堀家には出自を遡る家系図が現段階では存在が確認できず、先々代真一が作成した略系図のみの存在が把握されている。
仏壇の抽斗の中に残されている過去帳と真一作成の略系図を照らし合わせると、古い時代の先祖に関しては過去帳に基づいて略系図が作られたと判断できる。
過去帳からは、初めに天和2年〈1682〉没の法号寿閑とその妻で貞享2年〈1685〉没の法号貞閑が記載されている。
真一作成の略系図ではこの夫婦を堀家初代としている。それに続いてともに元禄16年〈1703〉を没年とする法号清閑妙閑夫妻を記載されている。
この後に三代目とされている法号敬秀(享保19年〈1734〉没)と妙林(元禄9年〈1696〉没)が記載されている。
過去帳の冒頭部分を念入りに見ると、そのあとの四代法号敬順(延享2年〈1745〉没)と貞順(明和4年〈1767〉没)までが同じ筆跡と思われるが、四代の妻貞順の没年は明らかに別人の筆跡であることがわかる。
また、初代から三代までは同時期に記載されたように思われ、初代夫婦にしても普通は余白とされる部分に記載があるので二代三代よりあとに同じ筆者により加筆された可能性も窺える。
それで想起されるのは、この過去帳は四代法号敬順の初代彦左衛門(通称)諱(いみな、本名)延元(のぶもと)の時代に作られたのではないのか?
延元が死期を悟り生前に夫婦で法号を頂き、その時に父母と祖父母の法号も記載した過去帳の制作を寺院に依頼したもので、制作後すぐに曽祖父母の没年も判明したので、法号とともに冒頭の本来余白にする部分に同じ僧侶に加筆して貰ったのではないのか?
また過去帳の裏面には、四代妻貞順の没年を記した同筆と思われる筆跡で、三代四代の俗名等が記載されている。
龍野歴史文化資料館の図録「庄屋の生活」に八木哲浩先生が堀家の家系に触れており、その中で文化5年(1808)の堀家資料に「彦左衛門倅(せがれ)新右衛門」の記載を根拠として明暦元年(1655)から享保元年(1716)に日飼村庄屋を勤めた新右衛門も堀家の当主と推定している。
それを図録「豪農に伝来する絵画」でも踏襲している。もしそれが正しいとするのなら、系図の初代から三代の寿閑貞閑敬秀の年代に該当する。
それなら1767年に没した四代妻貞順の没年を記した筆者が、過去帳の裏面に三代四代の俗名を記載するときに、50年から100年前に庄屋をしていた新右衛門が堀家のその頃の当主であることを把握して、二代か三代の俗名を新右衛門と記載したと考える。
堀家の主屋が明和4年(1767)に竣工したことからも、堀家が豪農と言われるほど資産を所有するようになったのは、系図の四代目である初代彦左衛門延元(のぶもと)からではないのか?
過去帳は系図で4代目の延元の時に制作されたように思われ、広大な堀家墓地にも延元夫妻の墓石から残されている。
堀家に残された膨大な古文書も、日飼村文書と言うべき内容のものは江戸時代初期からを含むが、堀家文書と言うべきは殆どが五代延祐(のぶすけ)からであることからも、堀家が財を成して庄屋を勤めるほどに成ったのは1700年代に入ってからと考えるべきである。
もう一つ重要なのは、堀家の仏間に祀られる「御親像」の存在である。7代当主惟賢が描いた4代延元(のぶもと)5代延祐(のぶすけ)6代延政(のぶまさ)の肖像画である。
惟賢の生年から判断して、祖父延祐の顔すら記憶にないはずである。顔を知らない祖父曽祖父の肖像画を描いて、父の肖像画と合わせて「御親像」としたのなら、堀家の祖である初代寿閑を描かなかったのは何故なのか?
それは、堀家に本格的に富をもたらしたのは4代延元からと惟賢も認識していたからではないか。
また、堀家当主の通称である彦左衛門の初代が延元からおもわれるのもそれを物語るのではないのか?
