実践研究一般に共通する課題としては、例えば次のようなものがあります。
何を「実践研究」と呼ぶのか。
「実践研究」とそれを論文化したもの(「実践研究論文」「実践論文」)との関係は。
「実践研究論文」の書き手となり得るのは誰か。
「実践研究論文」と「実践記録」「実践報告」は何が違うか。
「実践研究論文」と従来の「研究論文」とは何が違うか。
「実践研究論文」だからこそ求められる、あるいは可能になる書き方は何か。
実践者当人が「実践研究論文」を書くことの強みは何で、それはどのように活かされるのか。弱みは何で、それはどのように対処されるのか。
「実践研究」や「実践研究論文」の「研究の水準」とは何を指すのか。それはどのようにして捉えられるのか。
質的研究とは何が重なり何が異なるのか。
教育委員会など行政による教員研修施策のなかで「研究」と呼ばれているものとの関係は。
何のために「実践研究論文」を書くのか。
公刊された「実践研究論文」はどのようにして活かされるべきものなのか。
発表時や刊行時にどのようなコミュニケーションが行われることで、「実践研究」や「実践研究論文」の質を高めていくことができるのか。
「実践研究」に取り組むことは当人にどのような成長をもたらすことになるのか。
「実践研究」が生み出す知はその学問分野においてどのような役割を果たすのか。
これらは、これまでにも、教育関連のさまざまな学問分野においても課題となり、議論されてきました。
実際、例えば、「実践研究」の捉え方が人によって異なる(そしてそうした違いに意識が向けられていない)ために、いったんは「実践研究論文」として扱われて審査が進んでいた投稿論文が、最終段階で「これは実践研究にあたらない」と判断されて却下されるといった問題も生じています。
あるいは、「実践研究論文」の書き方についての理解が十分に共有されていないために、実践者当人に生じた内面を書き込んだものが「客観的でない」として査読者などから否定的評価を受ける例があります。その逆に、過度に「客観的」な研究たらんとして当事者としての自らのかかわりを伏せて記述した結果、かえって、当事者がそれを書いていることの強みを活かせなかったり、客観的立場を偽装しているかのような不誠実な論文になってしまったりしている例もあります。
こうした実践研究一般において生じてきた課題は、もちろん、教師教育実践の実践研究の場合にも、考える必要があります。
一方、教師教育実践の実践研究の場合の固有の課題も存在します。例えば次のようなものです。
教師教育実践は、一般的な教育実践(特に学校教育における子どもを対象とした教育実践)に比べて、担い手、対象、状況などの点で、顕著な多様性をもっている。そのことから生じる実践研究の難しさは何か。それとどう向き合うのか。
教師教育実践は、教えることについて教えるという性質をもっている。こうした再帰性は、教師教育実践の実践研究のあり方に関して何か影響してくるのか。
教職科目での授業実践を大学教員が実践研究として論文にまとめたものが大学紀要などの媒体に数多く掲載されている。ただしそれらがしばしば、もっぱら教職課程認定審査を通すための業績づくりを目的としたものになっている。こうした、教師教育の実践研究を取り巻く周辺状況の問題をどう捉えるか。
これまで、こうした教師教育実践の実践研究固有の課題は、教師教育学のなかで必ずしも目が向けられてきたわけではありませんでした。
例えば、日本教師教育学会編で2017年に刊行された『教師教育研究ハンドブック』において、実践研究に最も近い内容を取り扱っているのは、「第二部 教師教育の研究方法」の「第8章 質的研究」における「アクションリサーチ」の項目であると考えられます(「実践研究」は目次および索引に登場しません)。ただし、ここでまとめられているのは基本的にはアクションリサーチ一般の特質であり、教師教育実践の場合の固有の課題を扱っているわけではありません。「再帰性」という言葉も登場しますが、「教えることについて教える」という意味でのものではなく、アクションリサーチにおいてその担い手自身が変容を遂げていくという、アクションリサーチ一般にあてはまる意味でのものです。
教師教育実践の実践研究固有の課題をどう考えていくかという問題はまだ丸ごと残されています。
