唱歌「蛍の光」と作詞者稲垣千頴(いながきちかい)についての歴史的資料を広く研究のために公開します。
写真 棚倉城跡の大欅
作成者:中西光雄
現存する唯一の肖像写真だと思われます。
【出典】難波利夫編著『日本におけるロバート・バーンズ書誌』荒竹出版1977年5月25日
谷中霊園(東京都台東区)
甲7号7側
NEW! 稲垣千頴の死亡記事
客員稲垣千穎先生は永々御病気の処薬石効なくついに本月九日長逝せられて越て十一日午後一時谷中天王寺葬場に於て葬儀執行ありしを以て当日は本会を代表して小西信八君会葬左の弔辞を朗読し哀悼の意を表せり
弔辞 客員稲先生長逝の報に接し哀悼の情に勝へず謹ので茲に弔意を呈す 大正二年二月十一日 茗渓會
茗渓會事務所『教育』第359号 1913(大正2)年.2月15日
【解説】稲垣千頴は1913(大正2)年2月9日死去しました。東京師範学校(東京教育大学・筑波大学)の同窓会組織「茗渓會(めいけいかい)」が、月刊で会員に配付していた雑誌『教育』第359号に告知されています。冒頭の「客員」というのは「元教職員」の会員資格です。
NEW! 故稲垣千頴君履歴概要
君の専門は上古史にして、就中最も神代史に通暁せられしは、殆ど其の類を聞かず。嘗て(明治十六年頃と記憶す)余が先輩某氏神代史中に疑義を懐く多年偶、文部省に参上せるを機とし、余を介して君に会見し、多年懐ける疑点を質さんことを望まる。依って同伴して君を東京師範学校に訪ひしことあり。側らにありて其の質疑を聞くに、滔々数百言、実に面前に見るが如く詳しく且つ精く、質疑者をして感嘆せしめたることありき。是は君が神代史に通暁せる一例を示すに過ぎず。
【現代語訳】
稲垣千頴君の専門は上古(神代~奈良時代)の歴史であって、その中で最も神代の歴史に通じておられたことについては、ほとんどその類例を見ないほどである。かつて(明治10年頃と記憶するが)私の先輩である某氏が神代史の中に疑問を感じてから多くの年月が流れ、文部省に参上することを機会に、私を仲介者として稲垣君に会見し、多年抱いていた疑問点を質問することを望まれた。そこで私は先輩を伴って、稲垣君を東京師範学校に訪問したことがある。となりに座って、先輩と稲垣君の質疑応答を聴いていると、稲垣君は滔々と数百言、実に歴史を眼前に見るように詳しく詳細に語り、質問者を感嘆させたことがあった。これは稲垣君が神代史に通じておられる一例を示しているに事実にすぎないのである。
【解説】この資料は、旧川越藩藩士ならびにその子孫による親睦団体「三芳野温知会(現初雁温知会)」会報に掲載された「故稲垣千頴君履歴概要」です。執筆者は会長の大枝美福(おおえだびふく)。大枝は伊藤博文が創設した東京女学館の講師兼理事でした。『埼玉県内郡誌略』などの教科書を書いた教育者であり、稲垣が幼少期に教えを受けた松本與雅(まつもとよが)の息子でもありました。稲垣と同じ棚倉藩の中小姓の家柄に出自を持ち、ともに東京で教育者として活躍していたのです。ちなみに、この大枝美福は、日本人としてはじめてノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士の母方の祖父にあたる人です。同時代の人が語る稲垣千頴の伝記資料として、非常に価値が高い資料だと思います。
蛍(蛍の光)』現代語訳と注釈
文部省音楽取調掛編《小学唱歌集初編》(1881)
一
ほたるのひかり、まどのゆき、
書よむつき日、かさねつヽ
いつしか年も、すぎのとを、
あけてぞけさは、わかれゆく。
【現代語訳】
蛍の光や、窓越しの雪あかりに照らして、
書物を読んだ月日を、重ね重ねして、
いつのまにか年も、過ぎてしまったが、
この学舎の杉の戸を、開けて、
夜が明けた今朝、わたしたちは別れてゆく。
【語釈】
*ほたるのひかり、まどのゆき…家が貧乏で苦学すること。晋の車胤と孫康は、貧乏で油が買えないため、車胤は蛍の光で、孫康は雪あかりに照らして読書した。その故事に基づく表現。
