明治30年代の熊本といえば,熊本市発展の基礎を築いた功績で辛島町の名を残した辛島格が市長に就任(1897明治30年〜1913大正2年,3期16年)した時代である.特筆すべきは.山崎町にあった第6師団練兵場を交渉により移転させ,市街地を整理拡張することに成功した.夏目金次郎が五高の教師として赴任したのは前年の明治29年である.
当時にタイムスリップするため地図が見たくなり,当時の地図を探していたら,今昔マップ(埼玉大学教育学部社会講座人文地理学 谷謙二研究室提供)が存在することがわかった.1900年の測量地図と現在の地図を連動して見ることができるすぐれものである.
以下の今昔地図を見てほしい.左は1900年,右が現在の地図である.
次図は1926年の地図である.兵舎や練兵場は渡鹿へ移転したことがわかる.
夏目金之助が第五高等学校の英語教師として赴任したのは明治29年,池田(上熊本)駅で列車を降りて,黒髪村にある友人宅(菅虎雄)へ向かった.次図は第五高等学校,黒髪村宇留毛周辺の地図である.
上熊本駅は,九州鉄道が熊本まで開通した明治24年(1891年),当時の池田村に設けられたため,池田駅と名付けられ,明治34年に上熊本駅と改められた.上記の地図では「かみくまもと」と記載されている.明治29年4月,夏目金之助は池田駅に降りたことになる.京町本町への坂を登り,新坂を下り黒髪村宇留毛の友人宅へ向かった.1900年の地図からはそのことが読み取れる.
なお,「下通の光琳寺の知り合いの家に居候しながら家を探したという」という説は間違いである.現在,ホテルサンルートの入り口に記念碑があるが,これは第一旧居跡である.
現在,内坪井の旧居跡と上熊本駅を結ぶ道筋は「我輩通り」(右下図の左上から右下への黄色線)と名付けられているが,当時そのような通りは存在しなかった.
地図からわかるように,熊本城のある茶臼山と京町台地は地続きであった.明治44年に電車用のトンネルが掘られた.さらに大正12年には掘り下げて台地を切り離し下に道路を通した. その際,新堀橋と磐根橋が架けられ現在に至っている.平成8年夏目漱石来熊100年を記念して,県道鈴麦線(藤崎宮~広丁~上熊本駅~崇城大学)に『わが輩通り』という名称がつけられた.
市電は敷設されていない.熊本市電は1924年(大正13年)8月1日に開通した.1926年の地図にはそれが描かれている.
明午橋と安政橋の間にある大甲橋は存在していない.
1926年の地図には大甲橋は描かれている.
懐古趣味と言われるかもしれないが,いろいろな事柄は時代の変化を考慮しないと理解できないことが多い.年寄りの備忘録として掲載した次第である.
(2023.3.10)