第9章 「教会」を信じる


 「教会」は「神の教会」

ある時、電話がかかってきて、「わたしは神様を信じていますが、教会を信じてはいません」とその人は言いました。私はびっくりしました。

 

ただ、後で、なんとなく言いたいことはわかりました。この世の組織としての教会の側面、人の集まりとしての会合、いくつもの派に分かれている現状、それだけを見ると、教会というのは罪深い人間が作り上げた機関にすぎないと考えてしまったのでしょう。

 

しかし、違います。「教会」は「神の教会」です。

 

私たちは、「教会」が「神の教会」であることを「信じ」ます。つまり「教会を信じる」ことがなければ、「信仰」は始まらない筈なのです。

なぜなら、神様が天地創造の神であること、唯一の絶対的超越的な、それでいて人格的な、愛の神であること、それらはみんな「教会」をとおして啓示されてきたことなのです。

 

聖書を読めばそのようなことは書いてあると云う人もいます。しかし、その聖書を「聖書」としたのは「教会」なのです。初代教会の時代、信仰に関するいくつもの文書が作られました。「~福音書」と呼ばれる書はいくつもありました。しかし、その中からたった四つだけを正典としたのは「教会」です。

 

いや、聖書なんて権威ある人間が勝手に決めたに過ぎないという人も世の中にはいます。つまりその人は「教会」を信じていないということです。その聖書となった文書を2000年間、写本し、保管し、生かしつづけているのは「教会」であり、そこには、必ず「神の導き」があることを「信じる」からこそ、聖書は「聖書」なのです。

 

「信経」では、「又、信ず、一つの聖なる公なる使徒の教会を」と言います。つまり「教会」が、「一つ」であり「聖」であり「公」でり「使徒的」であることを「信じる」と言っています。教会が「一つ」なのは、唯一の神の「教会」だから、「聖」であるのは、聖なる神の教会だから、「公(普遍という意味。どんな時代や場所でも通じる真理をもつということ)」なのは、公(普遍)である神の教会だからです。端的に言えば「教会」が「神の教会」であることを信じます、と宣言しているわけです。

 

「エクレシア」

「教会」のもとのギリシャ語は「エクレシア」と言います。「エクレシア」は「呼ぶ」「招く」という意味の「カレオー」から派生した言葉で、「(神に)呼び集められる」という意味をもっています。この()の中の(神に)という意味が実は重要なのです。古典ギリシャ語では単に「集会」(政治的な集会も含む)という意味でも使われた一般的な用語だったらしいのですが、しかし、それが、聖書の中、教会の伝統の中で用いられると「神に呼ばれた集まり」という意味に包まれるようになったわけです。

 

「教会」は確かに罪深い人間の集まりです。しかし、そこに「神の招き」「神の導き」「神の力」「神の祝福」があることを、私たちは信じます。聖なる人が教会に集まるのではありません。罪人が教会に来て聖にされていくのです。「教会」は人が始めたものではありません。ハリストスご自身が始めたものです。マタイ(マトフェイ)による福音書に次のようにあります。

 

シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子ハリストスです」。すると、イイススは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペトルである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建たてよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」(16:16-18)

 

ハリストスご自身が「教会(エクレシア)」を「岩(ギリシャ語でペトラ)の上に建てるとおっしゃっています。この「ペトラ(岩)」とは、「ペトル(岩)」をとおして父なる神があらわした、イイススをハリストスと信じる固い信仰を意味しています。

 

「教会」とは、何か悟りを開いて人生や宇宙の神秘を解き明かした教祖様と呼ばれる人間が作ったものではありません。まして、一部の頭のいい天才的な権威ある人たちが勝手に組織している団体でもありません。

 

「教会」とは、唯一無二の神によって、その神が人となったお方イイスス・ハリストスによって、私たちのために造ってくださったものです。そして、そうだとしたら、必ず「教会」には、神の導き、神・聖神゜の力の働きがあります。それを「信じる」ことが肝心なのです。

 

聖神降臨の継続

「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊《聖神゜》に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒行伝2:1-4)

 

この使徒たちへの聖神゜降臨から「教会」が実際に始まったのだと言われています。つまり聖神゜降臨は教会の誕生日です。私たちがこの世に誕生して息をしながら生きて成長していくように、教会も聖神゜を吸って生きています。つまり聖神゜降臨が継続しているからこそ教会が「教会」として生きています。

 

「炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった」聖神゜の力は、ひとりひとりの多様性を生み出します。ひとりひとりちがった個性を、抑制するどころか、かえって大いに花咲かせるのが聖神゜の賜物です。「教会」にもそれぞれの個性があり、独自性があり、日本では「日本の」正教会が成長します。ただし、「教会」は神のもとに一つです。バラバラに無秩序に自分勝手にではなく、信仰の一致と正しい秩序とへりくだりによって多様性と一致をもつのが正教会です。

 

ハリストスの体

多様性と一致について、聖使徒パウェルは次のように言いました、

「なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリスト〈ハリストス〉にあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。このように、わたしたちは与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っている…」(ローマ人への手紙12:4-6)(コリント人への第一の手紙12章も参照

 

またパウェルは次のようにも言っています。

「キリスト〈ハリストス〉が教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられる…」(エペソ人への手紙5:23)

 

つまり、「教会」は「ハリストスの体」、ハリストスは「教会の頭」という関係が述べられています。「頭」と「体」が離れないように(離れたら死んでしまいます)、ハリストスと「教会」は離れません。ハリストスは世の終わりまで。つねに「教会」と共にいます。

 

「教会」がハリストスの体であるとは、単なる修辞的な意味にとどまることなく、実際にハリストスの体を「教会」は生み出します。それが、ハリストスの体である「御聖体」を生み出す「聖体礼儀」です。「聖体礼儀」は、「教会」を、神・父の祝福によって、神・聖神゜の力をとおして、神・子ハリストスの体としてくれる祈り〈機密〉です。

 

三位一体のかたち

 このように、「教会」は神・父、神・子、神・聖神゜の三位一体〈至聖三者〉の神を私たちに明らかに啓示します。カリストス・ウェアー主教座下は次のように説明しています。

 

 「人がそれぞれ三位一体の神のかたちにしたがって形作られているのと同様に、教会全体もまた聖三者たる神のイコンであり、『多様性の中での一致』という神秘を地上に再現している。聖三者にあって三者は一つの神であるが、それそれに完全に別の存在である。教会では多くの人間が一つに結ばれているが、各人は自らの人格的多様性を損なうことなく維持している。」(『正教会入門』松島雄一監訳 新教出版社)

 

三位一体とは何か

 「教会」が三位一体の神の似姿をもっている、という時、その三位一体の神とは何か、を正しくとらえる必要があります。そこで、簡単ではありますが、以下に、整理してまとめてみます。(ただし、三位一体とは何かを説明することは困難で、はっきり言えば不可能です。そこで、三位一体ではないもの、を説明し、その外側を打ち消した結果、真ん中にぼやっと浮き出て来るのがそれだという方法を取りたいと思います。)

 

三位一体でないもの その1~「アリウスの異端」

「父」のみが神であって、「子」と「聖神゜」は天使や人間やこの世のものと同じように無から創造された被造物である、という異端の教えです。はなからハリストスを神と認めないのですから、三位一体などありえないわけです。主唱者の名をとって「アリウスの異端」と呼ばれます(第5章にも登場)。しかし教会は、「子」も「聖神゜」も、被造物などではなく、非被造物であって、「父」と共に神であり、すべての存在を創造した神の業において「父」と共に働くのである、と答えます。

 

三位一体でないもの その2~「サベリウスの異端」

神ご自身は一つであって、異なった形においてこの世に現れただけである、という異端の教えです。主唱者の名をとって「サベリウスの異端」と呼ばれます。ある時は「父」として、ある時は「子」として、またある時は「聖神゜」として(の顔をもって)現れたという考えです。ある意味、神様が仮面をつけかえて一人三役の芝居をしているようなもの、また例えば、ある人が「父親」として「夫」として「会社員」としての三つの役割をもっているようなもの、ということです。とても分かりやすいのですが、その分かりやすさは危険です。神様のことが人間の思考の中にすっぽりはまってしまうことはないのです。もちろん、確かに旧約時代には神・子はまだ藉身しておらず、ハリストスが昇天してからは神・聖神゜の力によって「教会」は支えられているのですが、だからといって、神が一人三役をこなしているのではないのです。もしそうだとしたら、神・父の仮面の時には、神・子であることはできないわけですから、おかしな話になってしまいます。

 

三位一体でないもの その3~「部分的な説明」

神は一つであって「子」と「聖神゜」は、神ご自身のそれぞれの働きに関する名称にすぎない、すなわち、神の思いや語る言葉が「子」と呼ばれ、神の生命や行動が「聖神゜」と呼ばれるという考えです。確かに「働き」としてはそのような面が強調されることがあります。しかし、それを神の本質について当てはめてしまうとおかしな方へ流れてしまいます。

 

