由緒

山 号 大梅山

寺 号 法常寺

開 創 寛永18年(1641)

開 山 一絲文守(仏頂国師)

開 基 後水尾法皇(第108代天皇)

宗 派 臨済宗妙心寺派

本 尊 釈迦如来坐像(東福門院和子寄進)

法常寺の歴史

開山一絲文守は岩倉家の出身で、8歳で宮中に稚児として奉仕に上がりました。漢詩に興味を持ち、勉学を進めていくうちに仏教に興味を持ち出家。沢庵和尚の下で修行をすることになります。沢庵和尚は多くの人に一絲を称賛していたといわれています。

そんな中、寛永6年に紫衣事件がおこり、沢庵和尚が出羽(山形県)に配流されると、一絲も随いました。約1年後、一人で京に戻り樫原に庵をもうけます。そして近衛信尋をはじめとする公家との交流が始まります。近衛信尋は兄である後水尾上皇に一絲和尚のことを奏上。ついに一絲和尚は後水尾上皇の下に召し出されることとなります。一絲和尚は上皇の問いに明確に答え、感銘を受けた上皇は一絲和尚に帰依をすることになったと言われます。

このことが世間に知れると、樫原の庵には多くの人が訪ねてくるようになりました。嫌気のさした一絲和尚は実家の岩倉家で使用人から聞いた丹波に居を変えるべく亀山城下(現在の亀岡)を目指します。城下町でこれから帰るというお百姓さんに声をかけ、その人と一緒に千ヶ畑村にやってきます。静かな山村であった千ヶ畑村を一絲和尚は大変気に入り、移り住むことを決め小さな小屋を建てそこで修行をすることにしました。

さて京では樫原の庵からいなくなった一絲和尚を探す動きが起こります。千ヶ畑で小さな小屋で質素な生活をしていた一絲和尚のことが、後水尾上皇の耳に入ります。そこで上皇の内意によりしかるべき寺院を建てられることになりました。これが法常寺の前身である桐江庵です。

一絲和尚は桐江庵に住み、後水尾上皇と手紙での交流や上洛して禅について説いています。一絲和尚が体調を崩した際には薬を送ってもらうことや、京に戻れば医者を紹介するというような手紙も送られるなど後水尾上皇の一絲和尚に対する帰依が深いこともわかります。

後水尾上皇は、一絲和尚を近くに置きたかったのか西賀茂に霊源庵を建立し、一絲和尚を開山とします。一絲和尚としても後水尾上皇の以降は意向は無視することもできなかったようで、入寺するものの数か月で丹波の桐江庵に帰りました。

寛永18年(1641)には後水尾上皇の発願により旧殿を下賜して方丈・法堂・庫裡を建立し「大梅山法常寺」と名付け一絲和尚を開山とします。こうして法常寺が創建されることになったのです。

一絲和尚は法常寺入寺後、寛永20年(1643)に戦国時代に荒廃した永源寺の再建を依頼され近江に赴き、後水尾上皇、東福門院、井伊家の援助を受け永源寺を中興することになります。しかし正保3年(1646)正月に病の床に付き、3月に急変。39歳の若さで入寂されます。

一絲和尚没後も、上皇をはじめとする皇室の法常寺に対する帰依は変わらず、延宝6年(1678)の一絲和尚の三十三回忌に合わせ「仏頂国師」の諡号が贈られ勅願寺となりました。

貞享3年(1686)には霊元天皇の綸旨で同寺住持の紫衣着用。寺格が定められた。以後、一絲派として独立していたが明治7年に官命により妙心寺派に属することになり現在に至っている。