駒留八幡神社

東京都世田谷区上馬鎮座(環七 駒留陸橋のそば)

上馬、三軒茶屋、駒沢(1~2、3の一部)の氏神様

御祭神

  • 天照大御神

  • 応神天皇(八幡大神)

主な祭事

  • 1月元旦 歳旦祭

  • 2月11日 紀元建国祭

  • 4月第三日曜 戦没者慰霊祭

  • 6月28日 夏越大祓

  • 10月15日 例大祭神事

  • 10月第3日曜を含む土日 例大祭神賑行事「こまどめまつり」

  • 11月23日 新嘗祭

  • 12月28日 大祓

  • 毎月1日 月次祭

駒留八幡神社御社殿

鎮座の伝承

駒留八幡神社は天保年間(1830~1843)の江戸名所図絵に駒留八幡神社の別の呼び方だった若宮八幡宮の記述があります。また祀られている御尊像の背面にある銅版には、この地方の領主だった「北条左近太郎入道成願」が1308年に奉斎したものだと書かれていて、実に今から七百年以上も前に造営された事がわかります。この「北条左近太郎入道成願」は鎌倉幕府から領地を頂いて世田谷に住んでいました。左近太郎入道は次第に開かれていく村の中心となる神社を建てようと常日頃から考えていたある夜のこと、夢に八幡様が現れ「太郎よ、私が祭られたいところはお前の愛馬白雪に聞け」と言われ、翌朝白雪に乗り、たずなを執らず自由に歩き回らせたところ、ある場所で立ち止まりました。太郎入道はここが八幡様のお告げの場所に違いないと考え立派な神社を建てました。これが今の駒留八幡神社で「駒留」の名前の由来ともなったと伝えられています。


慶長14年(1609)この地が大久保氏の領地となり、駒留八幡神社を上馬の鎮守様と崇め、神社の維持に力を注ぎました。天和2年、社前の石段の修理と社殿を寄進しましたが、冒頭の御尊像経筒はこのときに発見されたと言われています。


更に時代は進み明治5年10月に村社となり、明治40年8月駒留八幡宮と改称、明治42年7月、三軒茶屋にあった天祖神社(御祭神 天照大神)を合祀しました。そして戦後の宗教法人法改正のとき一般的に呼ばれていた駒留八幡神社と改称しました。

厳島神社(常磐弁財天)、常磐姫とさぎ草伝説

室町時代時代末期、上馬の地は世田谷城主七代目吉良頼康公の所領となっていました。この頼康公に一番信頼されていたのが、奥沢城城主大平出羽守でその愛娘が常盤姫でした。

ある日、頼康公は鷹狩の際、奥沢の近くで足に短冊を付けた一羽の鷺を捕まえました。短冊を見た頼康公は、その美しい筆跡を見て、この人に会いたいと小姓の天王丸に探させました。探し疲れた天王丸が等々力の谷に降り喉を潤している時、一人の若侍が「我が君の放した鷺を知りませんか」と聞きました。それで短冊の主は奥沢城の常盤姫と解ったのです。

頼康公には複数の側室もありましたが子供は無く、なんとかして源氏の血筋を子孫に伝えるため、美人の評判の高い常盤姫にお側に来てもらいたいと大平出羽守に強く申し入れしました。お城に入った常盤姫はその美しさと優しさから頼康公の寵愛を一身に受け、公が一番望んでいた子供も宿しました。側室達は若君が生まれれば城から出されてしまうと、嫉妬と恐怖から常盤の方を追い出す為、城中一の美男である内海掃部と恋仲だと、頼康公に告げ口をしたのでした。はじめは信じなかった頼康公もついには常盤の方の言い訳も聞かず殺そうとしました。常盤の方は奥沢城の両親に、無実の訴えと、助けを求める手紙を白鷺の足に付け放しましたが、折からの風雨に力尽き奥沢城近くの沼地に落ちてしまいました。死んだ白鷺を見つけた村人は丁寧に葬り、手紙を奥沢城に届けましたが、間に合いませんでした。常盤の方は、共二人を連れ世田谷城を抜け出しましたが、上馬の地で追っ手に捕らえられ、妊娠八ヶ月の身で自害して果てました。

翌年あの白鷺を埋めた所を中心に、白鷺の舞い立つ姿にそっくりな花が一斉に咲き出しました。人々は常盤姫を偲びこの花を鷺草と名付けたのでした。

厳島神社(常磐弁財天)

厳島神社(常磐弁財天)

やがて、常盤の方の無実は証明され弁財天として祭られました、その弁財天は戦争直後迄、駒留八幡神社前の池の中島に祀られていましたが、現在は駒留八幡神社の境内末社に、厳島神社として祀られています。常盤の方と共に非業の死を遂げた頼康公の子は頼康公により駒留八幡神社に相殿として祀られ、若宮八幡宮と称し、田畑を奉納しその追福が祈願されました。

参考文献

「世田谷城下史話」人見輝人著

「ふるさと世田谷を語る」世田谷総務部文化課行政発行