*書…ふみ。書物のこと。
*すぎのと…杉の戸。「すぎ」は「過ぎ」と「杉」との掛詞。和歌・雅文の影響が強く感じられる。この歌で唯一の修辞的表現。「杉戸(すぎと・すぎど)」は、江戸時代以降しばしば用いられた言葉で、質朴なイメージが喚起される。
*あけてぞけさはわかれゆく…「ぞ」は係助詞。「わかれゆく」が連体形で結ばれ、係り結びが完結している。
二
とまるもゆくも、かぎりとて、
かたみにおもふ、ちよろづの、
こころのはしを、ひとことに、
さきくとばかり、うたふなり。
【現代語訳】
この学舎にとどまる者もまた巣立ってゆく者も、今日が別れの日だということで、
お互いの心に浮かぶ、無数の、
心の一端を、ひとことにこめ、
将来幸福であれと祈って、この歌を歌うのである。
【語釈】
* とまるもゆくも…「とまる」「ゆく」は、いわゆる連体形の準体用法。直後に「人」を補う。「とまる人」も「ゆく人」もの意。
* かぎり…限り。「最後・別れのとき」の意。
* かたみに…「おたがいに」の意。「とまる人」と「ゆく人」とがお互いを大切に思うのである。
* ちよろづ…千万。「数が限りなく多いこと」の意。
* こころのはし…「心の一端」の意。
*さきく…「しあわせに・変わりなく・平穏無事に」の意。『万葉集』巻五「つつみなく さきくいまして はや帰りませ」(山上憶良)のように用いられた。明治期の文語詩で好んで取り入られた表現。
*うたうなり…「うとうなり」と音便形で歌う。
三
つくしのきわみ、みちのおく、
うみやまとおく、へだつとも、
そのまごころは、へだてなく、
ひとつにつくせ、くにのため。
【現代語訳】
筑紫の果ての地、陸奥と、
海山遠く、別れ隔ったとしても
その真心は、分け隔てなく
ひとつになってつくせ、国のために。
【語釈】
* 「つくしのきわみ」…ここで「つくし」は九州全体の呼称として用いられている。「九州地方の果て」の意味。
* 「みちのおく」…「磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥」の五カ国を含む東北地方のこと。
四
千島のおくも、おきなわも、
やしまのうちの、まもりなり。
いたらんくにに、いさをしく、
つとめよわがせ、つヽがなく。
【現代語訳】
千島の最北端も、沖縄の地も、
大八州日本のうちの、防衛域である。
派遣された地で、勇気を持って、
国のためにつくしてくれ、わが夫・恋人よ、どうかご無事で。
【語釈】
* 「千島のおく」…一八五五(安政元)年の日露和親条約で、日露国境は千島の得慰撫島と択捉島の間とされていたが、一八七五(明治八)年の樺太・千島交換条約によって、樺太の放棄を条件に、日本が占守島までの北千島全域の領有することとなった。ここで「千島のおく」とわざわざ表現されていることには、領有権をめぐる政治的な意味があることに注目したい。
* 「おきなわ」…一八七九(明治十二)年、琉球王国が日本政府によって強引に編入される、いわゆる「琉球処分」が行われた。この曲が作詞されるわずか三年前のことであった。
* 「やしま」…日本国の別名。「大八州・八州国」ともいう。新しく領土に編入された北千島と沖縄を、あえて「やしまのうち」と呼ぶことで、国家意識を称揚しようとする意図が見え隠れしている。
* 「いたらんくに」…中央から見た辺境の地。明らかに、中央政府から派遣される国境警備の軍人たちのことを意識した表現。
* 「いさをしく」…「勇ましい・功績がある」の意。軍人の志気を鼓舞する言葉。
* 「わがせ」…主として女性が、夫・恋人・兄弟を親しんでいう語。『万葉集』で好んで用いられた。このあたりの表現は、明らかに防人歌を下敷きにしている。軍人を辺境の地に送り出した女性の立場からの呼びかけという形式をとる。
* 「つつがなく」…「無事だ。障りがない」の意。
稲垣千穎(頴) 年譜
2013/6/20