以上のように、教師教育実践の実践研究をめぐっては、実践研究一般に共通するもの、教師教育実践固有のものというように、課題が2層にわたって存在しています。その両方を見据えて検討していく必要があります。
教師教育学会で実践研究をテーマにすることが果たす役割
上で見てきたように、一般的な教育実践の実践研究と教師教育実践の実践研究は、区別して捉えられます。けれども一方で、この2つがしばしば連動していることに、注意を向ける必要があります。
以前、日本教師教育学会の研究大会の自由研究発表において、次のような出来事がありました。
その発表は、ある大学教員が、自身が大学の教職科目において行っている取り組みについて報告するものでしたが、同時に、教職科目担当者が自らの授業をどう捉えてそれを教職科目の学びにおいてどう位置づけるかという一般性のある問いをめぐる、鋭い問題提起を含むものでもありました。
けれども、フロアから出てくる質問としては、(その発表における実践が興味深いものだったからこそではありますが)「◯◯はどうなってますか?」「最大何人くらいまでこのやり方でいけますか?」といった「どうやったらいいですか」系のものが続きました。つまり、本来この実践研究の発表がもつはずの、従来の教職科目のあり方や担当教員のあり方に対する問題提起の部分は受け止められず、単なる「授業のやり方」レベルの話に回収されてしまっていたわけです(なお、「◯◯はどうなってますか?」型の質問がすべてまずいわけではなく、後のより深い議論のために先に細部を詰めておくのが必要な場合はあるでしょう)。
そして、この出来事がなぜ大事な問題を投げかけるものになるのかというと、それは、ここで生じている実践研究をめぐるコミュニケーションの問題が、学校の公開研究発表会(公開研)などでしばしば生じる問題と同型であると思われるからです。
学校の公開研では、時に、その授業を通して授業者や教科部や研究部が既存の何かしらに対する問題提起を行っているはずのに、フロアからの質問が、もっぱら「授業どうやったらいいんでしょうか」「◯◯はどうされてるんでしょうか」に集中してしまうといった事態が起こります。
先ほどの日本教師教育学会の研究大会での出来事と、こうした公開研での事態は、鏡映しの関係にあるといえます。いずれにおいても、研究上の問題提起を受け止めて議論するのではなく、授業実施のノウハウを欲しがり吸収することに終始しているのです。
こうした鏡映しの関係がある場合に、教師教育学を自らの専門と認める人間は、この教師教育学の世界で実践研究をめぐって、自分(たち)は何をしているか、何ができているのかを、より鋭く問い直していかなければならないでしょう。というのも、学校現場に対して、公開研などでの研究発表をめぐるやりとりの拙さを問題にしておきながら、自分たちが学会の場で研究発表をめぐって同じことを行っているとしたら、何の説得力もないからです。
もちろん、先ほどの例において、授業のノウハウの交流自体に問題があるわけではありません。それはそれで実践者(教師/大学教員)にとって有益なものです。そうした交流の場も必要でしょう。そのため、ここでは、何を主目的とする場なのかを分けて捉えること、一定の共通理解をもち、それぞれの場に応じた発表やコミュニケーションのかたちを試みることが大事になるでしょう。
これらは、実践者の専門性開発のための場のもち方という点で教師教育学が議論の対象として考えるべき内容であると同時に、教師教育学における実践研究の交流のあり方という点で教師教育学の学会が身をもって示していくべきものでもあります。
もしも健康食品会社の食堂が不健康なメニューだったり、情報機器メーカーのICT部署がデジタル音痴だったりすると、その会社そのものに対しても「大丈夫か?」という気になりませんか。
それと同様に、実践研究をめぐる問題をどのように整理しどのように向き合っていけばよいか、教師教育学の学会は、教育関連の他の専門分野の学会、さらにはさまざまな教育現場に対しても、範を示すような覚悟が求められるでしょう。
こうした気概をもって、本課題研究Ⅰ部会では、実践研究というものをめぐってどんな論点が存在するのか、さらに、教師教育分野における実践研究の特質は何で、その扱いをめぐって何が必要になるのか、考えていきたいと思います。
第12期課題研究Ⅰ担当理事 渡辺貴裕 2024年3月作成
2024年9月21日改訂