決定的な学術的根拠は、堀家が御徒格として士分に取り立てられた時に一橋家の役所に提出した「親類書」に「寛政年間より御用金に応じ」という記載がある。
1789年に始まる寛政年間は6代延政の時代からとなる。4代延元5代延祐の頃には積極的に富の集積を行い、それが安定し御用金に応じられるようになったのが寛政年間と判断出来るのではないか。
さてそうなると系図と過去帳の初代から三代までの扱いがどうなるのか?
この三代の敬秀の重左衛門以外は俗名も伝わらず、経歴は現段階ではほぼ不明としなければならないが過去帳に没時の年月日の記載があるので実在の人物なのは確実としなければならない。
堀家の富の蓄積が始まったのはいつ頃からなのか?堀家には富の蓄積に至る伝承は殆ど伝わっていないが、延元の代に急激に富が蓄積されたのであれば延元を初代とするはずと思われる。
それを延元までに3代の祖を置くのは寿閑、清閑、重左エ門敬秀も富の蓄積に拘わったと考えるべき。
堀家文書のリストには元禄期からの膨大な田畑の売買証文の存在が確認できる。これらの売買証文からは2代清閑から田畑を増やしていったと考えられる。
堀家文書に含まれる日飼村文書と言うべき古い検地帳により、4代延元以前の堀家所有の田畑の面積が把握できるかもわからないが、残念ながら初代2代は法号以外は伝わらず俗名が不明のため、古い検地帳で堀家の先祖を特定するのが難しい。
田畑の売買証文と同じくたつの市へ寄託の堀家文書には堀家の公私に渉る日々の出来事を記載した「万日記」(よろずにっき)「万覚帳」(よろずおぼえちょう)が膨大に残されているがこれらに関しては延享4年(1747)以降しか存在しない。
田畑の売買証文や「万日記」「万覚帳」は、廃棄されずに代々継承されるものと思われるが、延享以前のものが存在しないのは堀家が日々の出来事を記録しなければいかないほどの家では無かったと言うことでは無いのか?
しかし、堀家文書の大多数が延享以降しか残されていないのはちょうどこのころから始まった主屋の普請で襖の制作に膨大な下貼りの紙が必要で堀家の文書が使用されて残されていないことも否めないために一概に古い時代の古文書の不存在を根拠にそれまでは堀家の家格が低かったとも言い切れない点も留意しなければならない。
それでも、堀家に立派な「家譜」や「系図」残されていないことは謎である。
堀家の権勢と財力をもってすればそれらの制作は容易なことであったと思われる。惟賢か謙治郎がその気に成れば体裁の整った素晴らしい「家譜」が作れたはずなのにそれをしなかったのが不可解。
出自や家系に「こだわり」が無かったのかと言うとそうでもなさそうである。それを物語るものに御徒格として士分に取り立てられた時に一橋家に提出した「親類書」(しんるいがき)を見ると、当時安志藩領であった宍粟北部の村の庄屋であった安積家と二代続けて婚姻関係を結んでいる。
安積家は江戸時代の初めに幕府から鎌倉時代から続く名族として百姓でありながら身分だけは武士の扱いを受ける「郷士」とされた家で実際には集落の庄屋でありながら同じ庄屋層とは婚姻関係を結ばずに播磨地域の小藩の藩士の家と結んでいたようで、堀家の「親類書」には安積家との婚姻により姻戚となった播磨地域の小藩の藩士の名前が多く記載されている。
安積家との婚姻は堀家の家格の上昇に依ってそれに相応しい家として安積家を選んだのは間違いないが、それだけでなく百姓町人身分である他の豪農豪商を選ばずに安積家としたのは郷士の身分で士分に姻戚が多いことが要因だったのではないか。
堀家では堀を姓とした経緯が伝わらないが、財をなす前から堀の姓であったと思われる。
明治以前は武士以外は姓を持たなかったとするのは俗説で、実際には公式には名乗れなかっただけで多くの庶民は姓を持っていた。
堀と言う姓は全国的に存在するし播磨地域にも昔から堀姓の家は多い。堀家の姓がなぜ堀なのか?
