宣教76年第4号
主題聖句
平和を実現する人々は、
幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。マタイ5:9
主題
神様の平和に生き
平和をつくる
牧師 光延 博
音羽町礼拝所 420-0834 静岡市葵区音羽町8-16
Tel&fax (054)245-2517
ひかり礼拝所 420-0812 静岡市葵区古庄3-18-12
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【司式】私たちは、 父なる神のみ前に、まごころをもって近づき、 罪をざんげし、主イエス・キリストの 御名によって 赦しを願いましょう。
父なる全能の神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いとによって多くの罪をおかしました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない 憐れみにより頼みます。
【司式】ひとりのみ子 イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔い、み子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださるように。
主なる神様、あなたの慈しみはいつも私たちと共にあり、進む道を先立って導き、またその後ろを守ってくださいます。御光の中へと招き、御子の十字架によって与えられる善き道の歩みを導いてください。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。
8:23今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。
10さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。 11わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。 12あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです。 13キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。 14クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 15だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどと、だれも言えないはずです。 16もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 17なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
12イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。 13そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。 14それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
18イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 19イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 20二人はすぐに網を捨てて従った。 21そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。 22この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
そのひとり子、私たちの 主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめ マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に 死人のうちから復活し、天に上られました。そして、全能の父である 神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
【会衆】神よ、わたしのために、清い心をつくり、揺るがぬ霊をわたしのうちに、新しくしてください。わたしをあなたの み前から捨てず、あなたの聖なる霊を、わたしから取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、わたしに返し、喜び仕える霊を与えて、わたしを支えてください。
今、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です。
われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。
【主題聖句】「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていった」(使徒言行録6:7)
〇 教会メンバーがそれぞれの賜物で奉仕し支える教会が神様の恵みでさらに豊かにされますように。
〇 主任牧師の高蔵寺教会・復活教会での礼拝に中継で共に参加し、また牧師来訪時の聖餐礼拝で教会が守られ成長させられますように。
〇 教会員が恵まれ、地域の方々・若者達も集い信仰に導かれますように。
◇2/4、18(水)10:30~ひかり礼拝所にて聖書に親しみ祈る会を行います。
◇以下の2枚を掲示板に貼っていますので、ぜひご覧ください。
① 教会の声明「米国のベネズエラへの軍事行動と内政干渉に対するわたしたちの立場」が出されました。
② 3/14(土)13:30~4:00頃、デンマーク牧場こども家庭サポートセンターにて、岩本直美氏(JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)派遣ワーカー)講演会が、日本キリスト者医科連盟(JCMA)静岡部会、デンマーク牧場福祉会で共催されます。
【黙想の断片 1コリント1:10~18】コリント書の日課を『新共同訳新約聖書注解』からご一緒に学んでゆきたいと思います。教会員間の一致が勧められています。「兄弟たち」と愛する者たちに改めて語り始められます。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。<教会の緒活動がばらばらに自己本位になされるのではなく、一心同体になること>を勧めています。教会員間に「争い」(11節)<軋轢、不和>がありました。<教会の交わりにおいて不和があることは教会の中心的営みに影響を及ぼ>します。教会員の中には党派的なことから作る仲間内で結束し軋轢を作っている「ばらばら」がありました。キリストのみ名まで誤用して(悪用して)(12節)、<キリストを引き合いに出して自己の正当性を主張しようとする分派的態度が問題なのである。問題は《仲間割れ》である>。<このようなコリントの教会の状態をパウロは、否定しえない神学的理解に依拠した二つの問い(13節)によって批判する。その一は、教会はキリストのからだであり、分派的主張は各肢体を有機的に結合せず、ばらばらにしてしまう結果になるということ、そのニは、信仰者はキリストの名へと洗礼されることによって、キリストの十字架と復活に共にあずかることであり、パウロはキリストの位置に立って、十字架につけられはしないし、パウロの名へと洗礼されることなどあり得ないということである。コリントの教会では、もしかすると洗礼を授ける者と授けられる者の間にある種の神秘的合一関係があるかのように理解されていたのかもしれない。14-17節ではそのような誤解がパウロの場合にもあってはならないということで、彼自身による洗礼行為を極力否定しようとしている。ただここでの強調点は誤解に基づく勝手な主張を否定することにあるので、ここからパウロの洗礼理解を抽出することは行き過ぎである。>洗礼の大切さは12:13で述べられている。<彼の多少神経質とも思える洗礼行為の否定は、誤解を避けるためという消極的理由として語られて来たが、その消極的な理由が17節に述べられ、彼の宣教の積極的な主張へと展開されていく。>パウロの使命は福音を宣べ伝えること。立つか倒れるか、生きるか死ぬかがイエス・キリストの福音にかかっているから。<福音の内容は《キリストの十字架》である。コリントの教会の不和に正しい解決を与えようという課題の中で、パウロは自分の基本的福音理解を提示し(1:18-25)、相手(1:26-31)と自分(2:1-5)に起こったことを例証として示す。18節はこの部分の主題であると共に、この手紙全体の表題でもある。《十字架の言葉》は、イエスの出来事を福音として宣教することを意味する。《十字架》は、当時のローマ帝国内のむしろ多数を占める奴隷の反乱を押さえ込むために考案された、磔上で長時間にわたって苦しみつつ衰弱死していく見せしめの刑具である。シリア(・パレスチナ)州において反乱奴隷の磔刑が行われたという記録は少なくないだけでなく、特にユダヤ人にとっては「木にかけられた者は呪われる」と解されており、イエスの十字架死がつまずき以外の何物でもなかったことは明らかである。最初期のユダヤ人キリスト者はこうした屈辱的な死を「私たちの(罪の)ための死」という贖罪論的救済によって乗り越えるとともに、教会は復活のための死(栄光の「復活」に至る通過すべき前段階としての死)という栄光化へと向かう。パウロはこうした傾向に対して十字架の悲惨、弱さと愚かさを強調する。《十字架》は単に宣教内容であるだけではなく、宣教行為のあり方そのものをも規定する。パウロがコリントの教会の緒問題へと向かう基本的態度に十字架の出来事を持ち出すのは、当面の論敵の「栄光の神学」に対する痛烈な反撃を意図したためでもある。>パウロがキリストと出会う前からユダヤ人キリスト者の解釈であった、イエス・キリストの十字架の「刑罰代償説の贖罪論」には、犠牲の肯定、暴力の肯定、自己弁護が潜んでいます。父なる神様に「刑罰代償」という人間の操作を加える必要性はないでしょう。イエス・キリストは全身全霊でアッバ(父なる神)の慈しみを現わし十字架の悲惨に至ってもなおそこに厳然とある御慈しみを現わし尽くされたのです。同時に「悲惨・弱さ・愚かさ」という神の知恵に包まれた私たちを生きることができることを現わしてくださいました。これが主イエスが宣教なさられた「神の国・天の国」、パウロが打ちのめされて死に、復活させられた中身です。