宣教76年第10号
主題聖句
主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。哀歌3:22
主題
神様の慈しみのなか
自他を大切にする
牧師 光延 博
音羽町礼拝所 420-0834 静岡市葵区音羽町8-16
Tel&fax (054)245-2517
ひかり礼拝所 420-0812 静岡市葵区古庄3-18-12
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【司式】私たちは、 父なる神のみ前に、まごころをもって近づき、 罪をざんげし、主イエス・キリストの 御名によって 赦しを願いましょう。
父なる全能の神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いとによって多くの罪をおかしました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない 憐れみにより頼みます。
【司式】ひとりのみ子 イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔い、み子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださるように。
神様。私たちを救うために、あなたは御子を世に送り、十字架の上に渡されました。御子イエスを救い主と信じて、まことの平安に生きる私たちにしてください。あなたと聖霊とともにただ独りの神、永遠の支配者、御子、救い主、主イエス・キリストによって祈ります。♪アーメン
第1朗読 出エジプト 17: 1~ 7(旧122)
1主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。 2民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。
3しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。
「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」
4モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 5主はモーセに言われた。
「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 6見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」
モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。 7彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試したからである。
1このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、 2このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。 3そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、 4忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 5希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 6実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。 7正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。 8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 9それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。 10敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。 11それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。
♪キリストはおのれをひくくして、死にいたるまで、しかも十字架の死にいたるまで、みむねにしたがわれた。
5それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。 6そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
7サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。 8弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。 9すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。 10イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 11女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。 12あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」 13イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 15女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
16イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、 17女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 18あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 19女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。 20わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 21イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。 23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 24神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 25女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」 26イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
27ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 28女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 29「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、 32イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。 33弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。 34イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。 35あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、 36刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。 37そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。 38あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
そのひとり子、私たちの 主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめ マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に 死人のうちから復活し、天に上られました。そして、全能の父である 神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
【会衆】神よ、わたしのために、清い心をつくり、揺るがぬ霊をわたしのうちに、新しくしてください。わたしをあなたの み前から捨てず、あなたの聖なる霊を、わたしから取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、わたしに返し、喜び仕える霊を与えて、わたしを支えてください。
今、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です。
われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。
【主題聖句】「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」(1コリント12:26)
〇 主の恵みに感謝し、神の義を求め続けられるように導いてください。
〇 関係施設との連帯を強め、福音の宣べ伝えを続けさせてください。
◇3/20(金・祝)10:00~教区総会(みのり教会 豊橋礼拝所)に船城代議員と牧師が出席します。
◇4/11(土 音羽町礼拝所にて)13:00~東静地区宣教委員会、14:30~市内三教会連絡会
◇4/29(水)ふくしむらホリデー(デンマーク牧場)
私が小学5、6年生くらいだった時、食卓のある部屋の壁に、母が、星野富弘さんの詩画を貼っていたのを思い出します。そこに書かれている言葉に不思議さを感じていました。ここで言われていることはどういうことだろうと考えていました。皆様もよくご存じでしょう、「よろこびが集まったよりも」という詩です。
“よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせに近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったよりも 不幸せが集まった方が 愛に近いような気がする”こういう詩です。何十年も私の心の奥底に留まってきた言葉です。
さて、福音書の日課に心を向けてまいりましょう。主イエスとサマリヤの女性との出会い、そして、キリストと出会った彼女を通して多くのサマリヤ人が神様の救いを信じたということまでが描かれています。
サマリヤ人とユダヤ人は仲が悪く、対立がありました。そうなってしまったことには歴史的な経緯がありました。ユダヤ人の多くは主イエスの証しを受け入れず、救いを受け取ることができなかったけれども、ユダヤ人が軽蔑していたサマリヤ人のほうが神様の救いを受け取ったということが記されています。
この一連の物語はとても含蓄の深い内容がありますが、限られた時間の中で、主イエスがこの女性と弱さの中で出会われたこと、対話されたこと、彼女の中の内なるキリスト、神様の救いをお示しになったことを中心に覚えたいと思います。
その前に、ここに至るまでの主イエスの背景を覚えたいと思います。福音書1章10節、11節にはこのような言葉がありました。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」。救い主がこの世に来てくださいました。しかし「自分の」ユダヤ人はキリストが語る神様の救いを受け入れない、そういうことが語られています。
先週はニコデモのお話を私たちは聞きました。信仰熱心だと自負するファリサイ派の一員であった彼は、結局は、主イエスが解き明かす救いを理解するには至りませんでした。
そして今日の4章の1節から4節には、洗礼者ヨハネよりも主イエスのもとに多くの人々が集っているということがファリサイ派の耳に届くことになったことが書かれています。ここからだんだんと彼ら宗教指導者たちは主イエスに対して憎悪を強めてゆくことになります。主イエスに対し、彼は神を冒涜して自らを神に等しい者であるかのように語り民衆を惑わしているとして、殺意を強めていくことになるのです。主イエスは一人ひとりの救いを語っているにもかかわらずです。
また人々はこの世的な意味での幸福をもたらしてくれ、即座に不幸を幸せに変えてくれるメシア、救い主を求めています。しかし主イエスが語る救いは、根源的で、普遍的です。かかえている状況は改善されなくてもされたとしても、どうであれ、生きられる救いです。この世的には不幸と見えようとも、その中から立ち上がり、希望をもって生きられる救いを語られました。しかしこれは私たちにとって分かりにくいのです。
どの福音書も「主イエスの語ることが人々に理解されない」という人々の無理解というテーマがあり、それが流れています。そして十字架で殺されるまでに至ることに繋がります。主イエスが言っていることは、私たちの人間の我(が)から見ると、わけのわからないこと、この世で生きる上で役に立たないことと映りがちなのです。
しかし、その救いを受け取る準備がある人は受け取ることになります。それは、人間の力ではなく、聖霊による、と表現するしかないことです。そして、多くの場合、試練の中でこそ、神様のほうへ心を向ける、神様の救いを受け入れるということが起こるのです。
主イエスのことに目を向けてみましょう。聖霊が主イエスを荒れ野での悪の力からの誘惑、試練へと導いた、ということを私たちは四旬節の初めに覚えました。私たちは誰でも不幸なことなど欲しくありません。なるだけ不幸を避けようとして生きているのは当然のことです。しかし、願わないけれども試練に直面するということは、生きている以上必ずと言っていいほどやってきます。一難去ればまた一難がやってくる。そこで大切になるのは、生きる力だと思います。困難があっても光に向かって前へと進ませようとする力だと思います。それは自分から出てくるというよりも、「私の内なるキリスト、私の内なる聖霊」から湧き出してくるものです。主イエスは、出会う一人ひとりに一生懸命、どんなときにもその人を立ち上がらせる、生きられるようにさせる、神様の救いのこと、その内なるお働きのことを伝えています。しかし理解されない。もっとこの世的な幸福をもたらせというような民衆の視線を感じる。また、宗教指導者たちの冷たく、憎しみに満ちた視線を感じる。主イエスは、聞く耳を持ってもらえない淋しさ、伝わらないもどかしさを抱えて、その渇きを覚えて、この井戸端までたどり着いたのでした。6節の「旅に疲れて」、この一語で、主イエスのお心の疲労感、徒労感が表現されています。
