2024年4月27日(土)
13:30-
熊野で虐殺された李基允(イギユン)さん、裵相度(ペサンド)さんを追悼する集会
2024年4月28日(日)
11:00-
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会
スケジュール
【1日目:4月27日(土)】熊野で虐殺された李基允(イギユン)さん、ペ相度(ぺサンド)さんを追悼する集会
13:30 木本トンネルの追悼碑前集合
早めの到着者は草むしり・掃除・追悼碑清掃、近隣へのご挨拶など。
昼食は各自で済ましてください。
13:30-14:30 追悼集会 司会(三宅)
主催者あいさつ(斉藤)
献花・献杯
サンシン演奏(森本)、ギター演奏(阿部)、「고향의(コヒャンエ) 봄(ポム)/故郷の春」斉唱(1926年、作詞:李元寿(イウォンス)・作曲:洪蘭坡(ホンナンパ))(歌唱指導;こうのすけ)
各地からの参加者の発言(朝鮮総聯奈良県本部金鉉二(キムヒョニ)、蒲、留学同大阪、杉本、楠本ほか)
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会からのメッセージ(馬場)
14:30-15:30 「木本事件」の現場をたどる ガイド斉藤
追悼碑→木本トンネル→笛吹川→飯場跡→西川橋→称名寺
→有本湯→木本神社→木本警察署→極楽寺
15:30-16:30 湯ノ口温泉への移動・買い出し
宿泊:元湯温泉「湯ノ口温泉」三重県熊野市紀和町湯ノ口10 TEL0597-97-1126
https://www.seiryusou.com/yunokuchi/index.html
到着後、各自休憩と入浴
18:00-20:00 夕食・交流会 司会(中島)
名古屋テレビ『テレメンタリー2023』「ほとぼり~1926 木本事件を追う~」(2023 年、24分45秒)上映
https://www.dailymotion.com/video/x8rp0zn
参加各団体の紹介と活動報告(留学同、どんずるぼう(楠本)、猪飼野セッパラム文庫ほか)
20:00-22:00 懇親会(徐文平)
参加者各自の自己紹介と討論
【2日目:4月28日(日)】 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会
起床後、各自入浴
8:00 朝食
10:00 「湯ノ口温泉」出発 トロッコの駅(トロッコには乗れません)→英国人兵士墓地→鉱山資料館→板屋の選鉱所跡→紀州鉱山の朝鮮人追悼碑
11:00-13:00 追悼碑前で追悼集会 司会(こうのすけ)
主催者あいさつ(紀州鉱山の朝鮮人についての説明・斉藤)
献花・献杯
サンシン演奏(森本)、ギター演奏(阿部) 、「고향의(コヒャンエ) 봄(ポム)/故郷の春」斉唱(1926年、作詞:李元寿(イウォンス)・作曲:洪蘭坡(ホンナンパ))(歌唱指導;こうのすけ)
各地からの参加者の発言(朝鮮総聯奈良県本部邵哲珍(ソチョルヂン)、留学同東海ほか)
13:00 現地解散・各自昼食など
連帯のメッセージ(敬称略)
☯朝鮮総聯三重県本部委員長 金鉉二(キムヒョニ)
熊野の朝鮮人追悼集会がこの様に長きにわたり開催されてきた事につきまして関係者の皆様方に心からの感謝と敬意を表するものであります。
未だに過去の植民地支配の歴史が清算されていない状況の中で今の時代を生きる私たちが真の朝日親善と友好の絆を深めることが大事であると思っています。
皆様のこれからの活動に大きな前進がありますことを祈念し共に頑張っていきましょう。
☯多文化共生フォーラム奈良(代表:松谷 操)
なぜ日本人は朝鮮人を虐殺したのか。なぜ、大災害やコロナ感染時にデマが流され、皆が同調してしまうのか。
これらの疑問について、小さな事件から社会をみることの大切さを学んだ私たちは、社会をみることの大切さを学んだ私たちは、過去を直視し、差別のない未来を創るために、共に手をたずさえていきましょう。
☯関生弾圧を許さない奈良の会
わたしたちは関西生コンの労働運動弾圧を市民の立場から抗議し、許さない運動を進めています。
この弾圧は関西生コン支部労組を「反社的な暴力集団」とみなすヘイト集団によって扇動されました。
産業別労働組合運動の企業内労働組合化を狙う国家権力の意向に沿ったヘイト集団の扇動が憲法で保障された労働3権をいともたやすく踏みにじることに使われたのです。
この国の市民社会におけるヘイトの蔓延の根にあるのは、日本の植民地主義を戦後も継承させられた姿です。
急速に進められた「戦争できる国づくり」「戦争する国化」に対抗する労働運動・市民運動づくりに自国の植民地主義の歴史や現状についての深い理解が欠かせません。
日本の植民地主義の犠牲者に向き合い事実を明らかにして来られた「熊野の朝鮮人を追悼する運動」に敬意を表します。
取り組みの成功に向けみなさんと連帯の意を表します。ともに頑張りましょう。
☯東アジア市民ネットワーク(代表理事:殿平善彦) 2024年4月27日
熊野の朝鮮人追悼集会さま
虐殺された李基允さん、裵相度さんをはじめ紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集いに心からの連帯のメッセージを送ります。奪われた一つ一つの命と向き合い、謝罪し、追悼することは、過去を心に刻み、未来を見つめる大切な試みです。
私たちも北海道で同じ思いで追悼を続けています。これからも東アジアに確かな平和が訪れるまで共に歩ませてください。
☯ハッキョ支援ネットワーク・なら代表 浅川肇 2024年4月28日
1926年木本に起きました虐殺事件を悼み、かかる事態を醸成した当時の国家主義、朝鮮人差別思想を否定し、再びこのような事態を起こさない社会を造ることに努力することを誓い、さきがけてこの問題に取り組まれている皆様に敬意を表すると共に、ここに不幸の死を遂げられたお二人のみ霊に謹んで哀悼の意を捧げます。 2024年4月27日
