宣教76年第6号
主題聖句
平和を実現する人々は、
幸いである、
その人たちは神の子と呼ばれる。マタイ5:9
主題
神様の平和に生き
平和をつくる
牧師 光延 博
音羽町礼拝所 420-0834 静岡市葵区音羽町8-16
Tel&fax (054)245-2517
ひかり礼拝所 420-0812 静岡市葵区古庄3-18-12
Tel&fax (054)261-5566
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2.まぶねのわら、露にぬれ 救いぬしはふしたもぅ、
3. いかなるもの、 主に捧げん、 山の石、 海の珠、
【司式】私たちは、 父なる神のみ前に、まごころをもって近づき、 罪をざんげし、主イエス・キリストの 御名によって 赦しを願いましょう。
父なる全能の神よ。私たちは生まれながら罪深く、けがれに満ち、思いと言葉と行いとによって多くの罪をおかしました。私たちはみ前に罪をざんげし、父なる神の限りない 憐れみにより頼みます。
【司式】ひとりのみ子 イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔い、み子を信じる者に、赦しと慰めを与えてくださるように。
神様。あなたは私たちを祝福し、みわざのために用いてくださいます。この地でみわざが行われるために、この世であなたの栄光が現われるために、聖霊によって私たちを支え、励まし、お遣わし下さい。救い主、主イエス・キリストによって祈ります。♪アーメン
第1朗読 イザヤ 58: 1~12) (旧1156)
第2朗読 1 コリント 2: 1~16 (新300)
1兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。 2なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。 3そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。 4わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。 5それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
6しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。 7わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。 8この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 9しかし、このことは、
と書いてあるとおりです。 10わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。 11人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。 12わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。
13そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。 14自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。 15霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。
13「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 14あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 15また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 16そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 20言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
そのひとり子、私たちの 主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によってやどり、おとめ マリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに 苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府に下り、三日目に 死人のうちから復活し、天に上られました。そして、全能の父である 神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。
聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン。
【会衆】神よ、わたしのために、清い心をつくり、揺るがぬ霊をわたしのうちに、新しくしてください。わたしをあなたの み前から捨てず、あなたの聖なる霊を、わたしから取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、わたしに返し、喜び仕える霊を与えて、わたしを支えてください。
今、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り、しもべを安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光、み民イスラエルの栄光です。
われらに罪を犯すものをわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ。
国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン
