平成熊本地震復興のシンボルである熊本城のニュースに隠れて目立たない存在であった熊本洋学校教師ジェーンズ邸が7年ぶりに,9月1日目出度くオープンした. 1871年(明治4年)に古城(現在の熊本県立第一高等学校内)に建てられた熊本最古の洋風建築であるジェーンズ邸は, 2016年4月の前震には耐えたが, 翌々日の本震で全壊し, 再建工事が進められていた. 地域住民からは,再建を機に創建の地である古城地区に移築を求める声もあったが, 市は復旧費や時間的な制約を理由に, 水前寺江津湖公園での移築再建を決定し. 約6億円かけ,2023年3月17日に工事が完了した.
★令和5年9月1日オープン! 熊本洋学校教師ジェーンズ邸
最終更新日:2023年8月17日 文化市民局 文化創造部 文化財課 TEL:096-328-2740 FAX:096-324-4002 bunkazai@city.kumamoto.lg.jp
洋学校教師ジェーンズ邸オープン
平成28年熊本地震により全壊し、復旧工事が終了した熊本県指定重要文化財「洋学校教師館ジェーンズ邸」が令和5年9月1日にいよいよ開館いたします。開館を記念して、午前10時からオープニングセレモニーを開催します。なお、一般公開は、令和5年9月1日午後1時からです。皆様の来館をお待ちしています。
ジェーンズ邸の変遷
明治4年(1871年) 熊本洋学校教師邸宅として熊本市古城地区に建設
26年(1893年) 集議所洋館として南千反畑町に移築
45年(1970年) 水前寺公園東隣に移築。 記念館に
46年(1971年) 県指定重要文化財に指定
平成28年(2016年)4月16日の熊本地震本震で全壊
令和5年(2023年) 水前寺江津湖公園の一角に移築再建
平成28年の平成地震本震によって全壊したジェーンズ邸
L.L.ジェーンズの経歴(Leroy Lansing Janes)
1838年3月27日にアメリカのオハイオ州で生まれた。
1861年に, 米陸軍士官学校を卒業、南北戦争では北軍に従軍。階級は砲兵大尉。
1864年、ハリエットと結婚。
1865年、長男のロバートが誕生。
1867年、次男のチャールズが誕生。
1870年、熊本洋学校の教師として来日。
1876年1月、 花岡山の集団入信。
10月、 熊本洋学校閉鎖(明治9年), 大阪英語学校教師
1877年、大阪英語学校を依願退職し、妻, 4人の子供と帰国。
1884年、妻のハリエットと離婚, 訴訟.
1884年、ハリエット死亡.
1893年、妻フロラと再来日。 1899年まで、京都第三高等中学校と鹿児島尋常中学校造士館で英語を教えた。(明治26)
1899年 妻と3才の息子, 1才の娘を連れて帰米
1909年 3月27日, 73 歳の誕生日に昇天
ジェーンズの熊本洋学校に於ける仕事は必ずしも順調ではなかったようである. 熊本大学社会文化研究9(2011) 67-83(PDF)の論文の一部を以下に紹介した.
ジェーンズの雇用契約期間は、明治4年8月28 日から明治7年10月7日までの3年間だった。
明治5年8月3日、学制頒布で、それまで旧藩や県が自由に設立した学校の廃止が命じられ、文部 省は外国人教師の俸給を差し止めることが決まった。しかし、細川護久候が私財を充てることで洋畢 校は存続できることになり、ジェーンズは3年の任期が切れた後も、教師の仕事を続けることができ たのである。明治7年10月3日に熊本洋学校二度目の開校式が行われ、その翌8年7月に洋畢校一級 生(明治四年撰入生)が卒業した。京都で官許同志社英学校が開校したのは、同年11月29日のことで ある。
明治9年1月30日、洋畢校生徒有志が花岡山で「奉教趣意書」を朗読して神に祈り、35人が誓約を した花岡山結盟事件が起こった。熊本洋畢校は、二級生(明治五年撰入生)が卒業した後、同年9月 で廃校となっている。先年横井小楠が暗殺されたのは彼の思想が余りにも進歩的で「耶蘇教を信じた」と疑われたためだと言われ、それ以降、実学党にとって基督教は禁忌であったと考えられる。 従って、実学党が創設したと言える熊本洋畢校から基督教を信仰する生徒が多数出たことで、関係者 は大いに動揺し混乱したものと推察する。結盟者の中に小楠の嫡男、時雄までいたとなれば、なおさらのことだったであろう。その後、ジェーンズは熊本を離れ、明治9年11月1日から同11年7月31日まで2年の雇契約で、大坂英語挙校に勤務し始めた。しかし、明治10年4月10日に同校を依願退職し、11同年5月に、妻ハ リエットと4人の子供とともに帰国の途についた。
ジェーンズは,当初, 熊本藩が創設する兵学校の教師として雇用される予定だった. しかし, 廃藩置県が実施され, 職務は英語教師に切り替わった.さらに, 学制が発布されると, 洋學校は創立3年目で閉校の危機を迎えた. これを救ったのは, 細川護久であり, 私財を投じて洋學校事業の存続を実現させた. 授業科目は, 英語, 数学(代数幾何), 物理, 化学, 星学, 地質学, 人体学にもおよんでいる. 修業年限4カ年でジェーンズひとりで担当していた. 閉校後, 鹿児島に転出した折は, 政局が不安定のため無報酬の期間が長く続く等, シェーンズは様々な苦境に直面した.
