紀夏井,左京人,【三代實錄】大納言古佐美之曾孫。【紀氏系圖】父善岑,美濃守從四位下。夏井,為人溫雅有才,眉目疏朗,身長六尺三寸。承和初,以善隸書,待詔授文堂,就參議小野篁受筆法。篁歎曰:「紀三郎可謂真書之聖。」文德帝即位,詔召見之。衣履疏弊,左右咸笑之。帝曰:「是疲駿也,非汝等所知。」遂得殊寵。嘉祥三年,權少內記。齊衡元年,兼美濃少掾,讓之異母兄大枝。明年,轉大內記,授從五位下,遷右少辨。帝以其清貧無居處,賜宅一區。夏井秉志忠直,時有規諫,帝逾重之。尋進從五位上,兼播磨介,又兼式部少輔,未幾為右中辨。性聰敏,臨事不滯,恩寵優渥,任用轉重,內外機務,多所輔益。及帝崩,出為讚岐守,政化大行,吏民安之,不忍相欺。秩滿將歸,百姓相率,諧闕乞留。更留二年。黎庶殷富,倉廩充實。於是新造大藏於部內,總四十宇,皆糙納以為不動之蓄。及去,吏民贈遺,一無所受。歸都之後,就送其家。夏井唯留紙筆,其餘悉還之。貞觀七年,任肥後守,母石川氏聞而哭之。問其故,曰:「聞肥後風俗,國宰至清,身必不全。吾子其不終乎!」夏井有異母弟豐城,為人放誕,數加切責。豐城苦之,途託身大納言伴善男。及善男敗,豐城為善男之從。夏井以緣坐流于土佐,私歎曰:「凡法律所謂首從之坐,必有差降。予是從之兄,亦緣坐也。今與首同遠流,何無別哉。」隨使出境。肥後民庶遮路哭。過讚岐境,百姓老幼逢迎道路,哭聲相接數十里。數年,母亡,居喪過禮。建草堂,藏骸骨,晨昏無異生時。雅祟佛教,日讀大般若經五十卷,以終三年之喪。
夏井多藝,尤善圍碁。時有伴少勝雄者,善奕碁。延曆中,以藝充聘唐使員。及父善岑為美濃守,少勝擁為介,夏井時十餘歲。習圍碁於少勝雄,一二年間殆過之。又善射覆。文德帝與宮人為藏鉤之戲,密令夏井筮之。揲蓍布卦曰:「有小女著青衣,首插白花,鉤在其左手。」帝乃探得大悅。又精醫藥,在土佐,自往山澤,釆藥合煉,施之民間,多得其驗。有一人中風,被髮狂走,夏井與一匕藥,立愈。其得效率此類也。【三代實錄】
訳本は国会図書館から訳文大日本史(III, コマ番号228)が画像データとしてダウンロードできたので,その訳を参考にした.
紀夏井,左京の人【三代實錄】.大納言古佐美が曾孫なり【紀氏系圖】.父善岑(よしみね)は,美濃守,從四位下. 夏井,人となり,溫雅にして才あり,眉目疏朗(びもくそろう)にして,身長(みのたけ)六尺三寸.承和(834年1月ー848年7月)の初,隸書(れいしょ,「壱万円」札の漢字書体)を善くするを以て,授文堂(学舎?解説記事)に待詔(たいせう,勅を待つ)し,參議小野篁(たかむら,公家,文人)に就きて筆法を受けしに。篁,歎じて曰く「紀三郎は真書(楷書体で書く)の聖と謂うべし」と.
文德帝,位に即(つ)き,詔(みことのり)して,之を召し見しに,衣履疏弊(いりそへい,粗末な服装)なりければ,左右,咸(みな)之を笑ひしに。帝曰く,「是疲駿(ひしゅん,疲労した名馬)なり,汝等が知るところに非ず」と.遂に殊寵(しゅちょう,帝の寵愛)を得たりと.
嘉祥三年(850),少內記に權(ぬきん)でられ。齊衡元年(854),美濃少掾(みののせうじょう)を兼ねしめたるに,之を異母兄大枝(おほえ)に讓り。明年,大內記に轉(てん)じ,從五位下を授けられ,右少辨(うせうべん,太政官右弁官局の第三等官)に遷(うつ)る.
