EXHIBITION3
一匠会メンバー紹介
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細田さんは長年、高島屋設計部で、ショールーム、ホテル、ショッピングセンター、住宅、店舗…等等空間づくりを手掛け、万博での某パビリオン展示デザインコンペを担当された実績をはじめ、数々のプロとしての経歴をお持ちです。定年退職後、自社を立ち上げ、創作活動を継続。凹凸のある創作和紙を使ったインテリアアート、瓦素材、ガラス、プラボードを用いて、光・色を組み合わせ、日本発オリジナルアート発信中❣️
創立以来の事務局メンバー。本業は御本人曰く「設計やさん」。設計施工のチーム川嶋を率いておられる。学生の姉的存在の、染織講師だった先生が「家においで。ごはん食べよう!」と言って下さり,工芸科女子学生一同、大喜び参加。赤い鉄板玄関ドア、無垢のブナ材床板、レンガ造りの流し…学生憧れのこの御家の設計施工が川嶋さんだった。その作品は、常にアイデア、入念作業に驚かされる、木工、平面、インスタレーション。
40回展終了後の会員紹介第一号は、黒川昂一さん❤黒川さんは、一匠会第1回参加メンバーのお1人で、前述の、川嶋さんや三柴の先輩です。乃村工藝社を退職後、老舗の家業を継がれつつ制作して来られましたが、ここ数年、持病の腰痛に悩まされ、バンカラ風味が残る大学時代の数多な悪業を懺悔し、奥様への罪滅しに苦闘の日々を過ごされています。その狭間の時間に我を取り戻すため穴倉(工房)にこもり土捻りを嗜まれてる陶芸家でいらっしゃいますいます。一見温厚な風貌の持ち主でいらっしゃるらしいです。(上記紹介文は、三柴案を大幅加筆修正頂いた、黒川さんの文章です💕 念のため❣️)
西田さんは、番匠先生が一匠会設立準備の為の研究室会議から呼ばれた、設立メンバーのお1人です。打ち合わせには、我々工芸科4回生で授業がない手空きの者も呼ばれ、研究室で一緒にお話を伺いました。
先生に一任していた、一匠会の名前とマークのお披露目の時、「一匠会、ですか…先生、この、一の字を順番の番に変え、『番匠会』にしたらどうです」と咄嗟に言われ、みんなが「OH❣旨い❣そうやそうや」と盛り上がった思い出話を後年したら、西田さんは忘れておられましたが「番匠会」御提案者です!(^^)!
後日先生に「あの方達はどういう方ですか」と伺ったら、「美術で食べてる、君らの大先輩だ。話を聞かせて貰うと良い」と仰ったので「そうか、平日の大学に来られるなんて、偉い先輩なんだ」❣
その西田さんは、木工の会社をされる木工作家で「重文、国宝」クラスの復元模造、つまり、高い精度と学術的裏打ちを必要とするお仕事もされている、という事は、アートフォーラム設立記念展の際の西田さんの講演で知りました。後日、西田さんの膨大な読書量、知的好奇心、行動力、資料読み込みの図書館通い、趣味の読書量の多さ…を知る機会があり、又、ITにやたら強く、「一匠会ホームページ」生みの親でもあられます。
多羅間さんも、一匠会創設の時番匠先生に呼ばれた、設立準備会からの参加メンバーのおひとりです。はじめはゼネコンの設計部にお勤めでしたが、番匠先生の勧めもあって教職に転じ、京都教育大学附属桃山中学校の美術科教諭となり、以後同校の管理職を長く勤められ、ご退職後は大学で教鞭をとられました。その間、ゼネコン時代から現在に至るまで、二科展を中心に彫塑作品発表を続け、現在は二科会会員です。
