1700年頃、バルトロメオ・クリストフォリがグラーヴェチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテを発明。
1770年代初期、米国でピアノが見られるようになる(英国から渡来)
1797年、ハインリヒ・エンゲルハルト・スタインヴェクがドイツの北西部ウォルフシャーゲンに生まれる。祖父は炭焼き職人、父は林務官だった。ナポレオン戦争で幼くして孤児となり、その後入隊してワーテルローの戦いに参加した。
21歳で家具職人を目指すようになり、木工の見習いとなる。その後、オルガン製作にも興味を持ち、見習いを始めてからオルガン演奏も習い、教会オルガニストとなる。
1825年、資産家の娘ユリアン・シーマー(Juliane Tiemer)と結婚してゼーセンで暮らす。その結婚式では自作のスクエアフォルテピアノを披露した。
1829年、自宅を購入。1835年に自宅の台所で本格的にピアノの製作を始める。
1836年、「キッチンピアノ」を製作。全てオリジナルの部品で組み立てられ、スタインウェイ製造番号1番となる。
1839年、ブラウンシュヴァイク公国の商品見本市にグランドピアノとスクエアピアノを出品し、1位を獲得。この見本市では、長男セオドア(Christian Frederick Theodore 1825-1889)がピアノを演奏し、スタインウェイのピアノの素晴らしさを実証したことが受賞につながったという。出品されたピアノの1台をブラウンシュヴァイク公が3000マルクで購入したことで、ハインリヒは一躍有名になった。スタインウェイはゼーセンで計482台のピアノを製作して周辺の地方に出荷。うち1台は今もメトロポリタン美術館(ニューヨーク)に展示されている。当時のドイツは情勢が不安定で、ハインリヒはピアノ作りで12人を養わねばならなかった。
1849年、先にアメリカに渡りピアノ業界を偵察していた次男チャールズは逐一手紙でその様子を報告していたが、ニューヨークへの一家での移住を勧める。当時のニューヨークにはドイツ系アメリカ人社会があり、真面目でよく働くドイツ人が雇ってもらえるピアノ工場がたくさんあり、徴兵制度がなかった。
1850年6月9日、政治的・経済的に安定した環境を求め渡米。セオドアはゼーセンから引っ越し、ホルズミンデンでヴァイオリンの修理やピアノの調律を行なった。
当時、マンハッタンだけでも30以上のピアノ製造工場があった。カール(チャールズ)はドイツに残った長男セオドアに宛てた手紙で「ニューヨークとボストンにそれぞれ200のピアノ製造工場がある」と記している。実際、当時のアメリカには204軒のピアノ店があり、特にニューヨークやボストンに集中していた。
家族皆で様々な工場に働きに出て、独立開業のために資金を貯めた。ヘンリー(ハインリヒ)はライト・ニュートン&ブラッドベリー社工場でドイツ製ロイヒトの響板を作った。ヘンリーJrはNYフィルのコントラバス奏者でピアノ製作者であるジェームス・ピアソン(英国人)のもとで鍵盤を作った。チャールズ(カール)と四男ウィリアムはウィリアムナンズ&カンパニーで働くも、会社はすぐに倒産した。
工場勤務でニューヨークのピアノ製造について技術と情報、アイデアをつかんでいった。その中には単一鋳造や交差弦も含まれており、後にこれに独自の方法を加えたピアノを発表することに繋がった。
※ウィリアムナンズは吸収合併されて、ナンズ&クラーク社となる。ウィリアムは給与を放棄し、その後は経営者の生活のために年金を払い続けた。友人のクローバー・クリーブランドが三度目に大統領選挙に立候補した時にも、スタインウェイホールを提供し、演説会を行うなどの協力もした。共通の友人の紹介でゴットリーブ・ダイムラーの自動車販売会社も設立した。ウィリアムは同社の1891年製内燃エンジンのアメリカにおける権利を一時保有、彼がアストリア(NY)で作ったヨットやモーターカーに使われた。ロングアイランドに工場を移転させた後、従業員の通勤の便になることもありフェリーを就航させた。そのフェリーではレジャーの人も輸送した。鉄道(地下鉄)やバス事業の経営に乗り出したこともあった。友人らへの協力や会社としての事業拡張は、結果としてニューヨーク市の産業発展に寄与することとなった。
