芹澤記念弓道場は、芹澤雄二道幹(みちもと)氏(昭和2年7月28日生)が、昭和46年(1971)に建てられた個人道場であり、石岡市弓道会の修練の場として提供された。平成24年の芹澤氏没後石岡市に道場が寄贈され、現在の名称になったものである。芹澤雄二氏没後10年という事で、弓と医術と芹澤氏について紹介したい。
道場の安土幕には揚羽蝶の家紋がある。平氏の家紋である。芹澤氏の歴史を見ると桓武天皇にまで辿り着く。尊卑分脈によると、平将門の乱に登場する国香は桓武天皇の5代目、将門は6代目にあたる。国香の孫・維衡(これひら)が伊勢平氏の祖であり、その5代後にはあの清盛がいる。維衡の兄弟・維時(これとき)は北条氏の祖となる。維衡とは従兄弟にあたる維幹(これもと)は常陸大掾氏の祖で、この4代後に多気平太(たけへいた=直幹なおもと)、多気太郎(たけたろう=義幹よしもと)と続く。芹澤氏は、この義幹を中世の祖としている。
富士の巻狩りで起こった曽我兄弟の仇討から頼朝暗殺未遂事件が勃発。これに乗じた八田知家の『義幹、謀反!』という奸計に引込まれ、常陸平氏本宗家である大掾(だいじょう)多気家は没落する。これが建久4年(1193)の政変である。鎌倉での申し開きも認められず、筑波郡、筑波南郡、北郡の所領は八田知家に供与され義幹は駿河に蟄居となる。
頼朝の命を受け縁戚の馬場氏が大掾を継承する。大掾馬場資幹(すけもと)は、義幹の復従兄弟で妹婿でもあったという。やがて頼朝の許しを得て義幹の嫡子茂幹(しげもと=多気二郎)を駿河から引取り、娘を娶わせて水戸市酒門町に住まわせた。こののち茂幹の弟兼幹(かねもと=多気三郎)、その子種幹(たねもと)、孫の竜太の多気氏三代は大掾馬場氏の保護のもとに酒門に住み鎌倉時代の末まで大掾馬場氏の親族として過ごし、一族の石川氏・豊田氏と婚姻を結んでいる。
多気竜太(たけりゅうた)は、母が大掾馬場時幹(ときもと)の娘であったので、父の種幹が病没したのち、時幹の嫡子盛幹(もりもと)に育てられ成長した。時代は建武の新政前夜である。足利尊氏が鎌倉に入った時に、盛幹の嫡子高幹(たかもと)から竜太は人質として鎌倉に送られた。大掾氏の一族も公家方、武家方に分れ、大掾馬場氏を総領とする常陸平氏の体制が崩れた。それでも、多気氏と大掾馬場氏との結束は強かった。しかし、この人質の竜太が多気氏に転機を与えた。尊氏が竜太の人柄に目をかけ、上洛に連れて行った。そして、貞和5年(1349)尊氏が四男の基氏を初代の鎌倉御所に遣わした頃、竜太は相模高座郡村岡郷(藤沢市)を充行われ、村岡三郎の娘を妻にして同郡の芹沢の地に住み、村岡の一族郎党を大切にしたという。竜太は後に幹文(もとふみ)と名乗り相模の武士となり、南北朝の時代の始め鎌倉御所の配下となった。今相模の芹沢の地は、館跡やゆかりの寺もなく、芹澤と言う地名の由来もはっきりしない。
幹文(竜太)が応安4年(1371)に病没後、弟の良幹(よしもと)が家を継ぎ鎌倉御所に仕えた。この良幹(多気二郎)は幼い頃より文筆を好み諷詠書画に通じていた。8歳で「龍虎」の二文字を書き、その優れた書に筆・紙・硯・墨の書道具一式を足利尊氏から褒美として与えられた。成人して医術に通じ、金創の家の始まりとなった。その子高幹(たかもと=多気満丸)は、幼き頃より兵騎のこと以外では遊ばず、子供仲間を集めては戦の真似事に夢中になっていた。騎射に優れ、鎌倉にその名を轟かせた。そしてまたその子望幹(もちもと=多気富王)も父に劣らぬ騎射の名手で、望幹から騎射の指南を受けた鎌倉武士も少なくなかったという。鎌倉御所の中で獲子たる武威を築き上げていく多気氏であるが、この望幹の子良忠(多気隠岐守)が、常陸大掾賴幹(よりもと)の要請により不穏な情勢となった常陸を治めるべく下向した。良忠は府中城を預かり、行方郡荒原郷を領地とされた。これが常陸での芹澤氏の始めとなる。しかし、この時良忠は嫡子光尊(みつたか)を相州芹澤の地に残し、自らの跡目とした。将軍家の後継問題から内紛が起こり、禅秀VS足利持氏の上杉禅秀の乱が勃発する。大掾馬場氏は国人層が頼る禅秀側として戦った。嫡子光尊は持氏側として戦い、初めは優勢だった禅秀側が持氏側に敗れた。この後光尊は再び起こる将軍後継問題から戦に敗れ、持氏に従い鎌倉から逃れた。この時光尊の嫡子幹兼(もとかね)は会津に逃れ、嫡孫俊幹(としもと)は母と共に父光尊の義弟・大掾馬場頼幹に預けられた。このような政治を背景とした芹澤家の家族構成は、良忠・光尊父子の行く道を分ける契機であったが、子孫が再び常陸に住む伏線でもあった。
鎌倉御所の滅亡は、6代に渡る多気氏の滅亡でもあった。再起を図り光尊は千葉胤直(たねなお)に挙兵を促したが断られ、義弟の大掾馬場頼幹の説得にも失敗した。その後も度重なる非運にも再起の夢を捨てなかったと言う。晩年の光尊は、新治郡玉里村川中子に隠居し、文安3年(1446)川中子の火の橋に葬られた。そこに土佐塚と彫られた供養碑が残っている。芹澤土佐守光尊である。今その横に新しく大きな供養碑が造られている。その碑文には
「文政3年5月24日没 常陸大掾多気惟幹(これもと)13代
行方郡芹澤城主芹澤俊幹の祖父也 昭和63年芹澤雄二建之」とある。
光尊の嫡孫俊幹は、玉造の手奪橋や手接神社に河童の伝説を持ち、金創の家として確立した頃の当主である。今石岡市役所前にある芹沢医院の先代の院長は芹澤雄二氏であり、当代は滋幹氏が院長である。芹沢医院は、医療としてこの俊幹の流れをつないでいる。
芹澤記念弓道場では、石岡市弓道会により毎日午前午後の2回の稽古を行っている。毎年4月末には花見射会を兼ね、会員の古稀や傘寿を祝う祝賀射会を行っている。
道場から筑波の山を臨めば、穏やかな風に満開の桜が薫。
*参考文献 石岡市史中世編、芹澤家の歴史、中世武士団の史的考察他
石岡弓道会 磯村秀機