場所は六戸町の十和田寄りに有ります
記述に間違いがあります。
境内に鰐口は有りません。
下の方の池?に鰐口が、有るとか何とか・・・
由来など、神社に来ても分からない事を記していきたいと思います。
以下、制作中です
御祭神は
『保食神』(うけもちのかみ)
女性の神様で
稲やひえ、粟など、
穀物をもたらした神様です。
農業が盛んな地域にとって大事な御祭神です。
馬護神でもある
保食神を祀る農耕の神であるとともに馬護神でもある今熊保食神社。明治の神仏分離が執行されるまでは今熊神社と呼ばれ、次第に今熊保食神社という呼び名が正式名称となりました。昭和48年11月4日付「日刊東北」において郷土史家の故苫米地繁雄が、京都市下京区(東山区)今(新)熊野の今(新)熊野神社が応仁文明の乱(1477)の戦火によって荒廃する前に折茂の地へ勧請したと説き、次のように記しています。『折茂今熊野神社の祭神は保食神として祭られている。この神は伊勢神宮の外宮の祭神であって、熊野神社には祭祀されていない農耕神であるから、明治五年修験宗廃止の太政官布告が出され神社改めのとき、別當龍光院が廃社にすることをまぬがれるために、熊野神社には無関係な祭神を届出した時から「保食神」が祭神になったものと考えられる。』
折茂の産土様。江戸期に決択された七戸南部三十三番補陀落所の第三十一番に選定されています(御詠歌「昔より建つとも知らぬ今熊野仏のちかひあらたなりけり」)。
戦前までは3月16日と9月16日の春・秋の例大祭ともなれば、参道両側や入口付近に露店が立ち並び、今日では想像もつかないほどの賑わいだったそうです。春の大祭では馬持ちたちが馬を着飾らせ、参拝に来て馬の安全を願ったり、一の鳥居前のオサゴ場(霊水が湧き出ている場所で蛇神を祀る場所)付近から笹の葉をとって、自分の田んぼの水口に突き立てるという風習もありました。そして田植えが終わった天祈り(テノリ)の頃になると奉告祭を兼ねて、境内で折茂神楽が奉踊されたり、草相撲大会なども催されたそうです。
(六戸町史)…『(前略)その歴史は語りつくえないほど古く、往時には、押すな押すなの参詣者でにぎわい栄えた神社でった。一の鳥居前の道は、下田と三本木をつなぐ旧道で、50メートルほど東側の旧道沿いにはわき水が流れ、薬師如来石仏がたたずんでいる。建立年月日は銘記されていないが、江戸期の造作と思われ、目を患った者は、このわき水で洗えば治るといわれ、この石仏を清掃しなかったためにとがめられて、目が見えなくなりかけたという老婆が折茂新田にいたという。このわき水近くに龍光院が住居を構えていたとも伝えられ、六戸の熊野信仰は、ここから発生したといっても過言ではない。』
オサゴ場の小祠
一之鳥居跡
六戸町では最も古い神社といわれていますが、その縁起については明治24年3月19日夜の折茂大火により、岡田家で保存していた史料・記録一切を焼失。現在では社殿や苔、参道両脇に立ち並ぶ樹齢300年近い老杉(※ありませんでした)、社殿裏の5m以上の太さの幹を持つ大杉(千年杉)などがその歴史の古さを伝えています。
言い伝えによりますと、戸来の多門院一族が文明年間、今熊神社を現在の古里(折茂字今熊一番地)に創建したといい、現在その場所には小祠があります。多門院文書によりますと慶長年間には既に龍光院という修験者が別当として名を連ねています。