熊野・朝鮮から歴史をつむぐ会

――改組三会の名称を変えました。

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)を追悼する会

紀州鉱山の真実を明らかにする会

海南島近現代史研究会


三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・裵相度氏)の追悼碑

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允氏・裵相度氏)の追悼碑碑文

2024年4月27日~28日

追悼集会を開催しました

おおくの皆さんにご参加・ご協力していただきました

ありがとうございます

*以下の集会は終了しています*


今年も熊野の朝鮮人を追悼するために現地に集まります。

熊野でお二人の朝鮮人が地元住民に殺害された「木本(きのもと)事件」は、あと2年で 100年を迎えます。

紀州鉱山における朝鮮人強 制連行とともに、犠牲者に向き合い、現在を生きているわたしたち自身を問い直す場を設けます。 

集会案内はこちらです。

追悼集会の主旨とスケジュール

追悼集会報告2023年4月29日~30日

4月29日~30日、熊野に参集し、2つの追悼集会を無事に終えることができました。

熊野の地元、また各地から参加したみなさんがそれぞれ追悼の想いを発言されました。

以下、その報告です。お読みいただければ幸いです。

集会報告はこちらです。

 

熊野・朝鮮から歴史をつむぐ会

……改組三会の名称を変えました。


5月20日、奈良の朝鮮学校で奈良県日朝友好親善協会総会があり、その後の講演を「熊野の朝鮮人を追悼する」と題して、資料を配り、ぼくが1時間ほど話しました。(斉藤日出治)

202304-2.pdf

2023年4月29日() 

1330

熊野で虐殺された李基允さん、相度さんを追悼する集会


2023年4月30日() 

1100

紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会

熊野の朝鮮人を追悼する集会を開催しました。

*以下は過去のお知らせになります。*

2023年4月29日~30日

 1926年に三重県熊野で、ふたりの朝鮮人の若者李基允さん、相度さんがささいなトラブルから地元の住民によって惨殺される、という痛ましい事件が起きました「木本事件」と呼ばれています


 二人の朝鮮人は熊野と尾鷲を結ぶ木本トンネルをつくる工事のために熊野にやってきて、住民の暮らしをよくする仕事に取り組んでいました。ささいなトラブルをきっかけとして、そのお二人のいのちを朝鮮人差別の感情にかられた住民組織(在郷軍人会、消防組、青年団)が奪い去ったのです。わたしたちは、1994年にお二人の本名を刻んだ追悼碑を建立し、毎年、現地で追悼集会を開催してきました。


また、熊野にはかつて紀州鉱山という銅山がありました。1930年代後半から敗戦の1945年のあいだに1000人を超える朝鮮人が朝鮮半島から連れてこられ採掘労働を強いられ、わかっているだけでも家族を含めて35名の方が亡くなられています。私たちは、朝鮮人がどこから、どのようにして連れてこられ、どのように働かされていたのかについて調べたうえで、2010年に亡くなった朝鮮人の追悼碑を建立し、その追悼集会を開催してきました。


「木本事件」における朝鮮人虐殺、および紀州鉱山の朝鮮人強制連行は、熊野の地元においても、日本の歴史においても、忘れられた出来事であり、記憶から消し去られています。しかし、この国が行使してきた植民地主義と侵略戦争の歴史を21世紀のこんにちにおいて問い直すことは、わたしたちの未来を創造するために不可欠な営みです。熊野の地でかつて朝鮮人がどのように暮らし、どのように命を奪われたのかを学ぶことを通して、わたしたちは日本の植民地主義と侵略戦争を地域から掘り起こし、東アジアの民衆とともに生きるこれからの道を拓いていかなければなりません。


わたしたちは、本年も、熊野で命を奪われた朝鮮人を追悼する現地集会を開催します。そして、この追悼集会を通して、戦後日本の隠された歴史を学び、これからの東アジアのありかたをともに考え議論する機会にしたいと思います。多くの方々のご参加をお待ちしています。


主催 改組

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者

(李基允・相度)を追悼する会、

紀州鉱山の真実を明らかにする会、

海南島近現代史研究会】

連絡先  hide.saito1000@gmail.com

     09097123991 斉藤日出治

熊野の朝鮮人をたどるフィールドワークを開催しました。 2022年5月5日~6日

 5月5-6日に、わたしたちは、下記のような熊野のフィールドワークを実施しました。改組3会のメンバーだけでなく、民族差別や人権問題に取り組んでいる市民運動の関係者、留学同の若い朝鮮人、若い日本人の研究者など23名が参加しました。5日の夜は、湯ノ口温泉で交流会をおこない、70代の高齢者と20代の若者が意見を交換する貴重な機会を持つことができました。

