生きる意味

1.宇宙の中の孤独

あなたはまわりにどれほどたくさんの物があり人々がいても、ひとりぼっちかもしれません。

あなたは人気者かもしれませんし、たいへんな人生を送っているのかもしれません。

あなたは中流の安定した家庭生活を営んでいるかもしれませんし、仕事中心の独身生活を謳歌しているのかもしれません。

あなたは人生の愛する伴侶を見つけることができたのかもしれませんし、そのような相手がいないことを悲しんでいるかもしれません。

あなたの人生はその大半がまだこれから未来のことかもしれませんし、すでに過去の追憶の中に埋もれてしまっているのかもしれません。

しかし神様と共に生きていないとき、あなたの心の奥底がひどく孤独であることにあなたは気づいているでしょうか。

もしかしたらあなたは次のように考えているのかもしれません。

「神は死んだ」と。

「神の存在はどこにも見えないし感知できない」と。

「宇宙は深奥な目的などもたずにただ物理法則に従って回転し続けているにすぎない」と。

「あらゆるものを巻き込んでいる厳しい生存競争を終わらせるのは死という陰鬱で無意味な終わりであり、その後にはもう何も残らない」と。

しかしそれが本当ならば、私たちはすでに生まれた時点で事実上死んでいることになります。

イエス・キリストは十字架の上でこの暗黒の狂気を味わい尽くされました。

当時のローマ帝国の死刑執行法に従い十字架に磔にされて死なれるときにイエス様は「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになられたのですか!」と叫ばれました。

しかしそれは受苦と孤独の問題に対する神様の最後の一言ではありませんでした。

神様はイエス様を死者の中からよみがえらせたのです。

十字架につけられる以前にこの地上で生活しておられたときにイエス様は友人のラザロを「ラザロよ、墓から出てきなさい!」という一声で死者の中からよみがえらせました。

すると、死んですでに腐り始めていたラザロは布に包まれたまま墓の洞穴の暗闇から陽光の中へと歩み出てきました。

死んでいる者たちに、宇宙の暗闇の中にいる孤独な人々に、そしてあなたにも、今イエス様は「あなたの人生の墓場から出てきて私に従いなさい」と言っておられます。

あなたがこのイエス様の呼びかけに応えてイエス様を信じたいと願ったとき、それまで死んでいたあなたの魂は新たな人生を歩み始めます。

あなたは人々の中にいてももう孤独にはなりません。

抵抗を試みて何か説明をつけたり躊躇したり恥じたり言い訳したりするのはもう終わりにしましょう。

イエス様のこの呼びかけに対して心をかたくなにしないでください!

イエス様はあなたの唯一の希望なのです。

イエス様のこの呼びかけにあなたの心を開いてください。

これが光へと通じる唯一の道なのです。

この永遠の光の中には孤独も苦しみも死もありません。

2.宗教は民衆のアヘンなのか?

すべての宗教は同じ目標へと人間を教え導くものなのでしょうか。

すべての宗教は「救い」なるものに到達して「神」なるものとの関係を築くために人間が捏造した方便にすぎないのではないでしょうか。

すべての宗教は、神様に邪魔されずにこの地上で最も都合よく実現できるような、人間自身の「希望」が反映されたものなのでしょうか。

たしかにすべての宗教は、ただひとつの例外を除けば、基本的にはまさにそのようなものだとも言えます。

一般的に宗教は神様との緊密な関係を獲得しようとする人間の側からの試行錯誤の表れであると言えます。

それに対してキリスト教は神様の側から人間との緊密な関係が提供されるという点で他のすべての宗教と根本的に異なっています。

人間は自己流の宗教的な試行錯誤をどれほど繰り返したとしても、結局のところ、神様との正しい関係を築くことができません。

聖書によれば、人間を神様の御許に導いてくれる道筋はそれとは正反対のものです。

人間が神様に近づいていくのではなく、神様のほうから人間のもとへ近づいてきてくださるのです。

そして、まさしくこのために神様ご自身が人となられたのです。

神様と人々の間柄を修復するためにイエス・キリストは人としてこの世に誕生なさいました。

この壊れた関係を修繕するためにイエス様は十字架で死なれ、三日目に死者の中から復活なさったのです。

このことについて人間のほうで何かを決めたり理由づけしたりする必要はありませんでした。

神様ご自身が聖書を通して告げ知らせておられるからです。

聖書はそのすべてが神様からの語りかけです。

どうすれば人は救われるのかを人類に教えてくれる神様からの啓示なのです。

キリスト教の核心は罪の赦しです。

罪の赦しを通してのみ、人間は神様と真に向かい合うことができ、永遠のいのちをいただけるようになります。

すべての人は、罪の赦しを獲得するために行われる自分自身のどのような試行錯誤も、いかなる代価も、イエス様の死と復活によっていっさい必要としなくなります。

罪の赦しという賜物を神様から受け取るだけで、自分の罪を赦していただけるからです。

これが福音です。

3. この出来事に背後から影響を与えているのはだれなのか?

