歴史・沿革

蓬莱塾ノ時代

蓬莱学園。南洋の孤島にあり、仙人の治める三島の一つの名を冠に頂く、世界最大規模を誇る私立高校です。 学園は穂北眞八郎を抜きにして語ることはできません。この傑物にして教育者の一代記は、後の学園生徒に「かくありたし」と思わせる魅力に満ちています。 穂北眞八郎は、安政二年といいますから今から約140年前、日本史にある「安政の大獄」の3年前に学園のはじまりである蓬莱塾を、不忍池のほとりに開塾しています。 当時の塾生は352人、これが後の10万人を越える生徒数へと変貌する学園の出発点でした。時あたかも尊王攘夷の吹き荒れる、日本史上最も熱い時代の一つに数えられる「幕末」。たぎる思いと熱き血潮を宿らせた先達たちと、私達は相通ずるところがあるかもしれません。 この時代に、すでに蓬莱学園の気風というものの基礎が芽生えています。

蓬莱大学校ノ時代

蓬莱塾は明治に入り蓬莱大学校と改称され、男子高等部が北海道は小樽に開校されました。大学と名称は変わりましたが、その姿勢というか中身に変化はなく、時代が日清・日露や第一次世界大戦を経て暗い世相となっていくのを後目に、それらを感じさせない学園らしい事件や騒動を巻き起こしています。 大正期には浅草に浅草高等部、長崎に女子高等部が設立され、理事会が宇津帆島の一部を買い取り南洋研究機関を設立したのもこの頃です。 1923(大正12)年の関東大震災のときには、数々の建物が到壊するなか大学と高等部が無傷で残ったため付近の住民から「ほうらい様」と崇められたという記録が残っています。 1930(昭和5)年に理事会は浅草大学部を発展解消、宇津帆島の研究機関と合併させて「研究局」を立ち上げ、同時に第二高等部が新設しました。 これを期に学園設備や人員が急速に宇津帆島に集められていき、第二次世界大戦末期に海軍に島が接収されるまでの期間、大学(研究局)と第二高等部は独自の道を進んでいくことになります。

大合併ノ時代

戦後、宇津帆島の第二高等部と、本土にあった小樽男子校、長崎女子校が合併。現在の「蓬莱学園」が誕生、発展していくこととなります(記録紛失により確認はされていませんが横浜などにも付属校があったらしいです)。 しかし、この大合併には産みの苦しみがあり、小樽校残留派のテロ、受入態勢の不備による混乱で学生寮が廃材で作られるという混乱もあったそうです。 加えて戦後の混乱もあり、この時代には各種の団体が暗躍しつつ、少しづつ学園が形成されていった時代でもあります。

生徒会の時代

蓬莱学園には、幾つもの生徒会が現われては消えていきました。これらは、良くも悪くも学園を導く存在で逸話も数多く残っています。 特に、戦後間もない「鮫島執行部」、60年代の「酒橋執行部」、90年の「退学執行部」は負の執行部としてつとに有名です。

年譜

1767(明和4)年:穂北眞八郎(ほきた・しんぱちろう)、館山に生まれる。

安永~天明年間(1770~80年代):房総・屋凪(やなぎ)藩の重商改革断行。下級藩士・斗余八郎兵衛(とまり・はちろべえ)が重用される。

1788(天明9)年:松平定信による寛政の改革はじまる(~1793)。屋凪藩の斗余一派失脚により、穂北眞八郎が江戸に上る。

寛政年間(1790年代):穂北眞八郎、仙台で林子平の知遇を得る。蝦夷地へ渡り、アイヌの娘・アピとめぐりあう。豪商・高田屋嘉兵衛から預かった御禁制の外洋船〈乾坤丸〉で琉球へ渡る。琉球王・尚温(しょうおん・在位1795~1802)から「舜天王八巻」を託される。

