土師器 皿
土坑出土 鎌倉時代前半土師器 皿
井戸出土 鎌倉時代前半石鍋
井戸出土 鎌倉時代前半瓦質土器 鍋・釜
井戸出土 鎌倉時代前半京都先端大学国際学生寮 太秦B棟新設に伴う発掘調査の成果
この寮棟は建設に先立ち、令和3年3月から4月にかけて発掘調査を行いました。当地は鎌倉時代から室町時代の遺跡である一ノ井遺跡(いちのいいせき)の南東隅に位置しており、当地の西側を南北に走る道路(城北街道)をはさんで、広隆寺旧境内の東限にも隣接しております。広隆寺は飛鳥時代に秦氏によって創建されたと伝えられる寺院でありますが、平安時代末期から江戸時代にかけて大きく繁栄しました。実際に、この時期において広隆寺周辺では集落が発展していた事が周辺の発掘調査より明らかになっています。
この調査によって、室町時代初頭から中頃に属する掘立柱建物2棟、鎌倉時代前半に属する柵列2条・井戸・土師器(はじき)皿が多量に出土した土坑など、多数の遺構が検出されました。室町時代初頭から中頃の掘立柱建物を構成する柱穴は径が小さく、柱を支えるための石が据えられているものが多く認められました。建物の柱列の軸は北西に振っていて、城北街道ならびに広隆寺旧境内の軸と平行していることから、広隆寺を意識したものと考えられます。一方、鎌倉時代前半の柵列を構成する柱穴は大型で、軸は北東に振っていました。2つの柵列はそれぞれ柱穴が隣接していることから、つくり替えられたものと考えられます。その東側にて素掘りの井戸、完形の土師器皿が口を上にした状態で多量に出土した土坑を検出しました。土坑は祭り事で使用された土師器をまとめて投棄したもの、或いは地鎮的な性格を有していたものと想定されます。
以上から、広隆寺が興隆した中世の時期において、当地は宅地として活発な土地利用がなされていたことが窺えます。
遺跡分布図(1:2,500)
室町時代初頭から中頃の遺構検出状況(上が東)
鎌倉時代前半の遺構検出状況(上が東)
調査地遠景(調査地上空より北方 城北街道を望む)
当地は太秦地区に該当しております。西には渡来系氏族の秦氏が建立した広隆寺、東には秦氏の首長墓と推測される円墳や群集墓が点在する双ヶ岡を臨みます。御室川によって形成された台地状地形の扇状地上では縄文時代から人々が住んでいた痕跡が認められており、特に古墳時代から飛鳥時代にかけての集落や古墳群が数多く発掘されています。
「太秦(うずまさ)」という地名について、『日本書紀』の「秦の民を巨連等に分散ちて、各欲の随に駈使らしむ。…庸調の絹縑を奉献りて、朝庭に充積む。因りて姓を賜ひて禹豆麻佐(うずまさ)と曰ふ。」という記述があるように、養蚕・機織の技術に優れていた秦氏が絹などの織物をうず高く盛り上がるほど献上したことから、「禹豆麻佐」という姓を賜り、これに「太秦」という漢字表記を当てはめたことが由来とされております。当地の真東には、秦氏の氏神といわれている木嶋坐天照御魂神社(蚕ノ社)が所在しており、本殿東隣には養蚕・機織・染色技術に因んで祀られた摂社・蚕養神社が鎮座していることからも、この地域において織物(養蚕)産業がさかんに行われていたことを想像させます。
広隆寺は603年に聖徳太子より仏像を授けられた秦氏の長、秦河勝によって「蜂岡寺」が創建されたことに始まると伝えられております。平安時代末期には民衆の間で末法思想がさかんになり、広隆寺は阿弥陀信仰・弥勒菩薩信仰・太子信仰によって繫栄しました。広隆寺旧境内の範囲は現在よりも広く、東は城北街道、北は山陰本線を越えた箇所まで広がっていたとされています。江戸時代に入ると当地域は太秦門前・中里・市川・安養寺の村に分かれますが、明治時代初頭にはこの四村が合併し、太秦村となりました。明治25(1892)年仮製図によると、広隆寺旧境内の北側は笹地が広がっていたことが窺えます。明治30(1897)年には、その笹地を横断して京都鉄道(後の山陰本線)が開通しました。大正15(1926)年には「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所」(現・東映京都撮影所)、昭和10(1935)年には「マキノトーキー製作所」(現・松竹京都撮影所)などが設立され、映画撮影所の地として興隆しました。昭和50(1975)年には撮影現場を見学・体験することができるアミューズメント施設「東映太秦映画村」が開設し、 京都の観光スポットとして親しまれております。
太秦・双ヶ丘周辺の遺跡
一ノ井遺跡では、室町時代前期の建物跡を構成する柱穴の中より、拳大〜人頭大の石が多数見つかりました。当時の建物は地面に穴を掘り、そこに柱(掘立柱 ほったてばしら)を立てるつくり方で、建物の沈下防止の為に、柱の下に扁平な石(礎盤石 そばんせき)が据えられました。この建物跡は破却された後、柱穴の中に礎盤石がそのまま残された状態で埋没したと考えられます。
礎盤石検出状況
当地は、秦氏の有力者、秦川勝※が聖徳太子から賜った仏像を本尊としたと伝わる広隆寺に近接しています。また、奈良時代から江戸時代の遺跡、「一ノ井遺跡」に含まれます。
2021年に当地で発掘調査が行われた結果、鎌倉時代の柵や井戸跡、室町時代前期の建物跡などが発見されました。鎌倉時代の遺構が真北に対し北東に約三度振れているのに対し、室町時代の遺構は北西に約五度振れています。鎌倉時代の軸線は『山城国葛野郡班田図』の条里の方位に近似しており、古い様相を示しています。一方、室町時代の遺構は広隆寺旧境内の伽藍の軸線と近似しており、周辺の調査成果からも室町時代の広隆寺門前の繁栄を考える上で大変貴重なものです。