言い換えれば、一つのものを三分割するだけですから、いろいろ「譬え」が用いられることになります。例えば、卵が殻と白身と黄身があるようにとか、Cコードの和音がドとミとソからなっているようにとか…きりがないでしょう。

 

しかしこれでは、「神・子」と「神・聖神゜」はそれぞれ自身が一つの完全な実体としてあるのではなく、「神・子」も「神・聖神゜」も、神のある部分の単なる比喩的表現だということになります。これもとても分かりやすいので、そのようにとらえられがちですが、しかし、これは三位の「位(ヒポスタシス)」を否定する考えです。つまり、三位一体ではなく、一つを三つに分けているに過ぎません。

 

もちろん、この世を超越している神様のことを、この世にいる私たち人間が把握するためにはどうしても「この世」にある言葉やモノで譬えるしかありません。「父」「子」「神゜」という言葉さえそうです。

聖師父たちでさえ、三位一体を、太陽(「本体」と「光」と「熱」)に譬えることがあります。あるいは、神・子と神・聖神゜を神の両手に譬えることもあります。しかし、これらはあくまでも神の働きを把握するための「譬え」であって、人間の限りある思考を駆使してより適切な説明を模索しようと努力しているということに注意しておかなければなりません。

 

三位一体でないもの その4~「三神論」

「父」は一つの神、「子」は他のもう一つの神、そして「聖神゜」も他の神という間違った見方です。つまり神様が三柱いるというわけです。ある意味、ひらき直った感があります。教会は決して「三つの神々」を教えることはありませんし、多神教のように生殖によって誕生したり作られたりした「神々」を主張することはありえません。また、「三つの神々」のうち「父」が「高位」であり、他の二神は「本質的に劣る」などと思ってはなりません。これだと決して「一体」ではなく、バラバラの神になってしまいます。

 

「三位」とは

三位の「位」とは、「ペルソナ」とか「ヒポスタシス」などと言われる言葉の訳語で、他にも「位格」とか「個位」など訳されます。わかりやすく言うと、「あなたは誰ですか」という質問に対する答えが「ヒポスタシス」の意味です(第5章を参照)。普通は「人格」とも言われますが、神様ですから「人格」ではなく『神格』といったほうが正確でしょう。つまり、神には三つの『神格』があるのです。これを聞くと、何か「三神論」のように聞こえてくるかもしれません。しかし、しかし、その三つはまったく同じ神としての本性(本質)をもっているので、一つの神であり、一体なのです。

 

「一体」とは

神が三位であることは、教会の歴史(旧約を含む)の中で、人々に啓示され、人々が体験した結果、把握されてきたことです。そしてもちろん、神が唯一であるということも同じです。私たちにとらえきれないのは、「三位はどのように一体なのか」という点です。逆もまた然り、「一体の神はどのように三位なのか」も理論的にはわかりません。

 

しかし、正教会は、神が三位であることを強調し、それがどのように一体なのかについては神秘のかなたに埋めておく傾向があるようです。(西方のキリスト教は逆に神が一体であることを強調し、それがどのように三位であるかは、あまり深く触れないような傾向があるようです。)正教会では「三」がいつも強調されます。「三回繰り返して歌う」「三つの指を一つに合わせて十字をかく」「三本の燭台」などなど。もちろん神は一つであるという点も決して忘れません。正教会は三神論に倒れることも、部分主義に陥ることもなく、きちんとバランスをとっています。

 

愛の神

三位一体を考える時、いちばんいいのは、「神は愛である」という点から始めることでしょう。「神は愛である」とは、単に神が被造物である人間や万物を愛しているという真理だけでなく、この世が始まる前から「永遠に神は愛である」という真理も含んでいます。

 

「愛」とは、他者を「愛する」ことを言います。つまり、「愛」は複数の「ヒポスタシス」が必要です。神が完全に愛であるのは、父と子と聖神の「三者」が完全な愛の一致をもっておられるからです。そして、私たちが「互いに相愛」できるのは、至聖三者の神に似ているからです。私たちが「愛」を失う時、私たちの中の至聖三者の神の像が壊れます。私たちが「愛」をもつ時、私たちの中で至聖三者の神の像が回復します。「爾等、相愛すべし、我が爾等を愛するが如く、爾等もかくの如く相愛すべし。」(イオアン13:34)という教えは、神が至聖三者であるという基本の上に成り立っているのです。

 

先に述べたように、人が至聖三者の神の像にしたがって創造されたように、教会もまた、全体として、至聖三者の神のイコンです。教会も愛し合うことによって、つまり地上において、多様性における一致の神秘を再生することによって、三位一体のイコンをえがいていくのです。