理論物理学、中でも弦理論の量子重力理論としての側面を研究しています。特に、ホログラフィー原理と呼ばれる考え方を、量子情報量を用いたアプローチを通して深く理解することが当面の目標です。
熱力学の法則が重力を含むような系で成り立つことを要求すると、一般相対論におけるブラックホールのような極限的な物体(時空)も、熱力学的なエントロピーを持っている必要があります。そして、興味深いことに、ブラックホールのエントロピーはその体積ではなく、表面積に比例することが知られています。このような事実から、重力を含む系のミクロな記述は、より低い次元の空間に住む量子多体系と同様な自由度で説明できると期待されるようになりました。このような考え方のことを、ホログラフィー原理といいます。実際、量子重力理論の有力候補である弦理論において、このホログラフィー原理の具体例(AdS/CFT対応)が発見されています。ホログラフィー原理の考え方は、従来技術的に困難であったダイナミカルな時空も扱える枠組みを提供するという点で、将来的な宇宙論などへの応用にも重要な考え方です。
弦理論で見つかった具体例を通して、ホログラフィー原理が一般にどのように成り立つかを理解することが当面の目標です。特に最近では、量子情報理論の考え方を応用して、この問題へ取り掛かっています。また、ホログラフィー原理のもとでは、「量子重力と一般相対論」の関係は、「量子多体系と熱力学」の関係の一例ということができます。したがって、物性物理や統計物理などの視点に立って、この問題を理解することにも興味があります。
AdS/CFT対応において、場の理論のエンタングルメント・エントロピーと重力理論の極小曲面と呼ばれる幾何学量の面積に対応関係(笠-高柳公式)があることが知られています。重力理論において、より一般の幾何学量を考えることができますが、これは場の理論において何に対応しているのでしょうか?
このような考察から、時に今まで知られていなかったような量子情報量を見つけることが可能です。一度見つけた量子情報量たちは、任意の量子系に対して定義できます。これらの情報量を用いた考察は、AdS/CFT対応(ホログラフィー原理)の理解を深めることはもちろんのこと、様々な文脈へ応用が可能です。
エンタングルメント・エントロピーの混合状態への一般化として、オッド・エントロピーと呼ばれる量を発見しました。特に、その重力双対が entanglement wedge cross-section と呼ばれる極小曲面の一般化になっていることを、場の理論の計算から初めて示しました [1809.09109]。その後、オッド・エントロピーの基礎的性質やAdS/CFT対応・他分野への応用についての研究を行ってきました:
・自由スカラー場の理論など場の理論での解析を通して、オッド・エントロピーの一般的な性質を調べました。また、オッド・エントロピーを用いると、リフシッツ型の固定点における動的臨界指数の偶奇を定性的に判定できることが分かりました [2004.04163]。
・量子クエンチや高エネルギー状態の解析を通して、オッド・エントロピー(やその後他のグループが発見した反射エントロピー)が可積分性の判定や固有状態熱化仮説の詳細な理解へ応用できることが分かりました。これらの知見は、ある種のブラックホールの微視的状態に対しても新しい解釈(Holographic CFTにおけるheavy primary operatorの重力双対は、ホライズン上で時空が終わっている)を与えています [1907.06646][1909.06790]。
エンタングルメント・エントロピーには、 LOCC と呼ばれる局所的量子操作と古典通信のもとで 外部へ蒸留できる EPR ペアの数、と言う操作論的な意味づけが存在します。密度行列を事後選択(post-selection)した状態へ拡張した遷移行列に対して、 擬エントロピーと呼ばれる情報量を新しく導入しました [2005.13801]。 擬エントロピーは、少なくとも特定の qubit の系で、事後選択を行った場合に蒸留できる EPR ペアの数と一致することを示しました。特に、擬エントロピーがホログラフィーの文脈ではEuclidean符号の曲がった時空における最小曲面の面積と等価であることを明らかにしました。
・事後選択を行うため、一般には初期状態と終状態のエンタングルメント・エントロピーの値よりも擬エントロピーの値は大きくなる場合があります。このような特性を利用することで、擬エントロピーを用いた量子相の分類ができる可能性も示唆されています [2011.09648][2106.03118]。
・上述の擬エントロピーの増幅現象は、弱値の増幅現象と非常に類似しています[2206.14551]。