紀州鉱山の犠牲者を偲ぶ時、私たちは植民地主義と結びついた差別思想、それを助長した日本資本主義の横暴を憎まずにはいられません。私たちはこのような時代、社会制度、人種差別を否定し、明るい社会の建設に努力することを誓います。
いまなお永遠の眠りを妨げられている犠牲者のみ霊に心から哀悼の意をささげます。
☯長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会(共同代表:井上洋子) 2024年4月
去る2月3日に開催した「長生炭鉱水没事故82周年犠牲者追悼式」で、犠牲者183名を閉じ込めたままにしている坑口を市民運動の力で開ける決意を表明しました。その折には貴会より遠路のところ3名もの皆様がかけつけて下さり、心より感謝申し上げます。
現在、「坑口を開ける」ために宇部市との交渉や地元対策、クラウドファンディングの準備等奮闘しています。
特に、7月15日には、坑口が埋もれている現地で「坑口開けよう!スタート集会」を開催し、皆様にはスコップや手堀道具を持参していただき、まずは人力で坑口への掘削を試みようと思っています。
そして、今年中には坑口を開けます。その成果を持って、日本政府に遺骨発掘を迫っていきたいと考えています。どうぞ、今後ともご支援をよろしくお願い申し上げます。
熊野の朝鮮人追悼集会にお集まりの皆様、過去の日本が犯してきた朝鮮半島への植民地支配の歴史を発掘し、犠牲になられた皆さまを追悼することを通じて、平和と友好は築かれます。
「群馬の森追悼碑」撤去の暴挙に抗うためにも、私たちは全国の仲間としっかり連帯しなければなりません。
長生炭鉱の遺骨発掘事業は、犠牲者の存在故に植民地支配の実態を具体的に暴き、日本の歴史観を正しく引き寄せることができると信じています。
追悼式に来日された犠牲者の息子さんシンジェポンさんは85歳、持病をおしてかけつけました。彼は「俺が死んだらこの海に遺骨を投げてくれ、そうすれば父親に会えるから」と家族に頼んでいます。遺族にはもう時間がありません。シンさんが遺骨となったお父さんと対面できるよう、私たち「刻む会」は寸暇を惜しみ全力でまい進します。
それぞれの持ち場で力をつけ、共に連帯し、誰も阻むことのできない大きな歴史の流れを全国の仲間と創っていきましょう。貴会の益々のご発展を祈念しメッセージとします。
2024年2月3日 長生炭鉱水没事故82周年犠牲者追悼集会に参加して 馬場彰子
長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会主催の追悼集会に参加してきました。
2月3日朝、新山口駅に着くともう「刻む会」の方が車で待っていてくださいました。床波海岸へ。途中「あれですよ」と二本のピーヤを教えてもらう。海からにょっきり突き出たピーヤ。
あの下に今も沢山の人が閉じ込められたままだとぎょっとする。
波打ち際からすぐそこに見える。一瞬歩いて行けそうな錯覚に陥る。海は空を映して鈍く澱み、小雨が降ってくる。
車を降りて追悼ひろばへ。たくさんの人で埋め尽くされた82周年追悼集会の会場に入る。
亡くなられた方の名前を刻んだ慰霊碑と石のピーヤが説明板の前に建っている。
寒い日だ。ストーブが幾つも置かれぬくもりを放っている。若い一団が後方に座っている。大韓民国から訪れた中学生と地元の中学生と聞く。胸が熱くなる。合わせて20名程だろうか。
大韓民国遺族会、駐広島大韓民国総領事、在日本朝鮮人総聯合会山口県本部ほか5人が出席される。日本の国会議員や県会・市議会議員も同じテントのなかにいて、それぞれが挨拶をされる。
慰霊碑の前にはテーブルが置かれナムルや焼き魚、ご飯など沢山のご馳走が並ぶ。死者は海底に放置され空腹なままだ。
共同代表の井上洋子さんが慰霊碑を海岸に建てたかったがかなわなかったこと、この場所を見つけ追悼ひろばを作ったことを話される。言葉のひとつひとつが重い。
日本の政府は追悼集会に一片のメッセージも寄こさない。12月8日衆議院の会議室で意見交換をし、遺族の方々の怒り・悲しみを聞いたばかりだというのに。恥ずかしくてならない。
日韓の中学生がメッセージを読み、互いに通訳しあう。犠牲者の名前を読み上げる。
将来を担う若者が一緒に行動するのが本当にありがたく嬉しい。未来へ続いていく証だ。
チェサ。韓国の方々に続いて私たちも花を捧げる。
会場の片隅に「ピーヤから上げられた木材」と説明書きのある木片が置かれている。裂けた木には、はしご段を渡したと思える切込みがある。そっと触ってみる。石炭の塊もある。どれも海底にあったものだ。亡くなられた方が確実に触れたものだ。今年はピーヤの見える浜辺で坑口あけスタート集会を計画している。
午後は会場を移して安田浩一さんの講演。
矢継ぎ早に語られる「差別と偏見の現場」。私たちは学び、知り、糾弾せねばならない。一歩下がればたちまち足元をすくわれてしまう。
群馬の森は記憶に新しい。痛ましいと思うだけでなく怒らねばならない。戦争を許さないために。「廊下の奥に戦争が立っていた」など言わないために。
自分がどう生きるのか、自分に問うために。
【参考資料】
大椿ゆうこ(参議院議員・社民党)【ダイジェスト】2024年3月22日(金)厚生労働委員会で質問!(雇調金・長生炭鉱・戦没者遺骨収容) https://ohtsubaki.jp/2403223_hlw/
大椿ゆうこ 質疑 長生炭鉱 参議院厚生労働委員会(2024年3月22日)
2024.4.27 熊野の朝鮮人追悼集会 三村彰子
李基允・ペ相度二人の追悼碑の前に
たくさんの人が立つ
雨に打たれて
首(こうべ)を垂れ死者に祈る
あの日
血に濡れた二人を
鳶口でずるずるひきづり
風呂屋の前に投げた日
人々は銭湯に入ったろうか
ゆっくりと肩までつかり疲れを癒したろうか
残された人々を山狩りで追い詰め
殴り 斬り 返り血を浴びた体は休まるのか
自分の吐く息と血を噴き上げて倒れる人の息と
交差することはなかったか
重なり合って倒れこむことはなかったか
殺し尽くせなかった人を船で運んだというが
どこ?
