後藤護「ミニシアターの両宇宙誌」キネマ旬報6月下旬号 批判吉岡雅樹


「88年山形生まれとあっては」と書き出される後藤の小論は、その後ただちに「ミニシアターの『思い出』などは微弱な迫力しか持ち得ぬであろう」と続く。後藤は、この小論で二つの過ちを犯した。まず早すぎた過ちとしてその一つに挙げられようこの開口部分は、我々にとってはいささか憂鬱な気分にさせられる。今年4月20日、山形県旅籠町(はたごまち)にある老舗漬物店「丸八やたら漬」の廃業が決定し、翌月31日に廃業した。隣接する「香味庵(こうみあん)」も同様である。この地が「映画」によってどのような場所であったか、「山形生まれ」で博識な後藤が知らないとは思いたくない。もったいぶるのはやめる。後藤が、端的に言って「ミニシアター」論としてこの小論の第一語に選択した「88年」とは、映画監督小川紳介が「山形」国際ドキュメンタリー映画祭(YIDFF)を組織すべく動き出した年である。翌年に第1回を迎え、以後隔年で行われることになるこの映画祭は、蓮實重彦によって「世界で最も貴重な映画都市」として語られることになるだろう。私自身、2015年と2017年に観客としてこの映画祭に参加したことがあるが、たしかに、この蓮實のアジテーションに対して反論すべくもないほどの決定的な映画体験をした。先に挙げた香味庵は、「映画」の主体を形成する製作陣・映画祭スタッフ・配給業者・観客らがごった煮状態で朝まで酒を交わし合う場であった。と同時に、平均して一日5つもの「映画」というスクリーン上の影を見つめ疲労が溜まった視線を、今度は四方八方に目まぐるしく動かして、見ただけで失神しそうになる監督や、見るたびに苛立ちが立ち込めてくる批評家や、顔だけは知っているが口をきいたことがなかった同世代のシネフィル等々が、言葉を交わし、早く寝たらいいものをさらなる疲労を己に課す場でもあった。もちろん、映画体験は人それぞれ異なるのだから誰もがそうとも言えるはずはないが、30年間にわたって世界のシネフィル(映画気狂い)たちを巻き込んできた歴史を背負う「山形」が始動した「88年」に、同じく生を開始した後藤護という人間が、「ミニシアター」論という歴とした「映画」論を書く原稿において、その出自を書き出しに選択したうえ、『映画の神話学』なる蓮實重彦の「古典的書物」に言及しさえもする「ミニシアター」=「映画」論において、YIDFFには一切触れずに終えてしまうというのは何事だろうか。YIDFFを含む同時期に始動された地域映画祭なるものが、いわゆる「ミニシアターブーム」の影響を受けていることは言うまでもないことだろう。
小論とはいえ、YIDFFを素通りして「ミニシアター」論を書き上げてしまう事態とは、要するに小川紳介をも素通りすることを同時に意味する。後藤は、「ミニシアター」なる名称を「ミニ」+「シアター」に一度解体し、「ヨーロッパ古典古代」にまで遡ることで、「ミニシアター」の潜在的な可能性を提示しようと試みる。だが、そもそも「ミニ」と「シアター」の組み合わせで名指された劇場によって、いわゆる「アート系映画」が流通を始めたのは日本特有の現象であって、海外ではそのような劇場と「アートハウス」と名指されている。このことは、ミニシアター救済クラウドファンディング発起人の一人である映画監督深田晃司が今回の事態を受けて執拗に語っていたことであった。娯楽施設として流通しかねない「ミニシアター」なる名称が今回の事態の原因の一つでもあると、いささかネガディブな側面をその名称に対して説明する深田に対して、後藤は、幸か不幸か日本においてのみ根付いてしまったその名称を、西洋の概念を駆使してポジティブに捉え返す。つまり、後藤の論は、本人がどう考えているかはわからないが、必然的に日本を起点にすることによってのみ展開が可能となる。「世界で最も貴重な映画都市」を内包する日本のみが展開可能な、「ハードコア」、「ミニ」、「シアター」論。後藤がこの小論で使用した「ハードコア」なるものにおいては、のちに「ミニシアターブーム」に結びつくレールの一つを轢くことになるだろう、闘争渦中の大学や三里塚を経由して「山形」へと至る小川紳介の「映画空間」を希求する闘いは「微弱な迫力」でしかないのだろうか。「思い出」を「記憶術(アルス・メモリアス)」へと、「ハードコア」に言い直した後藤なのであるから、個人的記憶などに興味も執着もあろうはずはない。であるならば、カメラと被写体の距離というものを、撮影現場そのものが孕んでしまう政治的な空間として自覚し、両者の関係の再組織化を目論んで撮影現場へと生活の基盤を移植させ、コミューンたるべき「小川プロダクション」の名の元に撮影-編集-配給-宣伝-上映といった「映画」の全権力を自分自身で握ることを達成し、やがて崩壊していった映画史のまさにハード(過激)コア(核心)が、「88年山形生まれ」の人間のすぐそばに存在していたことを、まさか、その出自から書き出される論考において、それがたとえ小論だとしても、関係がないとは言うまい。