1853年、NYマンハッタンのVarick Streetにあるロフトでスタインウェイ&サンズ社を設立。同年にベルリンでベヒシュタイン、ライプツィヒでブリュートナーが創業。
商売のために英語風の苗字(スタインウェイ)に変える(1864年までは法律上はスタインヴェクを使用)。ヘンリー、チャールズ、ヘンリーJr,(Henry Jr. 1830-1865)、ウィルヘルムはウィリアム(William Steinway 1835-1896)、アルブレヒトはアルバート(Arbert 1840-1877)。
ヘンリーは設計長、ウィリアムが響板の接着、チャールズがアクションと調律、ヘンリーJr.がアクションの仕上げと研磨を担当した。ヘンリーは息子たちに厳格にピアノ作りの哲学を教えていった。息子たちは職人としての優れた技術と才能、音楽的要素を備え、技術革新に対して強い意欲を持っていた。
父親と4人の息子たちで1週間に1台のペースでピアノを製作した。米国で最初のピアノは製造番号483がつけられ、500ドルで販売された。
1854年、NY工場開設。メトロポリタン職工協会展(ワシントンD.C.)に出品したセミグランドが優秀作品賞を受賞。
この頃ピアノ販売台数は74台で、一家総出に加えて5人の助手を雇い、週2台ピアノを作りながら、不況下でも支払いを怠らずに信用を高めていった。のちに従業員を8〜9人置いて製造を始め、販売促進にも力を入れて年間100万ドルと売り上げを伸ばし、1日5台の生産へと拡大させていった。
アメリカでは消費欲の強い中流階級が台頭し音楽文化が浸透したため、家庭には客間の必需品としてピアノが置かれ、中流階級の女性は上品なイメージからこぞってピアノを習うようになっていた。
1855年、クリスタルパレス世界博覧会(NY)で金賞受賞。
「素晴らしい音の力、低音部の深みと豊かな音、中おんぶの柔らかさ、そして高音部の輝かしいまでの純粋さ」と表現されるスクエア・ピアノを出品し、満場一致で金メダルを獲得した、これらのピアノはヘンリーJr.の設計によるもので、彼は一体型鉄骨、グランドピアノの交差弦方式、ダブルエスケープメントアクションの改良を進めた。
1856年、ピアノの販売台数は208台、売り上げは1854年の3倍となる。
置き場所を取らないスクエアピアノは米国の中産階級にヒットし、米国のピアノ市場シェア9割を獲得。
同年のクリスタルパレス博覧会(英国)ではチッカリング社に負け、銀メダルしか獲得できなかった。これにより変更と改良を続け、大ホールに十分な音量明瞭な音色、速くて繊細なタッチを実現するグランドピアノに仕上げるよう開発を進めた。
1859年、ヘンリーJr.がグランドピアノの交差配弦の特許を取得。またヘンリーJr.はコンサートでピアニストにスタインウェイを弾かせる案(後のスタインウェイ・アーティスト制度)を考案する。
<当時の技術革新>
イギリス式アクションを持つエラール社(フランス)のピアノをモデルとして製作を開始したが、スクエアピアノにそれまでの木製プレートに変わって金属プレートを採用し、音量が大幅に増大。これは米国の1850年以降の鋳造技術の発達の恩恵でっもあった。木製プレートや複数の金属ブロックでできたプレートは弦の強度に長時間耐えることができなかった。1825年にバブコックが開発したスクエアピアノ用の一体鋳造の金属プレートで力強い音が出せるようになってはいたが、鋳鉄は薄い金属音になりがちだった、ヘンリーJr.は金属フレームを改造し、プレートの形を変えて金属性の音を取り除くとともに、1828年にすでにアンリ・パパによってアップライトで試されていた交差弦を1859年に初めてグランドピアノにも適用させた。
ハンマーの動きを速く簡単に繰り返せるように、アクションの反応も改良した。
