地震屋
緊急避難用の建物
緊急避難用の建物
細川忠利の書状に「地震屋」という言葉がでてくることを前ブログで紹介した. いろいろ調べてみると. 熊本城調査研究センター年報 2(平成27年度) の中に.『寛永期の熊本城本丸御殿と「地震屋」』と題した論文が掲載されていた(資料1.2016年7月).
その記事の内容を以下に紹介した.
16世紀末から17世紀初頭は日本列島各地で大きな地震災害に見舞われた. 時系列に以下に示した.
文禄 4 年(1596)には 伊予、豊後、伏見で立て続けに大地震が発生し、伏見城が倒壊した。
慶長 9 年(1604)には南海トラフに原因 するとみられる大地震が発生し、列島を津波が襲った。
慶長 16 年(1611)には東北で慶長三陸地震が 発生した。
寛永 10 年(1633)には小田原でマグニチュード 7.1 とされる地震により、小田原城が大きな被害を受けている。
熊本では、
元和 5 年(1619)3 月 17 日、県南部でマグニチュード 6 (推定)の地震が発生. 八代の麦島城が倒壊した.
麦島城二の丸東の堀からは石垣上にあった櫓の一部が堀に落ちたままの状態で出土、地震による倒壊の可能性。
麦島城は, 1621年(元和8年)に麦島城北側の松江の地に新しい八代城(別名松江城、現在の八代城跡)が再建された.
この地震では, 豊後岡城でも複数箇所で石垣の崩落や孕み、地割れや石垣の沈下が生じたほか, 御殿がゆがみ障壁画が悉く破れた。
寛永 2 年(1625)には、熊本地方でマグニチュード 5〜6 程 度の地震が発生.
熊本城では天守が損傷し、石垣が崩落、煙硝蔵が爆発するなどの被害が出て、城内での死者は50名にのぼった。
このような状況下, 江戸時代には, 京都御所や江戸城, 各大名居城や大名屋敷には, 「地震間」や「地震御殿」といった地震時 に緊急的に避難する建築物か作られていた.
細川家の「地震の間」
小倉藩時代には, 小倉城 の「御上」と天守との間に「御地震屋」があった. また, 現存している絵図「御花畑図」で国許の花畑屋敷のほか, 「寛永之頃ト相見候龍口御屋敷之図」によれば, 江戸の龍口屋敷にも「地震屋」と呼ばれる建物の存在を確認できる. いずれも奥向の居間に近く, 庭に面した場所に位置している.
熊本では, 元禄 8 年(1695)年以降に描かれた花畑御殿の絵図には「御地震屋」が庭に面して建てられているが, 寛政年間(1789年ー1801年)の絵図では解体されている. なお, 熊本藩年表稿には「1789 10.8 大地震にて此日迄日数7日昼夜数度襲う」と記載されている. その後, 「1854 11.5 5日および7日に大地震」との記載があり, 半世紀ほど地震が起こっていない.
京都御所
天和 3 年(1683)に 「地震御殿」が造られた. 「延宝度内裏指図」には庭園に面して2 間×2間の「地震御殿」が描かれている.
御常御殿の東側に泉殿がある.皇后の御殿の近くにも地震殿が在る.
京都御所地震屋の特徴
以下に論文(資料2)の一部を引用した.
現在(1941年当時)の京都御所は, 安政二年の御造営になるが, 聖上の御殿の近くに泉殿, 皇后の御殿の近くに地震殿と申す小さな平家の建物がある.
泉殿は八塵四墨半に御厠がつき, 地震殿は六畳三畳に御厠がついてゐる. 泉殿は先にのべた天保元年の京都大地震の折御避難所として使用され, 安政元年御所炎上の際焼残り, 地震殿は泉殿にならつて安政の御造営の時できたものである,
構造は何れも簡単て第1圖に示す通り屋根は柿葺, 内部は指鴨居を以て二つに區分され根太は土嚢に直に取付けたもので, 從て床は極めて低く, 天井は小屋裏天井で壁は南北の二側及び北側の一部にあるのみで, 単純な間取りで高さの低い, 質量を軽減し震力を小さくした耐震構造である.
地震殿は皇后宮御常御殿の東側に位置する
江戸城
彦根城
現存する彦根城楽々園の「地震の間」は重量の軽い数寄屋造の建物であり、柱脚部に足固めが されている等、耐震を意識した構造である.