作成:中西光雄
1845(弘化4)08稲垣千穎、奥州棚倉藩士(中小姓)の子として生まれる。本名、眞二郎。
読書修辞を松本興雅(中小姓・大枝美福実父)に学ぶ。
稲垣千穎、日光の某寺院へ留学。
1861(文久1) のちの棚倉藩主松平(松井)康(やす)英(ひで)、外国奉行を任じられる。
千島・樺太国境策定交渉のため、欧州行きを命じられる。
1861(文久1)12交渉使節団副使として欧州に出発。翌1861(文久2)12月に帰国。
1963(文久3)11松平(松井)康英、棚倉藩第四代藩主となる。
1865(慶応1) 藩主松平(松井)康英、幕府の老中に就任。外国事務取扱を命ぜられる。
1866(慶応2) 藩主松平(松井)康英の川越藩転封。
1867(慶応3) 藩主松平(松井)康英、川越宮の下(現宮下町)に藩校長善館を開く。
稲垣千穎、川越藩に戻り、藩校長善館の教員となる。
1868(M02) 第二代藩主松平(松井)康載(やすとし)が家督を相続し、藩籍奉還。川越知藩事となる。
藩主の推挙により、京都遊学。
03.27 その後、東京に移り平田鐵胤の国学塾「気吹舎(いぶきのや)」に入塾。誓詞帳には23歳とある。
市ヶ谷で、寄宿生活を送る。
1871(M04) 版籍奉還、廃藩置県によって川越藩は川越県となる。
02.14 稲垣千穎、「気吹舎」の塾頭に就任するも、塾則で禁じられていた遊郭登楼が発覚、塾生たちから退塾の意見書が提出される。(名越央・桜田景義の上書。塾生11名の同意署名。上書への同意書12通あり。)
「気吹舎」退塾。
1872(M05)07. 学制公布される。
1872(M05)09. 東京師範学校開設される。
1874(M07) 東京女子師範学校開設される。
1874(M07)10. 稲垣千穎東京師範学校雇となる。
1875(M08)05.07 樺太・千島交換条約。
1876(M09)10. 稲垣千穎、那珂通高との共撰による『小学読本』巻第四~五を出版。
1877(M10)10. 土方幸勝録・稲垣千穎訂による『日本略史読例』を出版。
1878(M11)10. 稲垣千穎、『国史通解』巻二を出版。
1879(M12)03.22 伊澤修二、東京師範学校校長となる。
1879(M12)03.27 琉球処分。
1879(M12)03.22 伊澤修二、音楽取調御用掛を兼務する。
1880(M13)03. ルーサー・ホワイティング・メーソン文部省お雇い教師として着任。
1880(M13)03.31 東京府の唱歌編成評議委員会の第一回集会が開かれる。
1880(M13)06.07 稲垣千穎(東京師範学校雇)・柴田清煕・内田彌一を音楽取調掛として雇い入れる。
1880(M13)10.15 東京府の唱歌編成企画の最終的な中止が案内される。
1881(M14)05.14 里見義(ただし)【1824(文政七)年生・旧小倉藩士】を音楽取調掛として雇い入れる。
1881(M14)05.24 東京女子師範学校に皇后行啓の折、同校附属小学校生徒が「螢の光」などを歌う。
1881(M14)06.11 加部厳夫(いずお)【1849(嘉永二)年生・島根県出身】を音楽取調掛として雇い入れる。
1881(M14)07. 稲垣千穎東京師範学校助教諭に昇進。
1981(M14)07.07 音楽取調掛期末試業で、「螢(の光)」が琴および胡弓の伴奏で歌われる。
1981(M14)07.09 宮中で大臣参議が陪食の折、宮内省雅楽部伶人らが「螢の光」などを演奏する。
1881(M14)08.23 稲垣千穎、松岡太愿との共編で『本朝文範』(普及舎)の版権免許取得。1882年11月出版。
1881(M14)10.12 明治14年の政変。
1881(M14)10.26 伊澤修二、東京師範学校校長兼任を解かれ、音楽取調掛長となる。
1881(M14)11.24 『唱歌掛圖』初編および『小學唱歌集』初編の出版届。