当時の米国ではヨーロッパと違ってまだ音楽ホールも少なく屋外での演奏が多かったことや、ヨーロッパから遠く離れていたために、ヨーロッパでの伝統や図面に手を加えて革新していくことに気兼ねがいらなかったことが、大きな音の出る楽器を作らせる要因となったという。
<マーケティング戦略>
1860年前後にスタインウェイが米国で注目していたのは音量のあるチッカリング社のピアノであった。1850年代からはアメリカでも数千人を収容できる大きな音楽ホールが建設されるようになったが、当時のホールの音響は良くなかったこともあって、より音量の大きいピアノが必要になっていた。
この頃チッカリング社では音楽家がピアノを保証するという宣伝方法を始めていた。当時著名なピアニストであったギスモンド・サルバーグが米国でのコンサートツアーを行なった際には、各都市に選定したピアノを出荷し、ディーラーがその楽器を必要な場所に運んでコンサートホールでは無料で調律した。ディーラーはコンサートの前にピアノを展示し、演奏後にはショールームで販売用に展示していた。そこで1859年にはスタインウェイも同様に、ヨーロッパの著名なピアニストにピアノの品質保証を依頼していった。コンサートではピアニストにスタインウェイのピアノを弾かせ(ヘンリーJr.のアイデア)、スタインウェイ・ホールはNYの文化生活の中心として重要な役割を果たすようになっていった。ウィリアムはロシアのアレクサンドル2世、銀行家ロスチャイルドにもピアノを売るなど、自らマーケティングの才覚を発揮していた。
※南北戦争(1861-1865)までに米国で製造されたピアノの97%がスクエピアノだった。「スクエアピアノは室内楽にも好まれて使われたが、コンサートのためにより頑強なピアノが必要とされるようになった(スタインウェイ社NY工場品質ディレクターRobert Berger氏)」背景もあり、スタインウェイではグランドピアノを主力製品と考えていた。
1860年、マンハッタン北側に工場を移転し、手工業から工場体制へと転換を図る。大規模な蒸気の力を利用した木工工場の設立は、ボストンのチッカリング社に次ぎ、NYでは始めてだった。新工場には350人の工員を雇い、新技術の導入でスクエアピアノを週30台とグランドピアノ5台を製造した。NYのスタインウェイではグランドピアノを主要製品と位置付けていた。
1862年、始めてアップライトピアノを生産。
ロンドンで開催された博覧会に初参加し、交差弦式グランドピアノが金賞受賞。ヨーロッパのメーカーとともに受賞8メーカーに含まれたことで、全米トップのメーカーとして認識されることになった。最高金賞はピアノ製造で当時最高の技術をもつとされていた英国のブロードウッド社に与えられた。その後もピアノの改良を進め、弦の張り方を変え、それに見合う響板と鍵盤も作ったため、スタインウェイのピアノは画期的な響きを有するようになった。
1863年、工員は400人に増え、1623台のピアノを製造。生産高は増加したものの、経験不足の労働者を大量に雇用したため、生産性は必ずしも高まらなかった。
1864年、スタインウェイホールのショールーム部分が完成。ウィリアムは1864年にマンハッタンの音楽地区を中心にスタインウェイのピアノ100台以上を展示する優雅なショールームを設立。
1865年、34歳のヘンリーJr.と36歳のチャールズが相次いで亡くなる。
ブラウンシュヴァイクでピアノ製造会社を続けていた長男のテオドールがドイツから呼び戻された。(ブラウンシュヴァイクでの事業はグロトリアン、ヘルフェリッヒ、シュルツの3人の従業員に売却され「C.F.セルドア・スタインヴェグの後継者」の名で10年間会社を継続させることを許可した。
それまで実際のピアノ製作には携わらずに事業拡大に尽力していた30歳のウィリアムが、共同経営者として会社を取り仕切るようになり、その後31年間に渡り采配をふるってスタインウェイの名を広めていった。