特筆すべきはその温厚な御性格で、声を荒げたり、怒ったりされているのをついぞ見たことが無い、あまり他に覚えがない方で、死にそうなハードな日程で、今や「ブラック」と呼ばれる教育界に長く勤めながら、どうやって、膨大な量の仕事と作品制作を両立されたのか…、ぜひ伺いたいですが、きっと多羅間さんは多くを語られないだろうなぁ…と思います。その思いを語るのが作品なのか?爽やかだったり、時には厳しく屹立し、時には切なくも見える多羅間作品群…どうぞ 御出品予定の第40回一匠会展会場でご覧頂きたく思っています。
皆が「くすかさん」と呼ぶ先輩は、御家族皆さん、お名前に「楠」の字が入る。とは聞いていたが、犬の「楠ジロウ」には笑った♪登山、と言っても半端じゃない、本格的山岳チーム率いるスーパーウーマンの作品は、羊を見て「この羊の毛を」と購入されたウールの、手紡ぎ手染め手織りの、ショール、服、アクセサリーから大作迄。手紡ぎウールの軽さ,暖かさ。手染めの美しさ。一度は触れて頂きたい、本物のス・テ・キです。
メンバー中、最多出品回数を誇る「出すと決めたら出す」意思の人、今井さんは、筆者入学時専攻科生で、いつも手斧を持って歩いておられ、一回生には、それが作品制作の為と理解出来ず…何だろう⁉️まさか…殺人鬼⁉️な訳はない…。上級生の部屋は階上で、階段を降りて来られる事が多く、威圧感もイヤ増し、️我々はお名前も分からず…「オノさん」とお呼びしました。一匠会が出来、気安くお話し下さる優しい!今井さんは、高校の美術の先生、かつ、二科展第一室展示常連の作家さん。力強く温かい木彫、金工、又はmix技法作品は、題名センスと時代性先取りで、いつも感心します。
服部明美さんは、学生時代から、一貫して「花」をモチーフに染色して来られました。卒業後、京都有数のテキスタイルメーカーでデザイナーをされたプロです。出品作品は「糊型染」という、江戸時代に確立された技法を用い、スケッチを元に、線一本、色一色考え抜かれたオリジナルデザインです。美しい色彩に、毎年「今年はどんな花が会場に咲くかしら?」とワクワクします。ご自分の目で味わって頂きたい、美しい花々です。第41回展からは「野菜」もモチーフに加わり、新たな境地開拓中❤
一匠会事務局長、牧野さんの木工作品です。二葉家具デザイナー⇨現在はテニス、有機農法の畑、その作物をスケッチする絵画会、絵本読み聞かせ、太極拳…愛と健康追求の人!作品は一貫して「シンプルで木の楽しさが伝わる家具」。手仕事ならではの素朴な作風です。
高校の美術工芸科教師をされた桑原さんは、趣味の域を遥かに超えたスキーと併せ、一貫して「木」をモチーフに製作されています。木版画、木彫、遊具風オブジェ…温かみ溢れる作風、加えて、必ず「クスッ」っと笑わせて下さいます。最近取り組んでおられる「木工の遊具風オブジェ」は御来場者1番人気。お子供さんは勿論、老いも若きも手に取り、ゴール後「よくまぁ、こんな手の込んだ…」と驚嘆するのです。その題名も才能の一環で、「今年のお題は何だろう?」と期待が…。会場でお手に取ってご体験下さい。
久保さん卒業年に一匠会が出来、初期からの参加者のお一人です。卒業から退職まで養護学校美術科教諭として、障害児の美術教育に取り組まれました。在学中は織専攻、先生も舌を巻く「耳(縦糸の縁)処理の美しさ」で、その几帳面さ、丁寧さは、後年「カード織」や、日常生活で出会う素材(不織布、包装用具)を用いた織にも、遺憾なく発揮されました。ここ数年「アトリエ手拭い」として、貴重、希少な「日本手拭」でオリジナル服や小物にし「勿体無い」を体現されています。