 後日行われた運営会議の総括では、次のような感想が述べられました。

 『こんなに多くの朝鮮人、日本人の若者と交流することができて、大変だったけれど本当に行ってよかった、ここに参加した若者たちはたがいにかならずしも日常的な交流があるわけではなく、熊野のフィールドワークに参加することによっておたがいのつながりを生み出すことができた。その意味で、高齢者が若い人たちをつなぐ役割を果たすことができた。

 今後、このつながりをどのように持続させていくかが課題だと思う。

 李在一さんがまいた種がこのようなかたちで実を結んでとてもうれしい。』

 

 フィールドワークで撮った写真、および参加者の手記を随時掲載していきます。 

報告と手記はこちらです。

追悼集会報告2021年11月27日

 11月27日、熊野に17名が参集し、2つの追悼集会を無事に終えることができました。

熊野の地元、大阪、三重、静岡、奈良、愛知、福岡など各地から参加して、参加したみなさんがそれぞれ追悼の想いを発言されました(新しい参加者は3名でした)。

 以下、その報告です。なお、追悼集会に参加されなかった団体、および個人のみなさんから5件の連帯のメッセージをいただきました。それもホームページに掲載していますので、合わせてお読みいただければ幸いです。

集会報告はこちらです。

改組3会追悼集会へ連帯メッセージをお寄せいただきました。

どうもありがとうございます。

関西生コンの弾圧を許さない奈良の会

 11月27日に開催される熊野の朝鮮人追悼集会に熱い連帯のメッセージを送ります。

 関西生コンの連帯労組に対する大弾圧は、戦後最大規模のものと言われています。このような大弾圧を許した原因として、ストライキ、あるいはコンプライアンス活動といった生コン産業を民主化するための正統な労働運動が「反社会的な犯罪」であるかのようにして市民社会に受け止められていることが挙げられます。日本の市民社会でなぜそのような受け止め方が定着しているのでしょうか、日本のマスメディアが連帯労組の運動の社会的な意義を主体的に判断しその情報を市民に提供することができずに、在特会のようなヘイト集団が垂れ流すSNSの虚偽情報に依存して、それに対抗する情報を組織できていないことにその大きな原因があります。

 熊野で1926年に「木本事件」が起きたのは、そしてその3年前の1923年に関東大震災で朝鮮人・中国人の大虐殺がおこなわれたのも、官権や関東地域で発せられた流言飛語(「朝鮮人が井戸に毒を入れた」といったような)が大きな契機となっています。当時のメディアは、政府が垂れ流す虚偽情報や日本人民衆の流言飛語に対抗して市民に正確な情報を伝えようとすることができませんでした。その同じことが、あれから100年近くが経過しようとしている現在のこの国でくり返されているのです。

 関西生コンの連帯労組に対する弾圧に抗議する市民の運動が、熊野の朝鮮人虐殺を問う貴組織と連帯する意味はここにあります。ともに闘いましょう。 

安西玲子さん

 私は岐阜県地下壕研究会をやっています。

 紀州鉱山などの調査をしていた故金蓬洙、金唱律さんたちの教えのお陰で岐阜県の地下壕研究をしてますが、彼等が亡くなってから続いて亡くなる人が出てきて今はコロナもあり、活動が中止です。

 そんな中、愛知県立大学の学生さんが卒論を地下壕にしてくださり、先月朝鮮学校バザーと、何年も続く地元の人がやる、地下壕慰霊祭に来てくださりいろんなお話をさせていただきとても楽しかったです

 今、これだけ歴史がないがしろにされ、時として被害を受けてる日本みたいに感じることがあります。歴史を学ぶのでなく、歴史に学ばないといけないのに。これでは強制連行、労働でなくなられた人達がゆっくり寝られない。

 悔しい思いを持ちながら寝ることもありますが、大学生さんが来てくださり、いろんな方々に挨拶や、話をしてくれて嬉しかったです。

 皆さんが卒論ができたら見せてほしいと。久しぶりに前向きになれた1日でした。

 慰霊祭には失礼しますが、一人でも多くの人に伝えていけたらと思います。

在日本朝鮮人総聯合会奈良県本部常任委員会


熊野の朝鮮人追悼集会へのメッセージ

 朝鮮人労働者であった李基允さん、相度さんは故郷の朝鮮を離れ1926年に三重県熊野市で20代という若さで、異国の地でお亡くなりになりました。生活を便利にするトンネルを作っていたお二人は心無い人々によって無残にも虐殺されてしまいました。この痛ましい出来事から早や95年が経ちました。私たち在日朝鮮人は日本に住んでいる朝鮮人としてお二人の死をとても悔やむ思いです。故郷の朝鮮を離れて仕方がなく日本に働きに来なければならなかったのも、異郷の地で殺されたのも、天皇制のもとにすすめられた日本の侵略戦争と植民地支配、そこからつくりだされた朝鮮人差別が原因です。

