きのこ会のメッセージ

  私たち「きのこ会」は 核兵器の廃絶を 強く求めます

核兵器禁止条約発効によせて

 原爆小頭症被爆者と家族の会である「きのこ会」は、核兵器禁止条約が発効したことを全面的に歓迎します。

 核兵器は単に「巨大な威力を持つ爆弾」ではありません。ひとの細胞を遺伝子レベルで傷つける人類史上類を見ない「悪魔の兵器」です。被爆の後、生き残ったと思っていた者の命をも奪います。核兵器から発せられる放射線は、がんなどの致命的な病を誘引します。しかし、それがいつ発症し、いつ命を奪うのかはわかりません。いわば「見えない時限爆弾」を人体に埋め込むようなものです。しかもそれは被爆から75年たった今もなおかつ被爆者たちを苦しめ続けています。

 核兵器の放射線は、戦場から最も遠いはずの、母親の胎内で芽生えた小さな命をも傷つけます。原爆小頭症は、妊娠早期の胎児が核兵器の強力な放射線にさらされることでおこります。放射線の影響で、原爆小頭症被爆者の多くは、生まれながらに脳の発達などが妨げられ、知的障害、内臓疾患、股関節の異常、指の欠損など様々な障害を負いました。もし母親のお腹の中で被爆することさえなかったら、彼らはまったく別の人生を歩んでいたはずです。

 私の兄は爆心地から900メートルの木造家屋の中で胎内被爆した原爆小頭児です。まもなく75歳になりますが、今も簡単な計算すらできません。買い物ではどんな小さなものでも必ずお札を出します。お札を出せばお釣りが返ってくるからです。兄の財布は小銭でいっぱいですが、彼はそれを使うことはありません。小銭の使い方がわからないからです。

 あるとき兄は私に言いました。「わしが原爆にあわんかったら、どうなったと思う?」。私は答えに困りました。

 知的障害のある小頭症被爆者たちは、自らの口で「核兵器の廃絶」とは言いません。しかし、その存在そのもので、核兵器の非人道性を訴えています。

 核兵器禁止条約は、その前文において「全廃こそがいかなる状況においても核兵器が二度と使われないことを保証する唯一の方法である。」と記しています。この前文のメッセージを、核兵器保有国は真摯に受け止めてください。「唯一の戦争被爆国」を自認し、非核三原則を掲げる日本国政府は、核兵器禁止条約に署名・批准をしてください。

 原爆小頭症の子どもと家族の悲劇を繰り返さないために、核兵器禁止条約が実効性を伴うものとなることを心から願います。

2021年1月22日

  きのこ会(原爆小頭症被爆者と家族の会) 会長 長岡義夫

賢人会議 NGOとの意見交換会(2017年11月28日)

きのこ会会長 スピーチ 全文


 私は原爆小頭症の被爆者と家族の会「きのこ会」の長岡義夫と申します。

 原爆小頭症とは、妊娠早期の胎児が母親のおなかの中で被爆したことによっておこる、原爆後障害のひとつです。人間としての器官が形成される胎児の時に強力な放射線を浴びたことで、脳の発達などが妨げられ、知的障害、内臓疾患、指の欠損、股関節の異常など、様々な障害を負って生まれてきた最も若い被爆者です。生まれながらに体が弱く、一生治ることはありません。

 私は被爆2世ですが、3歳年上の兄が胎内被爆をした原爆小頭症です。原爆が投下されたとき、兄は爆心から900mの木造家屋にいた母のおなかの中で被爆しました。妊娠3ヶ月の胎児でした。母は被爆後1カ月にわたって、高熱、吐き気、下痢、歯ぐきからの出血、斑点、脱毛など、急性放射線障害に苦しみました。生死の境をさまよいながら、被爆から6か月後に、1,406gの兄を出産しました。兄には知的障害があります。71歳になった今も、簡単な計算すらできません。兄は買い物でどんなに小さなものを買うときも必ず千円札を出します。お札を出せば、店員さんが計算をしてくれるからです。おかげで兄の財布は、いつもお釣りの小銭でいっぱいです。しかしその小銭を使うことはありません。小銭の使い方がわからないからです。身の回りのこともできないため、母が亡くなってからは、妹や私が定期的に兄のもとに通い、掃除や洗濯、食事の準備などをしています。

