異端審問: フィルム=ノワール研究所設立宣言 "黒"の異端審問 修正版


夜が楽しくなったという声が聞こえてくる。夜→映画→フィルムノワールという連想を愚かにも導き出してしまう類の人間たちによってこの研究所は設立された。
しかし稚拙とも言えるこの連想を可能とするものは一体何なのか。ことによったら神話の時代にまで遡る必要がある「黒の歴史学」とやらではないだろうか。
あるいは「黒のモラル」と言い換えてもいいかもしれない。それは映画以前から存在するのは明らかなのだが、映画ほど経済的達成と共に猛威をふるったことはないだろう。
映画の夢から醒めたくないという理由から自然光が消えた夜にこそ映画を見終え劇場の外に出たいという欲求や、レイトショー、あるいは最近話題のドライブインシアターなどの「映画文化」は、まず、映画は暗闇を必要とするという技術原則から導き出される必然であると同時に、商品としての経済原則ともズレることなく一致する。映画、あるいは映画館が延命してきたことの理由の一つには、21世紀の今もなお、暗闇、あるいは夜、つまるところ黒というものを集団の共同幻想として確保することが映画体験にとって必要不可欠であるという前提が崩壊してはいないからである。
4月29日、映画監督の黒沢清は、「早いはなし、映画館がなければ映画はない。例え老人の記憶の中には残ったとしても、映画館をついぞ知らない若者の前で、映画は消滅する」とのコメントをミニシアター・エイドに寄せた。TVの受信映像でもなく、インターネットの配信映像でもなく、大学や企業のPowerPointの投影画面でもなく、映画のためにのみ存在するスクリーンは映画館のみが有する。そこは暗闇が支配する場であって、一切の照明は敵なのだと断言する者が正義となる、現在唯一の場でもある(ただ一つ、映写機から放たれる光を除いて)。そのような場所で映画は存在し続けてきたのだという意味で、確かに黒沢が言うように、それが失われたとき、映画はこれまでの映画とは異なる何かへと変形する。
暗闇の支配を当然のごとく受け入れることによって、我々は映画を見ることが可能になるわけだが、そのとき我々の視界に映る映画が俗にフィルムノワールと名指されるものである場合、映画体験の技術原則と経済原則とが一致したさらなる黒を目撃する。この黒をひとまず映画の論理と呼んでおこう。映画の論理とは、かのヘイズ・コード(映画製作倫理規定、1930-1968)による検閲によって規定され導き出された美学である。映画の論理とは、ある批評家が言うようにハリウッド資本の論理(経営が不安定になりかねない外圧に配慮しつつ娯楽と刺激を大衆に提供する)に準じてきた。別の批評家が期待するところでは、映画の論理と資本の論理のはざまに位置する「B級」「ノワール」映画、つまりフィルムノワールとひとまず定義づけられた映画群は、古典的映画と現代映画の移行期に存在していた重要な映画であった。
現代映画にはっきりと足を踏み込み、映画の生死を彷徨いつつ、映画を安易に延命させることを拒みながらも古典と現代の移行期の映画への畏敬の念を忘れることのできないフランスのある映画作家は、1968年以降、映画のショットとショットの間に黒画面を挿入せざる得ない地点に至る。そのとき、その黒画面は映画の不可能性を告知していたのだとするならば、映画における「黒」とは、漠然とした「フィルムノワール」という名称を退け、さらなる漠然さを身にまとう精神史を射程に納めなければならないだろう。それは近代をさらに下降し、神話の領域に足を踏み入れ、そこから近代へ再び上昇することによって映画に辿り着く道程である。
映画の論理において、古典と現代の間で行われた闘いが「フィルムノワール」と呼ばれる「黒い表象」を舞台に行われた表象と表象の衝突という次元で重要視することは当然だが、同時に、当時、赤狩りの渦中の中で映画をつくっていた映画人の生活環境や、ナチス政権から亡命したヨーロッパ系ハリウッド映画人たちが体得している表現主義的スタイルが「フィルムノワール」の「黒い物語」に影響を及ぼしたという社会的政治的次元においても、同等に重要視する必要があるというのが我々の立場である。
映画好事家は映画館の暗闇を愛する。資本家も映画館の暗闇を支配しなければ金が生まれないため、暗闇を愛する。他方、映画の黒は、現代へと至る闘いの舞台であり、不可能性の告知である。資本の論理と映画の論理、そして両者の存在基盤として欠かすことのできない観客と劇場(場)の論理を、黒という色彩が支配している。黒の歴史学、モラル、イデオロギーを解剖することは、資本-映画-劇場の感性を問うこと、つまり字義通りの映画学であると信ずる。
「異端審問」とは、光なくして闇はなし(闇なくして光はなし)と言うときに、リュミエールなくしてエジソンはなし(エジソンなくしてリュミエールはなし)を平然と想起する人間たちの集いである。いうまでもなく、リュミエールは集団による、エジソンは個人による映画体験を用意し、ここで映画史の分岐が生じた。ということは、我々は「映画は映画館で見るものである」という「正論」に必ずしも賛同する側に立っていないことを意味する。ミニシアターについては別稿で改めて書く必要があるが、いま触れておくべきことは、資本-劇場の関係性と、近代都市とペストの関係性、つまり権力と場の問題を問うことを抜きにして、無邪気な映画愛を理由に「映画文化を守れ」と叫ぶことが果たして力たり得るのか、という一点のみである。[ 1 ]
自宅でオンライン映画を視聴することを余儀なくされ、エジソン的映画体験が再び注目されている現在、個人ではなく共同幻想を優先し、暗闇を覗き込むのではなく暗闇に身を沈めることを選択した映画史を改めて問う必要がある。そして、映画それ自体がそうであるのと同様に、我々もまた資本主義の産物である以上、資本の論理と映画の論理が一致することによって「映画」が生まれ、その狭間に亀裂が走り、こぼれ落ちてくる何かこそが、映画的瞬間であることには現在をもってしても変わりはしない、ということも我々は自戒と嫉妬を抱きながら想起し続けていく必要があるだろう。

具体的には下記の基本作業が必要となる。
【1a】「フィルムノワール」と定義された1940〜50年代の映画と、それとは異なる現代 or 古典映画を二本立てで参考上映【1b】「異端審問」、浅羽通明、来場者で自由討論

日 時:毎月末1回程度(詳細告知はSNS or郵便にて)時 間:17:00-23:00(変動あり)料 金:未定場 所:浅羽通明の古書窟/ふるほんどらねこ堂    〒160-0004 東京都新宿区四谷4-28-7 吉岡ビル7F 誰でも参加自由
【2】「蓮實重彦」を基軸とするハリウッド映画論の文献研究【3】映画前史における「黒の表象」研究【4】都市と劇場/映画館史あるいはシネフィル変遷史研究【5】Webサイトの運営、機関誌の発行[現在準備中]
2020年5月25日異端審問: フィルムノワール研究所
2020年5月28日異端審問: フィルム=ノワール研究所
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[ 1 ] 吉岡雅樹「後藤護『ミニシアターの両宇宙誌』キネマ旬報6月下旬号 批判」2020.6.21 参照

(2020.11.12 註[ 1 ]を追記)

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