話題の化合物

がんの光免疫療法用薬

9月末のテレビニュースでがん治療薬が世界初承認されたと報じていた.NHKのホームページに以下の記事が動画付きで掲載されている.2023年2月現在リンク切れ

がん 新たな治療法の薬「光免疫療法」世界初承認で開発者会見

光に反応する化学物質と組み合わせたがんの薬を、患者に投与したあと光を当ててがん細胞を攻撃するという新たな治療法の薬が、先週、世界で初めて承認されました。この薬を開発した研究者が記者会見し「がん治療のもう1つの選択肢になってくれればよいと思う」と期待を示しました。 中略

29日、アメリカの国立衛生研究所に所属する小林主任研究員と薬を開発した製薬会社「楽天メディカル」の三木谷浩史会長らが、東京都内で記者会見しました。  以下略

現在がん画期的な治療法として世界中から注目を集めている光免疫療法米国立衛生研究所の主任研究員小林久隆氏らによって開発研究が進められてきた.マウスを使った前臨床試験では高い治療効果が得られ,米国,日本において頭頚部がんを対象とした第1〜3相試験が実施されていた

厚生労働省9月25日,従来の治療が効かなくなった頭頸部がん患者の新たな治療法となる「光免疫療法」で使う新薬「アキャルックス点滴静注」の製造販売の承認を了承した最終段階の臨床試験(治験)の結果を待たずに承認する特例制度を適用したアキャルックスは楽天メディカル初の医薬品であり2020年4月先駆け審査指定制度の対象品目に指定していた.

近赤外線免疫療法(Near Infrared Photoimmunotherapy:NIR-PIT)について

NIR-PIT ではがん細胞に結合する抗体に光(人体に無害な近赤 外光)が当たった時だけ反応する光感受性物質を人工的に結合させ,  血管内にこの抗体を点滴で投与し,  が ん細胞に抗体を結合させた後に,  近赤外光を照射す ると,  光の当たった部分だけ光感受性物質が化学反応を起こしがん細胞が殺傷される.

IR700の正体と役割

抗体には「IR700」という化学物質が結合しているということで,筆者の個人的興味と老化防止(備忘録)を兼ねてその化学構造と役割を調べてみた.この物質はもともと、新幹線などの青色塗料として使用されており,水に不溶であるが、化学的に手を加えることで一時的に水に溶けやすい性質に改良して抗体に結び付けることに成功したとのことである.次図のカラー部分は抗体略図,これに右のIR700が結合している.

IR700は新幹線の塗料にも使用されるフタロシアニン系化合物(右),IR700が結合したモノクロナール抗体(左).出典  Cancer Cell-Selective In Vivo Near Infrared ... - NCBI - NIH

光化学反応による薬剤の化学構造変化が抗体の立体構造の変化を引き起こし,細胞膜に傷害を与える様子を図示,説明した論文概要が北海道大学のホームページに掲載されているので,引用させてもらった.

光化学反応により,IR700 の水溶性軸配位子が外れ化学構造が変化し,脂溶性の構造へ大きく物性が変化する.さらに,この光化学反応は,抗体に結合させた状態でも起こることを証明し, 光照射後には薬剤が凝集する様子が観察されたとのことである.光免疫療法は全く新しい光化学反応を用いた細胞の殺傷方法であり,近赤外光がその「デス・ スイッチ」を ON にできることを証明したと記載されている.

これまでの分子標的治療薬と異なる点

がん治療の中でも比較的新しい種類の抗がん剤「分子標的治療薬」は,「抗原」を利用してがん細胞の攻撃を行う薬であり,がん細胞の表面にある「抗原」やがん細胞が持つ遺伝子などに特異的に作用してがんの増殖を抑える働きがある.

「抗原」に作用するタイプの分子標的治療薬には、「抗原」に特異的に結合する「抗体」が含まれている.「抗体」はたんぱく質の一種であり「抗原」に結合することで細胞の増殖を防いだり免疫反応を活性化させて細胞を死滅させる働きを有している.

分子標的治療薬はがん細胞を特異的に攻撃する作用があるため従来の抗がん剤よりも高い治療効果が期待できるとは言え、完全にがん細胞を死滅させることはできず,正常な細胞にも作用して副作用を引き起こすことも多々認められている.

そこで、小林氏らは分子標的治療薬に使用される「抗体」をうまく利用しさらに効果と安全性の高い治療法を模索して,今回の光照射によって毒性のオンとオフを切り替えられる光免疫療法の開発に至った.

楽天メディカルが開発したがん治療薬「アキャルックス」の説明の概要は以下の通りである.

がん患者にこの抗体にIR700を結合させた薬剤を注射すると,抗体が”運び屋”となってIR700はがん細胞まで運ばれる.

薬の投与後,がん細胞に対して近赤外線を照射すると,IR700が光分解し,水に不溶の元の性質に戻る.この物性変化によってがん細胞膜が破壊され,がん細胞は破裂,死滅してしまう.