その夜家族でだんらんを楽しんだか
「素朴な愛町心」
もう口をつぐむしかない人々は
父や叔父や兄そして私
雨は私を糾弾して降り続け
止まない
2023年4月29日(土)
13:30-
熊野で虐殺された李基允(イギユン)さん、裵相度(ペサンド)さんを追悼する集会
2023年4月30日(日)
11:00-
紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会
熊野の朝鮮人の追悼集会報告
1:李基允(イギユン)氏と裵相度(ペサンド)氏の追悼集会
1923年の関東大震災での朝鮮人虐殺事件から三年後の1926年。熊野(木本)でも同じような事件が起きた。トンネル工事をするために関西から多くの人が木本に集められ、その中には二百人の朝鮮人が働いていた。地元の住民とのトラブルから、「朝鮮人が町民を襲う」という、関東大震災の時と同じような流言飛語が流れた。そのため、町民は武装して朝鮮人が住む飯場を襲撃。朝鮮人たちも抵抗はしたらしいが、その中で二人の朝鮮人が惨殺される。惨殺された二名の朝鮮人の名は、李基允(イギユン)氏と裵相度(ペサンド)氏。彼らの遺体はその後、極楽寺へと運ばれ、野ざらしにされた。
当初、追悼碑を建立する会は、熊野市と協力して追悼碑を建立しようとしたが、地元の住民感情を配慮した熊野市の行政当局の姿勢のために、碑文の作成などで合意がとれず、熊野市が追悼碑の建立から脱落して、市民団体が基金を集めて独力で1994年に追悼碑を建立した。
関東大震災で朝鮮人虐殺が行われたというのに、同じような痛ましい事件がくりかえされた。地域から虐殺に向き合うことのむずかしさを感じた。
〇事件発生場所の見学
笛吹橋や称名寺などの事件が起きた場所、関連する場所を見学し、事件が起きた歴史を肌で感じることができた。極楽寺には、事件発生直後に建立された李基允さんと裵相度さんの墓石があった。だがその墓石には日本名が書かれており、「鮮人」とも書かれていた。その墓石の隣には、極楽寺の足立知典住職が建立したお二人の新しい墓が建てられていて、墓石に関する説明板も置かれていた。
〇湯ノ口温泉での交流会
一日目を終えて我々は、熊野にある湯ノ口温泉へと向かった。温泉に入った後、参加者同
士の交流会を行った。今年度の追悼集会は、昨年よりもとても多くの人が参加したため、大宴会となった。各々追悼集会に参加した理由や歴史に関する考え、活動する理由や意味などを熱く話し合うことができた。その合間に、関東大震災での朝鮮人虐殺事件に関する映画『隠された爪痕』も視聴した。木本の事件とも繋がるところがあり、いろいろ思うところがあった。
2:紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼集会
二日目は紀州鉱山の追悼集会が行われた。朝、湯ノ口温泉から発車する坑道のトロッコ列車に乗る予定だったが、点検中につき残念ながら乗ることはできなかった。紀州鉱山が稼働していた当時は、トロッコは鉱山で採掘された鉱石のほかにも、労働者をのせて走り回っていた。現在では観光用で一部が運行されている。
〇イギリス兵追悼碑
次に向かったのは、英国兵墓地だ。戦争末期、イギリス兵捕虜も紀州鉱山に動員された。300名の捕虜が動員され、戦後まもなく帰国したが、厳しい労働環境のもと、罹病や事故などによって16名の死亡者がでた。追悼碑は1946年に磯原産業が建立し、その後地元の老人クラブが管理していたが、1965年に紀和町の教育委員会がこの碑を文化財に指定した。追悼碑の説明文には、捕虜たちがイギリス人としての自尊心と教養ぶりを持っており、仕事ぶりも能動的で、収容所内での生活も紳士的であった、と書かれていた。しかし、実際にどのような扱われ方をされていたのかは、多くの朝鮮人が虐殺されたことを考えると、想像は難しくないと思われる。
また、イギリス兵の墓地は石原産業が建立し地元民や行政によって保護されてきたのに対して、朝鮮人の強制労働の実態やその犠牲者については調査も、追悼碑の建立も、行われていない。
そして亡くなったイギリス兵捕虜を弔うために作られた追悼碑だが、遺骨は熊野にはなく、1946年ころに横浜にある英連邦墓地に移設されているため、追悼碑には別の遺骨が埋葬されているようだ。熊野市にDNA鑑定を依頼したが断られてしまいいまだ真実は明らかになっていない。追悼碑のすぐ横には現在も鉱山の廃水処理が行われている貯水池があった。
〇紀州鉱山選鉱場跡
英国人墓地を後にして、すぐ近くにある紀州鉱山跡へとむかった。紀州鉱山は石原産業によって大々的に開発された鉱山で、太平洋戦争中には、日本屈指の開発が進められた。開発を行った石原産業は四日市公害の原因企業の一つでもある。
この鉱山で多くの朝鮮人が鉱山労働を強いられ、また命を落とした。にもかかわらず行政側はきちんとした調査をおこなっていない。選鉱所跡には工場の鉄骨が残るだけであり、鉱山への入り口はフェンスで遮られている。「紀州鉱山選鉱場跡地」という説明書が置かれているが、内容は、選鉱処理量や、稼働の様子のみであり、石原産業に関する説明や強制労働の説明はない。ましてや朝鮮人という文字はない。
私たちはその無骨に残ったままの鉄骨を、下から見上げる事しかできなかった。
〇紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑
道の駅へ移動し、鉱山資料館を見学した後、紀州鉱山の追悼碑へと向かった。2010年に建立されたこの追悼碑は、紀州鉱山の真実を明らかにする会によって市民の手で建てたものだ。追悼碑の前には35名の名前が刻まれた墓石が並んでいる。名簿は石原産業がだした報告書や忌辰録をもとに作られた。中には創氏改名によって通名を名乗らされていると思われる名前も存在した。しかし名前が全て判明するのが難しい方もいる。
追悼碑の前には、大阪、奈良からの参加者、韓統連、留学同の学生など、さまざまなひとが集まり、献花を行い、献杯した。あいにくの天気ではあったが、熱心に話を聞き、メモを取る姿が見られた。例年につづき行われた追悼集会は、参加者を増やし、追悼碑が歴史を紡ぐ場所になっていることを実感した。(留学同)
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇朴慶(パク キョン)
岐阜の朝鮮商工会から参加しました朴慶です。
今回は学生を卒業し社会人として、参加させていただきました。日本にはいたるところに強制連行の跡地が存在し、また追悼碑や説明のないまま放置されている箇所があります。それだけ歴史が蔑ろにされているという事です。
追悼集会に参加して、そうした社会に存在する自分は、歴史や人間に向き合う事よりも、労働や消費に駆り立てられているのではないかと考えなおしました。