帝,其の清貧(せいひん)にして居る處(ところ)なきを以て,宅(たく)一區を賜ふ.
夏井,志を乗(と)ること忠直(ちうちょく,正直に仕える)にして,時に,規諫(きかん,戒める)することあれば,帝,逾(いよいよ)之を重んず.
尋(つい)で從五位上に進み,播磨介(はりまのすけ)を兼ね,又式部少輔(しきぶのせうふ)を兼ね,未だ幾(いくばく)ならずして,右中辨(太政官右弁官局の次官)となる.
性聰敏(そうびん,聰明で俊敏なこと)にして,事に臨みて滯(とどこほ)らざれば,恩寵優渥(おんちょういうあく,深いいつくしみ)にして,任用轉(うたた)重く,內外の機務,輔益する所多し.
帝の崩ずるに及び,出でて讚岐守[天安2年 (858),香川県国司]となり,政化(国を治め民を導く)大いに行(おこな)はれ,吏民,之に安(やすん)じ,相欺(あいあざむ)くに忍びず.
秩(ちつ,任期)滿ちて將(まさ)に歸(かへ)らんとするとき,百姓相率(ひゃくせいあひひき)ぬ,闕(けつ)に至りて留(とどま)らんことを乞ひければ.更に留ること二年,黎庶殷富(れいみんいんぷ)にして,倉廩充實(さうりんじゅうじつ)せり.
是に於て,新に大藏を部內に造ること総(す)べて四十宇(う,屋根),皆糙納(ざうなう,糙は玄米)して以て不動(ゆるぎない)の蓄(たくはへ)となせり.
去るに臨み[貞観6年(864年)1月],吏民贈遺(ぞうゐ,品物を贈る)すれども,一も受くる所なし.歸都(きと)の後(のち),就(ゆ)きて其の家に送りしに,夏井唯紙筆(しひつ)を留めて,其の餘は悉く之を還(かへ)せり.
貞觀七年(865),肥後守に任ぜられしに,母石川氏,聞きて之を哭す.人,其の故を問へば,曰く,「聞く,肥後の風俗,國宰至清(こくさいしせい)なれば,身必ず全(まつた)からずと.吾が子,其(それ)終(を)へざらんかと」.
夏井に異母弟豐城(とよき)あり,人となり放誕(ほうたん,勝手気まま)なれば,數(しばしば)切責(せつせき)を加へしに,豐城,之を苦(くるし)み,遂に身を大納言伴善男(とものよしを)に託せり.善男敗るるに及び,豐城,善男が從となりければ.夏井も,緣坐(えんざ,犯罪者の親族に刑事責任を負わせる制度)せられて土佐に流されたるに,私(ひそか)に歎じて曰く,「凡(およ)そ法律に所謂首從の坐(ざ)は,必ず差降(さかう)あり。予は,是從の兄にして,亦緣坐なり.今,首と同じく遠流(えんる)せらる,何ぞ別なきやと」.
使に随(したが)ひて境(さかひ)を出づるとき,肥後の民庶,路を遮(さへぎ)りて悲哭(ひこく)す.讚岐を過ぐれば,百姓(ひやくせい),老幼(らうえう),道路に逢迎(ほうげい)して,哭聲(こくせい)相接(あひせつ,互いに繋がる)すること數十里.
數年にして,母を亡ひ,喪に居ること禮に過ぎ,草堂(さうだう,草葺の家)を建てて骸骨(がいこつ)を藏(をさ)め,晨昏(しんこん,朝夕),生時(せいじ,生きている間)に異なることなし。雅(こと)より佛教を崇(たふと)び,日(ひび)に大般若經五十卷を讀(よ)み,以て三年之喪を終(を)へたり.
夏井,多藝にして,尤(もつと)も圍碁を善くす.時に,伴少勝雄(とものをかつを)というものありて,奕碁(えきご,碁を打つこと)を善くす.延曆中,藝を以て聘唐使員(へいたうしゐん,遣唐使を迎える官吏)に充(あ)てらる.父善岑(よしみね),美濃守となるに及び, 少勝擁(をかつを),介(すけ)となる.夏井,時に十餘歲。圍碁を少勝雄に習ふに,一二年間にして,殆ど之に過ぎたり.