 原爆小頭児の親たちは、自活が難しい原爆小頭症の子どもについて「自分より先に死んでほしい」と言いながら亡くなりました。

 もちろんこの世の中に、子どもに死んでほしいと本気で考えている親がいるはずはありません。それでもなお、「先に死んでほしい」と思う親の心。賢明なみなさんであれば、お分かりになるはずです。

 ある時、兄は私に言いました。

 「義夫、わしは原爆にあわんかったら、どうなったと思う?」

 私は何と返答していいのか困り、「少しは違っていたかもしれんのぉ」と答えました。

 兄は、母親の胎内で原爆に合うことさえなかったら、自分が選んだ人生を歩んでいたはずです。しかし、兄はその機会を奪われました。兄の人生は幸せだったのか、と考えると胸が苦しくなります。

 私は「正義のために」という言葉を信じません。なぜなら、戦争にかかわるすべてのひとは、それぞれ自分たちが「正義だ」と思っているからです。それは、テロリストたちも同じです。

 「A」という国が持っている核は「正義を守るための核」で、「B」いう国が持っているのは「悪い核」、などと言っているうちは、核兵器をめぐる状況は永遠に変わることはありません。

 核兵器は、母親のおなかの中にいる胎児をも傷つけます。胎児は兵隊ではありません。最も戦闘から遠い存在である胎児を傷つける兵器が、平和を守ることが出来るはずがありません。

 核兵器の廃絶に、理由も順序もありません。人道に反している兵器は、廃絶しなければならないのです。

 兄をはじめとする原爆小頭症の人たちは、「核兵器廃絶」などと意志をもって言葉にすることはありません。「普通の体に戻せ」と訴えることもありません。しかし、彼らはその存在そのもので、核兵器の非人道性を世界に訴えています。核兵器は絶対悪なのだと、身をもって世界に示しています。

 世の中の人々は大きな声で強い言葉を発する人の言うことを信じるのかもしれませんが、大切なことは、言葉に出せないところにこそ、あるのではないでしょうか。

 広島に原爆が投下されてから72年がたちました。みなさんは、原爆の影響は終わったものとお考えでしょうか?確かに広島の町は、ほかの町と変わらず美しく復興を遂げました。しかし、原爆が残した傷は、今も私たちを苦しめています。

 私の思いは、ただ一つです。

 「二度と再び、原爆小頭症の人を生み出してはならない。」

 核兵器の廃絶こそが、私たちきのこ会の願いです。

 ありがとうございました。

きのこ会の「灯」受け継ぐ

(平尾直政,2010年,広島ジャーナリスト復刊第1号』日本ジャーナリスト会議広島支部)
 ※注 文中のデータは、2010年当時のものです


 「燈燈無尽」。私はこの言葉を、きのこ会初代会長・畠中国三さんに教えてもらった。「1本のロウソクは必ず燃え尽きてしまうけれど、消えてしまう前に次のロウソクへと移し続けてゆけば、その炎は永遠に燃え続ける」という意味だ。人の記憶や体験もロウソクの灯と同じ。畠中さんは自らの体験の記憶と核廃絶への思いを次の世代に受け継いでほしいと願っていた。

