ここには、思い出したことを少しずつ書き留めています。
まとまりのない読み物ですが、興味のある方はどうぞ。
私は、毎日の中で「なるほど」と思える瞬間を大事にしている。大きな発見じゃなくてもいい。授業中にふとつながったことでも、ニュースを見て気づいたことでも、人と話していて「ああ、そういう考え方もあるのか」と思う瞬間でもいい。そういう小さな理解が積み重なると、世界が少しずつ立体的に見えてくる気がして、それが心地いい。自然科学が好きなのは、世界の奥にある仕組みをのぞけるからだと思う。電子の軌道がどうしてその形になるのかとか、物質の性質がどう決まるのかとか、そういう“世界の根っこ”に触れると、なんとなく安心する。変わらないものに触れている感じがして、落ち着く。一方で、社会科学にも興味がある。法律や制度、文化や経済みたいな、人が積み重ねてきた仕組みも、ちゃんと理由があって動いている。自然科学ほど安定していないけれど、その分、人の考え方や歴史がにじんでいて、それが面白い。私は、自然科学と社会科学を別々のものとして見るというより、世界の違う層として見ている。変わらない層と、変わっていく層。その両方を知ると、世界の見え方が少し豊かになる。考え方のクセとしては、物事を表面だけで見ずに、その裏にある流れを探したくなるところがある。「なんでこうなるんだろう」とか「どういう仕組みなんだろう」とか、気づいたら考えている。そして、バラバラの情報がつながる瞬間が好きだ。自分の考え方を客観的に見るクセもあって、「今、自分はこういう理由でこう思ってるんだな」と気づくことが多い。これは便利で、気持ちの整理にも役立つ。私の生活方針は、難しいものではなくて、「わからないことをそのままにしないで、少しだけ深く見てみる」というだけだ。全部を理解する必要はないけれど、ちょっとだけ理由に触れると、世界が面白くなる。そういう小さな“理解の積み重ね”が、生活をゆっくり豊かにしてくれる気がする。将来的には、自然科学と社会科学のあいだにあるような分野で生きていけたらいいなと思っている。科学と法律とか、科学と政策とか、科学と倫理とか、そういう境界の部分。世界の仕組みと人の仕組みが交わる場所は、私にとってちょうどいいバランスに感じる。自分が理解したことを文章にまとめて、人の役に立つ形にできたら、それも嬉しい。まとめると、私は「理解することを生活の中心に置いている人」だと思う。大げさな哲学ではなく、ただ、世界の深いところに流れているものを感じながら生きたいだけだ。これからも、自分のペースで、世界を少しずつ深く見ていきたい。その積み重ねが、いつか誰かの役に立てばいいなと思っている。
私が山邊研究室に配属されたのはちょうど阪神大震災があった直後の平成7年4月でした。 それから山邊先生退官までの間、学部・修士・博士と合わせて5年ほどお世話になりました。 世界各国から訪問者の絶えない国際色豊かな研究室だったと記憶しています。
一番の思い出はD2のときに、山邊先生と日中理論化学シンポジウム(中国合肥市にて開催)に参加したときの出 来事です。 この学会は現地の大洪水により何度も延期となっており、日程も急遽決まったもので、プロ グラムも不明となっていました。山邊先生に「ポスター発表で参加するように」と言われて、 A4 でモノクロ印刷した原稿を携えて上海経由で現地に向かっていたときのこと。山邊先生が「大 変な事が起きたで。連絡の行き違いがあって、君は口頭講演やから」と冗談か本気かわからな いような口調でおっしゃったのです。「先生、ポスターしか持って来てないですよ。」と返答す ると、「ここに無地のOHPフィルムが12枚ある。これで15分もたせてくれ。君は運がええで、 今はちょうど上海という都会にいるから、ホテルの複写機でポスターから口頭発表用の原稿を 作るんや。これから行く所は中国の田舎やからホンマに何もないで、」と却下されました。本当 に幸運なのかな?