又射覆(しやふ,隠したものを当てること)を善くす.文德帝(もんとくてい),宮人と藏鉤(ざうこう,握り手を当てる遊戯)の戯(たわむれ)をなししとき,密(ひそか)に夏井をして之を筮(うらな)はしめしに.蓍(めどき)を揲(かぞ)へ,卦(け,占いの形)を布(し)きて曰く, 「小女(せうじょ)あり,青衣(せいい)を著(つ)け,首に白花を插(はさ)む,鉤(こう),其の左手(さしゆ)にありと」.帝,乃(すなは)ち探(さぐ)り得て大(おほい)に悅(よろこ)べり.
又醫藥に精(くは)し,土佐に在りしとき,自ら山澤(さんたく)に往(ゆ)き,藥を採りて合煉(がふれん,調合)し,之を民間に施し,多くの其の驗(しるし)を得たり。一人(にん),風に中(あた)り,髪を被(かうむ)りて,狂走せる者あり.夏井,一匕藥(びやく)を與(あた)へければ,立どころに愈(い)えたり.其の効を得ること,率(おほむ)ね此の類(るゐ)なりき【三代實錄】.
平安時代に編纂された「日本三代実録」によると,紀夏井は頭脳明晰で,民生に配慮した治世を行った模範的な良吏であったようだ.
讃岐国司としての4年間の任期が終了し,帰都しようとしたが,民衆に引き止められ,さらに2年間,計6年間[天安2年(858年)11月25日 - 貞観6年(864年)1月]讃岐国司を務めたという.紀夏井の22年後に讃岐国司として後任を務めた菅原道真[仁和2年(886)−寛平2年(890)までの4年間]は夏井の善政と比較されて大変苦労したと伝えられている.
夏井は,讃岐の後,肥後国に国司として赴任するが,夏井の母は当時の肥後の風俗を懸念し,清廉な良吏である息子の肥後国司赴任を嘆いたとのことである.当時,肥後国は賄賂が蔓延しているとの噂があり,誠実な夏井には対応できないと思ったらしい.ちなみに,肥後国司の前任者は藤原真数(860年(貞観2年)11月27日 - 864年(貞観6年),従五位上)であり,当時短い国司任期の中では4年の長期にわたって肥後国誌を務めている.
前賢故実 巻四( 国立国会図書館)の挿絵(流人の格好)
当時,九州への赴任は人によっては島流し的なものであったと言われている.九州から四国への流罪は奇異に思えるが,前例がある.『日本書紀』の天武5年9月(676年)の条項に「筑紫大宰三位屋垣王,有罪,流于土左」と書かれている.当時の土佐国は北九州に比べると,かなり辺鄙なところだったようだ.なお,主犯格の紀豊城は安房国(千葉県)へ流剤になっている.
南贍部洲大日本国正統図 北は下,西は右に描かれている.時計回りに180度回転させると現在の地図と同じ配置になる.
当時,都人にとって流刑の地は,地理的には如何なる存在であったのだろうか.
律令制下の流罪は,畿内からの距離によって「近流(こんる/ごんる)」、「中流(ちゅうる)」、「遠流(おんる)」の3等級が存在した。927年に成立した延喜式によれば、追放される距離は近流300里、中流560里、遠流1500里とされている。 引用(Wikipedia 流罪)
畿内ー伊予(愛媛)560里程度,土佐は中流であるが,伊豆、安房(あわ)、常陸(ひたち)、佐渡、隠岐(おき)などと並んで、遠流とされた。
文献によると,大化の改新後の班田収授法が施行される際,田図(地図)を提出させている.当時,,地図的なもの(行基図の元になる)は存在していたと思われる.江戸時代の伊能忠敬による本格的な地図が作成されるまでは,行基図の書写が出回っていた.その流れをくむ地図,南贍部洲大日本国正統図(上図)では九州,四国は海を隔てたかなり遠方の地である.しかし,都と九州間のアクセスは容易であったらしい.古代日本の律令制における、広域地方行政区画である五畿七道には次の記載がある.
西海道は大陸との外交・防衛上の重要性から大宰府が置かれて諸国を管轄した。七道の中でも最も重視されたのが山陽道であり、駅路では唯一の大路である.