中世の赤松家の家臣にも堀姓が存在するので、堀家の家紋「向蝶」を手掛かりに日飼以外の播磨地域に古くから住む堀家との拘わりを見出すことが出来るかもしれない。
周辺の庄屋層で出自を誇る系図や始祖を、帰農した赤松遺臣とする家が多くあるが、それらは江戸時代のごく初期から集落の支配層であったために虚構の家譜でも信じ込ませることが出来たが、堀家の場合は富を築くのがそれらの家よりも後の時代なので、虚構の家譜の作成は意味のないことと歴代の当主は把握していたので、堀家の出自と家系は子孫に伝えるほどのことでは無いと、敢えて伝えなかったのではないのか?
国指定重要文化財堀家住宅を説明するうえで建築物の説明だけでなく堀家の歴史と屋敷を広げ建物を増やしそれを維持してきた堀家歴代の人々の経歴の紹介も必要だが、現段階では4代延元以前のことは殆ど不明であり綿密な調査をもってしても判明することは殆ど無いと思われる。
過去帳の存在とその記載を根拠として寿閑貞閑夫妻を初代としてその没年から判断して堀家の歴史は400年とするも「初代から3代までの詳細は伝わらず」とするべきであろう。
前嶋第誓 著
堀家の家系の考察で、系図の初代から三代までの事績は殆ど伝わっておらず、堀家が資産を築く草創期のことは不明と言わざるを得ない。
何か大きなきっかけで富を築いたのなら、当然何らかの形で堀家に伝承されていなければならないが、それも無いと言うことは堀家の草創期の数代が堅実に資産の蓄積をはかったことが子孫の繁栄に繋がったと思われる。
豊臣政権の太閤検地で中世の土地所有制度が否定され、江戸時代の初めの本格的な検地で耕作する農民の土地所有が明確にされた。
ただ、全てもの農民が平等に農地の分配を受けたのではなく、従来の既得権によって貧富の差は存在した。
当時の社会基盤は、農民から年貢の徴収によって成り立っていたと言っても過言でなく、武士階級の生活の基盤である年貢の徴収は徹底していた。
一般的な年貢の税率は、その年の取れ高で増減される検見法と豊凶に関係なく、毎年同じ量を納める定免法であったと言われている。
定免法の適用を受けていると、豊作の時に農民は潤うが凶作の時は困窮を極めることとなる。
検見法であっても最低限の年貢は徴収しないと、武士階級の生活基盤が成り立たなくなる。
そのため数年おきに起こる凶作の時は、収穫が皆無か収穫出来ても年貢として納める量にも満たないということが頻繁に起こった。
貢納は絶対の義務であり免れることが出来ないので、不足分は農地を売り払うか抵当に入れて補わないといけなかった。
その繰り返しで、比較的裕福であった農民に困窮した農民の土地が集まるようになった。
数代にわたり実直に資産を増やしていた堀家に凶作のたびに困窮した農民の土地が集まり、堀家四代延元の時代には豪農と言われるほどの地主になっていたようである。
現在の堀家の主屋の普請に取り掛かったのも四代延元の晩年のことであり、堀家当主の通称である彦左衛門を確実に名乗ったのもこの人からと思われる。
その後も歴代の当主により資産が増やされて行ったのは言うまでもないが、その要因の一つに、龍野藩領から一橋家領に領主が替わったことも考えられる。
堀家四代延元が没した直後の延享4年(1747)、揖東郡6ヵ村が、それまでの龍野藩脇坂家の領地から将軍連枝により創設された一橋家領とされた。
(一橋家領とされた揖東郡6ヵ村は、日飼、島田、中村、小宅北、佐野、下野田)
一橋家は幕藩体制が確立された18世紀中ごろの創設のために纏まった領地をあてがうことが出来ず、散らばった地域で10万石が一橋家領とされたが「藩」として藩政機能が存在したわけでなく、10万石の領地の支配が、一橋家付とされた幕臣によって構成された一橋家の家政機関に委ねられたのであって、江戸幕府の直轄地(天領、幕府領)と支配体制は変わらなかった。
龍野藩を例にとると年貢の収納は、年貢の納入日には藩士が集落まで出向き、立ち合いのもとで決められた地点に納め終わるまで監視を受けた。