と思いながら、しぶしぶ原稿作成に取り掛かることにしました。英語の口頭 発表が未経験の私はというと、その日から心配と緊張で食事が喉を通らなくなってしまいまし た。物見遊山気分が吹き飛んで、最初はとんでもないことになったという思いで先生を恨みさ えしました。しかし、心配+緊張+現実逃避+諦め気分が絡まった変な気持ちにより、発表時 には“この先生について行けばどんな困難もたいしたことないと思って乗り越えられる”と超 がつくポジティブ思考になっていました。発表はどうにかこうにか終わり、山邊先生にも(初め てにしては)なかなか発表よかったよと元気づけられて非常にうれしかったです。当時は大変で したが、今ではすっかり笑い話になっています。この事件のおかげで少々のことではビクとも しないようになりました。
最後におまけとして、先日(平成25年9月14日)、山邊先生喜寿記念&山邊研究室同窓会 (85名参加)に参加したので、そのときの記念撮影の1コマを載せておきます。
後列 康さん 今出さん 湯村先生 松浦先生 宮島さん 吉澤先生 加藤さん 立花さん
前列 蒲池先生 山辺先生 吉野先生 塩田
山辺先生のおかげで鉄人になれました。。。
工学部石油化学科1992年入学 塩田淑仁 (入寮時期1992年4月〜1993年3月)
[序]寄稿依頼を受け、寮での日々を振り返ると自分でも忘れていたことを思い 出してきました。“人生とは、その人の回想のことである“という言葉もある ので、この機会に熊野寮生活を書き下してみます(漫談筆)。
[入]私が一浪を経て京大に合格したのが1992年、その京都生活の出発点が熊野 寮でした。当時はバブル期の終り頃でのんびりとした雰囲気が世の中を覆って いました。生活費を節約するためでしたが、愉快な仲間達に囲まれて奨学金(80 千円/月)程度で十分生活できたのでいい時代だったと思います。熊野寮は大学 からも近く、四条・河原町方面にもアクセスがよくて便利でした。
[学]希望に胸を膨らませて大学に入ったものの、教養部構内の“人と自転車の カオス”に嫌気がして、賀茂川、御所、岡崎公園などの自然散策、古本屋めぐ り、府立図書館通いをしていました。単位不足に苦しめられていた寮の先輩か ら手ほどきうけていわゆる楽勝単位で固めていました。“単位は天から降ってく るので受け取るタイミングだけが大事、一年時は必要単位に専念し、興味があ る科目は二年生でとればいい”というアドバイスが非常に役に立ちました。先 輩達のオススメは“単位はあげるので授業には来ないでください ”で有名な国 憲の豊田先生で、この先生によって一年間にばらまかれる単位は4000単位 とも5000単位とも噂されていました。あと、当時の生協パンフに掲載の特 殊京大生理論 なるものが印象的でした。授業の出席者Aは時間tの関数で一週 間wごとに半減する関数 A = A0 (2)^(-t/w) で示される。ただし、A0は初回出席者で、 テスト前の一週間にはこの関数は不連続となり出席者はA = A0に復活する。
[務]寮の雑務は主に事務室当番と食堂関連でした。事務室当番は単なる電話番 +荷物受取係なので、のんびりと漫画をよみつつ過ごしていました。“ある組織 に命を狙われているので助けてください”とかの濃い電話は残念ながら私には 縁がなかったです。その手の電話をうけた東Nさんは“はい、はい、頑張って くださいね”とガチャ切りしたらしいですが、、、。寮の夕食は売れ残ると訪問販 売の売り子をしないといけないのでこれが辛かったですね。まれにでるウナ丼 は即完売なのに対して、塩サンマは全く売れないので知り合いに泣きついて買 ってもらっていました。強アルカリ洗剤による皿洗いも新鮮な体験でした。
