1910年、天神川が日本海に注ぐところ、新川村に生まれた少年・石井市太郎は、大柄で手先が器用でした。やがて彼は自分の腕を試すために大阪の家具通りと呼ばれる立花通りに移り住み、やがて自分の店を構えます。
修行中に大怪我をして、右手中指が曲がったままでしたが、評判がよく、それなりに繁盛していました。しかし、1945年3月13日深夜にはじまった大阪大空襲により、店舗も家も焼失。妻の昌子は、幼子2人を連れ、鳥取に疎開します。当時の上井駅から長瀬村まで約5km。当時1年生だった徹少年は、大雪の中、歩きたくないと駄々をこねますが、「熱いのと冷たいのと、どっちがええんや?」「冷たいほうが、ええ」と答えて歩いたそうです。よほど、空襲の熱と怖さが心に残っていたのでしょう。
消防団で大阪の街の片付けに奔走していた市太郎が疎開してきたのは、ずっと後になってからでした。
1947年11月、戦後の全国巡業で昭和天皇が倉吉市を訪れました。訪問場所は、成徳小学校とグンゼ。グンゼではお疲れになられているであろう陛下にゆっくり休んでいただける準備をという要請があり、当時、鳥取県の家具職人のコンテストで金賞を獲得していた石井市太郎にテーブルと椅子の制作が任されました。
果たして、すこぶる評判がよく、これをきっかけにグンゼと国鉄の社員指定販売店となり、やがて学校や病院をはじめ注文家具の制作依頼がたくさん入るようになり、職人もたくさん抱えながら7男1女という大家族を抱えることになりました。
市太郎は、自宅も自分で建ててしまうというほどでしたが、やがてカリモク、天童木工など優秀な大手メーカーから購入して販売するという方向に大きく業態変換を図ります。この時、メーカーや仕入れを目利きしたのが、長男の徹でした。
高度成長期には、新築や婚礼のとき、家具も全て新しいものに買い換えるということが一般的でした。婚礼家具などは、仙台から福岡まで紅白の荷紐でくくった車で配達。朝から夜まで大忙しでしたが、やがてクローゼットのある家が建つようになったり、大きくてスペースを取る婚礼家具は敬遠されるようになるにつれ、販売単価の下降とともに、人々は自分好みのデザインや機能を持った商品を求めるようになります。
やがて訪れたバブルの崩壊と長期デフレは倉吉の市街地を一変させます。近郊の町村に家を建てた若者や子どもがいなくなり、ショッピングセンターや百貨店、大きな工場は次々と閉鎖。家具店も次々と閉店に追い込まれました。
無借金経営が功を奏し、石井家具店は何とかたくさんの在庫を抱えながらですが、現在まで商売を続けることが出来ました。