それは正午ごろでありました。その時間は厳しい暑さが襲う時間だと解説されています。井戸の周りの住民たちは、昼間は暑すぎるので、早朝にあるいは夕方に水くみをしていたようです。
その井戸端に女性がやってきます。人に会いたくないのか、彼女は誰も来ない時間に来ました。主イエスはユダヤ人。女はサマリヤ人。民族的には仲が悪い。しかも、男性優位の時代の中での男と女です。
主は女に声を掛けられます。「水を飲ませてください」。お願いをされたのです。女はびっくりです。なんでユダヤ人で、しかも男が女の私にお願いをするのだろうと思ったでしょう。主はお願いをして、この一人の神の愛する人間と出会い、対話しようとなさられます。
ここで少し立ち止まってご一緒に考えてみたいと思います。現在私たちの社会、世界では他者と対話することに困難さを覚えることの多い時代ではないかということをです。こんな変な人と対話なんかできるんだろうかと私たちはしばしば思うことがあると思います。そうです。対話することのなんと難しいかということを痛いほど味わっている毎日です。そして世界を見渡すと、それが戦争まで引き起こしているを見ています。そして戦争を止める対話がなかなかできない。「悪の枢軸」「悪の指導者」と相手を断定して、やっつけることで平和をつくるのだと言って、憎悪の連鎖に振り回されてしまう私たち人間の性質があります。このことは遠くの世界で起こっているばかりでなく、近くで出会う人ともなかなか心通じ合えない、対話ができているとは感じられない思いを持って毎日を暮らしています。私たちもまた「渇き」を心の内に持って旅をしているのです。
誰でも渇きをかかえているように、この女にも渇きがありました。主イエスはそれを見つめておられます。そしてまさに「そこ」でこそ出会われます。本当の出会いが起こります。また、主イエスにも人間的には深い渇きがありました。徒労感、虚しさを感じる、渇きです。その主の方から声を掛けられます。それが「水を飲ませてください」でした。「あなたの力が、あなたの助けが私には必要だ」と言って、この人を求められるのです。神様は、この人がみもとに帰って来て、救いの中を歩んでいくことを求めておられるという御心の通りです。対立、差別、男性優位で威張り腐る力は主イエスを支配していません。そうではなく、愛なる神様のご支配(神の国・天の国)が主イエスを支配しています。主イエスにあるのは、神様にいだかれている中での自由、平等、神様の愛に充満されています。神様のガソリンは主イエスに満タンです。神様の供給ルートは封鎖されません。四方八方壁に取り巻かれても、神の通路は永遠に開かれています。どこから来るのでしょう。私たちの内なるキリストからです。私たちの内から、その神様の源泉から、神様の力が泉のように沸き出て来るのです。
この女性はかつて5人の夫がいた過去の事を、苦しみの声に耳を傾けてくれるこの一人の人間に打ち明けました。5人の男性に振り回されたであろう、その涙を主イエスは見ておられます。主イエスは教える者のようにではなく、教わる者のように、助けてやる者としてではなく、助けられる者として、本当にこの人と出会われるのです。出会いの場は、この世的な幸福感にあふれたような場ではなく、この世的な視点から言えば、暗さが一杯の場です。神様は十字架のイエス・キリストという場で私たちと出会われることを皆様方は信仰生活の中でお心にとめておられるでしょう。神様は「そこ」でこそ出会われるのです。
主イエスはこの人の人生を知っておられます。そして、そのあなたのまま、今の苦しみをかかえたそのままで、一緒に神様のもとに帰って行こうと、その人に向けられている神様のまなざしをもって、あたたかく、そして厳しく、本当の救いに連れて行こうと命をかけておられるのを私たちは見ます。「水を飲ませてください」と同じ地平から助けを求めて心を開かせ、真心でたましいを交流する、渇望の場におられる神様とその渇望で潤いを与えられる神様がおられる「ここ」に共に彼女とたたずまれるのです。
渇きをどうにかして何とかして潤おうと必死に生きてきたこの人。求めても求めても潤いはなかった。この世界には潤いなどないのではないか。どんなにがんばっても結局は虚しく終わる、この世は虚無しかないかもしれない、そうやって生きてゆくしかすべはないのだ、いやそうに違いない、そのような心がこの人にあったのではないかと思います。
主イエスにも人間としての渇望があった。この人にもある。ここで出会います。そして、ここで「ありのままに」包み隠さず、素直に、腹を割って、心を語り合う、そしてお互いの痛みを共有する、弱さ、後悔、苦しみを持っている者どうし、それを綺麗に表面的に飾るよりも、本当で、人間と人間で、一緒に生きる、一緒に泣き、一緒に笑って、神様の愛を受けている者どうし、アッバ(おとうさん)のふところの中で本当を生きる、そこに十字架の救い主はおられるのです。
そして主イエスは「あなたの中にキリストがおられる」ことを示されます。人間であるご自分の中にキリストがおられることを自覚して生き抜かれた主イエスです。殺されても死なないキリストに在って永遠の神様の命にあることを知っておられる主イエスです。全被造物はキリストの中に存在している、すべての人間の中にキリストがおられる、そのように神様がその愛を持って私たちを救いに置かれ、導いておられる、この「真理」を共有したい、一緒にそこに生きてゆきたいと「内なる泉」を示しておられるのです。そのキリストとは、その人の苦しみを共に背負う、支え導き続ける救い主です。この救い主のおられるところで私たちは出会い、対話できます。そこで血が通って来るのを感じることができるのです。閉塞した心が溶け、どうしたわけか力が出てきたなあと感じられることが起こってきます。どうしてでしょうか。弱い者どうしがその弱さを担い合う、背負い合うというところでこそ神様と出会うことができ、御力は噴出してくるのだからです。
私たちは強さに、立派さにひかれる面があります。それに振り回されます。しかし、遠くに救いがあるのではなく、ここにあります。弱さを持った自分を認め、大切にし、同様に弱さをもった他者を大切にする。自分の痛みを神様が知って支え導いておられるように、私たちも他者の痛みを主イエスと共に見、そこで一緒に生きる、その永遠なる神様のいのちに生かされてまいりたいと思います。
私たちには多様で素晴らしい無二の賜物がそれぞれに与えられています。それを用いて苦しみの中にある人を助けていく。助けられ助ける、助けて助けられる、助け合う、その人の中におられる、自分の内におられる十字架のキリストと出会っていく、そのような本当に幸いな人生が、自分の力を誇り威張っていくような暗闇にではなく、神様の光に輝き、愛され、助けられている中を歩んでいくことができるのです。
東日本大震災の発生から15年が経ちました。記憶や教訓をどうやって次の世代へつないでいくかということを想い、「ゆず」という日本を代表するアーティストが、東北はもちろん、全国、そして世界に震災の経験を伝え、未来へつなぐことを目指して制作された「幾重」という曲があります。私たちの営みを神様が支えてくださっています。歌詞に込められた、神様の慰めと祈りをこの曲に私は重ねています。最後にこの詩を味わってお話を終えたいと思います。主の御言葉の御支えがこの新しい一週間皆様に在りますように祈っております。
会えない事に 慣れない (※注:慣れられることができない)