走泥社・宮永理吉先生の陶芸専攻中の4回生の時、初出品した女流陶芸展でいきなり毎日新聞社賞を受賞し会員になられた鈴木さんは卒業後、京都市立中学校美術教諭に。しかし、仕事は(御本人曰くの)ブラック。結婚、子育ても重なり、女流陶芸を数年で断念退会、美術教師仲間でグループ展を開催、間もなく30回を迎えられます。自然物を材料にしたオブジェや、陶芸、木工、染色、織物の複合技法作品など、番匠工芸科ならではの制作で、テーマはその時の関心事、ニュース、時事問題等を発信されています。
松村さんは、人物を多く作られる木彫作家です。長く中学美術教師をされながら作品を作って来られたました。アトリエ写真を拝見しましたが、所狭ましと並ぶ大作、秀作の質・量は、教師の片手間の作品、では無く、作家が教師もしていた、と言えます。船越桂を思わせる、懐かしさを呼び覚ます佇まいの人物像からは、温かみ、思慮深さ、文学性…が漂います。
木彫材料は、校庭の伐採された樹木だそうですが、捨てらる所を、眠っていた形を刻み、世に出してくれた作者に、作品達はきっと喜んでいると感じる、心に響く作品達です。
山本さんは、金工の中でも「鋳造」、金属を溶かして成形する技法の作家です。大掛かりなアトリエが必要な為、会に入られた時、お金持ちの御坊ちゃま?とお話を伺っていたら、曰く「アトリエを自分で建て、次にその横に自宅を建て…」「大工の棟梁に弟子入りし、自宅を建てている時、一番高い所から落ちて(申しておきますが…2階建、です!)骨折、長期入院し…」と物凄い話をサラリ。お料理がお上手、コーヒーも気軽に居合わせる女子❣会員にお淹れ下さる長髪の若者(=他の会員より若い、の意!(^^)!)は、その時から皆の尊敬を集めております。拝見に伺った御自宅、アトリエは素晴らしく快適、又尊敬❣作品はどこかユーモア潜み、日展常連、創工会会員にして「味噌焼き」なる伝統技法を駆使される作家と思えぬ、溢れる親近感。「余裕の微笑み誘う山本ワールド」を御体感下さい。
藤田さんは、去年初めて参加された陶芸家で、絹織物の寺川さん、金工の山本さんの御同級です。ベテラン作家さんと拝見するも、御本人は至って謙虚。一回ご一緒、では全容はまだ不明でしたが、藤田さんのFacebookのお陰で、「日本山野草の愛好家で育苗家。小動物の飼育がお得意で、百貨店でのディスプレイを、自作品に活けた山野草で見事に飾っておられるプロ(写真 左下)」等等発見。道理で、一匠会会場にさりげなく飾られた、自作に活けたお花(写真上)を皆が撮影する訳でした。
新たな、才能溢れるメンバーを、ここ数年で沢山お迎え出来、一匠会の明るい未来に喜んでいます詳しくは藤田弘美さんFacebook御参照♪
まえださんは、最近メンバーが増えるまで、長く会員最年少記録を誇っていた若手陶芸家で、「工房・くらふとアトリエ月彩」「相楽作業所」等で指導もされています。
作品モデルは愛らしい動物達で、題名も「かえるとうろう」「はりねずみ香炉」「まんた香炉」「穿山甲(センザンコウ)蚊遣」(左下・背中に乗ってる子を見てね❣)等ですが、去年「持ち手を枝に見立てたただただ使い辛いマグカップ」シリーズが登場、「余裕ある無駄と温かみ」…新境地開発中、新たなファン獲得中の注目株です♪
石田さんは和紙の臈纈染を、デザインのお仕事や支援学校での授業の傍らされています。作品は、ご自身の体験やご家族がモデルの温かい作風で、観る者にしみじみとした共感を呼ぶ、確とした存在感をお持ちです。お仕事がお忙しい事、決してやっつけ仕事をされない美点は裏目に出て、作品が間に合わない年もありますが、ずーーーと参加され、御出品時は、皆が「良いねぇ…」と寄って来る…そういう作家さんです。自己主張の多いこの業界で、そのお人柄にまず尊敬の念を禁じ得ません❤