 「原爆小頭症って、初めて知りました。」

 私はこれまでテレビとラジオで原爆小頭症をテーマにしたドキュメンタリー番組を作ってきたが、そのたびに寄せられる感想の多くが、これだった。原爆小頭症。妊娠早期に母親の胎内で強力な放射線を浴びたことによってうける原爆後障害の一つで、身体と知能に障害を伴う。決して治ることはない。2010年3月現在、22名が国からの認定を受けている。標準より頭囲が小さいことから小頭症と名付けられている。原爆が投下された翌年に生まれたために被爆2世と誤解されることが少なくないが、母親の胎内で被爆した「最も若い被爆者」である。患者と家族の多くはメディアの取材を拒み続けており、テレビや新聞などで取り上げられることも多くない。

 ABCC(原爆傷害調査委員会)では、早くから胎内被爆児の調査を行い原爆小頭児の存在を確認していた。しかし、研究データとして処理されるのみで、一般には明らかにされていなかった。ABCCの調査を受けたある患者の親は「子供の障害は妊娠中の栄養失調が原因であり、原爆とは関係ない」と説明を受けたという。「このような障害のある子はウチだけだ」と考えていた家族も少なくなかった。情報不足により患者と家族は「被爆者が障害のある子を産む」という間違った見識からの差別や偏見に苦しみ続け、社会の片隅で隠れるように生きてきた。

 「げんき?」「きょうは、うたのれんしゅうをしてきたよ」

 2010年3月、広島市の平和記念資料館に9人の原爆小頭症患者が集まった。患者と家族の会「きのこ会」の総会に出席するためだ。きのこ会では毎年1回広島市内に集まって旧交を温めながら、それぞれが抱える悩みを相談しあっている。きのこ会に所属する原爆小頭症患者は全国に18名いるのだが、会合に参加できる会員は、年々少なくなっている。障害のある子供を支え続けた親の多くは亡くなった。今年64歳となった本人に「老い」と「孤独」が迫っている。

 原爆小頭症患者の存在を明らかにしたのは、ひとりのジャーナリストの取材活動がきっかけだった。秋信利彦さん(75歳)。中国放送の記者として、1975年に日本記者クラブが主催した昭和天皇記者会見で「戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか」との質問を行った。彼は広島を代表するジャーナリストのひとりであるが、報道現場一筋だったわけではない。当時、その存在すら知られていなかった原爆小頭症の存在を明らかにしたとき、秋信さんは、放送の現場から外され、営業部門のサラリーマンだった。

 「被爆から20年たった広島の現実をルポしよう」1965年、山代巴さんが中心となって、広島のジャーナリストや作家が集まった。「広島研究の会」である。秋信さんは、風早晃治のペンネームで参加した。原爆スラムや沖縄の被爆者など、ひとり一つずつテーマを見つけるなかで、秋信さんは「胎内被爆者」に着眼し、ABCCに話を聞きに行った。

 「胎内被曝と原爆症はまったく関係はない。一部に頭が小さく知恵遅れの子供はいるが、それが原爆によるものかはわからない。神様のみが知ることだ。」

 ABCCの準所長は秋信さんに論文を差し出した。1952年にABCCのG.プルーマー氏がアメリカで発表した「広島市における胎内被爆児童に発現した異常」である。論文の中には、1200m以内で被爆した11名の妊婦うち7名が小頭症および精神遅滞の児童を出産したと記していた。秋信さんは準所長に聞いた。

 「なぜこれまで、この事実を隠していたのか?」

 「だって、あなた方が聞かなかったでしょ。」

 結局、ABCCでは患者の名前などの情報を得ることはできなかった。広島市の原対課でも取材をしたが、係官は何も情報を持っていなかった。秋信さんは入手した論文などわずかな資料を基に、独自に調査を始めた。営業部門にいた彼は、午前中に仕事を済ませ、午後からは「外回りに行く」といっては施設や学校の養護学級などを探し歩いた。そして、ひとり、またひとりと原爆小頭児を見つけていった。秋信さんがこのとき辿りついた患者は9人。彼らは何の援助の手をさしのべられる事もなく、社会的に放置されていた。取材を続ける中で、ある親から言われた言葉が秋信さんの胸に深く突き刺さった。