自分たちの世代は3世、4世の世代となり、祖国観、民族観において1世の経験した社会と隔たりがあると思います。1世が身をもって受けた悲惨な暴力は、歴史を学ばなければ知ることができません。そうした中で自分たちが歴史を学ぶことはなぜなのか、なぜ遠くまで足を運び追悼集会に参加するのかということは、常に模索しながら活動する必要があると思います。
熊野では市民によって歴史が紡がれ、それが波及していることに感銘を受けました。歴史を知識として蓄積させるだけでなく、実践を通してこの人を抑圧する社会を変えていきたいと思います。斎藤さんがおっしゃられていたように地元から活動を続けることの重要性を再度確認し、岐阜で行える活動はなにかと模索しながら、実践を続けていきたいです。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇金優生(キム ウセン)
東京から参加させていただきました。修士一年の金優生です。
去年に引き続き、2回目の参加をさせていただきました。1年間学習や活動を重ねた上で参加した今年は、去年とはまた違う視点から発見や刺激をもらうことができました。参加者も昨年から大幅に増え、同世代の日本人学生や同胞の韓統連の方、そして日本市民の方と多くの出会いを得ることができました。日頃、違った場所、様々な立場で活動している方とお話させてもらうことで、様々な視点に触れることができ、自分達の在日朝鮮人運動を客観的な視点から見直す良いきっかけになったと思います。
昨今の社会状況はお世辞にも良いとは言えませんが、こうして消されようとしている熊野の歴史を見つめ、追悼集会を開いてくださる日本の市民の方々がいらっしゃることはとても心強く感じます。追悼碑の建立など、このような運動を行うことにあたっては、様々な困難があったと伺っていますが、その困難に屈することなく活動を進めている先輩の姿を見て、自分自身の気も一層引き締まりました。心強いと感じているだけではなく、今回得たことを持ち帰り、自分も歴史の当事者として主体的にこのような活動を進めていかないといけないと感じました。是非この場に限らず、今後も連帯して活動いけたらと思います。ありがとうございました。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇李美怜(リ ミリョン)
大学三年生です。リュハットンの先輩からお誘いがあり、岐阜県から参加させていただきました。
フィールドワークを通して、三重で起こった朝鮮人の虐殺、強制連行について初めて知りました。当時死体が放置されていた場所や、子どもが隠れて一夜を過ごしたというお寺を巡って、あぁここで実際に起きたんだなと色々想像を膨らますことが出来ました。やはり言葉だけで学ぶよりも、現地に行って直接目で見て体験することが大事なのだと実感しました。
今回巡ったトンネルも橋も、その場所で何があったのかという背景を知らなければただの風景と化してしまうだろうと思いました。ここだけでなく色んな場所に様々な背景があると思うので、今後は何気ない日常を何気なく過ごさないように気を付けてみようと思います。貴重な体験をさせていただきありがとうございました。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇金明銖(キム・ミョンス)
今回初めて静岡県より参加しました、大学3年生の金明銖(キム・ミョンス)といいます。昨年の参加者より話を聞き興味がわいて今回フィールドワークに参加しましたが、熊野で今回学んだような虐殺があったことを初めて知りました。関東大震災での虐殺などを学んだことなどを通して主に戦時中に朝鮮人虐殺が全国で行われた例があることを何となくは知っていましたが、今回初めてフィールドワークに参加したことで過去のそういった凄惨な事例を現実的に、かつ身近に感じることができました。そしてそれと同時に今回回っていった事実があり、かつ日本人の方々が風化しないよう守ってくださっているのに、行政側としてはむしろ有耶無耶にしようとしているような流れに納得できかねる気持ちが出てきました。今後行政の思い通りにならないように、まずはこの事実をまだ知らない朝鮮人の仲間にこの事実をしっかりと共有し、自分自身も熊野だけに留まらずいろいろな場所を探し、見ていき、朝鮮植民地時代の虐殺、強制連行などの証拠を残すための活動に少しでも寄与できるように今後も活動していきます。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇李 将洪(リ チャンホン)
愛知から参加しました。大学二年生の李将洪です。今回の熊野のFWに参加してみて思ったことは、日本人の方にここまで慰霊や朝鮮人が迫害された歴史を大事にされていることがものすごく有難いことだと感じているし、自分たち在日コリアンも負けていられないなと思いました。
これからの活動を頑張るためにまずは留学同で学習しながらこれからの在日同胞社会にどう関わって行けるか考えていこうと思います。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇許揮太(ホ フィテ)
私は大学三年生で、今回は愛知から参加した。とても良い体験ができた。2日間のFWを通して、事件の場所へ行き、墓地へ行き、強制労働があった鉱山へ行き、歴史を繋いできた人の思いを肌で感じることができた。何が起きたのか知らないままより、己の目で見て、聞いて知ることの大切さを改めて感じた。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇林真矢(リム ジンシ)
岐阜県より参加させて頂いた名古屋外国語大学4年の林真矢(リム ジンシ)で
す。昨年に引き続き参加させて頂きました。
過去に日本で起きてしまった凄惨な歴史が風化し始め、今を生きる人々の記憶から無くなろうとし始めている現代社会において、実際にその歴史を守り語り継ぐ事の意義を今回のFWを通じて再確認しました。
ただ一方でこれからの時代を生きていく若者達が歴史を守る活動に精力的に参加する事が出来ていない実態がある為、我々が筆頭となって若者達に向けて発信していきたいです。
熊野の朝鮮人追悼集会に参加した留学同の皆さんの感想
〇幸田穂奈美 (てらだ ほなみ)
2月のウトロ地区に引き続きフィールドワークに参加しました。「多文化共生」に関心があったところから留学同と出会い、大学で勉強するような「多文化共生」とは違った視点でいつも学べ、その環境があること、私を受け入れてくださることにとても感謝しています。
とはいえこの「私を受け入れてくれる」という感覚がそもそも多文化共生じゃないと感じることをこの感想文で述べていきたいと思います。