子どもの誕生を考えてみてください!

人間がこの世界にまったくの無から生まれてくるのは可能だと思いますか?

科学は人間がどのように成長するのかを説明することはできます。

しかしそれがどのように可能なのかという疑問には答えることができません。

神様が高度な知性と計り知れない力をもつ個性的存在であることを反駁できないやりかたで明証しているのはほかならぬあなた自身の存在です。

それでも反論を試みる人は大勢います。

宇宙のはじまりは神様ではなくビッグバンによるものであると彼らは言います。

しかし例えば時計のすべての部品を宙に投げ上げたらどうなりますか。

それらが偶然にも秩序正しく組み合わさって素敵な時計ができあがる可能性がいったいどれほどあるでしょうか。

科学的な実験を持ち出すまでもありません。

明確な個性を持つ神様が存在することは明らかであり、神様を無視する私たちの生きかたを神様に対して正当化するのは無理です。

私たちは神様が人間のために用意された善き御業によって最上級のおもてなしを受けています。

しかし私たちはこのことについて神様に感謝を捧げているでしょうか。

私たちにいのちとこの世界を賜った神様を敬い愛することが神様の御心です。

ところが私たち人間は神様からの贈り物を楽しめば楽しむほど、いっそうたやすく神様のことを忘れるようになってしまうのです!

神様が私たちのためになさった善き御業は、私たちが神様を無視する態度を手遅れになる前に悔い改めるよう促す原動力になるべきものです。

人間の誕生は奇跡のような贈り物です。

ところが人間の死はそれを完全に破壊してしまうようにも見えます。

これはどういうことなのでしょうか。

私たち人間は神様を敬わず愛さなかった報いとしていつかは必ず死ぬ存在になってしまいました。

にもかかわらず、神様は人間をそのまま放っておくことはなさいませんでした。

神様が私たちのためになさった善き御業は人間の死で終わるものではありません。

イエス様を信じ父と子と聖霊の御名によって洗礼を受ける者は新しい人として誕生し、神様を無視して生きてきた自分の罪を赦していただきます。

宇宙の終わりに神様は新しい天地を創造なさいます。

そこでは信仰と洗礼を通して新たに誕生した人々が永遠に生きていくのです。

4.自由

神様との関係が本来あるべき状態になっていないかぎり、あなたは自由ではありえません。

どれほど真面目な生き方をしている人であっても、その心の奥底を自然に支配しているのはその人自身のもつさまざまな欲求です。

それらの欲求はあたかも良くて正しいもののように見えるかもしれません。

しかし実際にはあなたを虜にしてしまう力なのです。

人間は結局のところ自己中心的な生き物です。

自己中心さから解放されることだけが、人間として純粋に生きていける真の自由を与えてくれます。

歴史を通じて人間は原理原則や政治や哲学やあるいは宗教の助けによって自己中心さから自由になろうと努めてきました。

にもかかわらず、人間の発明したいかなる手段によっても利己主義から解放された人はだれもいません。

熱心に神様の戒めに従って生きようとすればするほど、実際にはそれらの戒めをいっそうひどく破ることになってしまいます。

どうやっても結局は失敗してしまうのです。

人間がこしらえた公正そのものに見えるようなシステムもやがては瓦解していきます。

ところが、自己中心さから純粋に自由だった人間がただ一人だけ存在します。

イエス・キリストです。

この方だけがあなたの欲求からあなたを解放することができるのです。

この方はそれを特別な方法で行われました。

あなた自身に巣食う邪悪さから清められるための鍛錬をあなたに課すのではなく、あなたの自己中心さという罪を一挙に赦してくださるのです。

それとともに突然、人を内側から虜にしてきた力は鋭利さを失ってしまいます。

私たちを虜にする力は人間の中から消え去りはしませんが、私たちはこの力に対抗する力としてイエス・キリストをいつでも自由に対置することができます。

イエス様の御許に来て、イエス様を信じ、自己中心さに対する赦しをイエス様に乞い願うことから、あなたが真に自由になるプロセスは始まります。

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