1881(M14)12.01 音楽取調掛、『唱歌掛圖』初編および『小學唱歌集』初編の草稿を文部省に提出。
1881(M14)12.21 音楽取調掛、文部省の修正意見に対して、佐藤誠実・稲垣千穎が返答を提出。
1882(M15)01.30 神田昌平館において「音楽取調掛成績報告」演奏会を挙行。
-01.31 最終曲として「螢の光」が、本邦雅俗および西洋管弦楽器を悉く混用して合奏される。
1882(M15)03. 大阪で、はじめての楽譜付き讃美歌集『讚美歌并樂譜』が出版され、第二十~第二十二の楽曲として”AULD LANG SINE”の楽譜が掲載される。
1882(M15)07.01 神田昌平館においてメーソン送別演奏会開催。東京女子師範学校生徒が「螢(の光)」を歌う。
1882(M15)07.13 メーソン、一時帰国の途につく。
1882(M15)11.06 メーソン解雇伺提出。
1882(M15)11.13 稲垣千穎、『和文読本』(普及舎)の版権免許取得。同年12月出版。
1883(M16)02. 稲垣千穎、東京師範学校「第十一学年前期末定時試業問題」を出題。
1883(M16)03. メーソンを正式に解雇。
1883(M16)06. 『唱歌掛圖』二編および『小學唱歌集』二編出版。
1883(M16)07. 稲垣千穎、東京師範学校「第十一学年後期末定時試業問題」を出題。
1883(M16)07.11 音楽取調掛期末演習会で、証状授与の後、最終曲として「螢の光」が歌われる。
1883(M16)07.21 稲垣千穎、東京師範学校教諭(判任)に昇進。
1884(M17)01. 稲垣千穎、このころより歌集『詠草(稲垣千穎詠草)』全三百三十九首の作成をはじめる。
1884(M17)01.17 大木文部卿巡視の際の事業供覧で、音楽取調掛見習生女子が箏曲「螢」を演奏する。
1884(M17)02. 稲垣千穎、東京師範学校「第十二学年前期末定時試業問題」を出題。
小学師範科第三級前学期の唱歌の定時試業問題として「螢の光」独唱が課せられる。担当は辻則承。
1884(M17)03.29 『小學唱歌集』三編の出版届。
1884(M17)04.15 稲垣千穎東京師範学校教諭を辞す。
1884(M17)05.20 稲垣千穎「質問答義」を『東京茗渓會雑誌』(東京茗渓會)第十六号に寄稿。
1884(M17)06. 『小學唱歌集』三編出版。
1884(M17)08.20 稲垣千穎「質問答義」を『東京茗渓會雑誌』(東京茗渓會)第十九号に寄稿。
1884(M17)09.20 稲垣千穎「質問答義」を『東京茗渓會雑誌』(東京茗渓會)第二十号に寄稿。
1884(M17)10.16 嶋津珍彦他九名が音楽取調掛を参観の際、派出生徒が唱歌「螢」を歌う。
1985(M18) 華族女学校開設される。
1885(M18)05.09 東京教育博物館理学講義室において音楽演習会が開かれ、「螢の光」などが演奏される。
1886(M19)10. 高等師範学校の学年開始期を改め、四月一日より翌三月三十一日までとする。
1887(M20)08.28 読売新聞の寄文(投書)欄に音楽寄席の建設を促す意見が掲載され、「螢の光」や他の唱歌が当時の多くのこどもたちに歌われていることの報告がなされる。
1887(M20)10.06 文部省、視学官を通じて師範学校に四月開始期を採用するよう通知。
1887(M20)07.18 華族女学校第二学期大試業卒業証書及び修業証書授与式(皇后臨席)で生徒全員が「螢の光」を歌う。
1890(M23)10.31 教育勅語発布。
1890(M23)11.29 山県有朋首相、第一回帝国議会施政方針演説を行う。
1891(M24)04.03 東京音楽学校諸氏の第十回同好会音楽会が開かれ、「螢の光」がリードオルガンで演奏される。
1891(M24)04.03 成立学舎女子部第三回卒業式が浅草鴎遊館で行われ、最終曲として生徒が「螢の光」を歌う。