・エネルギー・スペクトラムの対相関を定量化する量として、spectrum form factor と呼ばれる量が (量子重力をふくむ) 様々な文脈で注目されています。擬エントロピーをこの spectrum form factor の部分系への一般化とみなせること、すなわちエンタングルメント・スペクトラムの特徴づけに使えることを提案しました [2109.00372]。
ブラックホール自体が古典的にも量子論的にもとても興味深い研究対象です。ブラックホールの特異点はどうなっているか、蒸発するとどうなるか、どんなブラックホールが存在しうるか、色々な面白い問題が考えられます。
一般相対論において、ブラックホールの外にいる観測者はブラックホール内部がどうなっているかを知ることが出来ません。同様に、AdS/CFT対応においても、境界の場の理論 (CFT) からブラックホールの内側の情報を読み取ることは非自明な問題です。
・Timelike entanglement と呼ばれる擬エントロピーの一種から、ブラックホールの曲率特異点の情報をどこまで/どのように読み取れるかを調べました。また、簡単なモデルにおいて通常のホログラフィックなエントロピーの計算で前提となっている、単一の鞍点が寄与する、という仮定を満たしていない状況があることを指摘しました [2406.10968]。
Einstein 方程式の4次元球対称な真空解を考えると Schwarzschild 解に限定されるというBirkhoffの定理は有名ですが、対称性の条件を外したり次元などを変えると色々なブラックホール解が考えられます。
・AdS/CFT対応を使って、CFT側の並進対称性を壊すような変形を加えると、AdS側のブラックホールを文字通り変形することができます。このようなブラックホールの性質やダイナミクスについて調べました。また、このような変形のもとで、AdSとCFT双方で従来期待されている性質がどこまで保たれるかも非常に興味深いです [2112.14388][2302.08009][2310.19376][2406.06121]。
量子重力理論において、グローバル対称性は存在しないという期待があります。この期待を裏付ける理由の1つが、ブラックホールの蒸発する過程の定性的な考察です。
・この議論をより定量的に行うために、qubit の模型を使って、対称性の破れが量子情報量(symmetry resolved entorpy )の性質にどのように影響するかを解析しました [2206.09633]。
熱力学的なエントロピーは統計物理において微視的な状態の数え上げとしても理解できました。では、ブラックホールのエントロピー、すなわち面積を説明する微視的な自由度は何でしょうか?より一般に、時空を記述する微視的な自由度は?量子重力を理解する上で本質的に重要な問いです。
一般に、エンタングルメント・エントロピーの計算などで部分系を定義することは、そこに境界を導入することに相当します。ゲージ理論や重力理論に対してこのような部分系を定義すると、無限遠方における漸近対称性のように、境界に対称性(物理的なラージ・ゲージ変換の自由度)が出現します。このような対称性を担う自由度のことを、しばしばエッジ・モードと呼びます。このエッジ・モードたちのエンタングルメントは重力理論のエントロピーの面積項を説明する上でも本質的な役割を果たすと期待されています。重力理論のエントロピーの面積項は、ホログラフィー原理の出発点でもありました。エッジ・モードの研究は、ホログラフィー原理をより構成的に理解する上でも重要な役割を果たすと期待しています。
・重力理論におけるエッジ・モードのエンタングルメント・エントロピーが重力エントロピーの面積項を説明することを (1) 古典重力 (2) AdS/CFT対応 (3) 摂動的弦理論の3つの観点から議論しました [1912.01636]。
・このようなエッジ・モードは非可換ゲージ理論においても重要な役割を果たします。2次元Yang-Mills理論における解析を通して、ゲージ理論におけるエッジ・モードの物理的な解釈を明確にしました [1705.01549]。
近年のブラックホール情報喪失問題の理解の進展により、ワームホールの重要性が再認識されてきました。低エネルギーの重力理論は、単一の場の理論ではなく、場の理論たちのある種の統計平均である可能性が議論されています。この可能性から得られる新しい視点や従来の考え方との関係性を理解することにより、量子重力の理解が進むと期待されています。
・従来のAdS/CFTにおいて、空間的なワームホール (Einsten-Rosen bridge) は場の理論におけるエンタングルメントによって構成されると考えられています。しかし、低エネルギーの観測者(低エネルギーの観測可能量)は、時に場の理論の古典相関を Einsten-Rosen bridge と錯覚する場合があることを指摘しました [2108.08308]。