石薬師寺の歴史

石薬師寺 文化財

当山は、萬葉集巻十三の長歌に、「山辺乃五十師原爾内日 刺大宮都司倍」(ヤマベノイシハラニウチチヒサスオオミヤツカベ )と読まれている場所にあり、今から約 一千二百年前の聖武天皇の神亀三年(七二六年)に泰澄という高僧がこの地に来たとき、森の中の大地が地鳴りをして巨石が現れた。これはきっと医王尊即ち薬師如来が民衆を救うために現れたのだと感じ、堂を建て敬ってお祀りされた。

その後、延暦十五(七九六)年、弘法大師が、自ら薬師如来像を刻んで開眼供養をされた。それを契機として、男女の厄除の霊験がますますあらたかになり、参詣する人々が日増しに増え、近くはいうに及ばず、遠方に至るまで評判になり、遂に時の帝、嵯峨天皇の耳に達した。

天皇は直ちにこの寺を勅願道場とされ、堂坊も整い、塔頭寺院も十二ヵ寺院、寺領も三町に達し繁栄を極めた。

天正三年(一五七五)、織田氏の兵火で、諸堂坊舎は悉く灰燼に帰したが、御本尊は難を免れた。住職の円賢(えんけん)法印はすぐに仮堂を造りお祀りし、慶長六年(一六〇一)に至り、神戸(かんべ)城主の一柳監物(けんもつ)直盛が霊験を得、報謝のために諸堂諸坊を再建、現在に至っている。

本堂には、大地より出現の秘仏の霊石薬師のほか、日光・月光両菩薩、十二神将、大日如来、不動明王等がお祀りされている。


(文化財) 本堂(県指定)寛永六年己巳(1629年)歴史的価値の高い三間堂


<建築概要>桁行三間、梁間四間、寄棟造、本瓦葺、平入で向拝一間を設ける。南面建ちである。

本尊 石仏(市指定)平安後期作

東海道五十三次と石薬師寺

当山石薬師寺は、弘仁年間(八一〇~八二四)には高富山瑠璃光院西福寺(たかとみさん るりこういん さいふくじ)と呼ばれていたが、一六一六年に東海道五十三次石薬師駅と呼ばれたので高富山石薬師寺に改称された。

また、名匠一立斎広重(安藤〈歌川〉広重)の不朽の名作、東海道五十三次の石薬師駅の図に描かれたことによって、霊験あらたかにして由緒深い石薬師寺が、ますます有名になった。

当時参勤交代で東海道石薬師の駅を通る諸大名は、必ず自ら本堂に参り、浄財を寄進して道中の無事安全を祈願したことは有名である。

境内の石の階段の一部分に丸身があるのは、城主に支障の無い様配慮されたためで、そのなごりが今も残っている。