ひとが我々と呼ぶ平行線 吉岡雅樹『ドライブ』試写版レビューtext by 山本桜子

ファシスト・外山恒一が車に有象無象を乗せて、棄権を呼びかけたり、原発推進派の候補者を追いかけたり、候補者とみれば追いかけたりしながら東京や大阪や鹿児島や北海道を走り回る映像は動画サイトで見ることができる。外山本人の撮影・編集によるもの、反ヘイト団体や反原発団体などの記録を続けるカメラマン・秋山理央氏による『外山恒一「原発推進派(舛添&田母神)ほめご...大絶賛キャンペーン」〜東京都知事選2014〜』、編集者・織田曜一郎氏による一連の動画などがある。織田氏の撮った(そしてファシストを批判的に記録した作品だと言い張った)『外山恒一の「ニセ選挙運動」~現代美術パフォーマンスとしての記録~(ダダイズムアートコンペ提出作)』はスイス大使館主催のリベラル色の強い企画「ダダ100周年記念コンペ」において慌てる主催者を尻目に一般投票で優勝し、件のダダコンペを形無しにした。
吉岡雅樹『ドライブ』2020 はおそらくこれらの映像と異なり、外山(またはそのスタッフである山本)の活動の記録を主眼としない。たとえば運転しているのが外山、助手席にいるのが山本だという説明は映像内には一切でてこない。互いの名前も呼ばれない。疾病の蔓延する初夏の夕べ、なんらかの理由により東京から山奥に向かう黒服の二名がおり、ぼろぼろの車に本が積んであり、旧式の車載プレイヤーでCDを聴いていて、もしかしたら他に誰か乗っているかもしれず、やたらと笑うか沈黙し、近くに遠くに見える様々な灯りに歓声をあげながら暗闇に向かって走る。日のあるうち、車窓から見える景色はとてもきれいだ。看板、電柱、シャッター、並走するトラック、ガードレール、アスファルトの白線が高速で移動しながらパタパタ、ごうごう、びゅうびゅうと目の前を過ぎる。とりたてて景勝地ではない。すべてが様々な色の平行線となり、それも闇に沈んでいく。ドキュメンタリーともフィクションとも言えないが、おそらく作り話は映画の十八番、そしてファシストの十八番、そしておそらく人間の十八番だろう。
我々は神(みたいなもん)のない西洋近代の人間の悪足掻きの末である。近代の表象は直線だ。直線が併走する他の直線と交差したかろうが、そんな事態はない、ないといったらナイのである。入党しようと10年を共にしようと前部座席に隣り合わせようと後部座席に乗り合わせようと、撮ろうと撮られようとすべての我々は平行線である。我々は作り話であり架空の主語だ。「わたしは言葉がその核のまわりに紡ぐ夢のことを考える、ひとがわれわれと呼ぶ夢」と1931年のトリスタン・ツァラは書いた。ダダもまた近代の鬼っ子だ。「ダダはスリッパも平行線もない生活だ」と1916年のトリスタン・ツァラはぶち上げたが、ダダ、つまり「私」を「我々」にするグループワークをいろいろやった挙句、おそらく暫定的に前述の理解に達したのだろう。平行線に可能な変容は束(ファッショ)だろう。彼の骨は我々が拾う。笑いながら、作り話をしながら拾うのである。
ところで『ドライブ』は平行線の映像を断ち切るようにテロップが挿入される。直線的人間の奮闘を描く『白鯨』に時折クジラトリビア集が挟まれるように徐々に存在感を増していくテロップは、歴史と、西洋近代の喪った神(みたいなもん)を匂わせながら、平行線と異質な垂直軸を成し、平行線をポップにぶった切る。前部座席の二名は当然このテロップを見ることはない。無神論者が神を信じていないと思ったら大間違いだ、という認識に従って不在の神を信じる「我々」にとって、残酷かつ優しい作り話をこの映画は提供するとも考えられよう。ともあれシリアスな話は苦手だ。なんというかあきらかに笑っていい映画だとおもう。なんか化け猫とかでてきた気もする。まあ、化け猫の本質は「そこにいない」ということなので、だいたいの映画には化け猫がでてくる。

作品情報:ドライブ2020/30min/日本/カラー/HDV, iPhone撮影・録音・編集・監督: 吉岡雅樹出演: 外山恒一、山本桜子