1892(M25)02.19 文部省普通学務局通牒により、全国の小学校に対して、四月学年開始を指示。
1892(M25)03.10 第一高等中学校の唱歌演習会で、同校教諭の作詞による「螢の光」の戯作「天窓(あたま)の光」が発表され、大喝采をあびる。
1892(M25)12. この年、稲垣千穎、埼玉県より東京府へ転籍。東京府士族となる。
1900(M33) 稲垣千穎、このころ下谷教育会の第二代会長に就任。
1900(M33)03.20 小学校令(第三次)。
1900(M33)03.21 小学校令施行規則により、小学校の四月学年開始が確定。
1906(M39)10. 稲垣千穎、数人の知人と共に、汽車で甲斐路を旅行。
1906(M39)12.15 稲垣千穎「甲斐紀行の中の歌ども(上)」を『教育』(茗渓會事務所)第八十二号に寄稿。
1907(M40)01.15 稲垣千穎「甲斐紀行の中の歌ども(下)」を『教育』(茗渓會事務所)第八十三号に寄稿。
1910(M43)08.15 稲垣千穎「嵯峨野のつと」を『教育』(茗渓會事務所)第三百六号に寄稿。
1913(T02)02.09 稲垣千穎死去。
1915(T04)08.17 稲垣千里死去。
稲垣千穎が「蛍の光」の作詞者である根拠
「此歌は稲垣千穎の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当り別れを同窓の友につげ将来国家の為に協力戮力せん事を誓う有様を述べたるものにて卒業の時に歌うべき歌なり。」
【現代語訳】この歌は稲垣千穎の作であって、学生たちが数年間学問をつとえ励まし、蛍雪の功をつみ、なすべきことをなし、やるべきことをやり終えて学校を去るにあたり、別れを同窓の友に告げ、将来国家のために力をあわせ協力することを誓う様子を述べたもので、卒業の時に歌うべき歌である。
【解説】「唱歌略説」は音楽取調掛長であった伊澤修二が、主に宮中での演奏会などで演奏された楽曲について解説したもので、現在のプログラムノートにあたります。演奏当日、参加者に配付したものと思われますが、後日新聞に掲載されるのが常でした。
東京師範学校教員としての経歴
▶雇 明治七年十月~明治十四年五月
【典拠】『自大正十二年四月至大正十二年三月 東京師範学校一覧』東京師範学校1923年2月25日(筑波大学中央図書館蔵)
▶助教諭 明治十四年七月~明治十六年七月
【典拠】『自大正十二年四月至大正十二年三月 東京師範学校一覧』東京師範学校1923年2月25日(筑波大学中央図書館蔵)
▶教諭 明治十六年七月~明治十七年四月
(明治十六年)七月二十一日助教諭稲垣千穎同田中矢徳同志賀泰山共ニ教諭ニ進ム」
【典拠】「東京師範学校年報 従明治十五年九月 至同十六年十二月」 『文部省第十一年報 二冊』
「明治十六年七月~明治十七年四月 教諭」
【典拠】『自大正十二年四月至大正十二年三月 東京師範学校一覧』東京師範学校1923年2月25日(筑波大学中央図書館蔵)
▶免官
「(明治十七年)四月十五日教諭稲垣千穎免本官」
【典拠】「東京師範学校年報 従明治十七年一月 至同十七年十二月」 『文部省第十二年報 二冊』
【解説】稲垣千頴が東京師範学校の教員であったのは十年足らずでした。在任期間中に伊澤修二からの依頼で音楽取調掛を兼務していたのです。東京師範学校は官立の教員養成機関として設立されましたが、地方から選びぬかれた学生たちが給与をもらいながら学ぶエリート学校でした。就職先は、地方に次々にで設立されつつある師範学校の教員がもっとも多く、小中高等学校の教員になる人はまれでした。大学と同様の組織でしたから、「雇」は講師、「助教諭」は准教授、「教諭」は教授だと考えれば適当です。
蛍の光」の成立過程
Ⅰ 掛図 第十二図 1880(明治13)年12月20日提出
Ⅱ 第十三号掛図 第二十 1881(明治14)年5月2日提出
Ⅲ 第二十『蛍』 1881(明治14)年8月24日提出
