲り角に消えていった。
翌朝、ガレージの外には青いロードサイクルが出ていた。サドルに黄色の付箋が貼られている。「元の場所に戻しておいてください。鍵はいりません」万年筆の文字だった。
海岸通りを西から東へ走る。日差しはきつかったが、辛くはなかった。
空は高く、海は絵の具のチューブを垂らしたみたいに鮮烈な色を呈している。視界には相変わらず大島半島と内外海半島が食い込んでいたが、マーメイドテラスに近づくと短い水平線が現れた。緑色の人魚像が鮮やかに光を放っている。
急に濤声が大きくなったような気がした。
*
顧みるに、亀裂の一筋目は八月に生まれたのだろう。しかし、当時はそれが巨大なひずみの導線になるとは思ってもいなかった。
十五回の授業を終え、春学期は期末試験を残すのみとなっていた。ある夜、僕は友人から「真帆が今日のテストに来なかった」と連絡を受けた。彼女は毎回真面目に出席していたし、例年、問題も簡単で諦めるような科目ではない。電話をかけても出ないし、心配だ。何か知らないか、ということを彼女は訥々と語った。
心配する友人に僕から返せることは何もなかった。僕が真帆と会わなくなって一週間が経過していた。「一緒にいても却って気が散るだけだから」というお互いの合理的判断に基づく行動だった。
一応、真帆にメッセージを送った。電話を掛けなかったのは例の合意があったからだが、翌朝に試験さえなければ本当は彼女の部屋を訪ねたって構わなかった。何のことはない、レジェメを刷り出すのに忙しかったのである。
その二日後、最終試験を終えて携帯電話の電源を入れると、真帆からのメッセージを受信していた。彼女もちょうど終わったということだったので、文学部棟の食堂で一緒に昼食を摂ることにした。
食事の最中、彼女の表情はずっと浮かなかった。
「そんなに難しかったの?」
と訊くと、彼女は、まあね、と薄く笑った。彼女にしては珍しいことだった。おおよそ試験問題を解くということに関して、彼女が困ったところを見たことがなかったからだ。
その夜、僕は真帆の部屋で彼女の本棚から拝借した小説を読んでいた。孤島の別荘で宿泊客が一人ずつ死んでいくという古典ミステリだった。
テレビがCMに入ったタイミングで、彼女が「オバマに行かない?」と言い出した。僕は咄嗟に「元大統領に会いたいの」と訊き返した。彼女は笑わなかった。
「叔母さんがやってる民宿があるの。何にもないところだけど一緒に行かない? たぶん幾らか割り引いてくれると思うわ」
そこでようやく真帆が福井県の出身だったことを思い出し、「オバマ」が「小浜」に変換された。以前、原発についた調べた際に得た知識が役に立った。
魅力を感じたわけではなかったが、遠出が好きでない彼女が旅行の提案をするのが珍しくて、「いいよ、行こう」と返事をした。
お盆を迎えると流石に混み合うということで、少々急だったが、出発日を一週間後に設定した。二泊三日の予定だった。宿の予約は真帆が引き受けた。
旅行の二日目、八百比丘尼伝説について尋ねると、真帆が解説してくれた。
「ある日、若狭国の漁師が浜辺に奇妙な生物が打ち上げられているのを発見しました。それは首より下は魚、頭は人という人面魚だったのです」
「人魚伝説じゃなかったの?」
「これが日本の人魚伝説よ。上半身が美しい女性の姿をした人魚はイングランド民話がベースの、いわば輸入物なの」
僕は相槌を打って先を促した。
「漁師は人魚を家に持ち帰りましたが、娘が両親に隠れて全て食べてしまいました。それは大変美味であったそうです。彼女は十七歳にして不老不死の存在になりました。やがて彼女は遍歴を始めました。その美しい姿から、一時は洛中で見世物になったりもしました。しかし、自身と周囲の乖離に苦しみ、最後は空印寺の洞穴で入滅しました。八百歳まで生きたことから、彼女を八百比丘尼と言います」
柳田國男の研究では比丘尼は鎌倉から江戸にかけて生きていたらしい。時代が移り、周囲の顔ぶれが変わる。彼女はきっと自分がどんな世界で生きているのか判らなくなってしまったのだろう。寄せる波が砂を攫っていく。僕たちは人魚の浜を歩いていた。
「ここが、漁師が人面魚を見つけた場所?」
「さあ……、集客目的で後世に勝手に付けられた名前だと思うけど」