まず、フィールドワーク一日目の夜、「なぜ参加したのか日本人学生の声が聞きたい」とマイクを渡された時話した内容を幸いにもその日のうちに書き記していたので共有します。
「もともとはアイデンティティの揺らぎに興味があった。そこからコミュニティ(ここでいう留学同)に入って踏み出してみたら(今回でいうフィールドワークに)知らないことがたくさんあって、知らなかった自分にも、隠されていたという事実にも、誰が隠したのかという不透明さや、歴史そのものへの怒りが湧いたのだが、それを私が怒りとして表現するのはなんだか違う気がして。じゃあ自分は何をしたいのか、何になりたいのかって分からなくて、ある意味私のアイデンティティも揺らいでいるのだと。そんな自分と向き合う機会になるし、知らないことを色々な人から聞きたいと思ってここに来ている。」
......後日、この自分の発言と向き合ってみた時にかつて読んだ『他者の靴を履く』(ブレイディみかこ著,2021)を思い出しました。そこに書かれていたのは、同情するのではなく、相手の立場だったら自分はどうだろうと想像することが多様性の時代を生き抜くために必要ということでした。そんなことおこがましい、とフィールドワークの二日間は思っていたことに自覚的になり、それが「逃げ」なのかもしれないと感じる今日この頃です。
「私を受け入れてくれる」から留学同での学びを大切にするのではなく、もっと相手の立場で物事を考えられる引き出しを自分の中に作りたい、だからこれからは真っすぐな視点で共に歴史を勉強し、色々な人の声をリアルに受け止めていきたいと思っています。「日本人だけど、これからもよろしくお願いします。」
手記
見えないものを見る旅
ゴールデンウィークの始まった4月29日・30日、泊りがけで「熊野の朝鮮人を追悼する集会」に参加した。
追悼の集いは2つあり、一つは初日の午後から行われた三重県熊野で「木本トンネル」工事に従事していたが日本人との些細なトラブルから地元住民によって殺された朝鮮人の李基允さんと裵相度さんの追悼の集い。これは1926年の出来事で、その3年前にあった関東大震災時の流言飛語による朝鮮人・中国人虐殺と同じ空気の中で起った惨事であった。朝鮮人差別の感情にかられた住民組織がまだ20代の若い朝鮮の若者の命を奪い、遺体を境内に放置。山の中に逃げ込んで餓死した人もいたとのことだ。
しかし、地元の熊野市は1983年に発行された「熊野市史」で、この虐殺を「誠に素朴な愛町心の発露」と結んでいるという。この集いの主催団体である「改組3会」は1994年に二人の本名を刻んだ追悼碑を建立し毎年現地で追悼集会を行ってきた。
二つ目の集いは石原産業が経営する紀州鉱山に朝鮮半島から連れてこられ、そこで亡くなった朝鮮人の追悼集会。1930年代後半から1945年の間に千人を超える朝鮮人が紀州鉱山で採掘労働を強いられており、分かっているだけでも家族を含め35名が亡くなっているという。この方々の追悼碑と35の墓石のおかれた場所は鉱山記念館のすぐ近くに位置する。
二つの追悼碑の建立には行政や石原工業は関わっておらず、志ある人びとによって建てられ、整備され、保存されている。
「木本事件」における朝鮮人虐殺、紀州鉱山の朝鮮人連行は地元においても日本の歴史においても忘れ去られた出来事であり、記憶から消し去られている。実際、木本トンネル横の追悼の地に集まっている多くの人を見て、現地の人らしい二人連れが「なんの集まり?」と話していた。道のすぐ横の小高い場所に大きな石碑が立っていると言うのに。
初日の追悼集会の後には、この地道な調査・掘り起しの活動を長年にわたり続けてこられた「改組3会」の斎藤日出治さんの丁寧で誠実なガイドで、木本トンネル、事件発生場所、二人の墓石が置かれている極楽寺を訪ねた。夜は関東大震災100周年追悼企画「隠された爪跡」上映会と懇親会がもたれ、去年より参加という留学同の青年10人ほど、嬉しいことに日本人の若者もその中に二人入っての老若の交流がなされた。
翌日は鉱山の採掘に使われたトロッコ見学、捕虜として収容されていたマレーから連れてこられ鉱山で働き死亡した英国人墓地、採鉱跡地、鉱山資料館の見学と続き、紀州鉱山「朝鮮人追悼碑」前での追悼の集いで締めくくられた。
植民地にされ、搾取・収奪され生きるために日本に渡って来た朝鮮の人びと、日本人とされ徴用され、戦地へ送られ、日本に連行され、鉱山やトンネル、鉄道敷設、塹壕堀りなどなど過酷な労働に従事させられ、虐殺され、戦争で、空襲で命を奪われ、本名で弔ってもらえず、ましてや、見つけられてもいない朝鮮の人びとの無念の遺骨がこの日本の大地の北から南の至るところに埋もれさせられているという事実。私たちはその土の上を、何も知らず歩いている。大阪からのバスの道中は緑の森林に囲まれ、美しい山藤が咲き、素晴らしい自然であった。しかし、この緑豊かな山中にも名も知られずに埋もれている朝鮮の人びとの遺骨が抛り置かれているかも知れないのだ。私たちはそれを知らず、山の美しさを眺めている。
見えなくてもあるのだ。見えなくさせられているのだ。まるで何もなかったかのように。今回の熊野の朝鮮人を追悼する集会への参加は、私の「見えないものを見る」旅の第一歩になった。見えないものは見ようとしなければ見えない。見えなければ、偽りの平和と平穏の中で生き、また同じ過ちを犯すようにもなるのではないだろうか。
熊野の山深い小さな朝鮮人追悼の運動が長く続けられ、参加する人が増えていることは日本人の良心の息吹であり希望だ。ここに若い人たちが合流してくれているのは未来へ続く希望だ。参加して本当に良かった。
この集いを準備して下さった皆さんに心からの敬意と感謝をささげます。
(アジア新時代研究会・金子恵美子)
【旅のスケジュール】
5月5日(木) 「木本事件」における朝鮮人虐殺をたどる
13:00 熊野市駅集合
13:10 追悼碑 → 木本トンネル → 笛吹川
→ 飯場跡 → 西川橋 → 称名寺→ 有本湯
→ 木本神社 → 木本警察署 → 極楽寺 →
木本小学校
18:00 湯ノ口温泉着
18:00-20:00 食事と入浴
20:00-22:00 交流会
◇宿泊 湯ノ口温泉
三重県熊野市紀和町湯ノ口10 TEL:0597-97-1126
18:00-20:00 食事と入浴
20:00-22:00 交流会
5月6日(金) 紀州鉱山の朝鮮人強制連行をたどる
8:00 起床 朝食
9:00-10:00 紀州鉱山の朝鮮人について
10:00 湯ノ口の坑道・トロッコ乗車
→ 紀州鉱山の追悼碑 → 鉱山資料館
→ 板屋の選鉱所跡 → 英国人兵士墓地
昼食休憩
→ 紀和町の慈雲寺 → 紀和町板屋の共同墓地
→ 紀和町和気の本龍寺
16:00 解散
手記1
緑したたる熊野の緑・清らかな清流と虐殺は、
相いれないのではないか?