妻フロラによれば, 明治32年日本を去る時, 学生から贈られた記念写真帳を手にして日本での出来事を回顧していたが, 間もなく健康を害して療養院で静養した. その間, 絶えず日本における基督教伝道を気にかけ, 特に, 鹿児島における二年の印象, 熊本における聖書講義, 京都での生活などを回顧し話題にしたという. しかし, 老年のため再び健康が回復することはなく, 1909年3月27日, 73 歳の誕生日に昇天したという.
ジェーンズが苦境に直面すると, 彼に手を差し伸べたのは, 横井小楠の門人の子弟を中心とする元熊本洋學校生であり, 海を越え, 生活に困窮した恩師ジェーンズの晩年を援助した.
農業教育
ジェーンズは洋学校で生徒と接するだけでなく, 洋学校を公開し, 地域住民との交流を大切にした. 講演では西洋文化の紹介, 食生活の改善, 農業の手法など多岐にわたっている. 彼の地域貢献面の具体例として, 『生産初歩』という著書がある. 当時の熊本県内の農業のあるべき方向を示したもので, 生徒に和訳, 記述させたものという.
注) 著者の自序によれば, これは"熊本学校演習ノ-課ニ施シ初年生徒ニ命シ訳述セシメ"たものである.訳したのは山崎為徳, 松村元児, 市原武正の3名(引用元. L. L. Janes『生産初歩』について 九州大学学術情報リポジトリ).
ジェーンズと農業に関して, 調べていくうちに, 横井時敬の存在を知った. 彼は, 明治4年(1871年)熊本洋学校に入学、アメリカ人教師ジェーンズの助手として勉学に励んでいる.
私の祖父は, 明治35年頃, 熊本農会に所属し, 「熊本県農会報」を編集, 出版していた. その中に, 横井時敬の論説を掲載している.
当時帝国大学農科大学教授(後に東京農業大学初代学長)で, 後に「近代農学の祖」と言われている横井時敬によるものが四篇見受けられる.
熊本縣農會報 論説 農学博士 横井時敬
第参号(明治35年1月6日)論説 地主の前途
第四号(明治35年5月20日)論説 小作人問題
第六号(明治36年4月24日)論説 今日の社会事情と農界肥後の方針
第七号(明治36年8月30日)論説 肥後の経済策に就きて
ジェーンズ邸について調べながら, 何に焦点を絞りまとめるべきか迷ったが, 建物についての情報はウエブ上に溢れていることもあり, 原点に戻り日米親善に貢献したジェーンズ本人についてまとめた. 同時代に単に自分の専門的な知識, 技術を伝授するだけでなく, 任地の文化の向上に努力したのは, 古城醫學校のオランダ人軍医マンスフェルトも同様であった. 歴史的な出来事は, 人物, 場所, 時代背景を知ることによって十分な理解が得られることを考えると, 花岡山にも近い創建時の古城地区に再建したいと思うのは理解できないことではない. ジェーンズ一家の赴任リートの詳細を調べた論文を読むと尚更である.
追記 遠山参良先生について
熊本洋学校は, 後に新時代を担う有能な人材を多数輩出したが, 花岡山結盟事件の後に閉校となり, 学生の多くが同志社英学校に移った. 結盟には加わることはなかったが, 先輩達と一緒に同志社へ移った中に, 5回生で1年生の遠山参良(さぶろう)少年(9歳)がいた. 熊本洋学校の教育理念は同志社英学校に引き継がれる形となり, 先輩たちは同志社1回生として卒業した. 遠山は, 同志社を辞め, 熊本に戻り広取, 鏡英学校等で学業を続けようとしたが, 満足できず最終的には長崎の加伯利(カブリ)英和学校(現鎮西学院)を卒業した.同校の教師をへて明治25年アメリカに留学, 33年夏目漱石の後任として五高英語科主任となった. 明治44年(1911年)には, ブラウン宣教師に請われて九州学院初代院長になり, キリスト教を基盤とする教育理念に沿って青少年教育を実践した. 私事になるが, 私の父は大正11年(1922)卒の7回生であり, 在学中に洗礼を受けている. 父との会話の中で, 遠山先生が登場し,先生に対する畏敬の念を感じることが幾度もあった.
参考資料
L.L.ジェーンズについてはウエブ上に情報が存在するので, 新しい情報源を紹介したい.
1)熊本地震で全壊「ジェーンズ邸」が再建…農業から男女共学まで改革を進めた米国人教師の大いなる足跡 丸山淳一(読売新聞).
野球との関連, 九州学院, ヤクルト村上様まで考察を深めている.