テオドールは兄弟の中でも最も優れた技術者と言われているが、ゼーセンのヤコブソンカレッジで音響学を学んだ経験もあり、親交のあった物理学者ヘルムホルツの音響理論を基礎にピアノの音色を科学的に分析した。
ウィリアムは職人気質の父ヘンリーとは異なり、ピアノを弾いて音楽を愛し、オペラやオーケストラ、ピアニストのパトロンでもあった。スタインウェイの顧客と同様に邸宅に住み、上流階級の友人を持ち、スタインウェイの宣伝となるように友人の応接間に置くスタインウェイのピアノを購入させた。
スタインウェイでは、それまでの職人の勘に頼る製作から脱却し、音響学に基づく科学的根拠を求めながら、世界のトップアーティストをうまく利用したマーケティングにより、ヨーロッパのメーカーに変わって世界のトップメーカーとしての地位を確立していった。
1866年、NYに2000人収容にスタインウェイホール完成。
スタインウェイの楽器が100台並ぶショールームを顧客が必ず通って育代うに仕向けた。これはパリでプレイエルやエラールが行っていた方法でもあった。
1867年、パリ万博でピアノメーカーとして初めて1等を獲得。グランドピアノ3台とアップライトピアノ2台を出品し、金賞2つと最高金賞1つを獲得。
1870年、作業を分散させ労働組合の運動を抑制させる目的でイーストリバーの対岸のクィーンズに第2工場設立を決定。
1871年、ヘンリーが亡くなる。その後、ウィリアムが亡くなる1896年まで会社を率いる。
ウィリアムは英語とドイツ語が流暢で、ピアノ作りの技術とビジネスセンスにも恵まれた。ウィリアムは「人はピアノを買う前に、まず音楽愛好家にならねばならない」と気づき、人気ピアニストを米国に招きNYのスタインウェイホールを皮切りに全米ツアーを行う案を思いついた。
<コンサート&アーティスト部門>
1870年代、コンサート&アーティスト部を設置。スタインウェイ・ホールを5万ドルかけて改修し評判を高めたこともあり、ウィリアムはアントン・ルービンシュタインとヴァイオリンの名手ヘンリク・ヴィエニャフスキの巡回公演を企画して成功を収めた。コンサート&アーティスト部門では演奏旅行の手配、ギャラの最低保証など演奏家のマネジメントを手がけた。のちにはクラシック音楽を普及させる目的でイグナス・パデレフスキーに米国内の小さな都市で演奏させ、国民の音楽に対する意識を高めていった。同様に多くのアメリカ人がピアノに手が届くようにし、購買につながる布石とした。
1872年、アントン・ルービンシュタインの全米ツアー。総計215回の演奏会を通じて、スタインウェイのピアノを宣伝。
1873年、世界恐慌。万国博覧会(ウィーン)。
ドイツ66社、オーストリア48社が参加したのに対し、英国のメーカーは2社にとどまった。ベーゼンドルファーも金属フレームを採用。プレイエルもスタインウェイを意識した新モデルを出展するなど、スタインウェイの金属フレームや交差弦はヨーロッパのメーカーでも採用され、「スタインウェイ・システム」と呼ばれるようになった。以降、世界のピアノメーカーはスタインウェイに倣うようになり、ヨーロッパのピアノ製造の伝統が米国の技術革新に屈服する形となった。
クィーンズの第2工場に製材所、鉄・銅の鋳物工場。金属工場を建設。河岸には輸送施設、大量の材木を保管する貯木用の溜池をもつ工場となった。
ドリル作業、仕上げ、鉄フレームの仕上げ用に蒸気機関を備えた工場も建設された。これによって、鍵盤の象牙以外の全ての部品が自社工場で生産されるようになった。
1874年、ソステヌートペダルを完成。アルバートがソステヌートに関する4つの特許を取得。
<ビジネス>
クィーンズを企業城下町とする構想から、従業員のための住宅、教会、私設警官などを整備した。労働者の管理、不動産収入が主な目的だった。1881年までに130軒もの住宅が建てられたという。