朝倉さんを知ったのは、教育大で、美術科全体のOB会「アートフォーラム」が開催された時の、美しい椅子の御出品だった。「こんな綺麗な椅子を作る方が居られたんだ。」迎えた搬出日。一匠会メンバーがいつもの調子でワイワイガヤガヤ連れ立って搬出していたら、目の前を、あの綺麗な椅子が搬出されて行く…可愛いいお子さんと、奥様らしき方が運んでおられ、思わず「この椅子の作者ですか一匠会はご存知❓」と話しかけ、翌年から御参加頂くと、お客様から「もうTVで特番も放映されている木工のプロで、教育大で教鞭も取られている」と伺う。
宇治炭山に、新たにモデルルームも開かれる所で、御自宅も、金工の山本さんに続き「セルフビルド」❣ご家族で建てられたそうで、これは凄い。又も「アトリエ拝見」にゾロゾロ。その工房、お家の素敵な佇まい、作品と同じく真心おもてなし…忘れ難い1日で、モデルルームの素晴らしい家具、本格的な御自宅、「ホンモノ家具」の「真心でケアの朝倉木工」に、メンバー全員、改めてファンになり帰宅したのでした。(http://www.asakuramokkou.com)
山元さんは第6回一匠会から参加された古参メンバーのお一人で、兵庫県立西脇高校等で長く美術科教諭をされました。山元さんを教えられた先生も、山元さんに習った生徒も、教育大卒業生が多く「山元佑さん」は有名人でした
「デザイン性に優れた構成画面シリーズ」が代表作ですが、近年は御自身の篆刻軸の表装も手掛けられ、どれも会員垂涎の作品として、交換希望者が常におりました。私も幾つも「佑さん作品」を持っていますがいつ見ても美しいです❣
体調を崩されてからは、京都への道のりがきつく休会中ですが、作品を見たい、とのお声が毎年上ります。
驚く程、素材の処理の美しい大画面、趣を変えても作業精度が同じ御自身の篆刻を表装された軸…今一度、どこかの会場で拝見出来ると良いのですが…無理は禁物。発表出来なくても作品は作れますアートは楽しく、健康第一です❣
先回で、昨年出品者紹介を終了、ここからはお3人 故人で、会の存在、方針に大きな足跡を残された大先輩作品を御紹介します。第1号は、師範学校から、学芸大学に切り替わった工芸科卒業生2期生、田辺守人先生です。
先生は、長く京都市立日吉ヶ丘高校(美術専門高校)洋画科教諭、紫野高校工芸科教諭として有能な卒業生を世に送られ、ご自身、作家として新制作に出品を続けられた油彩画家でした。
確固とした信念を持ってアートの素晴らしさ、手仕事の大切さを教え続け、その教えに感銘を受け、工芸作家、デザイナーになった者多数。熱意溢れる先生でした。鋭い線の中に常に温かい心が宿る絵画を描かれました。
「学芸大時代、須田国太郎の授業は、当番が部屋を清掃、床に打ち水し、黒板を拭き清め先生を待った。ゆったりと現れる大柄の須田先生は、生徒のデッサンを一人一人丁寧に見て回り、的確な助言後は、床に落ちていた紙を拾って、一緒にデッサンやクロッキーをされた。」と書かれています。
田辺先生が、会に残された「ギフト」の1つは「デッサン、屋外写生」。もう1つが「物々交換」❣
お互い気に入った出品作を、搬出時交換する。お陰で私も、お金は無いけれど、かけがえの無いない傑作が日常に溢れている一匠会の有難さ。大声で「交換しよ」と言ってらした先生の声が聞こえる❣
ハンサムでオシャレ 色白のお肌はツヤツヤお酒を呑むと「こよなく晴れた青空を〜」と朗々と歌うキャラクターを病魔が奪った時、たった62歳だった事は今も胸が痛みます。
石坂さんは学芸大特修美術科時代のご卒業で、長く企業の服飾デザイナーを、又並行して保育専門学校講師35年、高石ふれあいゾーン絵画教室講師30年…等実績をお持ちの油彩画家でした。
