由 緒

由 緒 平安時代の末、「地頭伊東祐継が漁師の報告により海中から得た霊像を祀るため、松原の地に大社を造営し、鎮護国家の八幡宮と崇めた」と古文書に伝えられる。当時、すでに鎮座していた産土神とこの霊像を合祀し、武家の頭領である源氏の守護神「八幡神」を勧請したとされる。 さらには近年、霊像を見つけた年を久寿元(1154)年とする記録が見つかっている
祭 神 誉田別尊(ホムダワケノミコト・応神天皇) 文武、産業発展の守護神として崇められる。母后である神功皇后の胎内に在ったとき、北九州の鎮定や新羅出兵等があったといわれ、武神として崇められたが、国際交流や大陸文化の移入に努めて、日本文化興隆の緒口を開いたと伝えられる。 ♦ 鎮座地  創祀860余年にわたって繰り返されてきた鎮座地の返還は、この地方の災害史の側面でもある。伝聞によれば、大出水により伊東郷・松川近傍に在った社地が流失、湯川村境の宮元に遷ったと伝えられる。社はその後も、出水や度重なる火災により移転と焼失を繰り返す。 昭和年、現在の地八津山に再建を決め、参道整備等を進めた。しかし、その後も幾多の震災や戦乱という難事が重なったのち、昭和21年に旧社殿が竣工、翌年遷座を果たした。その壮麗な木造社殿は昭和38年、近隣火災の飛び火により焼亡、昭和40年鉄筋コンクリート造で再建され、平成二十年の改修を経て現在の社殿となっている。

▲神社境内より伊東市内と相模湾を一望(手石島や初島も見えます。)

♦創祀者・伊東 祐継

 伊東家は藤原鎌足の子孫(南家)で、木工助となった為憲の代に工藤氏を名のり、子孫の維職が当地に居住。初めて伊藤姓(後の伊東家初代)に改めた。その次代家継は菩提寺東光寺を建立、三代目祐継が当社の創祀者として実質的に地域の開発に尽力したと伝えられる。

【伊東祐継顕彰碑について】

 平安末期にこの松原の地に大社を建て八幡神を祀った創祀者としては、当神社に遺された何枚もの棟札に「地頭伊東祐継」と記されています。創祀の年代は、明治期の旧松原村と松月院(江戸時代以前は松原村に存在)との関係書簡か久寿元年(1154年)と判明。

 地頭(開発領主)伊東家は藤原鎌足の子孫(南家)で、木工助(役職名)となった。

為憲の代に工藤を名乗り、その子孫の維職(これもと)が狩野の地を末子・茂光に委ねて当地に居住し、初めて伊藤氏を名乗りました(伊東家初代)。

 当時のこの地は久豆美(または葛見・玖須美)と呼ばれていたが「伊藤庄」と呼ぶようになり、鎌倉時代、「伊東」姓が使われる頃の書面に、地名も「伊東崎」、「いとう」が吾妻鏡、日蓮書状などに見うけられるようになり、室町・戦国・江戸時代に多用され、明治期の伊東村、伊東町を経て現在の伊東市に引き継がれた。

 二代目の家継(祐隆)が菩提寺東光寺(後に東林寺の隠居寺となり、江戸末期に廃寺)を建立した記録が知られ、三代目の祐継が八幡社を建立、八幡神を祀るなどの事績を残していることから、おれらの代が現在の伊東に当たる地域の実質的な開発を行い、石倉(いわくら)田、八幡田、宮田などの神田(しんでん)を寄進したことが古い絵地図に遺された字名から窺え

 当神社誕生の時振り返り、改めて心に刻もうと、令和元年7月13日、創祀祭(865年)を初めて開催しました。また、創祀者・祐継公の事績を偲び、より多くの人々の記憶に留めてもらおうと、令和2年7月13日に歿後860年祭を催し、ここに顕彰碑を建立しました。

伊東祐継公石碑除幕式(令和2年7月13日)

伊東地域の開発に足跡を残した祐継公の顕彰碑建立を機会に、弓馬法を受け継いで京・御所の滝口の武士として活躍した勇姿を想像して、親しみや敬愛の念を深めて頂ければ、幸いです。

詳細は、 itohachiman@gmail.com へお問い合わせください。