ビレッジの社会インフラも整備していった。1873年の恐慌でNYが壊滅的な経済状況となり、ピアノ産業も停滞し、工場も半分しか稼働できなくなり生産も売り上げも低下した。スタインウェイも初めて赤字を出したことで城下町構想の勢いは失われていった。それでも1895年にはアストリアは人口7000人の独立したビレッジとなり、住民はスタインウェイにより何らかの恩恵を受けていた。
賃金カットに不満を持つ従業員のストライキが続き、優秀な工員の多くが高い賃金の工場に移る事態も起こった。それでも1882年にはフランツ・リストのピアノを製作するなど、スタインウェイは不動の名声を築き、1880年台には莫大な利益をあげて富を築いたが、リスクを恐れない起業家だったウィリアムはさまざまな企業に投資しており、不景気の中でスタインウェイの経営は困窮していた。
次に社長となったチャールズ2世(Charles Herman Steinway 1857-1919)は、ウィリアムの兄チャールズの息子で、弟のフレッドが工場長、従兄のヘンリー・ツィーグラー(Henry Ziegler Steinway 1915-2008)が研究責任者になった。
1875年、ロンドンにスタインウェイホールが完成。
米国市場を手に入れたウィリアムはヨーロッパ市場獲得に着目し、英国に焦点を当てた。ロンドンのAnglo-Continental Pianoforte Limitedを通してピアノを販売した。ロンドンのスタインウェイホールとヨーロッパ全体の統括を任されたテオドールは一族と緊密に連絡をとりながら、NYの標準に従い同型の製品ラインナップをドイツで製造した。
1877年、Anglo-Continental Pianoforte Limitedを買収してスタインウェイ&サンズを設立。スタインウェイホールとしてヨーロッパにおけるNY工場のショールームに位置付けた。
1880年、テオドールとウィリアムは、自由港で関税がかからずヨーロッパや南米への航路があるハンブルクに、古いミシン工場を借り受けヨーロッパの製造拠点を開設。
<ハンブルク工場>
ヨーロッパの販売に向けて環境の違い(湿度など)に対応。為替レートや米国での労働賃金の上昇、配送コストなどを考慮して約45%安くロンドン支店に供給できると考えられた。1902年まではNYから送られてきた完成部品を使って組み立てていた。
1888年、ハンブルク工場で年550台を製造。
1890年代、金融暴落により経営が悪化
1891年、パデレフスキの全米ツアー。ウィリアムがマネジメントを行い、ツアーでスタインウェイピアノを宣伝した。
1896年、ウィリアムが亡くなる。NYタイムズ紙は社説で彼の功績を称え、市長は半旗を掲げて死を悼んだ。
1897年末頃から景気回復の波に乗り、ラグタイムの流行や映画館で映画に合わせてピアノが演奏されるようになり、ピアノ市場が拡大したこともあり、経営が上向きになる。
1900年までに、ロンドン・NY・ハンブルクにショールームを設け、ディーラー(特約店)のネットワークを世界に広げた。スタインウェイ・アーティストの名簿も作成した。またレイモンド・ルビカム(コピーライター、広告代理店N.W.エアー社)による有名な広告「不滅の楽器ーInstrument of the Immortals」を発表。
<スタインウェイ・アーティスト>
スタインウェイピアノを愛する。
スタインウェイピアノの優秀性を公に発言する。
コンサートではスタインウェイピアノを自ら選んで弾く。
を条件とした。
1901年、ディットマーズ工場を設立。クィーンズ工場(ライカー工場)から数マイルのところにあり、より空気が乾燥していた。ここでは最終組み立て、ケースの仕上げ、鍵盤とアクションの調整などが行われた。
1903年、ハンブルク工場では375人の工員で年1100台のピアノを製造するようになる。10万台目をルーズヴェルト大統領用に製造し、宣伝に使用した。
1907年、ドイツで金属部品に関税がかけられ、鉄骨フレームを現地で調達するようになる。
1909年、ベルリン工場建設
1911年、M型モデルが好評となり、1912年にはM型モデルの生産量が急増し、スタインウェイ全体の利益の半分を占めるようになる。