享和年間(1800年代):眞八郎、東南アジア・英領インド・上海・満州・シベリアを放浪、李朝民と義兄弟になる。

1804(文化元)年:眞八郎、北京から興安嶺~小樽へ脱出。〈乾坤丸〉、小樽沖に沈む。年末に上野に帰還、居をかまえる。

1819(文化16)年:この頃、「不忍池の誓い」が成されるという。

1820年頃(文政年間):浅草を中心に「ほうらい講」が成立、曲亭馬琴もかかわるという。

1820(文政3)年:高井麻四郎太(たかい・ましろうた、のちに多賀ノ院四郎佐衛門)、松前藩の領地である奥州・梁川(やなかわ)に生まれる。

1823(文政6)年:南豪忠継(なんごう・ただつぐ)、江戸に生まれる。

1824(文政7)年:宇都宮唐太郎(うつのみや・からたろう)、江戸は池袋に生まれる。

1827(文政10)年:穂北眞八郎、還暦をむかえる。

1829(文政12)年:シーボルト事件おきる。からくり弁吉、眞八郎と出会う。

1831(天保2)年:雨木惣右エ門(あめき・そうえもん)、長崎は平戸に生まれる。

1842(天保13)年:「南総里見八犬伝」完結。この頃、南豪忠継と高井麻四郎太が「ほうらい講」に加わるという。仁木紘秀、この頃生まれるという。

1847(弘化4)年:穂北眞八郎、米寿をむかえる。曲亭馬琴、没す。

1855(安政2)年:不忍池の近くに蓬莱塾が設けられる。前年に続いて江戸に大地震。「蓬莱唐繰会」のメンバーが江戸中の蘭学塾に殴り込み、洋書各種を奪い取る。

1860年代:このころ塾内に舎密普及会ができる(のちの化学部)。一部塾生、幕府の倉からマスケット銃を奪い、自警団を結成するという。

1867(慶応3)年:穂北眞八郎生誕100年。徳川慶喜による大政奉還。

1868(慶応4・明治元)年:12月:穂北眞八郎、「愛宕山の説法」の後、屋凪藩上屋敷にて没す。

1890(明治23)年:蓬莱塾が浅草に移転、東京市蓬莱大学校と改称。理事会が設立される(初代理事長、雨木惣右エ門)。「一高殴り込み事件」。学生会会長・桧垣膳(ひがき・ぜん)の命令により応援団が組織される。浅草に凌雲閣(通称「十二階」)ができる。

1901(明治34)年:蓬莱大学予科(第一高等部・通称北天校)を北海道の小樽に新設。

1905(明治38)年:蓬莱塾50周年。「ニセ大公」事件おこる。首謀者のクルト・茜小路が蓬莱学園初の放校処分となる。「あずき倶楽部」創設、戦後の不景気に乗じて躍進。

1912(明治45・大正元)年:蓬莱大学、滋野男爵やルイ・ブレリオらを招いて模範飛行大会を開催。

1915(大正4)年:長崎の理事長邸を改増築して女子高等学校を設立。

1919(大正8)年:自治会主義者・倚福部風吉、生徒会長に就任。副会長は鈷坂眞右衛門(こさか・しんえもん)。後の世に「儚き風の如き彼の日々、彼の人なればこそ」と詠われる。「江戸川往来合戦」おきる。女子校に「留学生会」が発足。

1920(大正9)年:大学部が中央アジアに探検隊を派遣。

1921(大正10)年:東京浅草区(現・台東区忍岡)に「浅草高等部」(蓬莱大学予科浅草分校舎)が設立される。

1923(大正12)年:長崎女子校の正門が造られる。関東大震災発生。大学&浅草高等部は奇跡的に無事、付近住民から「ほうらい様」と崇められる。学園が宇津帆島の一部を買い取って南洋研究機関を設立、関係者および浅草住民の町ができる。宇津帆島で「軍艦図書館」の建造開始。

1924(大正13)年:南洋研究機関による第一次南洋学術調査(~29)。宇津帆町のはずれ(現・宇津帆新町)に「新十二階」ができる。宇津帆島に路面電車が敷かれ始める。

日本支配下の台湾に、財閥の寄付によって蓬莱素材化学研究所が創立される。

1928(昭和3)年:宇津帆島南部で、恐竜の痕跡が発見される。宇津帆島および日本支配下の台湾に化学部の工場ができる。

1930(昭和5)年:理事会が浅草の大学部を発展解消、宇津帆島の研究機関と合併して「研究局」となる。宇津帆島に第二高等部(男女別学)を新設、四天王の家系が生徒会に就任。研究局がミスカトニック大学と合同で南極調査隊を結成、三回におよぶ学術調査を行なう。