浅瀬で父娘が水を掛け合っている。横で真帆が「人魚はどうやって死ぬのかな」と呟いた。
「厳密には比丘尼は人魚の肉を食べた人間でしょう? 人間は仏になれるかもしれないけど、人魚はどうするのかしらね」
僕は海中で暮らす人魚を想像し、思いつきを口にしてみた。
「決して叶わない恋をするんだ。敗れて、そして水の泡になる。魂を持たない人魚は永遠に消滅する」
真帆は僕を見て微笑んだ。彼女の笑顔を見るのは久しぶりだった。
「アンデルセンね。でもそれは駄目」
「輸入物だから?」
「……それもあるけど、わざと恋敗れるなんて難しすぎるもの。現実的じゃないわ」
彼女の横暴な物言いに僕は抗議した。それを言ったら人魚自体が現実的じゃないよ、と。それを聞いた真帆は再び破顔し、ゆっくり海に人差し指を向けた。
「あの水平線が見える?」
見えるよ、と答えた。
「あそこから飛び降りるの」
横を見た。真帆は口を噤み、海の向こうを見たまま動かない。
「地球平面仮説だね」
彼女は応えない。そんな古臭いパラダイムなんて、と一笑に付せば良かったのかもしれない。しかし、そうするには真帆の表情はあまりに真剣すぎた。大きな痛みを堪えているようだった。やがて彼女が沈黙を破った。
「地球は昔、平らだったのかもしれない」繊細な声だった。
「神様が作った地球は平面だったけれど、天体を観測する人が現れて、大航海に乗り出す人が現れて……、そうやって長い時間をかけて少しずつ地球は今の形に変化してきたのよ」
僕は想像する。平べったい大地を。それが徐々に丸みを帯びる過程を。そして世界の端っこから人魚が落ちる瞬間を。それはある意味で事実なのかもしれなかった。世界中の誰一人として赤を認識できなければ、赤色なんて存在しないことと同義だ。知らないことは存在しないことと変わらない。
しかし──
「イエスが生まれる何百年も前から、地球は丸いと確信していた人もいたよ」
世界は僕らが思うほど柔軟ではない。僕の、短いけれど全てが詰まった人生経験から帰納された哲学だった。真帆は「そうなの?」と小首を傾げた。意外な反応だった。彼女が知らないはずはない。
「知ってるだろう、アリストテレスだよ。月に落ちる地球の影を観測したんだ」そう言うと、真帆は「そうだったっけ」と一度目を伏せた。
やおら瞼を持ち上げて、言う。
「じゃあ、ずっと地球は丸かったのね」
虚ろな吐息が波打ち際に広がった。
*
空印寺に行き、八百比丘尼の洞穴を覗いた。八百比丘尼が生きていた痕跡なんてものはどこにもなく、ただ涼しい空気が充満していた。手を合わせることはしなかった。
昼食を摂ってから宿に帰った。指定通り元の場所に戻した自転車には、御礼を書き加えた付箋を貼り直しておいた。
部屋では丸めた座布団を枕代わりにして、天井の梁を見上げていた。そこから縄が垂れ下がっているところを想像しようとしたが、うまく像を結ばなかった。
ドアをノックする音で目が覚めた。部屋が山吹色で満たされている。窓の外に目をやると既に黄昏に暮れていた。どうやら横になっているうちに寝てしまったようだ。ドアを開けると賢二郎さんが立っていた。
顔つきから僕が寝ていたことに気付いたようで、賢二郎さんは開口一番に「起こしてごめん」と謝った。
「いえ……、自転車、助かりました」
賢二郎さんはゆるゆると首を振り、意を決したように切り出した。
「これから、外に出られるかい」
僕は一度部屋を振り返った。「少し時間をもらえれば」
賢二郎さんは小さく頷き、「出たところで待ってるよ」と言った。
顔を洗い、寝汗で濡れたTシャツを着替えた。財布と携帯電話を掴んで部屋を出る。賢二郎さんは、軒先のベンチに座って空を見上げていた。
行き先は訊かなかったが、明らかに駅の方角だったので小浜を出ようとしているのだろうと推測した。果たして小浜線に乗り、東美浜で降りた。勾配の小さい坂を緩やかな弧を描いて登っていく。会話はなく、僕は前を歩く賢二郎さんの背中をじっと見ていた。三十分ほど上り詰めて賢二郎さんが足を止めたのは、空き家とも廃墟とも言えない住宅の前だった。日没の暗がりの中でもかなり古いことが見て取れる。庭には名も知らない野草が這い回り、家は、まるで大きな子供が草むらに蹲っているようだった。
横に並んだ賢二郎さんが「真帆の実家だよ」と言った。