いまや、「1968」の「ハードコア」がここにあった、と論を急旋回させるような「暴論」こそが必要なのかもしれない。「1968」年、小川の映画/組織論の記念碑的作品『日本解放戦線 三里塚の夏』が製作され、その撮影渦中に結成された「小川プロダクション」の実践が開始される。東京・新宿を起点として(1968-)、千葉・三里塚(1971-)、そして山形・牧野(1975-)へと彼らが映画/生活の拠点を移動していくとき、主に大学や地域の公会堂等が担っていた当時の「自主制作映画」の上映空間は、着々とミニシアター的基盤を形成していく。この形成過程とは、「映画」を我々の元に奪取するための権力生成史に他ならない。村山匡一郎は「『ミニシアター』の前身」を「自分たちで見たい映画をなぜ見られないのかという素朴な疑問」と書いたが、この「素朴な疑問」とは、同時代の三里塚農民老若男女がいだく「なぜ住むことができないのか」という「素朴な疑問」と100%一致する。映画気狂いとは、映画がなければただの気狂いと化す他ないのと同様に、三里塚農民から農地が奪われたら彼/彼女らは都市に殺されるだけである。ここで小川神話をさらに増強していく意図は一切ないし、必要もない。1960年代以降、「映画」の欲望=権力奪取は、全国各地に渦巻いていくことを宣言した。1938年、28歳の映画監督山中貞雄が中国で戦病死し息絶えたとき、長征を終えた延安で契りを結んだ毛沢東と江青はゴダール『中国女』(1967)を用意せしめ、東宝争議(1946-1948)で封殺された「映画」への欲望が二・一スト(1947)の怨念に憑依する。やがて戦後学生運動の欺瞞が戦後独立プロ映画の限界と重ねられる暁には、「1968」の「映画」の欲望はノンセクト・ラジカルの暴力と共振するだろう。小川はこの渦中を生き、「映画」の欲望を増幅させ全国各地に撒き散らすことになるが、それは大小無数の「映画」を欲望する人間がいたからこそ可能だったのである。草月シネマテーク(1961)が、アートシアター新宿文化(1962)が、「映画館」と化した無数の大学と共存していた。やがてエキプ・ド・シネマ[映画の仲間]運動を始動する岩波ホール(1968)が完成した同月に、やがてBow [Best of the World] シリーズを世に問うフランス映画社もまた動き出すことになるだろう。このような同時代の映画/運動の中で小川の存在が特異であり貴重なのは、小川の「映画」の欲望が、「関西小川プロダクション」「東北小川プロダクション」「北海道小川プロダクション」「九州小川プロダクション」として全国各地に撒き散らされていくそのダイナミズム、やがて崩壊を迎えることになる無限に肥大化し続けるこの「映画」の欲望なるもの、その可能性と不可能性を一挙に背負っていたからに他ならない(「天皇制」とも揶揄された小川の方法がどれだけ汚かったかは、数多く存在する小川への批判や告発が明かしている)。そして、このような「映画」の臨界点としての小川の身体は、「山形」を「世界で最も貴重な映画都市」へと変貌させることでもって朽ち果てるのである。これほど運動した「映画」の欲望を私はまだ知らない(強いてこの身体に匹敵する身体を想起するとしたら、結局は小川の同時代を「映画」空間の領土戦争として生きた人間たち、フランスに転戦を余儀なくされた大島渚や、パレスチナでフィルムを廻し続けた足立正生らを挙げる他ない)。この運動/映画史を、「思い出」を、「記憶術」を、「ハードコア」と呼ばずしてなんと言おうか。その痕跡はなかなか見づらい、だがたしかに「山形」に存在するのである。
「ミニシアター」の基盤が成立する過程を説明するためには、当然戦前の小型映画や政治映画、さらに映画前史に遡ることは必要ではある。だが後藤のこの「ミニ」+「シアター」論に対して、正史的な説明をしたところで何の批判にもならない。当然、後藤は「ミニシアター」の基本的な成立過程くらいは調べているはずである。問題は、小論ながらも例のごとく「引用の洪水」的スタイルとして選択した結果、自らの身体をも洪水に飲み込まれてしまっているということに、徹底的に無自覚だということにある。