近江学園(先進的障害者教育実践で有名。卒業生に、世界的陶芸家、澤田真一氏等多数)の活動にも造詣深く、展覧会活動に関わっておられました。「近江学園の生徒さんの作品よ、好きでしょう」と、素晴らしいピンクッションを下さったり、「裁縫は苦手」と言った途端、部品一式揃えてスカート1着分お送り下さる、愛と行動の方でした。
いつもお元気で、自作のとてもお似合いのワンピースを着、溌剌とされた方で、2017年の一匠会にいつも通り御出品(「青いドレス」「花」)の後、自宅で転倒。初めは全然大した事なく過ごしておられたのがその後急変、急逝された時、77歳…皆に惜しまれつつ「愛」と言うギフトを随所に残し旅立たれました。
岡田先生は、前述の田辺守人氏の2期後輩、学芸大4期生として、第16回一匠会に木彫作品「流れ」(下)でご参加以来、体調を崩される32回展迄出品を続けられた古参メンバーのお1人です。京都の私学小学校で長く教鞭を取られました。
立体作品が主ですが、椅子なども作られ、必ず2、3作御出品下さるので、広い会場で困った時、何度も「救いの神」でした。
長く同じ学校に居られ、保護者の方にファンも多く、沢山の方が見え「良い先生だったんだなぁ…」と思いましたが、その中には、人間国宝級の作家さんもご夫妻で毎年見え、我々はお茶をお出しするにも緊張、恐縮…普通に話しておられる先生を拝見して御人徳だなぁ…と思ったものです。
2015年、80才の時心筋梗塞で倒れられましたが、大事には至らず、その後、更に丁寧に生活されましたが、2020年、84才の時、肺炎がその命を奪いました。会に残された作品写真には「赤と黒」シリーズが多いですが、それ以外にも、前述の木肌を生かした作品や、木彫作品もあり、1つ1つの大きくはない部材を、丁寧にしっかりと組み合わせ、見上げる大作を構築する所に「岡田ワールド」の本質がある様に思います。
「ギャラリーのレベルアップ、お客様をお迎えするという事」を体現、お示し下さった先輩でした❤
一匠会はこれまで39回展覧会を開き、76名の出品会員がおります。最初に最近3回の出品者を、次に、3名の故人会員を御紹介しましたが、他に休会中会員も沢山おられます。
ここから暫く、いずれ劣らぬ実力者揃いの「休会中会員さん」にスポットを当てたく思います。
休会中会員トップは 峰晴 亨さん、御年88才です。
前述の田辺先生の1年後輩、学芸大工芸科3期生で、長く兵庫県立高校、大阪市立工芸高校美術科教諭の後、大阪市立デザイン研究所や大学で、教鞭を取られました。又、文部省(当時)の教科書編纂に関わられました。
御多忙の中、35回展迄21回という長きに亘って、搬入日に作品を携え御参加、我々後輩にも細やかにお声かけ下さる優しい先輩です。峰晴さんは油彩画家ですが、中心テーマはずーーーっと花、お優しい筈です。
峰晴さんが参加された、最後の第35回一匠会展搬入時「ご覧の様に、私は歩くにも杖を必要とする様になり、遠い自宅から絵を持って、京都に来る事はもう出来ないだろうと思います。皆さん有難う」と同伴の奥様に体を支えられる様にしてご挨拶頂きました。
まだまだお元気、と思っていた私は「そんな…今は運送業者による搬入搬出もありますし…」と口走りましたが、今、長年努力された先輩に対してどうだったか反省しています。お別れ、休止が予期せぬ突然訪れる会員さんが多い中、こんなに見事な挨拶をさた先輩…残された美しい花々の夥しい記録と共に、天晴れ、誇りに思います。