門は開いていた。ランタン型の懐中電灯を掲げた賢二郎さんが先行する。雑草の間から見える防犯砂利はもはやその役割を果たしていなかった。
電灯を挟んで縁側に座り、しばらく敷地の外を眺めた。広がる田園に、月光を受けた稲穂が淡く輝いている。
「ここは真帆の両親が離婚してからすぐに引き払われたよ。お金のことなんか気にしてなかったから早かった」
賢二郎さんがこう言って、会話が始まった。
「真帆に上京を勧めたのは俺なんだ。浪人するように言ったのも。知っているだろうけど、彼女の家庭はずっと限界状態でね。遅かれ早かれ崩壊するのは火を見るより明らかだった」
去年の八月に真帆の両親が離婚したことを僕が知ったのは、彼女が死んだ後だった。食堂で見た真帆の沈鬱な表情がフラッシュバックする。記憶にある限り、彼女は家の話なんて一度もしたことがなかった。それは僕の方も変わらない。機会がなかった、と言えば聞こえは良いだろう。しかし、実際は横着していただけなのかもしれない。
原因は、と尋ねた。「大した話じゃない。どこにでもあるような理由だよ」という答えが返る。賢二郎さんは続ける。
「子供の頃からあまり社交的ではなかった。休日も一人で家にいることが多くてね。僕は彼女に一歩外へ踏み出して欲しかったんだ」
僕の持っている真帆のイメージとは少し違う。確かに家にいることは多かったが、引きこもりなどではなかった。友達だって何人も知っている。そのことを伝えると賢二郎さんは曖昧に微笑した。
「そう言われると安心するよ。俺のしたことは間違っていなかったって思えるから。でも、それはきっと間違ってるんだろう。いくら枯れかけていようとも、彼女から花を取り上げる資格なんて俺にはなかったはずなんだから」
賢二郎さんが頭を垂れる。
「……真帆が死んだことを知らされてから、余計なことを、やってしまったという後悔が、頭を離れないんだ」
言葉には嗚咽が混じっている。「あなたは正しかったですよ」と言う僕の声もまた震えていた。
外には楽しいことがたくさんあると力説する賢二郎さんが目に浮かぶ。そうやって故郷を出た真帆は、幸福だっただろうか。コペルニクスに地球は丸いと諭された人々は幸福だっただろうか。
真帆は遺書を書かなかった。だから彼女の真意は推測するしかない。
彼女の人格基礎はこの場所で形成された。他人から見ればいびつであっても、帰属意識はこの家にあったのだろう。彼女が失ったのは建物だけではなかったのだ。
自嘲の笑みが漏れる。報せを受けた彼女は、この二年あまりで新しく得たものを確認したに違いない。知識・技術・友達・恋人。全部並べてみて項垂れた。立てなかった。試験を諦めてしまうほどに。
「真帆は、あなたが素晴らしいと語ったものに価値を見いだせなかったんでしょう」
僕は彼女の大切なものになり得なかったのだ。しかし、賢二郎さんは肯定しなかった。
「それは違う。真帆は恐れたんだよ。いつかまた同じように失ってしまうことを」
真帆が話してくれた伝説を思い出す。比丘尼は自己と周囲の乖離に苦しんだ。目まぐるしく変わる世界に翻弄されて、自分がどこで生きているかわからなくなってしまった。だから自ら終わることを望んだ……。
短い水平線。古臭いパラダイム。あの日、彼女は世界の端を探すために小浜に行こうと言ったのかもしれない。そして、聴いたのだ。どんな瀑布よりも洪大で、何もかも呑み込まんとする死の音を。こぼれ落ちる海の音を……。それは耳鳴りのように彼女の中に残り続け──
僕は何もできなかったのか。いや、何もしなかったのだ。
「……僕は訊かなかったんです。なぜ試験を休んだのか。どうして突然小浜に行こうと言い出したのか……」
知ったのは全てが終わった後だった。今もこうして過去を知ろうとしている。解答を見てから問題を解くような、意味のないことをやり続けている。真帆の言う通り、僕は無関心だったのだ。透明な何かで一杯になっていた。
賢二郎さんは何も言わなかった。ただ、僕の眼を見て涙を流した。僕の身体の内側を巨大な波が渦巻き、目の前がぐちゃぐちゃになった。僕に形を与えていた境界が急に判らなくなった。全てが僕のものではなくなってしまった。
声は出なかった。どこか遠くの方で、僕ではない誰かの慟哭が聞こえた。