概要
戦前の日本は収支尻が良くなく、導入した外資を返済するのに借り換えをしなければならなかった。日露戦費の外債8000万ポンドは国家予算の3倍である。国債の利率を下げるために担保を関税権からより価値の高い鉄道に変えた。鉄道国有法によって私鉄を買収し、日本中を国鉄が占めたのは外貨建て国債の担保の為である。国鉄の路線の廃止が行われなかったのは、担保に入っているからであると考えられる。この外債が償還されるのが1986年で、鉄道国有法が廃止され国鉄の民営化が行われたのが1987年である。
日露戦費のつぎは重工業や電力のために借金した。1928年には外債発行高は地方債や満鉄など社債を含め日本円換算で23億円である。当時の国家財政を越える外貨建て債務であった。資源のない国がこれを返すのに確実と目される方法が経済圏を広げることである。日本の行動は西洋からの借金返済のために仕組まれたようなものである。「満州は生命線」は借金返済のための経済圏拡張と見られる。経済圏拡張には資金が必要で、経営がうまくいかなければ、借金が膨らむ。植民地経営には経済力・技術力・軍事力・政治力において手腕が必要である。日本は満州では現地人を活用できず、国民を投入した。特に植民地は治安のために軍事費がかかる。西洋は現地人を兵に用いているが、日本は満州で日本軍を使った結果、軍部が強くなり制御できなくなった。黒字化が難しくなり、結果的に外債を返すことが出来なかった。
第二次大戦の終結後、1953年ロンドン会議において、西ドイツはヒトラー政権時の対外債務の50%を免除された。この免除はドイツ東西分裂・再統合と関係なく、ヒトラー政権を棄却する事によって、過去の政権との非連続性に対する措置である。一方、国体護持を条件にポツダム宣言を受諾した日本は、大日本帝国の対外債務を100%償還しなければ国際的信用問題が生じた。外貨建て国債を完済するために外貨を得る必要があり、ブレトン・ウッズ体制下の超円安(1ドル=360円の固定相場)により輸出を促進し輸出代金で外貨建て債券を完済した。途中変動相場制に移行したが、日本の輸出競争力によって生まれた米国の貿易赤字を調整するためにプラザ合意(1985年)が開催された。合意後急激な円高が起こり、日本では金融緩和からバブルが生じ、急激な金融引き締めからバブル崩壊があり、その後の経済的低迷がもたらされた。
(A)国債
維新前
英国は生麦事件での賠償金を幕府に11万ポンド、薩摩に2万5000ポンド請求した。幕府は11万ポンドを支払った。薩摩は薩英戦争のあと支払ったが、幕府の財庫からであった。その後薩摩が幕府に返済したとは聞いていないとアーネスト・サトーは記している。
英国は英国の息のかかった政権を作ることが目的であり、そのために幕府を潰さねばならなかった。薩英戦争の賠償金の措置で薩摩は英国の手先となって動かざるを得なかった。薩摩が近代化に目覚めたというのではなく、英国が幕府後を見据え、薩摩にいろいろ提供したのである。蜜留学などもそのひとつである。
下関戦争でも長州へ課されるべき賠償金は「この戦争は幕府命令が原因」として幕府に向けられ、長州は薩摩同様英国側に就いた。Wikipediaによれば、長州藩との講和談判によって、300万ドルの巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料にフランス・オランダと共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は300万ドルの賠償金を受け入れた。幕府は150万ドルを支払い、明治維新後に新政府が残額を明治7年(1874年)までに分割で支払った。
日清戦争後
日清戦争では国家予算1億円のところに戦勝による賠償金2億円と三国干渉によって返還された遼東半島の違約金1.6億円により、計3.6億円(3600万ポンド相当の金)の収入があった。この金で、1898年に、金本位制に戻り、対外信用度を高め、外資導入の条件を整えた。八幡製鉄所をはじめ多くの投資が出来て、日本は近代化が進められた。
日本は1899年(明治32年)に1000万ポンド(4分、9700万円、55年)、1902年(明治35年)預金部保有の軍事公債(5分、5000万円、53~54年)を海外で売り出し調達し、この3分の2が砲台建設、兵器艦船鉄道改良電話線架設など軍事費および軍事に関係深い事業に充てられた。
日露戦争
日露戦争戦費の海外調達額は、1904年の第一回6分利付き1000万ポンド(9700万円、期間7年)、第二回6分利付き1200万ポンド(1億1700万円、期間7年)と1905年の第一回4分半利付き3000万ポンド(2億9200万円、期間20年)、第二回4分半利付き3000万ポンド(2億9200万円、期間20年)である。合計およそ8億円、担保は関税徴収権であった。1903年の一般会計歳入は2.6億円にすぎなかった。国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる。戦時増税により国民の租税負担は倍増したが、賠償金が得られず、借金だけが残った。
条件をよくした借り換え債を発行した。1905年の第二回4分利付き2500万ポンド(2億4400万円、期間26年、6分利付き国庫債券を償還)、1907年5分利付き2300万ポンド(2億2400万円、期間40年、第一回第二回6分利付きを償還)。利率の改善は、鉄道を担保とした事による。担保のために鉄道国有法を制定し、1906から1907にかけて鉄道の国有化が行われた。さらに、1910年には4億5000万フラン(1億7400万円、4分、60年)と第三回1100万ポンド(1億700万円、4分、60年)を借りることによって5分の利付債をすべて償還した。