本来なら,九州は遠流の地であるが,土佐とは逆の扱いであったといえる.藤原氏が権力を掌握する過程で,伴,紀一族を排斥し,その没落を印象付けるには夏井の肥後国司解任,前任地讃岐国を通って土佐国(遠流地)への流罪は必要不可欠だったのかもしれない.
熊本の歴史を語る時,有名な国司として,道首名,紀夏井,清原元輔の3名が登場する.別記事で述べたように,道首名に関する遺跡(味生池跡),および祭祀した神社は複数[水前寺(礎石のみ),味噌天神,高橋東神社]存在する.紀夏井については遺跡などは存在しない,土佐では,薬草の知識を生かして,民衆を助けたとあり,高知県には邸跡(現在は疑問視されている)や父養寺,母代寺という地名(夏井が父母供養のために建てた寺に由来)が存在する.清原元輔については業績は不明であるが,熊本市の清原神社(北岡神社飛地境内)に,祭神として祀られている.注:清原 元輔 ( もとすけ ),肥後国の国司(在熊期間:986~990年)」 娘に清少納言がいる.
ウエブ上には,紀夏井に関するいろいろな情報が掲載されているが,もとを正せば「日本三代実録」にさかのぼる.中には,原本の画像データをテキスト化したもの,漢文を訓読したものに脚色を加えたり,省略したものもある.素人には,訳文大日本史が最もわかり易い.今回,国会図書館を中心にいろいろ調べてみたが,「日本三代実録」以上の新しい情報は見出し得なかった.関連情報として,唯一,『土佐日記』の内面的形成に関する覚え書(紀要)があり,紀夏井と紀貫之との関連性を指摘していて大変興味深い.
追記
菊池市の歴史 菊池の歴史 略年表(PDFをダウンロード)には以下の記載があるが,詳細は分からない.
貞観7 このころ田吹に鶯神社造営(国司紀夏井の悲恋に関わる
参考資料
日本三代實録 50巻 [9] 22コマ(国立国会図書館デジタルコレクション)
『日本三代実録』は,平安時代に藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平などによって編纂され,延喜元年(901年)に成立した.清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間の出来事が記録されている..
中国語版ウィキソース 卷第十三 太上天皇(清和天皇)起貞觀八年六月盡貞觀八年十二月 リンク
大日本史. 第13冊 巻106−116 列伝(57コマ).日本三代實録 を引用している.
大日本史列伝訓解 - 国立国会図書館デジタルコレクション(23コマ)
訳文大日本史(III, コマ番号228,画像データ)(国立国会図書館)
大日本史だいにほんし(久遠の絆)文字データ クリック
六国史 文字データ 《卷十三貞觀八年(八六六)九月廿二日甲子》を参照
『土佐日記』の内面的形成に関する覚え書 ー『古今集』離別歌の影響と紀夏井の影 山梨英和短期大学紀要14 巻 (1980) 夏井が生まれたのは, 弘仁二年から弘仁十三年(八一二〜八二二)の間と推定されている. また, 紀貫之の生年は貞観十年前後(八六七〜七一)とされている.(PDFダウンロード可能)
年譜
夏井の生年, 812〜822(弘仁2年から弘仁13年)の間
讃岐国司 858年(天安2年)11月25日 - 864年(貞観6年)1月
肥後国司 865年(貞観7年)1月27日 - 866年(貞観8年)9月22日
土佐配流 866年(貞観8年)
菅原道真 845年8月1日(承和12年6月25日)ー903年3月26日(延喜3年2月25日)
讃岐国司 886年(仁和2年)ー890年(寛平2年)
日本三代実録編纂開始 編纂者の一人(寛平5年(893年)4月〜寛平6年(894年)8月頃)
日本三代実録完成 901年(延喜元年)
858年(天安2年)8月ー887年(仁和3年)8月の30年間の記録
太宰府左遷 901年(昌泰4年).注 7月15日 改元(延喜)
紀貫之の生年,867〜871(貞観十年前後)
『古今和歌集』を撰上 905年(延喜5年) 4月18日
土佐国司 930年(延長8年) 1月:土佐守.醍醐天皇の勅命により『新撰和歌集』を編纂.
935年(承平5年) 2月:任を終え,帰洛.
後に紀行文,『土佐日記』を書く.
(2022.11.6)