―三重県発注木本トンネル工事における朝鮮人虐殺について―
森井久美子
連休を前に帰郷して田舎仕事をする予定のところ、グローバルジャスティス研究会から、「熊野の朝鮮人をたどる旅」の案内が届いた。
私は日本による、朝鮮の国に対しても人に対しても、戦前から今にいたるまで続いているあまりにひどい蔑視が我慢ならないので、朝鮮の方々に何のお役にも立っていないのだが、とくに強制連行、重労働で酷使、平然とした殺害、虐殺などについては、事実を確認したくて、松本や高槻や、北海道などについて、出かけたり知ろうとしたりしてきた。
その私に、作業の多い田舎に帰る土壇場になって、知らなかった三重県木本トンネルの工事に従事して、三重県、木本町、住民などに蔑視され、殺害までされた二人の若い朝鮮人がおられたと、その歴史をたどる旅の案内が届いたのだ。それも連休のど真ん中に。
悩みに悩んで斎藤日出治先生に架電したところ、なんのご縁もない馬の骨に、快く参加を許してくださった。
必死で予定を追い込んで田舎行きを連休前に持ってきて、4日までに帰宅することにした。
支度もそこそこに、5日早朝に出発して、近鉄大和八木駅に向かった。
齋藤先生は、駅でわたしを求めていてくださった。幸せ!
こうして近鉄大和八木駅から、ここから出る方々総勢7人乗車のレンタカーで、生まれて初めての紀伊半島を横断する熊野・湯ノ口温泉に向かうドライブに出発した。
途上はとても幸せだった。
なんというごみ一つ見当たらない清流と新緑!日本では初めて見るごみ無しの新緑だった。
湯ノ口温泉のコテージ泊、ふんだんな木製の、広々とした間取りの部屋。
ここまではうっとりだった。
おお日本人よ!
母国に家族を残し、異郷の地で無残に殺害された李基允(イギュン)さんと裵相度(ペサンド)さんよ。
(熊野訪問の資料から一部要約して抜粋)
私たちは現地に行くのに、熊野の小さいが急峻な山また山を、幾多のトンネルを通って、ほぼ直線で快適に、湯ノ口温泉に到着しました。
資料に基づいて学びながら「木本事件」の現場をたどり、翌日は紀州鉱山の鉱夫たちが工事現場に通ったトロッコ車などを見聞し、木本トンネル前のお二人の追悼碑や、紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人の追悼碑にまいったのです。
全国各地で、公共団体だけでなく、石原産業、西松組など私企業までが、朝鮮人を強引に拉致したり、甘い言葉で連行し、粗食、重労働で酷使して病死や事故死に至らしめ、その犠牲者の名前も、遺骨の所在も、亡くなられた経緯も不明なままに、負の歴史を放置したのです。
ほかの方も触れられるでしょうが、重複するだろうと思いながら、私がこの虐殺の経緯の一部をあえて転記したのは、アメリカの指示による政府の報道管制に服従しているマスメディアが、「ロシアの侵攻」と罵倒してはばからないウクライナ問題に、あまりにそっくりだからです。
ウクライナで問題が激化した2014年以来、ロシア語を母語とする民族で親ロ的な東部ドンパス地方・ドネツク、ルハンスクなどを、ウクライナ政府が見て見ぬふりして、アゾフ連隊、ネオナチ、極右組織、そして、お定まりの警察官らが武装して襲撃し、マスメディアの公表でさえ14000人が殺害され、負傷や強姦や火あぶりは数かぎりがなかった現実によります。
しかもその襲撃は、2014年から2022年の今日まで、8年間絶えることなく続いていたのです。
マリウポリで、ロシアの攻撃によりウクライナ人が地下に避難していると、しばしば同じ映像が放映されますが、これら東部地域では、今回ロシアが救済に入るまで、襲撃を逃れて8年たっても地下で暮らす人々が無数におられたのです。
またマリウポリは、極右アゾフ連隊の本拠地、巣窟でもあります。
今では、ゼレンスキーは外国からの傭兵を含めて、彼らをすべて公式の親衛隊に採用していますが。
ウクライナがしてきたことは、住民、日本人の暮らしに便利なトンネルを散々掘らせておいて、木本で2人の朝鮮人を殺害しても知らぬ顔で、被害者を救済もせず、加害者である在郷軍人会、消防組、自警団、青年団を中心とする住民を、逮捕し罰することもしなかった三重県行政の対応と、そっくり、全く同じです。
地球のあちらとこちら、遠く離れてどうして同じ差別、迫害、虐殺が起こるのでしょう。
1926年当時の日本の権力構造は、絶対主義的天皇制でした。
天皇の名のもとに、資源を求めて中国満州に侵略する直前で、生活困窮などで闘いに立ち上がる国民が、次々に逮捕され拷問され、殺害さえされた時代でした。
そしてウクライナの2014年はオバマ大統領、バイデン副大統領、次男のハンター・バイデンがウクライナを訪れて、ウクライナ大統領などに根回しして、右翼を育て、巨額の富を収奪する仕組みを作ったときでした。
第二次世界大戦で日本が敗戦した時、敗北した日本に対し、アメリカは戦争の元凶天皇制の温存を図りました。
こうして、米国と日本の関係は、収奪する側、殺す側として今日ますます強固に維持され、日本の木本でも、ウクライナでも、世界の各所でも、米欧を軸とする同じ支配構造のもと、同じ迫害、虐殺が行われてきたのです。
そして、このような権力構造のもと、朝鮮人蔑視の社会風潮は、約100年たった今日にいたっても、心あるように思える人々の中にも優越感と裏返しの蔑視として潜み、常にゾンビのように吹き出しているのです。
このツアーには、多数の大学生の参加がありました。しかもその方々はほとんど在日朝鮮人の若者たちでした。
日本人の学生は正しい教育を受けたことがなく、第2次世界大戦も広島も知らないノンポリが多いのですが、在日朝鮮人はずっと差別される苦痛の中で育ってきています。
その苦しみは、苦しみに耐える力をはぐくみ、苦しみの原因探求に向かわせるのです。
とても仲の良い、全体を見ることのできる素敵な若者たちでした。