史料2の著者は,最も古い地震の記録は日本書紀に書かれた允恭地震(いんぎょうじしん,416年)であり,それ以前の記録がないのは地震が起らなかったのいうのではなく,当時の家屋の構造に地震の被害を大きくする要素が少なかったことによると述べている.すなわち,大陸から伝来した大型木造建造物は我国の風土に適しておらず,建物の変化に伴い被害を甚大化したとの見解である.江戸時代に将軍家,大名家,天皇家が設けた「地震屋」の構造は我国の風土に合った建物であることに改めて気付かされる.
注)日本書紀巻13/允恭、安康天皇,五年秋七月丙子朔己丑、地震.日本書紀巻22/推古天皇(592-628年) 七年夏四月乙未朔辛酉,地動,舍屋悉破.則令四方俾祭地震神.七年夏四月二十七日,地震が起きて建物が全て倒壊した.それで全国に命じて地震の神をお祭りさせた.
細川忠利が熊本城内に造ったと思われる庭付きの地震屋については,未解明とのことである(平成27年時点,参考資料1).細川家所蔵の古文書には膨大な量の未調査の史料が残されているので,今後の調査,研究の進展を期待したい.
地震御殿を調べながら,明治熊本地震のことを思い出した.当時,一般庶民は樹林や竹の根が蔓延った竹山に蚊帳を吊って過ごしたとの話である.家の土台を堅固にして,壁には筋交いの補強を入れ,屋根は瓦を使わない方式にすることが肝要である.このことは平成28年熊本地震でも再認識させられたことである.
参考資料
熊本城調査研究センター年報 2(平成27年度) 熊本城調査研究センター文化財保護主事,木下 泰葉,『寛永期の熊本城本丸御殿と「地震屋」』(2016年7月),35ページ.
京都御所の地震屋の説明,断面図,平面図は以下の論文の引用である.
「江戸時代の耐震構造『地震の間』に就て」,著者 齋田 時太郎,「地震 第1輯」1941 年 13 巻 12 号 p. 372-381 DOI https://doi.org/10.14834/zisin1929.13.372
京都御所泉殿地震殿の歴史と地震防災 ,京都歴史災害研究 第12号(2011)1~7.(立命館大学歴史都市防災研究所),詳細な写真付き.
((2023.8.31)
追記(史料2論文の一部)
日本書記によれは,允恭天皇五(416年)年七月十四日己丑河内國地震ふとあるのが, 我が國最初の地震で, 今(1941年)から千五百二十五年前にあたる. また, 推古天皇七年四月二十七日辛酉大和國地震ひ屋舎を壊る勅じて地震の神を祭らしめ給ふとあるのが, 震災の最初で, 今から千三百匹十二年前にあたる. 注)2023年時点では1607年前
かやうに, 震災記録が悠遠な建國の歴史に比べて割合に新らしいのは, 大昔には地震が起らなかつたと言ふのではなく, 寧ろ當時の家屋の構造に震災を引き起すやうなものが, 少かつたのによる拷へた方が穏當ではないかと思ふ.
我が國の神代及び大陸との交通のなかつた時代の佳居は, 横穴・竪穴による穴居生活か或は三角形に木材を粗んで屋根だけを地上に置いたものや, 掘立柱で屋根を支へ床を取りつけた極めて簡單な形式で, 規模の小さいものであつた. その後, 仁徳天皇の御代に新羅から船大工がきて宮殿に高展建築が現はれた. 例へば仁徳天皇の櫛殿に高臺を, 雄略天皇の朝倉の宮に二階家を造つた. この時代に掘立柱をやめて, 土臺石の上に桂を立て, 一般臣民も穴居生活を廢し, 木造家屋に佳むやうになつた. まもなく欽明天皇の御代に佛教傳來し, 忽ち大寺院が各所に建築された.先にのべた震災の記録も, 丁度この頃即ち大陸文化の楡入時代から始まつてゐるのは注目すべきである.
この事は明治大正時代に, 欧米の風に習ひ土木建築,その他の施設を盛に模倣移植した時代に起つた, 明治二十四年の濃美大地震による, 大垣, 岐阜,名古屋の震災及び大正十二年の東京, 横演その他の町村の震災の激烈で, 既往の震災と比べものにならなかつためと, 併ぜ考へると當然のやうに思はれるかくの如く, 我が風土を考ヘすに外來建築を輸入したので上本來震災のなかつた我が國に大震災が出現するやうになつたとも考へられる8