私の研究の目標は、格子QCDの数値シミュレーションを用いて、ハドロンの性質を明らかにすることです。
ハドロンとは、クォークとグルーオンが強い力によって束縛された複合粒子の総称であり、陽子・中性子・パイ中間子などがその例です。
クォークとグルーオンの振る舞いは量子色力学(QCD)理論によって支配されます。しかし、QCDからハドロンを調べるには紙とペンでの計算では困難であり、数値シミュレーションである格子QCDが不可欠になります。
格子QCDからハドロンの性質を理解することは、現代の高エネルギー物理学における中心的な課題の一つです。
私たちの身の回りの物質は原子(やイオン)の集まりでできています。
原子は電子と原子核から構成されており、原子核はさらに陽子(proton)と中性子(neutron)から成っています。
原子のスケールは約 10^-10m ですが、原子核はその約10万分の1の 10^-15 m(1 fm)程度と非常に小さなものです。
現代の素粒子物理学では、陽子・中性子はそれ以上分割できない「素粒子」ではなく、クォーク(quark)とグルーオン(gluon)が集まってできた複合粒子であることが明らかになっています。
クォークとグルーオンは、素粒子の標準模型における基本的な構成要素です。
クォークは全部で6種類(フレーバー)あり、軽いものから順に次のように分類されます:
また、クォークはそれぞれ「赤・緑・青」の3種類の色荷(カラーチャージ)を持ちます。
グルーオンはクォーク間で色荷を交換することで強い力を媒介します。
陽子は uud、中性子は udd という3つのクォークで構成されています。
クォークは単独では自然界に現れず、必ず色荷の合計がゼロ(カラーシングレット)になるように集まります。
これをカラー閉じ込め(color confinement)と呼びます。
光の3原色になぞらえて、
赤+緑+青=白(無色)
赤+反赤(シアン)=青+反青(黄)=緑+反緑(マゼンタ)=白(無色)
という組み合わせが実現します。このようにして生まれた粒子の集合体をハドロン(hadron)と呼びます。
ハドロンは主に2種類に分類されます:
バリオン(baryon):クォーク3つ
陽子(uud)、中性子(udd)
その他多数(Λ、Σ、Ξ、Ω など)
中間子(meson):クォーク1つ+反クォーク1つ
パイ中間子(udbar)
K中間子(udbar)
その他多数
現在までに実験で確認されているハドロンは、メソン約210種類・バリオン約170種類に上ります(PDG, 2021)。
クォークとグルーオンが複雑に絡み合ってできたハドロンには、いまだ解明されていない謎が数多く存在します。
クォークの質量は非常に小さく(アップクォーク:約2 MeV、ダウンクォーク:約5 MeV)、クォーク3つ分の質量の和は約10 MeV 程度に過ぎません。
しかし陽子の質量は約938 MeVであり、クォーク質量の和の約100倍もあります。同様に、パイ中間子の質量も約140 MeVと、クォークと反クォーク質量の約20倍もあります。
この質量の大部分はグルーオン場のエネルギーや、クォークの運動エネルギーから来ており、ハドロン質量の起源はQCDの非摂動的なダイナミクスと深く関係しています。
なぜクォークは単独で観測されず、必ず閉じ込められた状態(ハドロン)として現れるのでしょうか?
このカラー閉じ込めの機構は、QCDの最も根本的な未解決問題の一つです。
ヤン–ミルズ理論における質量ギャップの存在を数学的に証明することは、クレイ数学研究所によるミレニアム懸賞問題の一つとして挙げられており、賞金100万ドルが設定されています。
色荷の合計がゼロになる条件を満たせば、クォーク3つやクォーク+反クォークに限らず、クォーク4つ・5つといった多クォーク状態も原理的には存在できるはずです。
実際、近年の実験で中間子やバリオンでは表せないハドロンが相次いで発見されており、これらを総称してエキゾチックハドロンと呼びます。
代表的なものとして、クォーク4つからなるテトラクォーク、クォーク5つからなるペンタクォークなどが挙げられます。
しかし、これらが「多クォークが直接束縛した状態」なのか、「2つの通常のハドロンが弱く結合した状態」なのかは、まだ明らかになっていません。
その正体を解明するためには、ハドロン間に働く力を精密に決定することが不可欠です。
クォークとグルーオンの振る舞いを記述する基礎理論が、量子色力学(Quantum Chromodynamics:QCD)です。
QCDのラグランジアンは次のように書かれます:
ここで $\psi$ はクォーク場、$A_\mu$ はグルーオン場($SU(3)$ ゲージ場)、$G_{\mu\nu}$ はゲージ場の強度テンソル、$g$ はクォークとグルーオンの結合の強さを表す結合定数です。
結合定数 $g$ はエネルギースケールに依存して変化し、この性質を走る結合定数(running coupling)と呼びます。
高エネルギー領域では $g$ が小さくなるため、$g$ のべき乗展開(摂動展開)が有効であり、クォーク・グルーオンは漸近的に自由粒子として振る舞います(漸近的自由性:2004年ノーベル物理学賞)。
しかし、ハドロンが形成される低エネルギー領域($\sim 1$ GeV)では $g$ が大きくなるため、摂動展開が全く使えなくなります。
このため、QCDの紙とペンによる解析的な計算には根本的な限界があり、数値シミュレーションが不可欠です。
格子QCD(Lattice QCD)は、連続した時空を有限の格子状に離散化することでQCDを定義し、経路積分をモンテカルロ法で数値的に評価する手法です。
1974年にKenneth Wilsonによって提案され、現在ではQCDの非摂動的な性質を研究するための最も信頼性の高い第一原理計算手法として確立されています。
格子QCDによってこれまでに次のような成果が得られています:
ハドロン質量の高精度計算:陽子質量の計算精度は2%以下に達している
核力(核子間ポテンシャル)の研究:陽子・中性子が引き合って原子核をつくる根源の解明
QCD相転移の研究:高温・高密度でのクォーク・グルーオン・プラズマへの転移
フレーバー物理:B中間子崩壊などの素粒子実験の理論的基盤
格子QCDの計算は非常に大規模です。
4次元時空格子上のクォーク場・ゲージ場の自由度を全て扱うため、高精度な計算にはスーパーコンピュータが必要です。
例えばあるハドロン質量の精密計算では、高性能パソコンで計算すると約10年かかるものが、スーパーコンピュータでは約1日で完了します。