 「あなたたちは本を出してしまえば、それで終わりでしょう。でも、私たち親子はこれから世間の目にさらされ続けて生きなければなりません。それともあなたは責任をもって一生つきあってくれるのですか?」

 曖昧に「はい」と答えた秋信さんは、帰りながら途方に暮れた。グループに帰って相談すると、山代巴さんは即座に「集まること」を提案したという。そして、その年の6月、小頭症患者6名の家族が集まった。「きのこ会」の誕生である。きのこ会という名前には、「きのこ雲の下で生まれた命。たとえ日陰で暮らしていようとも、落ち葉を押しのけ成長するきのこのようにすくすくと育ってほしい」という親の願いが込められた。広島研究の会からは、秋信さんのほか、中国新聞社の大牟田稔さん、作家の文沢隆一さんが、事務局として支援を行うこととなった。

 当時、原爆小頭症は被爆者医療法の対象から外されていた。病気ではあっても治療法がないという理由である。どの家族も、ABCCから調査の協力を求められていたが、一切治療は行われず、原爆との因果関係も認めてもらえはしなかった。

 きのこ会では設立に際し、活動の柱として次の3つの項目をテーマとして設定した。

 ① 原爆症認定、②原爆小頭症患者の終身保障、③核兵器廃絶と恒久平和

 きのこ会の親たちは、街頭でのビラまきや官庁や政治家への陳情など、精力的に活動を続け、二年後の秋に会員6名の原爆症認定を勝ち取った。病気ではない原爆小頭症を「近距離早期胎内被爆症候群」という名前を作り「病気」として認定するという、裏技のような手続きだった。きのこ会の3つの柱のうち、不十分ではあるにせよ、原爆症認定と終身保障については一定の成果があったといえる。しかし、核兵器廃絶ついては、会員全体が同じ方向を向いていたわけではなかった。

 初代会長の畠中国三さんは、「核廃絶のためには広く世に訴えねばならない」という信念を強く持ち、原爆小頭症患者である娘の百合子さんとともに、国内外のメディアの取材を受け続けた。「20年は生きられないと言われた原爆小頭症児。この子の存在は何であるかと考え続けてきました。そして出た答えが『この子は核廃絶の生き証人だ、核廃絶を訴えるためにこの子は生まれている…』毎日毎日、黙って座っているだけです。テレビを見て座っているだけです。その姿そのものが、核の被害なんです。」力強く話してくれる畠中さんの目は、すこし悲しく見えた。

 たとえ気持ちがあっても、表に出られる親は多くなかった。2代目会長の長岡千鶴野さんは、すべての親の代弁者として駆け回った。1976年の原爆の日、「被爆者の声を聞く会」に被爆者代表のひとりとして出席し、三木首相と会見した。「私は被爆当時、妊娠していて原爆に遭い、子を産みました。その子は原爆で知恵遅れにされたのです。治療不能なこの子たちが、原爆医療法で守られていること。この矛盾をよくご理解いただきたい。」お腹の子どもは認定を受けても、母親は認定されなかった。多くの家族は貧しい母子家庭であり、生きるためには働かねばならず、自らの原爆後障害にかまう余裕がなかったのだ。

 1982 年、ある女性週刊誌に「原爆小頭症の親子が、工場の片隅の小屋に見捨てられ、悲惨な生活を送っている」といったセンセーショナルな記事が掲載された。記事中に「工場の片隅の小屋」と書かれた住居は、実際は親子の窮状をみかねた工場主が好意で提供してくれたもので、そのことは取材記者も理解していたはずだった。報道されることによる「痛い思い」をしてきた会員にとって、メディアへの不信感は決定的となった。「きのこ会」では、会員のプライバシーを守るため、事務局以外は取材に応じないこととした。事務局の3人が会員たちの盾となった。本来取材する側のジャーナリストが、事務局として取材者に対しての壁となる・・・力の弱い家族を守るためには、そうした強硬な態度も必要だったのであるのだが、そのジレンマは想像に難くない。閉ざされた会となったきのこ会がメディアに取り上げられる機会は減り、取材者の間にも「小頭症はなかなか取材できないんだ」との空気が流れた。