 古来から朝鮮半島との交流がある奈良県でも戦時中には天理市の大和海軍航空隊基地(柳本飛行場)で朝鮮人労働者の強制連行が行われ、朝鮮人女性の慰安所まで置かれていました。また今日にも、朝鮮高級学校の「高校無償化制度」からの除外、朝鮮幼稚園の「幼保無償化制度」からの除外など、差別がまかり通り日常化しています。

 日本政府は軍国主義による朝鮮の植民地支配の過去清算、歴史的責任をしっかりと果たさなければならず、解決無くしては新たな日朝関係を展望することはできないと思います。。

 私たちは日本政府の植民地清算を強く要望するとともに、幅広い日本の方々と手を取り合って相互理解と交流を深めていきたいと思います。

 これからも頑張っていきましょう。

 2021年11月27日

絆準備会(きずなじゅんびかい)


 熊野の朝鮮人追悼集会への連帯のメッセージ

 2021年の追悼集会にあたり、東京の絆準備会(きずなじゅんびかい)から連帯のメッセージを送ります。

 現代社会は驚くほどの速さで戦争へ向かっていることは皆さんも実感されていることでしょう。

 私たちは、戦争がぐんぐん迫ってきていて、もはや後もどりがきかないほどさし迫ってきたと感じています。

 「63年後からの出発-朝鮮・日本民衆の真の連帯をもとめて」(「追悼碑を建立する会」が1991年に発行した冊子)、に込められた燃え上がる情熱とたたかいの精神に立ち返り、再出発していくべき時が来たのだと思います。

  

 30年前、追悼碑を建立し追悼しようという運動が実に多くの賛同・支持・期待を集めたのはなぜでしょう。

 民衆の苦闘の歴史に学び、広く民衆の志と情熱を一つにして、植民地支配と侵略戦争の歴史に今こそ終止符を打つ行動が大切だとの思いが広範に共有されていたからではないでしょうか?

 

 私たち絆準備会は障害者差別に屈せず、ともに生きる実践活動を積み重ねながら熊野の追悼運動に参加し、昨年からは改組三会の結成に参画し、とりわけ李在一(リ・ジェイル)さんと貴重な討論・交流をしながら活動してきました。

 李在一さんの遺志をも引き継ぎ、これからもヤマト国家、日本国と日本人・日本民衆が歴史のなかで踏みにじってきた多くの民衆の持続的・民族的抵抗闘争の歴史を深く学んでいきたいと思います。

 加害の責任を明らかにし、責任者を処罰し、賠償させる闘いを通して、反省と償いの第一歩を印していきたいとおもいます。

 

  運動にありがちな独善に陥ることなく互いに共感し、学び合い、支援し合い、差別・抑圧・搾取と闘う全ての民衆の真に連帯した力で弾圧を打ち破ることによって、闘うあらゆる人々のネットワークを作り出せると信じます。

 空論だという人もいますが、それが戦世(イクサユ-)を打ち破るただ一つの力ではないでしょうか?

 ともに闘いましょう。

 2021.11.27

在日本朝鮮留学生同盟 東海地方本部


 追悼集会に参加されておられます皆様、大変な中本当にご苦労様です。昨年度から猛威を奮い続けております新型感染コロナウイルスの拡大防止策や、それに伴い生活が苦しい人々に対する国の政策を見ても、本当にマイノリティや立場の弱い人々が生きやすい世界とは程遠いと言えるような社会で生きていることを実感させられる毎日でございます。そんな中、無念の死を遂げたイギユン氏、ペサンド氏や、紀州鉱山で亡くなられた多くの在日朝鮮人労働者たちを追悼し、今もなお奪われ続けている人権を回復することは容易なことではありません。私たち留学同は、まだまだ知識も経験も浅い在日朝鮮人学生の集まりではございますが、歴史を学ぶ中で過去と向き合い、声をあげながら差別や矛盾と戦っていけたらと思っております。皆様とともにこれからも手を取り合い、闘っていけることを光栄に思います。

在日本朝鮮留学生同盟 東海地方本部 副委員長 全裕誠

2021年11月27日(土)の熊野の朝鮮人追悼集会は終わりました。

おおくの方々からご協力、ご参加いただき、どうもありがとうございました。

集会内容は、過去の集会ページにあります。

過去の集会ページはこちら

追悼集会

2020年11月7日 李基允さん、相度さんの追悼集会

2020年11月8日 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集会

改組3会の結成


「三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・相度)の追悼碑を建立する会」、「紀州鉱山の真実を明らかにする会」への連帯のメッセージをお寄せいただきました。