2) L.L.ジェーンズ大尉と熊本洋學校 熊大リポジトリ 石井容子
論文要旨 熊本洋學校敎師 Capt. L. L. Janes 研究 ―足跡と功績―
L.L.ジェーンズ大尉と熊本洋學校 : 教師館までのルート及び熊本洋学校再考
これまで知られなかった赴任ルートや妻の手紙まで紹介し, 細かく考察している.
初度来日時におけるジェーンズ大尉と熊本洋畢校生 -ABCFM宣教師文書とキャプテン・ジェーンズ資料の書簡を通して-
熊本大学社会文化研究9(2011) 67-83. PDF(ダウンロード)
3) 熊本県教育史 上巻 熊本県教育会 編(国会図書館デジタルコンテンツ)
L.L.ジェーンズ大尉の写真を掲載している書籍であり, 国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能.
4) ジェーンズ物語 著者 ジェーンズ邸前館長 黒田孔太郎 36ページ(Amazon Web Service, janes-story.pdf)
平成26年5月から33回連鎖されたものをまとめてPDF化したものである. 非常に詳しく書かれている. 掲載紙不明.
5) 第三十六話 初代院長遠山参良先生と創立の精神『敬天愛人』 (講演)
関連ブログ
祖父の足あと (明治30年代)(家族史), 2013の記事.横井時敬との関連
ジェーンズ邸150年の歴史 (折りたたみ文書) クリック 👉
ジェーンズ邸150年の歴史
明治4年(1871年) 熊本洋学校教師邸宅として熊本市古城地区に創建
9年(1876年)1月、 花岡山の集団入信
10月、 熊本洋学校閉鎖, 県官舎. 徳富蘇峰など同志社に転校
10年(1877年) 西南戦争勃発. 征討総督・ 有栖川宮熾仁親王の本営
5月、佐野常民に博愛社 (後の日赤の前身) の設立
西南戦争終結後は県庁幹部官舎
22年(1889年) 第六師団の将校官舎, 明治熊本地震で破損(外壁, 屋根瓦)
27年(1894年) 南千反畑町(県施設, 観聚館)に移築
県工業学校校長室, 九州沖縄八県連合共進会事務所, 県立高等女学校職員室等で使用
37年(1904年) ロシア人将校の捕虜収容所(日露戦争)
大正3年(1914年) ドイツ人将校の捕虜収容所(第1次世界大戦)
昭和7年(1932年) 水道町(日赤熊本支部)に移転
20年(1945年) 熊本大空襲、 診療所
39年(1964年) 日赤血液センター
42年(1967年) 日赤の新社屋完成. 熊本市に寄贈決定
45年(1970年) 水前寺公園東隣に移築。 記念館に
46年(1971年) 県指定重要文化財指定(明治初期の洋風建築物)
49年(1974年) 一般公開(記念館として)
平成28年(2016年) 熊本地震本震で全壊(4月16日)
令和5年(2023年) 水前寺江津湖公園の一角に移築再建 (9月1日)
熊本市教育委員会の資料
・明治4年 創建/・明治9年 閉鎖(県官舎に。徳富蘇峰などが同志社に転校) ・明治10年 西南戦争勃発 ※ジェーンズ邸内で博愛社(日赤の前身)の設立許可書交付 ・明治27年 南千反畑町(県施設)に移転/・昭和7年 水道町(日赤熊本支部)に移転 ・昭和45年 市に寄贈され現在地(水前寺公園)に移転 ・昭和46年 県重要文化財指定(明治初期の洋風建築物として) ・昭和49年 記念館として一般公開
熊本洋学校で学んだ人達 (折りたたみ文書) クリック 👉
熊本洋学校で学んだ人達
小崎弘道(牧師) 熊本バンド35人のひとり 帰米後のジェーンズを支援
海老名弾正(思想家) 海老名喜三郎 熊本バンド35人のひとり
金森通倫(牧師) 熊本バンド35人のひとり
浮田和民(思想家) 熊本バンド35人のひとり ,妻フルラと交流
蔵原惟郭(政治家)
山崎為徳(宗教家)
徳富蘇峰(ジャーナリスト) 徳富猪一郎(後の蘇峰)
横井時敬(農学者) 熊本バンド35人のひとり
横井時雄(牧師) 横井小楠の長男 熊本バンド35人のひとり
杉森此馬(大学教授)
森田久萬人(同志社神学校教頭)
宮川経輝 熊本バンド35人のひとり
不破唯次郎 熊本バンド35人のひとり 1879年に同志社を卒業
女子
徳富初子 湯浅初除子
横井みや ジェーンズの妻から教育を受ける
関連事項
福田令寿 医師,社会福祉に貢献 1892年(明治25年)熊本英学校卒業(海老名弾正校長 明治20年設立28年廃止)
著書
カピテーンゼンス 著、山崎為徳・松村元児・市原武正 訳『生産初歩』岡田屋嘉七、1873年6月。 NCID BA55976538。全国書誌番号:40060377 NDLJP:838682。
ジェーンズの写真 (折りたたみ文書) 👉
Leroy Lansing Janesの写真
(2023.9.16)