[食]平日は寮食(当時は昼230円、夜350円)に、休日は洋食 Sato、中華 唐山、辛口カレーのビヤント、ハイライト、丸二食堂などにお世話になりまし た。特にSato のグリルドチキンとコロッケ入りトンカツがお気に入りでした。 Sato はなくなってしまったそうですが、東山七条にある“里”の支店だったら しく、里でもSatoと同様のメニューを提供しているようです。
[遊]寮生活の中心でした。受験の反動からか退廃的な生活(主に麻雀とゲーム) に身を委ね、風呂無し生活と夜更かしの醍醐味を覚えました。朝は寝床でぐー ぐーぐーって鬼太郎の歌にあったような?いまとなっては、桜湯(寮生だと20 円引き?)の終了時間(24:00)までになぜ入場できなかったのか謎ですね。
[友]才能溢れる友人、先輩との出会いにより多くの刺激をうけました。蘊蓄と サブカルチャー談義はオタクの嗜みです。私達のローカルルールは、単に面白 いという感想では不十分でその何が面白いか説明すべしというものでした。
[戦]廃寮に対抗するために防衛委員という仕事がありました。“常に我々は廃寮 化攻撃にさらされている。寮生の諸君は、ガサに備えてサングラス、マスク、 ヘルメットの3点セットを用意して川端署のテロリスト(=公安)に対抗するの だ!!”が記憶に残っています。
[集]集会といえば、ブロック会議、寮生大会、寮祭などがありました。下着泥 棒事件(犯人は寮生)などの緊急集会も記憶に残っています。入寮そうそうに議長 に任命されてしまった A3 ブロック会議はまったくの盛り上がりに欠け出席者 は2〜3人でした。あまりに暇で議事録にリップサービスで“日帝の横暴に寮 生の怒りが爆発した”と書いたら自治会の人が現れて大変なことになったのは 内緒です。寮生大会は非常に長くてつらかった思い出しかないです。
[買]サンプラザ*(入ると買い物するまで出れないシステムが斬新、たまに卵が やすいが全体的に高め)、ジャスコ(現イオン?、二条にあり UFO がたまに安 い)、ヤオセン(野菜が安い)が食料の買い出し先でした。私は四条あたりにあ ったマルトミという激安衣料品店を愛用していて、1000 円で入手した黒いジャ ンパーを喜んで着ていたら同じブロックで3人ほど同じものを着用していてあ ぜんとなったのはいい思い出です。 *補足 熊野神社の交差点に北東にかってはありましたが現在はなくなっていました。
[離]一年生の終り頃、生活環境を改めて真面目に過ごそうと決心して、二年生 の4月に上高野(岩倉より少し手前です)の下宿に引越をしました。熊野寮と いう竜宮城を離れて、“修学旅行の夜”のような生活からの解放感を味わうと同 時に何とも言えない寂しさを感じました。良くも悪くも濃密な時間でした。
[結]最近、研究室の同窓会があり、卒業後、いろいろな立場となり普段顔を会 わせることはほとんどなくなってしまった旧友達と“昔はしょうもないことを してたなぁ”と気楽にはなせる機会は得難いものだと実感しました。寮の同窓 会を通して、元寮生同士の交流が深まることを期待しています。宀(うかんむ り)に R という略字は寮を離れて以来、見ることはありませんが寮関係者だけ が読める心に刻まれた秘文字ではないでしょうか。
ここには、書くか書かないか分からないエピソードのタイトルだけを並べています。OB・OGには、きっとくすりと笑ってもらえると思います。
エピソード 掲示板を信じて一年前の集中講義で単位を揃えようしていたS君
エピソード メモをしないO君とのやりとり
エピソード 植物の写真が好きなN君
エピソード 酒を飲んで暴れて絡むK先生
エピソード 研究室から夜逃げしたMさん
エピソード 注文のおおい外国人研究員
エピソード 前日にカキを食べてあたった状態での博士公聴会に臨んだD君
エピソード コロナで研究室閉鎖中に横浜に引越していたK君
エピソード 前日入りにこだわりポスターを持たずに学会へ出発したK君
エピソード 肉たべれないB4の歓迎会を焼肉きんぐで開催したF君
エピソード 安全食堂でちゃんぽん大を食べるとその後、研究室からいなくなるU君