1931(昭和6)年:第二高等部の学生寮が完成:男子寮は尾登呂ヶ沼駅前、女子寮は三日月ヶ丘北斜面。

1934(昭和9)年:学園の第二次南洋調査(~38)。

1936(昭和11)年:整理整頓委員長・水無月凱(みなづき・がい)、ベルリンにヒトラー総統を表敬訪問:全委員が名誉ヒトラー・ユーゲントを名乗る資格を与えられる。生徒会執行部は実権を喪失、軍事研とSSの幹部による「軍学時代」がはじまる。

1939(昭和14)年:軍事研「校道派」による学園クーデタ未遂事件(「10・10事件」)勃発。執行部&整理整頓委員会と結んだ「統制派」によって鎮圧される。

1943(昭和18)年:学徒動員で生徒激減。制服が詰襟と振袖袴から、国民服とモンペに変更される。

1945(昭和20)年:広島と長崎に原爆投下、敗戦。島が大幅に再隆起。「GHQ時代」はじまる。宇津帆島でインチ・ポンド法施行(~50年3月)。サマータイム制導入(~58年6月)。国際政治学研、GHQの要請で発足。

1948(昭和23)年:小樽と長崎の高等部を廃止、宇津帆島の第二高等部と合併。小樽校で残留派による「クラーク講堂爆弾テロ」事件。本土&島東南部の旧学生寮が撤去され、廃材をムリヤリ活用して「恵比寿寮」が建設される。進駐軍、宇津帆島を撤退。GHQ時代終わる。

1950(昭和25)年:学園60周年、雨木理事長による『雨木桜』の植樹。三派全生連の穂北眞八郎記念講堂攻防戦(北堂攻防)。戦後学則が施行される。

1951(昭和26)年:急進左派運動の活発化に脅威を覚えたクラス代表会議、公安組織として非常委員会を設置。野球部、東東京地区から甲子園大会に出場。区画改正により宇津帆新町ができる。

1952(昭和27)年:旧図書館(軍艦図書館)、第五次増築が完了。翌月に怪異が発生、以後放置される。

1953(昭和28)年:新図書館が建設される。

1954(昭和29)年:私立蓬莱学園高等学校と正式に改名、別学を廃し男女共学となる。研究局は研究部となる。

1955(昭和30)年:蓬莱塾100周年。鮫島執行部が50年度全誌の検閲・改訂事業に乗り出す。100周年事業の一環として「旧図書館整頓隊」が編成される(第一次整頓隊)。

1958(昭和33)年:蓬莱学園高校合併10周年。

1967(昭和42)年:穂北眞八郎生誕200年。『男女同寮』時代はじまる(~69年まで)。記念事業の一環として、酒橋会長の命により旧図書館第二次整頓隊が編成される。

1968(昭和43)年:蓬莱学園高校合併20周年。穂北眞八郎、没100年。

1971(昭和46)年:キリスト教研OBからバチカンの枢機卿が出る。

1975(昭和50)年:蓬莱塾120周年。各種記念事業行われる。

1978(昭和53)年:蓬莱学園高校合併30周年。

1979(昭和54)年:蓬莱学園、交換留学生・途中転入者大量受け入れ開始。おりからの校内暴力急増にともない、本土各地から優秀な人材の転入が相次ぐ。

1980(昭和55)年:蓬莱学園、年度の一月開始に移行完了。「宇津帆島全誌」発行。

1985(昭和60)年:蓬莱塾130周年。穂北記念大講堂、5回目の増改築により現在の姿になる超あ研の大型粒子加速器「パルジファル」完成。

1986(昭和61)年:蓬莱学園が世界初の10万人高校になる。

1988(昭和63)年:蓬莱学園高校合併40周年。記念の新校舎が完成する(北&中央校舎群)。シェワルナゼ外相来蓬、対ソ関係一挙に好転。ロケット工学研事業部、衛星事業開始:オーストラリアの通信衛星の打ち上げに成功。

1991(平成3)年:学園新憲章(90年憲章)施行。暫定執行部&クラス代表会議業務開始。