堂本さんを、休会中会員最後に御登場頂こうと思っておりましたが、悲しい事に、この8月に亡くなられた、との報に一同大変悲しんでいます。
堂本さんは、学芸大工芸科五期生、長年、毎日放送に勤務しながら、個展中心に活躍されたベテラン作家でした。お名前からも察せらる様に、堂本家の一員として、アートの血脈を受け継がれ、ファンが多数おられる染色家で「ロウ染水彩」というオリジナル技法をお持ちでした。第37回展搬入直前、作品も完成、搬入を待つばかりの時異変が発見され休会中でした。堂本さんは、会からの連絡、DMなどにいつもキチンとご返信下さり、労いの言葉と共に、個展案内や堂本美術館の御案内や見どころをお添え下さる優しさはずっと変わらず、大きな体に文化の香り漂う風貌…ご体調のご回復を切に願っておりました。23回出品のベテランを失い、一匠会は寂しくなりました。 来年2023年、ずっと個展会場だった御影の画廊で、遺作展が開かれるそうで、拝見が待たれます。
ここからは、会設立当時、準備会議から参加、尽力頂き会の「存続の根本」となった様々な仕事をしつつ早世された、かけがえの無い3名の会員を御紹介したく思います。お1人目は、河野荘二さんです。
河野さんは大阪で設計デザイン事務所をされていました。当時先駆的に、作家作品を会社の一角に置き販売されたり、教室を開いて工芸作品を作る喜びを味わう会を指導されています。その傍ら、一匠会のロゴ、作品アルバム(作品、題名、DM、芳名簿etcの記録管理)等 様々な雑事を無償で提供されました。学生だった私は、「ホー、素晴らしい」と、河野さんの作られた様々なものを見ていましたが、後年結婚し、夫となった人の会社の、ロゴマークデザイン料を友人に支払う際、「格安お友達価格デザイン料」を見て、通常(の半額ほどだった❣️)価格相場を目にし、河野さんの奉仕活動が、いかに価値あるものだったか理解しました。河野さんは、既にプロとして、それを生業にされていたのですから、その価値は誰よりご存知だったのに、一切語らず、絶えずニコニコと会に奉仕され、展示計画書作成、会場手配…奔走された事や、お嬢さんをお持ちだったからか、我々後輩の服装や持ち物にも敏感で、「お、そのブランド使ってるの?おしゃれ!」と声かけ下さるセンス、優しやが忘れられません。河野さんが60歳になるかならないかの頃、病魔に襲われ、当時は今よりもっときついお薬で、いい細胞も悪い細胞も、一緒くたに攻撃するような辛い治療を受けなければならず、その甲斐なく、あっという間に亡くなってしまわれた事を、今も、残念に思います。お爺さんの河野さんにお目にかかってお礼が言いたかったです。
河野さんの作風は、金属を多用した、デザインパネル、複合メディア使用の平面構成に優れた平面構成でしたが、照明器具等多才多作でした。
今泉先生は、現在出品中の会員の半数近くが、在学時「染織」の授業を受けた染織の先生で、新匠工芸会会友でした。工芸科卒業生で、同じ番匠先生門下生とい言う事もあり、教師と生徒という枠を超え、授業はフレンドリー、授業で先ずする事は、授業で使う染料や道具を先生と一緒に、生まれて初めて見る専門店に買いに行く事。授業の課題は「学期末までに作品○つ提出」だったので、かなり長い間、授業中、先生とお話、相談出来、打ち解けると「家にご飯食べに来ない⁉️」と、工芸科女子等等お誘い下さり、伺うと、お家は工芸科先輩設計施工モダンハウス、大勢の工芸科先輩や作家の出入り、可愛いお子さん💕…学生の憧れでした。
「お給料を頂く身」と一匠会運営に、又も一切無報酬で尽くされ、会期中の会場には、いつも先生の姿がありました。