1914年、アクションのパーツもドイツで賄われるようになる。
ヨーロッパではアップライトピアノの人気が高く、NYで生産されていたスクエアピアノは製造されなかった。
<第一次世界大戦(1914-1918)>
ハンブルク工場は生産台数が激減し閉鎖状態となり、戦争に行った工員に代わって工場には女性が多くなる。ハンブルク、ロンドンでの利益は上がらずヨーロッパでは損失を出したが、戦争で繁栄する米国では回復してきていた。戦争中はNYとハンブルク工場はそれぞれの国のために貢献することになり、相互の情報は絶たれた。戦時中、工場では軍需品を製造し、戦後はピアノの生産を再開した。
1919年、社長のチャールズ2世が死去、弟のフレッドが社長となる。
フレッドは幼少時代をドイツで過ごし、スタインウェイで見習いをしたこともなかった。副社長のヘンリー・ツィーグラーと彼の甥のセオドア・カセベールが工場長となっていた。フレッドとツィーグラーは親友で、1920年までパートナーとして会社を経営した。
戦後、米国ではピアノが急速に普及した。中でも人気のある自動演奏ピアノには、多くの企業が参入してきていた。
戦後の小型のピアノを生産するための効率化をセオドア・カセベールに依頼し、リムを曲げる新しいプロセス、合板技術を改良する新しい機器の開発、TCラッカーの開発による乾燥時間の短縮化、製造工程の見直しなどを行った。
1925年、ハンブルクで1200台のピアノを生産するようになる。マンハッタンに新スタインウェイホール完成。NY工場の従業員が2300人になる。
1926年、6294台を出荷し、生産台数は約2倍に増加する(これをピークに生産台数は減少する)。純利益は142.5万ドルとなり、5年で5倍となった。クイーンズの土地を売却したことによ収入も大きかった。また工場を増設した。
<販売>
販売責任者にはナフム・ステットソンが就任した。音楽家でビジネスマンのアーネスト・ウルチス、アレクサンダー・グライナーが活躍し、スタインウェイの販売に結びつく世界的ピアニストであるラフマニノフ、パデレフスキ、ホフマン、ホロヴィッツ、ルビンシュタイン、クライバーンなどとの関係を築く。
1927年、フレッドが急性、テオドールE.(Theodore E. Steinway 1883-1957、創始者の孫)が社長となる。
ラジオやレコードの普及でピアノ市場もスタインウェイの利益も縮小し始める。1923〜1927年にかけてハンブルク工場はバーレンフェルトに新設。
1929年、売り上げは10分の1に減少する。
人々の関心はピアノから自動車に移り、音楽はラジオ、映画、蓄音機を通して聞かれるようになる。
ピアノの教授法がプロのピアニストを教える方法から番人向けに変わっていったこともあって、1930年頃から子供へのレッスンが増加する。消費者のニーズは小さいアパート向けの小型のもの、デザイン重視のものだったため、各社は次第に小さくてスタイルの良いピアノを作り始め、新たなピアノブームとなる。
<1930年代>
米国のピアノの売り上げは1930年代半ばから終わりにかけて増加した。スタインウェイはグランドピアノの製造にこだわっていたが、そのうち8割が小型でスタイルの良いアップライトピアノであった。
スタインウェイではスタインウェイ家以外の人々がピアノ開発の技術革新に関わるようになっていた。甥のフレデリック・ヴィーダーが事実上のトップを務め、低価格の小型グランドピアノS型の製造のためにポール・ビルヒューバーを技術部長とした(初の外部技師)。伝統的に開発の後に図面が作られてきたが、ビルヒューバーはピアノの詳細図を作成してから開発に臨んだ。ビルヒューバーはS型グランドピアノの響板を開発し、ホロヴィッツのような指の動きが非常に俊敏な新しい演奏法に合う極めて反応が良い鍵盤・加速アクションを、ピアニストのホフマンと共に開発した。
1931年、スタインウェイホールは賃料収入が減少した。1日で2,000ドルの損失を出すほどだった。
(2021/12/16記)