香川県の一番東、東かがわ市引田(ひけた)地区に、「古い町並み」が残っているのをご存知でしょうか?
「ヒケタ」という地名は、律令時代の書物に記され、讃岐国(香川県)で最古級の歴史を持っています。
南海道の宿駅が置かれ、古代より交通の要衝として栄えました。海に突き出た城山(引田城跡)により、風待ち、潮待ちのできる天然の良港(引田港)が築かれました。
中世には、讃岐国でも有数の港町として繁栄していたことが当時の文献から明らかになっており、瀬戸内海交易の拠点として、多くの船が行き来していました。また、室町時代には引田城が築かれ、軍事上の拠点としても重視されました。
戦国時代の終わり、土佐国(高知県)の戦国大名、長宗我部元親による「四国統一」の戦乱に巻き込まれ、1583年、「引田の戦い」により町は大きな被害を受けました。しかし1587年、豊臣秀吉より讃岐国一国を与えられた生駒親正が、播州赤穂(兵庫県)から入り、引田城を当時最新鋭の総石垣の城郭(織豊式城郭)に整備するとともに、町を城下町として再建。現在の引田のマチの原型が築かれました。江戸時代に入り、引田城は「一国一城令」によって廃城となりましたが、港を中心にして、マチは発展していきました。
引田のマチは、北端に「引田城(城山)」、そのふもとに天然の良港である「引田港」、マチの祭神である「誉田八幡宮(はちまんさん)」が位置し、そこから海岸線に沿って約2キロにわたりマチが広がります。
引田のマチの特徴は、海岸線に平行して、マチを縦断するように「オカ」、「ハマ」、「イケダ」という3つのエリアに分かれていることです。
「オカ」は、比較的標高の高い砂碓上にあり、阿波街道(高松と徳島を結ぶ主要街道)が貫いています。ここには醤油屋、酒屋、廻船問屋、旅館、そして「引田御三家」と呼ばれた日下家(大庄屋)、佐野家(現在の讃州井筒屋敷)、岡田家(かめびし屋)が軒を連ね、商業・行政エリアとして発展しました。お遍路さんなど、街道を往来する人々や、周辺(引田郷)の村々からモノの売り買いで訪れる人々で賑わい、多くの交流が生まれました。
「ハマ」は、オカよりも海沿いのエリアで、主に漁業関係(漁師)の人々が集まって暮らしています。水揚げされた魚は、交通の便を生かして、陸路(徒歩)で徳島県の内陸部まで運ばれるなど、広い販路を持っていました。
「イケダ」は、オカよりも内陸のエリアで、主に農業関係(百姓家)の人々が集まって暮らしています。陸からの攻撃を防ぐため、寺を集めた「寺町」が隣接しています。
この3つのエリアに暮らす人々は、職業、階層も大きく異なります。生活スタイルも違っています。しかし、引田にはこれらの人々が共に集える仕組みがあります。それは、誉田八幡宮(はちまんさん)の秋祭り、それをベースに作られた町内会です。基本的に3つのエリアを横断するように区分けされていて、職業、階層を超えたつながりを作り出しました。他の地域の人から「引田はまとまりが強い。」と言われるのは、400年以上にわたって、こうした縦と横のつながりが連綿と受け継がれてきたからなのかもしれません。
引田のマチには、内外問わず、多様な人々の交流を生みだす「力」がありました。新しい文化や情報が行き交い、江戸~戦後にかけて、引田郷からは香川県、そして世界で活躍した偉人を数多く輩出したことは、その証です。また、東讃地域(香川県東部)が生み出した特産品である「讃岐和三盆糖」、「塩」、「醤油」、「手袋」、「養殖ハマチ」の誕生にも、この「力」が大きく関わっています。
引田のマチに今も残る「町並み」は、当時の名残をとどめる「遺産」であり、全国各地の研究者や町並み保存活動を行う皆様から、高い評価を受けています。地域の未来を創る力の源です。
しかし、急速に進む人口減少によって、この町並みが危機に瀕しています。また、地域の皆様に、町並みの「価値」がまだまだ理解されていないのが現状です。
風まちネットでは、後世に町並みを残し、町並みを活用した新しいまちづくりを行うために、「NPO法人 全国町なみ保存連盟」に加入し、勉強を行っています。
引田の町並み地区のご紹介:引田城跡から南の、海沿いにわたるエリアです。
引田城(国指定史跡、「続」日本の城100選に選ばれました。)