「ロシア侵攻」を利用して、雪崩に飲まれるように国防と軍備が語られるようになりました。
コロナの正体はろくに教育されず、唯々諾々とマスクをして服従の訓練を受け、友や地域での会話を失い、体力も脆弱にされてしまった私たちは、それでもこれからの参議院議員選挙や、憲法改悪、物価上昇、福祉切り捨ての激動に、立ち向かわねばなりません。
多様な参加者にそれぞれに暖かく保護され、いろいろな初体験、学びがありました。
そして朝鮮の方々が、木本や他の地でも、いつも日本のために働いてくださり、その便宜の上にのうのうと暮らしていることを感謝して、この旅を閉じます。
※絶対主義的天皇制(Wikipedia)
戦前、天皇が絶対的な権限をもって国民を支配した体制。1889年の大日本帝国憲法で法制化されました。天皇は、大臣の任免権、宣戦・条約締結の権利、軍の統帥権などをもち、勅令の名で法律も公布できました。このもとで、資本家と地主の利益を擁護し国民を無権利状態においた専制支配がおこなわれました。
手記2
黒い影
三村彰子
トンネルの入り口には たくさんの人がいた
身を寄せ合う 黒い影となって
私たちを見ていたろうか
ささやかな追悼集会を見ていたろうか
じっと動かない人影たち
怒りより冷たい
死そのものの姿
虐殺現場となった町
鳶口を頭に突き立て
引きづり 放置できる 「素朴な愛町心」
私はその中の一人なのだ
「居なかった」など言わなくていい
あきらかにその中の一人
美しい言葉はいらない
謝れるだろうか
許しを乞うてもいいのだろうか
地元の生活のためのトンネル工事を完成させると もう
虐殺された人々に
今日も次々に車は走り抜け
「当たり前」を享受している
いるのだ たくさんの人たち
物言わぬ人たち
黒く立ちつくし 射貫くように問いかける
「お前は一体何者なのか」と
手記3
嫌だ
三村彰子
誰かの囲いに入れられるのは嫌だ
らくー楽―とはたぶん任せてしまうこと
そうすると途端に自分ではなくなるー自分を放棄すると
細々とした自己否定が始まり
あがくこともかなわず感謝させられるー自分の納得はどこかへ押しやられ、諦め、微笑みすらして
疲労だけが増してー私は私を失うのだ
嫌なのだー誰かの何かの所属であることは 檻に入ってしまうのと同じ
窒息してしまいそうになる!
李基允(イギユン)さんと裵相度(ぺサンド)さんを追悼(ついとう)する集会(しゅうかい)
三重県熊野(みえけんくまの)では、1926年に日本人による流言飛語(りゅうげんひご)をきっかけとして武装(ぶそう)した地元住民(じもとじゅうみん)が朝鮮人労働者(ちょうせんじんろうどうしゃ)の飯場(はんば)を襲撃(しゅうげき)し、そのなかで二人の朝鮮人・李基允(イギユン)さんと裵相度(ぺサンド)さんが虐殺(ぎゃくさつ)される事件が起きました。改組三会(かいそさんかい)は、そのお二人を追悼する集会を、2021年11月27日午後1時から木本トンネルの入り口に建てられている追悼碑前で開催しました。
はじめに司会者がつぎのようにあいさつしました。
「住民が朝鮮人の若者を惨殺(ざんさつ)したこのような事件をくり返させないため、なによりも日本人自身がくり返さないために、過去に起こったことについて学び、その事実(じじつ)を伝えていくことが大切です。日本の社会は、このような歴史の真実を知ろうとする人を妨害(ぼうがい)し誹謗(ひぼう)する雰囲気(ふんいき)に満ちています。わたしたちは地元にもどって、このような朝鮮人虐殺の事実を知らない人たちに伝えていかねばなりません」。
そのあと、参加者全員が献杯・献花(けんぱい・けんか)をおこないました。
主催者として斉藤日出治(さいとうひではる)さんからこの1年間の会の活動についての報告がありました。
「昨年の11月7日の追悼集会の際に総会を開催し、そこで会の運営規約を決め、その規約にもとづいて、今日までオンライン会議、会報の発行などの活動を積み重ねてきました。わたしたちの運動は、会の内部にこもった閉鎖的な活動をするのではなく、多様な社会運動に取り組む諸団体とのネットワークを大切にする外に開かれた活動をしていこうという主旨で取り組まれています。
植民地支配(しょくみんちしはい)・侵略戦争(しんりゃくせんそう)の責任を追及する運動団体はじめ、障がい者差別、フェミニズム、部落差別といった課題に取り組んでいる諸団体とのネットワークが広がりつつあることを実感しています。
わたしたち改組三会を立ち上げる原動力となってくださった李在一(リジェイル)さんがこの10月に亡くなられました。李さんは、旧三会の活動のあり方を正面切って批判され、この改組三会を立ち上げるきっかけをつくってくれました。李さんの願いに応えるためにも、今後は、この運動を外に開かれ、次世代(じせだい)につなげる運動をつくっていきたい」。
続いて、追悼集会をまたずに亡くなられた李在一さんを偲(しの)んで、竹本昇(たけもとのぼる)が特別アピールをおこないました。
「この追悼碑の石は、李在一さんが三重の北に位置する四日市から山道をこえて南の熊野市のここまで運んでくれたもので、1994年に建立しました。李在
一さんを失った悲しい想いと李在一さんに対する感謝の想いで一杯ですが、李在一さんが残してくれた思い・決意・人間愛・植民地支配に対する怒りを大切
にしていかなければなりません。これからも、李在一さんがずっとずっと、私たちと一緒に居てくれるのだという気持ちで頑張っていきたい」。
特別アピールに続いて、李在一さんの連れ合いさんと息子さんが追悼集会に参加してくださったので、連れ合いさんから現在の想いを語っていただきました。
「夫は、この活動に強い思いを抱(いだ)いて生きてきた人だった。
