2025年11月16日(日)13:00~14:30 大津歴史文化講演会(堅田・坂本常・大津城ー戦国時代のびわ湖
講師:和田 光生 先生
講義内容
◎琵琶湖は物資運搬の大動脈
・かつては、水運が最も便利な交通手段だった
・京都に近接する国内最大の湖「琵琶湖」は、古くから流通の大動脈
1.堅田 湖族の里と開けたマチ
「堅田三方トハ宮切(ミヤキリ、キタウラ)・東切(ヒガシキリ、ヒガシウラ)・西切(ニシキリ、ニシウラ)他、今堅田ヲ加テ四方トス」(本福治旧記)
②琵琶湖の水運を掌握していた堅田
・堅田席:港湾利用料、湖上の関
・上乗権:堅田に所禄の船でなければ安全に通行できない。
「上下の船ニ海賊ヲカタルナリ、浦々ノ船モトヲリカネテ(通りかねて)、堅田ニヨキエンヲ一人ツ想定モテ(堅田によき円を一人ずつ定め持ち)、舟のヘサキ、ハタシルシノコトクヒラヲシアケテ、ソンチャウソコヘマイルフネト理(ことわり)テトヲレハ、相違ナクスルスルトトヲスホトニ」(本福寺跡書)
③下賀茂神社の御厨⇒供御人:琵琶湖のどこで漁をしても許される。
◎漁業・水運、商業も盛んで、「はなはだ裕福なる堅田と称するまち」(フロイス)
住民自治が発達していた。
2.坂本城
①織田信長は近江を掌握するため腐心
・永禄11年1(1568)織田信長、足利義昭を奉じて上洛を遂げる。
・宇佐山城 信長家臣森可成が守る。(近江仁ぐの裏山)
京都への通路を統制、滋賀郡の監視を目的とする
・元亀1年(1570)滋賀の陣
朝倉義景・浅井長政連合が湖西をなんかし、坂本周辺に陣を敷く。信長と対峙。比叡山、浅井・朝倉に味方。堅田の一部は信長につく。12月和議。
・元亀2年(1571)織田信長、比叡山を焼き討ちする。明智光秀は事前に工作。
「仰木の言葉は、ぜひともなで斬りに仕えるべく候」(明智光秀書状)和田家文書)
・元亀3年(1572)信長の命をうけて、明智光秀が坂本城を築城
・元亀4年(1573)班信長力が籠る今堅田城を、光秀らが攻略。浅井・朝倉滅亡。
②坂本城の役割・湖上水運の掌握=湖でつながる信長の城(安土城・長浜城・大津城)
それは豪壮絢爛なもので信長の安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは、天下にない。」(ルイス・フロイス『日本史』)
・城下町の進行:コナンの要港=京都の東の玄関口
・滋賀郡の安定支配
◎この役割は、羽柴秀吉の治世に引き継がれる。
3.大津城
①坂本城から大津城へ
・秀吉は、天翔14年(1586)、坂本から大津に城を移す。まちも引っ越し。
・大津百艘舟を組織し、琵琶湖水運を統制=港町として繁栄
・大津から京都(伏見)、大阪へという大動脈が形成される
②経済都市「大津」
徳川家康の治世になると、城は膳所に移され、大津は幕府柳領となる。
・東海道の整備により「宿場町」としての機能が加わる。
江戸時代の大津は、港町・宿場町として発展
・湖岸には、幕府はじめ、諸大名の蔵が立ち並び、コメを財貨に換金。
米相場が立ち、繁栄していた。
講演後の珈琲サロン 14:30~16:30