Ⅳ 第二十『蛍』 1881(明治14)年12月19日提出 初稿
Ⅴ 第二十『蛍』 1882(明治15)年5月 出版
稲垣…稲垣千穎(音楽取調掛員)
取調掛…稲垣とおもわれるが特定できないもの。
佐藤…佐藤誠実(文部省編輯局員)
辻…辻新次(文部省普通学務局長)
◎出版された歌詞
○採用された修正案
×不採用となった修正案
蛍 (Ⅲ以降歌題が付いた)
Ⅰ
一
蛍のあかり 雪のまど → 蛍のひかり 雪のまど(Ⅰ佐藤修正案○)
蛍のひかり 窓の雪 (Ⅱ取調掛原案◎)
ふみよむ日数 かさねつヽ → ふみよむつとめ 重ねつヽ(Ⅰ佐藤修正案×)
いつしかとしも すぎのとを → あまたの日数 すぎの戸を(Ⅰ佐藤修正案×)
はやとしつきも すぎのとを(Ⅰ取調掛上書○)
←一時的に採用されるもⅡでは採用されず。
いつしかとしも すぎのとを(Ⅱ取調掛原案◎)
あけてぞ今朝は わかれゆく
二
とまるもゆくも かぎりとて
かたみにくだく ちよろづの → かたみにおもふ ちよろずの(Ⅴ出版◎)
こころのはしを ひとことに
さきくとばかり うたふなり → さきかれとのみ うたふなり(Ⅰ佐藤修正案×)
三 →三番全体の削除要求(Ⅳ辻×)
つくしのきわみ みちのおく
わかるヽみちは かはるとも → うみやまとほく へだつとも(Ⅴ出版◎))
かはらぬこヽろ ゆきかよひ → そのまごヽろは へだてなく(Ⅴ出版◎)
ひとつにつくせ くにのため
四
千島のおくも おきなわも
やしまのそとの まもりなり → 修正要求(Ⅳ普通学務局)
やしまのほかの まもりなり(Ⅳ佐藤修正案×)
国のとのえの まもりなり(Ⅳ稲垣修正案×)
わが大君の まもりなり(Ⅳ稲垣修正案×)
やしまのうちの まもりなり(Ⅴ決定◎)
いたらんくにに いさをしく
つとめよわがせ つヽみなく → つとめよわがせ つヽがなく(Ⅳ佐藤修正案◎)
【解説】この表は、「蛍の光(原題「蛍」)の歌詞の成立過程を示したものです。音楽取調掛の稲垣千頴が原案を作り、文部省編輯局員の佐藤誠実(さとうじょうじつ)と、稟議で対話をしながら、修正を加えてゆきました。最後に文部省普通学務局長辻新次の三番全体の削除要求がありましたが、結局削除されないまま出版されました。佐藤誠実は、のちに日本最初の百科辞書『古事類苑』の編輯長をつとめた国学者で、当時は文部省に所属していました。稲垣千頴は平田派の国学者でしたから、明治時代の国学者ふたりが「蛍の光」の作詞に関わったことになります。
画像資料 明治初期の卒業証書
明治初期の尋常小学校の卒業証書の写真です。当時は、現在のように同年齢の児童が同一教室で学ぶという年限主義はとられておらず、ひとつひとつの課程が修了するごとに試験を受け終了してゆく課程主義がとられていました。ですから、卒業証書も一年に二枚もらうわけです。東京府下谷区練塀(ねりべい)小学校というのは、現在のヨドバシAkibaあたりにあった小学校です。現在は千代田区ですが、当時は下谷区(現在の台東区)に属していました。明治12年は前期が4月16日後期が10月13日に終了。明治20年ごろまでは小学校も秋入学でした。おもしろいのは、明治13年は10月14日、明治14年は11月10日に後期が終了していること。3年間で一ヶ月後ろにずれていることになるわけです。この時代は、学校暦においてもいろいろな試行錯誤が行われていたわけですね。当時は、第六級が新入生、年を追うごとに第五級、第四級となります。もちろん、半年に一度の卒業式で「蛍の光」が歌われるはずはありません。ではどうしてこの最初の「卒業」の歌ができたのでしょうか?
ぎょうせい 2012
版元品切れ
【共著】
メディアイランド 2018
Amazon品切れ
解説
キングレコード 2014
Amazon品切れ
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