どうもありがとうございます。

関生弾圧を許さない奈良の会 


11月7日に熊野で開催される2つの追悼集会にこころより連帯の意を表します。

 わたしたちが支援する関西生コンの連帯労組は、労働運動を、社会を創造する運動として位置付け、日本の植民地主義や沖縄の辺野古基地移転阻止に対する闘いをみずからの課題として取り組んできました。日本の侵略責任に向き合い、熊野の地域からその取組みを長年にわたって続けている貴会に心より連帯の意を表します。

 2020年11月7日      

関生弾圧を許さない奈良の会 

長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会  


貴会より追悼集会のご案内を頂き、感謝申し上げますとともに、志を同じくする貴会とこのように繋がったことを心より喜んでいます。

太平洋戦争中の1942年2月3日山口県宇部市にある長生炭鉱という海底炭鉱で大規模な水没事故が起こり、その事故で亡くなった183名の犠牲者のうちの実に7割を超える136名が、韓国・朝鮮の方々でした。

戦時中の大事故でありながら、翌日の山口朝日新聞では、「入坑者の大半が救い出された」と、虚偽の報道がなされ、それ以降、この事故は歴史の闇に隠蔽されました。

しかし、1970年代後半には心ある地方史研究者の努力の甲斐あって、この惨劇が徐々に明らかにされ、その事実を後世に伝えようと1991年3月に「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」が発足し、①現地に全犠牲者の名と日本人としての謝罪・反省を刻んだ追悼碑の建立 ②ピーヤ(排気排水筒)の保存 ③証言、資料の収集と編纂を目的に活動してまいりました。

 幸いにも「殉職産業人名簿」(大日本産業報国会編)が手に入り、日本からお詫びのお手紙を犠牲者あてにお送りしました。いわゆる「死者への手紙」です。そこから遺族の皆様と繋がり、92年には韓国遺族会が結成され、93年以降、市民の募金によって毎年ご遺族を日本にお招きし、現地で追悼式を行って来ました。この韓国遺族会の存在が、何より私たちの運動を長年支え続けてくれています。

長生炭鉱は法律をおかして浅いところを掘り進めていて危険な炭鉱だと知られていたため、地元の人は避けており、そのため、国民徴用令が出た1939年以降、1258人もの若者が長生炭鉱に連行され、地元では「朝鮮炭鉱」と呼ばれていました。

彼らは3.6mの塀に囲まれた収容所に入れられ、1日12時間の労働を強制されていて、脱走する人も多く捕まって殺された方もいました。彼らの置かれた悲惨な状況は一言ではとても説明しきれません。

刻む会が発足して22年後の2013年にやっと念願の追悼碑が建立され、総費用は約1400万円かかりましたが、すべて市民の皆様の募金で作りました。

その「長生炭鉱追悼ひろば」に、加害の歴史についての反省と強い反戦の意思を表す追悼文もあります。機会がありましたら、ぜひ一度訪れていただきたいと思います。

強制連行や強制労働の事実を負の歴史として隠ぺいすることは許されません。そこには捨て置かれた朝鮮人の方々の命があるのです。彼らを歴史の中によみがえらせることが私たちの使命と思います。

 ご遺族は初来日の時より「遺骨の発掘・返還」を第一に宇部市及び山口県に要請されてきましたが、私たちは自らの力の弱さを理由に正面から受け止めることができず、2013年の追悼碑建立という大事業を成し遂げた力で、遅ればせながら「遺骨収集・返還」を第一の課題にかかげ現在に至っています。

長生炭鉱の遺骨問題を、強制連行、強制労働の象徴的な課題へと世論を押し上げて、日韓両政府が共同の事業として遺骨収集に取り組んで頂ければ、両国の和解と平和に向けた動きは大きく加速するのではないかと思います。

刻む会は、韓国行政安全部「遺骸奉還課」との強い連携もでき、日本政府に遺骨収集返還を遺族会と共に力強く粘り強く今後も要請していきます。

長生炭鉱のご遺族のもとにご遺骨を一日も早く返還できるよう、どうぞ、皆様方のお力添えをこの場をお借りしてお願い申し上げます。

 終わりにあたり、紀州炭鉱で犠牲になられた朝鮮人の皆様方の魂がふるさとで心休まる日が訪れるよう心より祈念申し上げます。

共に手を携えて加害の歴史を明らかにし、犠牲となられた方々の人権を復権して、市民の歴史認識を変えていきましょう。そこにこそ日本の未来があります。

今日はありがとうございました。

長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会 共同代表 井上 洋子 

岐阜県地下壕研究会   


今年は、朝鮮学校バザーへ行きますので参加できなくて申し訳ないです。

昨年、初めて参加させて貰い感動しました。

こうして心ある人達が遠方から来てくださる、水平社宣言にある団結せよ、の通り団結して歴史改竄、差別等なくしていかないとと痛感してます。

2020117日         

岐阜県地下壕研究会、安西玲子