今泉先生の体調の異変は、40歳の時、脳腫瘍が発見された事に始まります。手術は、ご主人が日本最高位の国立大医学部卒お医者様と言う事もあり、錚々たるメンバーで行われましたが、発生部が視神経に近すぎ、作家としてかけがえのない視力を取るか、命を取るか、と言う手術でした。幸にして、手術で大部分除去され、視神経は少しの損傷で済み、皆安堵しましたが、病変は取り切れず、様々な形で現れる後遺症に、その後苦しまれました。
一匠会は、一旦、第8回展を持って5年の空白があります。8回展で終わっているのに、5年後再開した時も第8回展…後年、資料整理していて気付き、1人笑いました。こう言う混乱が、先生不在だと起きる(と言う事は…今回本当は第41回展、だけど不問❣)。この時期は丁度、先生の発症、入院、手術、後遺症との共生までの時期と重なります。鳴門教育大に行かれた番匠先生との調整、会場確保、DM印刷、発送…特に会場当番は、私はまだ大阪で高校教師、メンバーも現役の教員、会社員、会社経営等で、結局、今泉先生しか「一週間長丁場、朝から晩まで」の引き受け手はいませんでした。先生が何とか復活し、一匠会が再開出来た、とも言えます。74才で亡くなる迄の34年間、人生の半分近くを、除き切れなかった爆弾を抱え、それでも平和を祈り、人を愛し、作品を作りましょう、お話しましょう、ご飯を食べましょう、と言う基本的な性格を失わず生きられた道のりを、お葬式後のお骨揚げの時、しみじみ偲びました。 今泉郁子と言う方は、今、出来る事を、愛を持って為そうと努力し続けた方だったと思います。
会員御紹介大トリは、番匠先生(1925-1995)。番匠先生は、東京師範学校卒業と同時に京都師範学校(現 京都教育大学)に赴任、37年間工芸科で教鞭を取られました。丁度、先生の定年退官の年、鳴門教育大学が作られ、先生の故郷、淡路島に高齢の母堂がおられた事もあり赴任されました。その長い京都での工芸科教師時代は、教え子の団結を生み、他の専攻科には無い「工芸会」なるOB会が、一匠会に先立ってあり、数年ごとの総会開催、工芸科全卒業生の名簿も更新。文字通り番匠先生は、「戦後の教育大工芸科の一本柱」でした。私も卒業前から大学で、工芸科先輩方によくお目にかかれ、その番匠先生が、教え子の製作作品発表の場を、と声かけされたので、1977年、一匠会はその地盤の上に、すんなり産声を上げました。マークは先生直筆、コンセプトは「玩具箱をひっくり返した様な展覧会」。
先生は、大学で制作されたので、工芸科研究室に不在時は、旧館アトリエの先生の部屋に行くと、必ず製作中の先生に会えました。生徒に何か言う時、最後のセリフは決まって「ま、ぼちぼちやってくれ」。その言葉通り、先生はいつもコツコツ、慌て急ぎ仕事せず、確実に完成に向け努力されている様でした。そうやって出来た作品と共に展覧会に向け、それを入れる木箱を作られる、それが物凄く立派❣️で、先生と一緒に皆で「何て立派な箱だ❣️」とよく笑ったのは楽しい思い出です。奥様が織られた、手染手織ウールの綺麗な色のジャケットを何枚かお持ちで、軽く暖かそうで洒落ていて、とてもお似合いでした。さぁ、これからご自分の人生をやっと楽しもう、と言う先生を病魔が襲ったのは、先生69才、今考えても本当に早すぎるお別れでした😭🙏膨大な数の作品は、先生の人生そのもの、その才能を惜しみます。二科会評議員・会員の彫刻家でしたので、大作、エスキースも沢山ありますが、優れた野外作品も多く、その一端をご紹介しています。
以下只今 工事中
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