 しかし、1991年、流れが変わった。小頭児を育て続けていた親たちが年老い、支えることが難しくなった。マンパワーの必要性を会員たちが感じ始めたのだ。5年に1度開かれていた誕生日会で、事務局の大牟田稔さんが「社会に開かれた会への転換」を提案した。お祝いムードの会の空気が一変した。ひとりメディアに出ることを厭わず核兵器廃絶を訴え続けていた畠中国三さんは、「今まで拒み続けていて、急に助けてくれと言っても誰も相手にしてくれない。」と声を荒げた。他の親たちの代弁者でもある長岡千鶴野さんは、一所懸命に会の苦しさを説明した。はじめてこの会の取材に来ていた私は、二人のやりとりを夢中で撮影した。畠中さんは、レンズを指さしながら「これまでカメラがいるだけで、この会は大ごとだった。長い鎖国が悔やまれる」とつぶやいた。

 このときの方針を受ける形で、1996年、ボランティアによる「きのこ会を支える会」が結成された。私はそれに参加した。当初はジャーナリストの参加者はいたが、転勤や配置転換とともに疎遠になって、気がつけばメディアの人間は私だけになっていた。

 私は休みのたびに患者を訪ね、ひとりずつ関係を築いていった。知的障害のある子が年老いた親を支えるケース、両親ともに亡くなりひとりぼっちになったケース、広島から離れた地域で暮らし周りの理解不足に苦しむケース・・・患者たちの置かれた状況は十人十色。それぞれが異なる課題を抱えていた。子供たちを支え続けた親はみな年老い、会合に参加する姿が、ひとり、また一人と減っていった。2002年に長岡会長が亡くなり、代わりに会長を務める体力のある親はいなかった。きのこ会は会長不在となって、運動の方向性を見失ってしまった。

 2005年、きのこ会59歳の誕生会に、畠中国三さんが小頭症患者の娘を家に残し、ひとりでやってきた。娘を連れてくるだけの体力はなくなったが、どうしても会員たちに最後の思いを伝えたいという思いからだ。いつも会合の様子を撮り続けていた一眼レフカメラを持つ手が震えていた。限界だった。懇親会的な雰囲気の中で、畠中さんは国家補償を求める必要性を会員たちに説いた。しかし、年老いた親と老いにさしかかった知的障害のある子らの輪の中で、その話が広がることはなかった。きのこ会は、集まることだけが目的となった。畠中さんは体調を崩し、この誕生会を最後に会に出席できなくなった。

 2008年、畠中国三さんが亡くなった。訃報を聞いたある会員がつぶやいた。

 「私たち、これからどうしたらいいんでしょう・・・」私はそれに答えることができなかった。しかし、畠中さんの死亡記事を読んだ家族のひとりが声をあげた。「私でよければ力になりたい」と。2代目会長・長岡千鶴野さんの次男、長岡義夫さんである。これまで、きのこ会に患者の兄弟が関わる機会は少なかった。社会的無理解にさらされる中で、一番辛い思いをしてきたのは、兄弟である。できるだけ関わり合いになりたくないとの思いを持つ兄弟は少なくない。中には絶縁状態となっている家族もある。たとえ会合には参加はしていても表には出たくないという方がほとんどだ。私は事務局として、兄弟である長岡さんからの申し出に、一筋の光明を見る思いがした。そして、畠中さんが語っていた「燈燈無尽」を思い出した。きのこ会の親たちが灯し続けた小さな炎は消えてはいなかった。