療養中(りょうようちゅう)は完治(かんち)して活動(かつどう)に復帰(ふっき)するのだという強い意志をもっていたのですが、その思いも空しく、今年10月3日に亡くなりました。これからは、私のなかで夫の遺志を継いでいきたいと思います。子どもは、まだ8歳ですが、こういう集会に参加して、父親の歩んできた道をかいま見ることによって父の姿を追ってもらいたいな、と母親として思っているところです」。
参加者からは、以下のような発言がありました。
「この場に来られてよかった」、「来年は孫を連れて来たい」、「虐殺された朝鮮人が(有本湯(ありもとゆ))の前で無残に放置されたと聞いている」、「歴史の事実が事実として認められない日本社会にあって、その事実を学んだ私たちがその事実を知らない人に伝えていく責任がある」。
追悼集会の締めくくりとして、はじめて追悼集会に参加された森本忠紀(もりもとただのり)さん(森本さんは、毎週火曜日大阪府庁前で朝鮮高校無償化適用除外(ちょうせんこうこうむしょうかてきようじょがい)の抗議集会(こうぎしゅうかい)に参加されています)が、三線(サンシン)による追悼演奏をしてくださいました。はじめに、沖縄民謡(おきなわみんよう)を演奏(えんそう)していただき、続いて追悼音楽を朝鮮学校無償化適用除外に対する抗議の歌に替え歌したものを弾き語り(ひきがたり)で歌ってくださり、最後に参加者全員でアリランを合唱(がっしょう)しました。
追悼集会へ連帯のアピールが、関西生コンの弾圧(だんあつ)を許さない奈良の会、岐阜県地下壕研究会(ぎふけんちかごうけんきゅうかい)の安西玲子(あんざいれいこ)さん、在日本朝鮮人総聯合会奈良県本部常任委員会(ざいにほんちょうせんじんそうれんごうかい ならけんほんぶ じょうにんいいんかい)、絆準備会(きずなじゅんびかい)、在日本朝鮮留学生同盟 東海地方本部 副委員長(ざいにほんちょうせんりゅうがくせいどうめい とうかいちほうほんぶ ふくいいんちょう) 全裕誠(チョンユソン)さん、から寄せられました。
(報告 竹本 昇)
紀州鉱山で亡くなられた朝鮮人を追悼(ついとう)する集会(しゅうかい)
かつて紀和町(きわちょう)にあった紀州鉱山(きしゅうこうざん)では、1940-45年に1300人を超える朝鮮人が強制連行され働かされていました。これまでわかっただけでも35名の朝鮮人労働者およびその家族の方々がこの地で亡くなられています。わたしたちは、この地で亡くなられた朝鮮人を追悼する集会を、この日、午後3時より紀和町に建立した追悼碑の前で開催しました。
はじめに司会者が、李在一さんを偲んで、自分と李在一さんとの付き合いを語りました。30年前に別の集会で出会い、20年近く前に紀和町の追悼集会で再会し、その後毎年、追悼集会で顔を合わせるようになったこと、李在一さんが子どものカブトムシの採集に付き合ってくれたこと、などです。
その後、司会者は、李在一さんが『紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する除幕集会(じょまくしゅうかい)―報告と記録』(2011年)に寄せた原稿の文言を読み上げました。李さんいわく、「日朝(にっちょう)の懸け橋(かけはし)になる、ということが良く言われるが、それは侵略の事実を知らないままに語られるとしたら、無知を前提にした欺瞞的(ぎまんてき)なことばではないか、侵略の事実を否定したごまかしの日朝友好を唱える日本人を自分は許せない、そういうごまかしに怒ること、正しく憎悪することこそが必要なのではないか」。
続いて、全員で、献杯・献花をしました。
さらに、主催者あいさつとして、竹本さんが発言しました。
「この地で1300人の朝鮮人が鉱山労働を強いられ、わかっているだけでも35名が犠牲(ぎせい)になった。わたしたちはその事実を心に刻んで、多くの人にその事実を伝えていかなければなりません」。
そのあと、参加者全員が追悼に参加した思いを語りました。
「歴史の真実を知ることの大切さをあらためて思った」。「紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の方々を訪ねて韓国まで出かけたが、一日にバスが何本も通らない山奥の村から連行され、船と列車で紀州まで連れてこられ、同じく山深いこのような地で働かされ、生涯を終えさせられた朝鮮人のみなさんの無念をあらためて想う」。「「木本事件」では、朝鮮人が残虐(ざんぎゃく)に殺害され、その遺体(いたい)が地面に放置された。紀州鉱山では朝鮮人が名前も、遺骨(いこつ)もわからない状態で放置されている」。「わたしは何も知らないが、日々の暮らしを誠実に生きていくことが大切だと思っています」。「日本人のみなさんの歴史の事実に向き合おうとする気持ちに触れて感謝いたします。四日市では、朝鮮学校の75周年を祈念して子どもたちが演舞(えんぶ)をおこない、さらにドキュメンタリー映画も上映を予定にしている」。「橿原(かしはら)で、洞部落(ほらぶらく)という被差別部落が天皇のために強制移転させられた事実の究明(きゅうめい)をしている。李在一さんにこの究明を続けるようにと励まされた」。
最後に、大和高田市(やまとたかだし)から参加された森本さんの三線でアリランを唱和し、集会を終えました。
今回は、日帰りで、2つの集会を同日に開催したため、フィールドワークができずに、資料を配布しただけでした。初めての参加者もいたので、残念でしたが、次回の追悼集会では、フィールドワークを再開したいと思います。
参加者は多いとは言えませんが、組織動員(そしきどういん)ではなく、日常さまざまな取り組みをしているみなさんひとりひとりが熊野の地に集まり、異郷で命を奪われた朝鮮人の無念の思いをその日常の取り組みを通して向き合う共同の機会(きかい)をもてたことの大切さをあらためて感じます。ささやかな集まりですが、このような集まりのなかに新しい未来の社会を創造していく芽がほころんでいることを感じさせてくれる集会でした。(報告 斉藤日出治)