主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。
【主題聖句】「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」(ルカ2;19)
〇 焼津と藤枝の両礼拝堂の働きがますます用いられますように。
〇 礼拝堂を閉鎖した島田での家庭集会が祝されますように。
〇 駿遠地区のセンターチャーチとしての働きを、栄光教会が担っていけますように。
◇本日、音羽町礼拝所の礼拝後、ビスケット(微助っ人)の会を行います。
◇2/10(火)11(水)教職神学セミナー(市谷センターにて)、2/13(金)教区常議員会(名古屋めぐみ教会にて)に牧師は出席します。
◇2/18、3/4・18(水)、10:30~ひかり礼拝所
◇2/23(月・祝)教区女性会企画「アガパンサスの集い」(拳母教会にて)が開催されます。
◇3/20(金・祝)10:00~教区総会(みのり教会 豊橋礼拝所)に牧師と船城代議員が出席いたします。
聖書 出エジプト記 24:12~18 (旧134)
【黙想の断片】どのようなことがイエス・キリストが語られている地の塩・世の光になり、腐敗を防ぎ、活力を与え、人生を豊かに味わい深くし、希望を灯すものになるでしょうか。人から称賛されるようなこの世の価値観から見てご立派な行いでしょうか。また「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」というその義とはどのようなものでしょうか。自分を高めていくことに専念し、その結果人を自分を上位に置き他人を見下し差別するに至ってしまったファリサイ派的キリスト者あるいはキリスト者のようであるが実はファリサイ派と堕してしまう悪の誘惑にからめとられがちな私たちは主イエスが言うところの義とは何なのか改めて考えたいと思います。その義とは100%罪人である私たちが100%神様の恵みのみによって義とされているという、自分の力では全くない神様の恩寵を受けている真実にある義です。私の正しさではなく神様の正しさによって私たちは刻々赦され、復活して歩む道へと帰って来るようにと神様から刻々名を呼ばれています。コリント書でパウロはこの書の主題1章18節「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」(小川修訳)を掲げ、それを教会という共同体の諸問題について牧会的な勧めを展開してゆきます。教会はこの世の縮図と言えるでしょう。罪赦された罪人が主なる神様に従う共同体です。遠い国の平和を祈りつつも近くにいる兄弟姉妹を大切にせず平和を創ろうと努めないないということは起こりがちですが、立派な祈りや行いで自分を高めていくことよりも近くにいる他者との間で平和を築いていこうと主に従うことこそ大切でしょう。自分を捨て自分の十字架を背負って主イエス・キリストに従う者となり、なろうとしてゆく私たち主の弟子たちの群れのあらゆる行為の根底には「十字架の言」がありますし、その根にいつも立ち還っていくことが神様が与えておられる人生の豊かさに立って共に生きていく人生の土台です。今日の箇所でパウロはこう言っています。「2:1~5 兄弟たちよ。わたしも、あなたがたの所に行ったとき、すぐれた言葉や知恵にしたがって神の奥義を宣べ伝えようとして行ったのではなかった。わたしは、あなたがたの中に、ただイエス・キリスト、しかも十字架につけられたあの方以外は、何も見るまいと、決心していたのである。(あなたがたと同じように)わたしもまた、衰弱と、恐れと、酷い戦きの中にあって、あなたがたのところに行ったのである。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との働きによったのである。それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」(同訳)と。「衰弱と、恐れと、酷い戦きの中にあ」り自分の十字架を背負うパウロを背負っている十字架の救い主と共に自分の十字架を背負うパウロは、聖書を読んだことも主イエスのことなど聞いたこともない異邦のコリントの人々一人ひとりの中におられるキリストを見ています。全被造物はキリストの中に在るという真事を見、一人ひとりの中におられるキリストを見ています。罪人であり多様な私たちはキリストの中に包まれている一つとされている神の義を受けて存在しています。私たち全被造物は十字架の救い主によって救いから離れることはできません。これは全く神様の恵み、恩寵です。十字架の主は私たち誰もが十字架を負う場に完全に一つとして共におられます。自分の力で自分を創造した者はただの一人もいません。すべて与えられているものですが、私たち罪人は自分の力で今の自分があるのだとうぬぼれ、高慢になります。しかしそれが偽りであることは終わりの時にはっきりします、そしてその私たちが神様により完全な救いの中に在ることは明らかになります。自分の力を誇示し振り回すことが共同体を破壊し、ぎすぎすさせます。地の毒、世の闇なる教会となるでしょう。悪しき自己実現、悪しき自分ファーストは教会を壊すだけでなく、この世を壊そうと我を張る(頑張る)でしょう。自分を捨てるどころでなく、自分のために神様まで利用することは私たちの罪性の業です。私たちが神様によって繋がらせられているのは、ユダヤ人にはつまづき、呪い、弱さの極み、ギリシャ人には愚かとしか映らない十字架の主によっています。私たちは弱さで繋がっていることは、自分の力は無であるという命の真実から考えれば明らかであるように、十字架を負う命の主である神様に心を向ければ認識できることでしょう。イザヤ書で「わたしはここにいる」と神様が言われている神の座は、書いてあるように、自分を高めていこうとする所では全くなく、苦しむ同胞(教会も社会・世界も)を近い所から大切にするという互いの十字架を見、その弱さを大切にし助け合う場です。そこで私たちの傷はいやされます。虚栄を張る所に命の主の癒しはありません。弱さの共有の中一緒に「生きる」のです。