さらに,このような作用に加え,破裂したがん細胞の内容物が組織内に飛び出すことで,がん細胞を攻撃する免疫細胞を活性化させる効果も確認されている.

この技術のメリットは,光照射によって毒性のオンとオフを切り替えられること.従来の抗がん剤は正常細胞にもダメージを与えてしまい, 副作用が大きかった. 生体に毒性を示さないオフの状態で投与し, 光の照射で局所的にオンにすることで副作用を大幅に抑えられる可能性がある.

この薬は今後医療保険を適用する手続きが進められ早期に承認されたことから販売された後も安全性や有効性について検証が進められる.今回の薬事承認は頭頸部がんが対象であるが,治療の適用範囲の拡大を期待したい.

光による分解反応の詳細については参考資料の「北海道大学ホームページ その2」をみてほしい.

追記

小林久隆博士の原報(Nature medicine17.12 (2011): 1685-1691)は大学に籍を置いていない一般人はアクセスすることはできない.論文が出版された翌年にIsotope News 2012年5月号 No.697に小林博士が書かれている解説(展望  近赤外線を用いた標的分子特異的がん治療,PDFファイル)が参考になる.

原報に使用されている数多くの図表から重要なポイントを抽出して再構成した図と説明が紹介されている.

がん細胞株を背面の左右に移植したマウスに薬剤を注射した後,片側のみに近赤外線を照射したところ,コントロールに比べ短時間でがん組織の消失が認められたとのことである.

参考資料

光免疫療法 - Wikipedia および引用文献

がん 新たな治療法の薬「光免疫療法」世界初承認で開発者会見    NHK NEWS WEB 2020年9月29日 16時54分 2023年2月現在リンク切れ

IRDye®700DXを利用した、がんのPhotoImmunoTherapy(PIT) のタイトルで小林久隆博士等の 原報を紹介

Mitsunaga, Makoto, et al. "Cancer cell-selective in vivo near infrared photoimmunotherapy targeting specific membrane molecules." Nature medicine17.12 (2011): 1685-1691.  論文(著者原稿)

IRDye700DX.pdf(機器メーカーによるPITの紹介記事 )

狙った細胞のみを殺す光リモコンスイッチの開発にはじめて成功(北海道大学HP その1)                                   折りたたみ文章⬆⬇

R700 は,大きな水溶性の軸配位子を持つ化合物です。本研究では,近赤外光照射時に IR700 に起 こる化学構造変化に着目しました。様々な環境下で IR700 と抗体-IR700 結合体に近赤外光を照射後 の化学構造を,有機化学合成及び質量分析装置・NMR(核磁気共鳴装置)など各種分析手法を用いて 解析しました。また,原子間力顕微鏡により近赤外光照射後の抗体-IR700 結合体の立体構造を観察し, 実際に光化学反応により抗体の構造が変わる様子を画像化しました。 さらに,マウスを用いた実験において,生体内においても同様に光化学反応が引き起こされること を証明しました。

光化学反応により,IR700 の水溶性軸配位子が外れ化学構造が変化し,脂溶性の構造へ大きく物性 が変わることを見出しました。この光化学反応は,抗体に結合させた状態でも起こることを証明し, 光照射後には薬剤が凝集する様子が観察されました。原子間力顕微鏡による観察でも,抗体が変形あ るいは凝集する様子を画像化することに成功し,光化学反応による抗体-IR700 結合体の物性変化が証 明されました。マウスを用いた実験においても近赤外光による水溶性軸配位子の切断反応が確認され, 生体内でも同じ光化学反応が起こることが確かめられました。がん細胞膜上の抗原に IR700-抗体結合 体が結合した状態で IR700 の物性が変化し膜抗原抗体複合体ごと変形や凝集体を生じることで,がん 細胞膜が傷害されると考えられます。 すなわち,本研究では,薬剤の物性変化が「デス・スイッチ」の正体であり,近赤外光という生体 に毒性を示さない光のリモコンでこのスイッチを ON にすることができることを突き止めました。光 によりがん細胞に結合した薬剤だけを毒に変えることができる,全く新しい細胞殺傷方法であること が解明されました。

なお,本研究成果は,米国東部時間 2018 年 11 月 6 日(火)公開の ACS Central Science 誌に掲 載された.

新着情報: 近赤外線を用いた新規がん治療法の光化学反応過程を解明(北海道大学HP その2)

研究グループでは,この近赤外線の役割を量子化学計算というコンピュータシミュレーションを用いて明らかにしました。その結果,IR700の軸配位子切断は周辺にある水分子との反応(加水分解)により起こること,そして近赤外線は薬剤に電子を注入して「ラジカルアニオン」という状態をつくり出すことのみに関与していることを突き止め,IR700分子を用いた実験によってこの光化学反応過程が正しいことを証明しました。

なお,本研究成果は,2020 年 5 月 25 日(月)公開の ChemPlusChem 誌(オンライン版)に掲載 されました。

(2020.10.16)

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