1903年(明治36年)の外資導入残高2億円が1914年 (大正3年)には20億円と増加した。当時の通貨流通高が5~6億円。導入された外資の殆どが国債で、日露戦争の戦費調達が大きかった。この時期、軽工業から重工業への進歩があり、国際収支尻が慢性的な赤字であったから、外資導入は必要な措置であった。経済規模は拡大したが、国際収支は改善されず、1913年、1914年には外債の利払いにも事欠く有様で、そのために外債を発行するという破産一歩手前であった。運よく第一大戦勃発で、この危機的状況は改善された。
第一次大戦後~昭和初期
第一次大戦勃発寸前には短期国債が発行され、その目的は外債の利払いであると見られている(当時毎年の利払いは9000万円)。大戦勃発により収支尻は改善し、1915(大正4年)から1919(大正8年)の受け取り経常収支尻は30億円に達し、一躍債権国になった。1921年には外貨建て国債残高も15億円に収縮した。しかし、国際的には日本は物価高であったので、戦後はたちまち収支尻は赤字に転落し、昭和初期まで慢性的不況に苦しんだ。電気・重化学の時代に入り、外資導入が図られ、1921年に15億円だった外貨輸入額は1928年には23億円になった。主に社債である。経済発展はしたものの、国際収支尻は改善せず、苦境に陥り、対外信用度が低下し、借換債の発行も困難となり、デフレ策をとらざるを得なかった。
震災(1923年)と慢性的不況と国際収支尻の継続的赤字があり、1925年(大正14年)には日露戦争債の償還期を向えるにいたった。1924年(大正13年)6分半利付き1億5000万ドル(3億円、期間30年)と6分利付き2500万ポンド(2億4400万円、期間24年)を発行し、このうち4億2800万円は既発債の償還に使った。1億1600万円を復興にあてた。
1905年の2億4400万円のポンド建ての償還を1931年(昭和6年1月)に迎える。当然借換債を発行しなければならないが、対外信用度が低かったので、政府は1930年1月に金解禁(金本位)にし、1930年に5分半利付き1250万ポンド(1億2200万円、期間35年)と5分半利付き7100万ドル(1億4200万円、期間35年)を募集し、借り換えした。
昭和初期における、純外債発行残高は16億5800万円、その用途は半分が軍事費であった。
満州事変
満州事変以降は政治的緊張が高まり、外資導入は全く無かった。
太平洋戦争中の外債処理
第二次世界大戦において敵対したアメリカ・イギリス(後にフランス)に対する外債の元利支払を停止した。1943年3月15日には外貨債処理法が制定され、日本人、ドイツ人、イタリア人等が持つ英米通貨外債は円建て債券に変換された。海外保有外債は日本政府の厳重な統制下に入り、物上担保権(たとえば、抵当権)が剥奪された。戦後、ポツダム勅令によって外貨債処理法は廃止された。
戦後の外債処理
アメリカ・イギリス・フランスの3国に対する償還は困難に思われたが、サンフランシスコ講和条約締結後の1952年9月26日にアメリカ・イギリスと、次いで1956年7月27日にフランスとの間で、日本に有利な償還方法を協定することに成功した。この間、1953年「国際復興開発銀行等からの外資の受入に関する特別措置に関する法律」第2条により、外債は政府が保証できるようになった。この年5月30日、バンカメが電源開発の発行した外債700万ドルを引受けている。1959年2月17日、日本国債として戦後初の外債3000万USドルが発行され、ファースト・ボストン(現クレディ・スイス-ロックフェラー系)が引受銀行団の幹事を務めた。1961年11月24日には外貨準備補強策として日銀債2億USドルが発行された。引受銀行は、バンカメ、チェース・マンハッタン、ロックフェラー系のファースト・ナショナル・シティの3つであった。
第二次世界大戦で賠償金を課せられなかったが、個々の二国間では賠償金はあった。これがODAである。また、賠償金がなかったからといって、戦前の外貨建て債務が免除されるわけではない。ODAを含め、日本には多額の外貨が必要になった。そこで、欧米は平価切下げ(1ドル=2円を1ドル=360円)による輸出促進を通じて、日本に外貨を与えた。平価切下げによって、欧米は日本の産品を特別に安く手に入れる利益があった。この輸出によって日本の戦前からの債務はやっと消えた。日本の債務が完済されるころ、変動制相場に移行する。特別な平価切下げはもういいだろうということである。
鉄道を担保とした日露戦争の借り入れ外債は1986年に完済された。
(B)地方債
明治45年までの発行額は1億7700万円であり、上下水道、港湾、電気軌道、道路、電気ガス事業経営に投資された。第一次大戦後は、震災の東京・横浜を除いて、地方債の外債募集が禁止された。総じて発行総額は、3億1700万円であった。
(C)社債
社債の発行額は明治以降で総計8億6600万円(借り換えを除く)、内、満鉄は1億5600万円あった。
第一次大戦前は1億8000万円。北海道炭鉱鉄道、満鉄、東洋拓殖、興銀、北海道拓殖などが発行し、民間というより、政府に近いものである。興銀の外債は、韓国への借款のためのものであった。
第一次大戦以降は6億8500万円。内、電力会社が5億2200万円発行した。
参考資料 日銀調査「戦前における外資導入について」