 翌年春に開かれた誕生日会は、畠中さんの追悼の会となった。呼吸器疾患で外出もままならなくなった秋信さんも酸素ボンベを傍らに出席した。これまで参加していなかった親族も姿もあった。そして、義夫さんは3代目の会長となった。きのこ会の中心が親から兄弟に移った。

 きのこ会のおかれた状況は、年を経るごとに苦しくなっている。広島以外に暮らす会員は、頼れる相談相手のいないまま、厳しい生活を強いられている。支え続けてきた親が亡くなり、ひとりぼっちで暮らす会員も少なくない。知的障害に加え、四肢や内臓に疾患を抱える彼らにとって、いま本当に必要なものは、支える力、マンパワーである。まず周囲に理解者を増やすことが必要であり、そのためには、知ってもらうことが大切だと私は感じている。しかし、きのこ会とメディアとの関係は、これまで良好であったとは言いにくい。事務局があえて壁となっていた時代もあるが、なにより、会員たち本人が経験した「痛み」と「戸惑い」が、メディアとの間に壁を作っている。

 細心の注意を払いながら取材をしても、取材者自身が対象者を傷つけてしまうことがある。「母は生前、マスコミの人は一度取材を承諾すると床の間まで土足で入ってくるんだよ、と言っていたが、本当ですね。」私がある原爆小頭症患者の家族から言われた言葉だ。「記録することと発表することは違う。」これまで隠し続けてきた体験を晒す事は、当事者にとって辛いことだ。「どうか放っておいて欲しい…」彼らの本音である。核兵器の罪を訴えるために自分たちの経験を記録に残すことについて、多くの会員は賛同している。しかし、それを公表されることについては、心に引っかかりを持っている。そんな中で「他の会社はイヤだけど、あなたにだけには伝えたい」と言ってくれる人がいる。私と他の取材者とで、基本的な取材姿勢に変わりはないはずだ。もし違いがあるとすれば「信頼関係」だけだろう。

 原爆小頭症患者の抱える問題は、老いをむかえた知的障害者のいる家庭のそれと表面的には大きな変わりはない。しかし、彼らの障害はけっして運が悪かったわけではない。胎児の時に被爆さえしなければ、少なくとも現在のように苦しむ事はなかった。彼らの苦しみは、原爆の放射線こそが原因なのである。原爆小頭症患者と家族の苦しみは記録しなければならない。きのこ会では、この夏、新しい活動方針を定めた。①核兵器廃絶、②終身保障、③原爆小頭症患者と家族の記録、の3つの柱だ。3つめの「記録」は、今は亡き親たちが望みながらも実現できなかった事である。事務局であった故・大牟田稔さんは「八月の沈黙」のなかで、記録することの難しさを語っている。当然、きのこ会の中に記録を残すノウハウはない。できれば取材し記録するプロフェッショナルの力を借りたいと、私は勝手に思っている。広島の取材者が「ヒロシマ報道」を行う上で、けっして無駄にはならないはずだ。しかし、まずは一歩ずつ。原爆小頭症をテーマに取材するということは、取材者の心を磨くヤスリのようなものだ。磨き方ひとつで輝かせることもできるが、ちょっと間違えると傷つけてしまう。取材する側とされる側の信頼関係を築くこと。考えてみれば当たり前のことだが、原爆小頭症を取材する際には、特に気をつけてもらえたらと思う。

 ヒロシマには2つの「ともしび」がある。ひとつは、地球上から核兵器がなくなる日まで燃え続けるという平和記念公園の「平和の灯」で、もうひとつは「燈燈無尽」の灯だ。一日も早く消さなければならない炎と、燃やし続けなければならない炎。今年もまた8月6日、9日がやってくる。街にあの夏の日を知る人は少なくなった。語ることのできない人もいるだろう。しかし、戦争経験のない私たちに、今だからこそできる事はあるはずだ。全国22名の原爆小頭症患者が「最後の最も若い被爆者」であり続けるために。

(きのこ会事務局長 平尾直政)

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