「霧ヶ峰・山の會」実行委員会
「霧ヶ峰・山の會」実行委員会
「霧ヶ峰・山の會」にはモデルがあります。
それは、1935(昭和10)年8月17日~22日、強清水(こわしみず)の「ヒュッテ霧ヶ峰」で開催された「山の會」です。山岳書や山の文芸雑誌を発行する梓書房の主催で、社主は岡茂雄、雑誌は『山』、その編集長は石原巌。
それはどんなイベントだったのか。当事者が書いた記録や回想が何篇かありますが、ここでは、会場「ヒュッテ霧ヶ峰」の主・長尾宏也「高原のある夏のひと時」を引用します。これは、10年ほどを経た時期に認めた回想で、彼の『山小屋の窗(まど)』に収めています。
長尾はまず、講師や参会者について、
”バラ君(石原巌)のキモイリであったから、生じっかな間に合せで済むはずもなかった。
さればこそ、あの時の顔ぶれは、今日東京でも、そうたやすくは揃うまい。
何せ、山の民俗では成城の老先生(柳田国男)、山の気象では麓の角間(かくま)新田出身のお天気博士(藤原咲平)、山の植物では武田久吉先生といった具合である。”
と書き、続けて石黒忠篤(農政課、のち農林大臣)、小林秀雄(文芸評論家)、飯塚浩二(経済地理学者)、深田久弥(作家)、青山二郎(作家)らを挙げます。他に作家の大岡昇平や北畠八穂、文芸評論家の中村光夫、女流登山家の村井米子らが参会していました。
名を連らねる作家や文芸評論家たちは、ほとんどが30歳前後、新進気鋭と目された俊才ぞろいです。その多くが太平洋戦争後、相次いで秀作を著わし、大家・巨匠と評されるに至ります。長尾は回想を進めます。
”あのとき、山の談義を受持たれたのは木暮理太郎(登山家、日本山岳会第3代会長)、松方三郎(ジャーナリスト、日本山岳会第5、10代会長)の両先輩であった。尾崎喜八(詩人)、中西悟堂(詩人・日本野鳥の会主宰)の二人は旧友として、山小屋を育てるためにも、この会を引き立ててくれた。”
岡の目論見は、まず、雑誌の執筆者と読者とが一堂に集まり懇談する機会を設けること。
次いで、その場を「ヒュッテ霧ヶ峰」としたのは、常連執筆者でもある長尾が担う山小屋
経営を、支援しようとの魂胆からでした。32年末開業で、当時ただ一軒の山小屋。スキー・シーズンには多少賑わうものの、夏でも、グライダー滑走路(藤原の勧めで33年開設)あたりに人影を見る程度だったのです。
岡は具体案作りを石原に命じ、石原は深田と相談して策を練りました。こうして、午前中に講義、午後は講師・専門家同道の「草原(くさはら)の山」逍遥、夜は参会者全員による座談会を基本日程とする6日間を計画し、実行しました。その日々が、長尾の胸臆(きょうおく)にたゆたいます。
”草原(くさはら)の草からも貴重な話題がひき出され、はるか彼方の山、そこの雲からも話題が生まれる。雲をつかむ話が、少しも虚ろではなかった。山の呼び名から引出された話には、いつかわれわれは、太古の匂いをもつ民俗学の叢林に案内されてしまう。”
かく綴りきて長尾は、回想を熱く結びます。
人々は鳥と雲と草の中で自由に休らい、高らかに歌った。よく放談した。われわれの山の絵ごよみには、この夏の日のひと時が絵となり、歌となって刻まれていった。
それは、人間を培うつどいであった。
これが、私たち「霧ヶ峰・山の會」実行委員会が「元祖・山の會」と呼び、強い憧れと大いなる敬愛を込めて仰ぎ見るモデルです。
(「ヒュッテ霧ヶ峰」は翌36年12月に焼失。現在、同じ場所に同じ名の施設があるが、「山の會」とは無関係。)