紫陽花の美しい季節となりました。皆様には益々ご健勝のこととお慶び申し上げます。
日頃より自治会活動にご理解とご協力を賜り、心より感謝申し上げます。
このたび、総会のご承認をいただき、2期目となる木崎自治協力会会長を務めさせていただくことになりました、小川倫正(おがわ みちまさ)です。引き続き、どうぞよろしくお願い申し上げます。
皆さんもご存じのとおり、さいたま市の調査では、もし大規模地震が発生した場合、木崎地域では最大で8割の家屋が延焼により焼失する恐れがあるとされています。こうした想定を踏まえ、私は1期目の2年間、従来の行動に加え、防災・減災に重点を置いた取り組みを進めてまいりました。
その一環として、地域の有志29名による「木崎防災まちづくり協議会」を立ち上げ、防災に関するあらゆる視点から知恵を出し合い、「木崎地区防災まちづくり計画」を策定いたしました。
また、この計画の一部として、地震による通電火災を防ぐ感震ブレーカーの設置も、班長さんや組長さん、会員の皆様のご協力をいただきながら進めております。
この2年間を通じて、改めて「自治会とは、地域に暮らす人々が力を合わせ、より良いまちをつくるための大切な組織」だと実感しております。
「自分たちのまちは自分たちで守る」という想いを胸に、これからも1人でも多くの命を守るための具体的な対策を、皆様とともに講じていきたいと考えております。
大きな地震が各地で発生している今こそ、地域の団結が何よりも重要です。どうかこれまで以上に多くの皆様に自治会活動に参加していただき、力を合わせて、木崎の未来をともに築いてまいりましょう。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
令和7年5月
木崎自治協力会
会長 小川 倫正
(私たちの街をもっとよく知ろう)
現在木崎1丁目から5丁目まで木崎という町名があります。これは住居表示実施でついた町名で、以前は大字下木崎といい「下」の字がついていましたが、これを除いて町名とした訳です。
対比して上木崎という町名もあります。これは大字上木崎に由来することはいうまでもありません。
ところで、この上・下木崎は江戸時代には上木崎村と下木崎村の二つの村になっており、ともに幕府の直轄領(天領)でした。江戸時代の初めまでいくと、今度は木崎村という広い村が出てきてしまいます。その地域は、現在の瀬ケ崎や駒場まで含める地域となっていました。分かれて各々が村となったのは、元禄以前とされています。
慶安2年(1649)8月徳川家光は、正樹院(木崎3丁目)に寺領として14石寄進しましたが、その時の寄進状(朱印状)に「武蔵国足立郡木崎村正樹院領同所之内拾四石事」とあります。江戸時代にはよく「領」を使いました。これは郡と村の間の地名で、たとえば「武州足立郡木崎領上木崎村」というように記載しました。郡内に同じ村名がよくありますので大変便利です。
例えば領家という村は、浦和地域にでさえ二つありました。現在の領家と大久保領家がそれですが、明治22年までは足立郡木崎領領家村と安達郡植田家領領家村と呼んでおりました。
ところで木崎領の範囲は広く、上・下木崎村、領家村、瀬ケ崎村、駒場村、針が谷村などはもちろん、三室、尾間木から谷田まで及んでいました。
さて、木崎の地名が文書に初めて見られるのは、戦国時代の弘治年間(1555~1558)のことで梶原政景(岩付城主太田資正の子)は、木崎郷の内、細谷刑部左衛門拘りの地を三戸十郎に与える旨が記された文書です。細谷氏は、正樹院の開基でもあります。そして永禄3年(1560)12月太田資正はその子潮田資忠に大宮、浦和の宿、木崎、領家方までを与えるというものです。
いずれにしても、木崎という地名が中世までさかのぼれる数少ない地名ということができます。
木崎は、山崎、瀬ケ崎、大崎など台地先端を示す地名のひとつですが、「木」は必ずしも明らかではありません。一説に「木」には、「城」ではないかともいわれています。
明治22年在来の上・下木崎村、領家村、瀬ケ崎村、駒場村、本太村、針が谷村、それに北袋村が合併して木崎村となり、昭和7年浦和町と合併しました。
木崎小学校や木崎中学校はその名残です。
ある新聞の浦和の町名シリーズその12より
筆者:元浦和市教育委員会文化財保護課課長 青木義脩氏