生きる意味 ページ2
5.罪と罰
私たちは皆、自分に下された有罪判決を覆すために自分にはもう何もできないことに気づいた無期懲役刑の受刑者と同じ立場にあります。
このままでいるかぎり私たちを待ち受けているのは永遠に続く地獄だけです。
ですから私たちは神様の御前に跪き、赦しを乞わなければなりません。
たとえ表面的にはすべてがうまくいっているように見えても、私たちは自分の人生を自らだいなしにしています。
神様は心を見抜かれます。
あなたが自分の造り主を心の底から愛さず、自分と同じように隣り人を愛していないことを見抜いておられます。
聖なる神様は私たちの罪を大目に見てはくださいません。
それゆえ、あなたにも、すべての人にも等しく永遠の罰が待ち受けているのです。
この地獄は言葉では説明しにくいものですが、人間がその邪悪さのゆえに永遠に苦しむ罰を受けるよう、いのちの源である神様から最終的に見捨てられてしまうということです。
人間はこのような地獄を受け入れることも理解することもむずかしいし、一方的に押し付けられるのも嫌がるものです。
それでも私たちの心はこれまで述べてきたことの正しさを証しています。
このことを認めようとしないかぎり、私たちは良心の声を聞き取ることができるようにはなりません。
しかし神様と一緒にいるならば、あなたは自らの罪深さやそれがもたらす罰から解放されるように、自らの罪(および罪悪感)を適切なやりかたで取り扱うことができるようになるのです。
神様は聖なる方だけなのではなく、恵みに満ちた方でもあるからです。
神様が私たち人間とご自身との間の仲介者として私たちに与えてくださった方こそが、イエス・キリストです。
イエス様ご自分が私たちの罪深さを神様の御前で帳消しにされました!
イエス様は神様が人間に要求なさっていることがら(律法)を私たちの代わりに達成し、さらにはそれを守れない私たちが当然受けるべき罰の苦しみを、ご自身には罪がまったくないにもかかわらず、代わりに引き受けられました。
このイエス様の救いの御業のゆえに神様はご自分のほうからはすでに全人類に対してその罪を赦してくださったのです!
今あなたに問われているのは、恵み深き聖なる神様の御許に戻ることだけです。
神様の御前で自らの罪を悔い、イエス様を信じることです。
神様はイエス様のゆえにすべての罪をすでに赦してくださったと信じることです。
神様がご自分にふさわしい義なる存在と承認しておられるのはイエス様だけだからです。
あなたがイエス様の中へと避難するとき、神様はあなたのすべての罪を赦してくださいます!
6.死
だれひとり死から逃れることはできません。
ということは、私たちはこの世から去る瞬間を待つばかりで、そのあとはすべて終わりになるということでしょうか。
しかし本当にそうなのでしょうか。
死の問題を解決できる可能性がわずかでもあるならば、あらゆる手段を使ってでもそれがどのようなものか調べてみるのは徒労ではないでしょう。
キリスト教によれば、人間が死ぬのは偶然ではありません。
自分自身の邪悪さのゆえに人間は死んでいくのです。
死がこの世に入り込んできたのは、悪魔が人類の心の中に邪悪の種を撒き散らしたからです。
人々はそれ以来、好むと好まざるとにかかわらず、死の陰の中を歩むことになってしまったのです。
しかし神様は悪魔よりもさらに強大な存在です。
神様はすべての人を、もちろんあなたのことも、底知れない深さで愛しておられます。
死が人々を次から次へと墓の中に葬り去っていくさまをただ傍観していることができなかったために、神様は独り子イエス・キリストをこの世に送られました。
キリストは死する人間として、ただし邪悪さのまったくない例外的な存在として、
この世にお生まれになりました。
そして十字架で死なれたとき、死に対して奇跡の勝利を収められたのです。
キリストは人間であるがゆえに私たち全人類のために死なれました。
しかし死はキリストを打ち砕くことができませんでした。
キリストは神様でもあられたからです。
キリストは墓に葬られてから三日目に死者の中からよみがえられました。
このようにキリストは私たちの代表者として死者の中からよみがえられたのです。
ですからイエス・キリストを信じる人はだれでも同じように死者の中から復活することになるのです!
あなたはイエス様を見つけたとき、実は死の問題への解決も見つけています。
「私はよみがえりでありいのちである。私を信じる者はたとえ死んでも生きる。
生きて私を信じる者はだれひとり決して死ぬことがない」とイエス様は聖書で約束しておられます。
しかし、この助けを受け入れようとせずイエス様を信じない人々には、死に対するこのキリストの勝利はまったくむだになります。
キリストは死に対する確実でしかも無料の特効薬なのです。
7.私の人生には意味があるのか?
人生はすっかりからっぽになってしまうことがあります。
このことにあなたは気づいていますか。
たしかに人は素敵なものや好ましい人間関係や良い気分になることを価値基準にして自分の人生やキャリアを積み重ねていくことはできます。
それでも「いつかはハエのように死ぬことになる私たちにとってこれらには何か意味があるのか」というぞっとするような疑問がふとあたまをよぎります。
今私たちが享受している良いことや好ましいことはすべて、ひとたび人生の荒風が吹き付ければ崩れ去ってしまうような、派手に色付けされたハリボテの舞台装置にすぎないのではないでしょうか。
もしもそうだとすれば、それらが崩れないよう懸命に支えつつ、辛い現実から目を逸らそうとするのはあまり賢い態度とは言えないでしょう。
現代の一般的な世界観によると、私たちの人生には究極的な意味など存在しません。
万物は高邁な目的をもたない消えゆく物質にすぎません。
しかしこれが真実ではないことをある史実が証しています。
それはイエス・キリストが二千年前に死者の中からよみがえったという事実です。
防腐処置を施され硬くなった死体の包装も、岩によって封印された墓の洞穴も、墓の番人をしていた兵士たちも、このことを妨げることができませんでした。
イエス様を死者の中からよみがえらせたのは全能の神様ご自身だったからです。
神の御子でもあり人でもあるイエス様は、復活の後、かつて身近にいた弟子たちの前に現れ、そして最終的には五百人以上の人々にも姿を現され、それから天へと上げられました。
イエス様はあなたに言っておられます。
「私ははじめでありおわりであり、永遠に生きている。私は死んだが今は生きており、常にまた永遠に生きている。私は死と陰府の鍵をもっている。」
イエス様はご自分が何について話しておられるかよくご存知です。
私たちと同じ無意味さと魂の暗闇を、すべてが虚無に帰すかのように見えた出来事を、イエス様はご自分でつぶさに体験なさったからです。
神の御子イエス様は十字架で処刑されるとき「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになられたのですか?」と叫ばれました。
イエス様はこの世を歩まれていたとき、ご自分に従ってくるようにと人々に呼びかけました。
多くの者はすぐさまその召しに応じ、先へ進まれる救い主に従って行きました。
同じようにイエス様は今あなたにも「私に従いなさい」と呼びかけておられます。
人生の奥底にあった空虚さは忽然と消え失せてしまいました。
生きる目標ができたからです。
しかもこの目標に向かってひとりぼっちで歩む必要はありません。
神の御子イエス様ご自身があなたの前を歩んでくださるからです。
すべての恐れと苦しみはかたちを変えます。
人生の舞台裏を支えてくれる堅固な土台が与えられた今では、死でさえも私たちの人生をふたたび空虚なものにすることはできなくなります。
イエス様は死さえも超える権能をもっておられるからです。
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