山口県の山間で野生のまま奔放に育った真弓は、父が音楽家だった事に影響を受け、自らも声楽家への道を志す。広島市でエリザベト音楽大学を卒業後、ヤマハ音楽教室の講師となり26歳で結婚を機に拠点を滋賀県に移す。滋賀で指導者として頭角を表した真弓は、保護者に熱望され仲間とともに湖南(のちに削除)少年少女合唱団「星の子」を立ち上げる。真弓の活躍は留まる事を知らず、その後女声合唱団や男性グリーの創設に関わるが、1994年声楽家としての腕を上げるため、夫や子供達を残して単身イタリアへ留学。イタリアでは、ペラガッティ氏に師事し、その後も度々渡伊し、ディプロマ取得。日本では、木川田温子氏に師事して数々のコンクールを荒らし、リサイタルを行うなど声楽家として開花した。一方、指揮者としては故・吉村信良氏に師事し、穂積コールシュクレ、能登川コールシャンテを率いて全国おかあさんコーラス全国大会に出場。押しも押されもせぬ第一級の指導者となった。最近ではボイストレーナーとしても引っ張りだこ。大らかで楽しい、それでいて的確なレッスンが好評。しかし創設から現在まで指導を続けているのは「星の子」ただ一つである。プライベートでは飽くなきダイエットファイター。待望の孫の写真をみるため遂にスマホを持った。
星の子との出会いは1988年。(だと思う。昔すぎて計算に自信なし。)当時勤めていたヤマハ音楽教室の友達の紹介で軽い気持ちで引き受ける。時代もバブルに差し掛かった頃、若くてオシャレや遊びばかりに心奪われていたひらめは音楽に対して不真面目でピアノの腕もひどいもの。何度も矢守先生を怒らせて、辞めさせられそうになる不良先生であった。真面目に音楽に取り組むようになったのは、仲間と演奏活動を始めたころ、ソナタを全楽章演奏するなど一人で長時間を任され、お客様から入場料を頂くことになり、そこで初めて「これではいかん!」と奮起。練習に明け暮れる。その頃、星の子も全国大会で東京に行く機会を頂き、全国で恥ずかしくない演奏を、と矢守先生からも熱いご指導を頂く。この頃より矢守先生に一生ついていこう!と決意!?し、その後は金魚のフンのように付きまとう。少しづつ自信がついていくと色々な合唱団、歌い手、指揮者と出会う機会も増えた。野洲グリークラブでは男声合唱団の迫力に圧倒され、度々の飲み会でビールの味を覚える。穂積コールシュクレでは故・吉村信良氏の指揮で弾く緊張と興奮を経験。草津市合唱連盟で作られた合唱団では姉妹都市ミシガン州で演奏し海外での演奏に感激した。合唱団AUGでは混声合唱を経験。女性コーラス 「あか色が好き」では個性的なパフォーマンスを生み出すメンバーの感性に影響を受けている。さまざまな合唱団から学んだことを生かして星の子ではピアニストに留まらず、指揮や振り付け、ステージ演出などを手掛けている。ピアノを南千勢子氏、伴奏を伊吹元子氏に師事。ひらめ、は高校時代からのニックネームで、じゃりんこチエに由来。
自らをアンサンブリストと称する渚奈子の原点は星の子。星の子との出会いは4歳の時、母である真弓に連れられて言っていた頃より、密かに憧れを抱き、小学校入学と同時に入団。学校とは一味違う集団に心地よさを感じ、その中に自分の居場所を見つける。特に夏休みの合宿、遠征、演奏会の楽屋など、みんなでワイワイさわいだ楽しさは思い出深い。年上のお姉さんに憧れている時代を経て自分たちが年上の立場になった時には「私らが主役の時代が来た!」が血が騒いだという。そんな中、本格的に歌の技術を高めたいという思いが強くなり高校は石山高校音楽科へ進む。そこからは声楽家への道をまっしぐら。同志社女子大学学芸学部音楽学科卒業。残念ながら星の子からは遠ざかり、武者修行ともいえる道を歩む。20歳の頃、ジャパンユースクワイアに合格すると全国各地を駆け回るようになり、アジアユースにも参加。近年星の子に指導者として舞い戻り子供たちの憧れとして君臨している。エリザベト音楽大学付属室内合唱団 エリザベトシンガーズ正団員。その他グループでの演奏活動にも精力的でハモれるところならどこにでもいく位の気概を持つ。声楽を木川田温子氏、指揮法を松原千振氏に師事。