しかし、幕府領では指定された蔵屋敷等へ納入するまでは庄屋等の村役人の責任で行われて、規定の年貢おさめるだけで監視を受けることは無かった。
年貢の納入だけでなく、大名領と比べて大幅な自治が認められて、比較的自由に活動が出来たようであった。
また、幕藩体制下では領主の違う地域の揉め事が解決できないときは、幕府の代官所若しくは奉行所に仲裁を仰ぐことが例とされており、それぞれの領主の力関係で裁定が大きく左右された。ましてや一橋家領と他領では、一橋家領の方が確実に有利であったと思われる。
従来は堀家を「大庄屋」と認識されていた向きもあったが、脇坂家領から一橋家領にされた時に六ヵ村の庄屋が連名で「大庄屋」の設置を行わないように嘆願書を提出して「大庄屋」は置かれなかったので、堀家は大庄屋では無かったが、一部の古文書に堀家が「取纏庄屋」と記載されているので、実質的に堀家は「大庄屋」のような存在で、その権勢は大きく、自由で活発な経済活動が出来た筈であった。
堅実に農地を増やし、着実に収入が増えた堀家では、余剰資産で活発な商品取引を行い、資産は増える一方となった。
現在の重厚な主屋が竣工したのは瓦銘から、四代延元が普請を思い立った20年後の明和4年(1767)である。
しかし、現在見ることが出来る豪壮な主屋は、幾度もの増築を経て現在の姿になっており、本来の主屋はその当時の周辺地域の庄屋の主屋建築と規模はそれほど変わらない。
主屋以外の建物の建築年代は殆どが19世紀前半のものである。
また、従来は建物だけに重点を置いた研究がされてきたが、最近の古文書の再調査で堀家の現在の広大な敷地は19世紀前半の他の建物の普請の時に数度にわたり広げられ、現在の広さになったことがわかる。
よって、堀家が周囲に比類なき豪農大地主となったのは19世紀初頭のことであろう。
時期を同じくして、経済の発展とともに一定の年貢収入しかない支配階級の武士層の経済的な困窮に拍車がかかるようになるが、年貢の増徴には限度があり、領内の富裕層に御用金や上納金を命じるようになるが、それにも限界があり、融資先を幕府領の富裕層に求めるようになる。
実質は幕府領である一橋家領の堀家も、周辺諸藩から融資を求められるようになる。
山崎藩はその顕著な例で、堀家に残された古文書から莫大な融資残高が存在して、毎年利息代わりの扶持米が、山崎から高瀬舟で堀家の米蔵に運ばれたことがわかる。
度重なる融資の申入れに返済の限界を見抜いた堀家では、山崎藩本多家が長州征伐に出陣するときに求められた融資には、出陣する山崎藩主への餞別名目で150両を渡している。
山崎藩の場合は藩だけでなく、藩士の多くも堀家に個人的な融資を依頼していた。
自藩の富裕層に融資を求めることが憚られる山崎藩士にとって、堀家は都合の良い借入先とされていたようである。
藩債に関しては、明治以降に新政府に引き継がれ、元本は名目的に償還されたが、多くの山崎藩士への個人的な融資残高はどうなったのか?
百姓町人であれば不動産の抵当で融資を受け、返済が滞ればそれで清算が出来た。また当時は「年季奉公」と言う名目で、労働力で返済させることも出来た。しかし相手が武士となると、多分信用貸しであり、堀家ではその清算をどのように片付けたのかが気になるところであり、今後解明して行きたい。
堀家は、山崎藩のみならず龍野藩にも相当な金額を融資しており、見返りに扶持米を支給されていた。
龍野藩の場合も廃藩直前の融資の申入れに対して返済の見込みが無いことを悟ったのか、堀家では「300両上納」で終わらせている。
周辺諸藩のみならず一橋家からも御用金上納金を度々命ぜられた堀家では、蓄積された資産から頻繁に応じており、一橋家から苗字帯刀を許され、ご褒美を度々頂戴し、扶持米の支給を受けていた。
堀家では判明しているだけでも、領主である一橋家のみならず龍野藩や山崎藩からも扶持米を受けていたこととなる。
幕末期の御用金上納金に関しては、武士階級の領主の徴税権は絶対であり、この時期にはどこの集落も規模に応じて上納金・御用金を命ぜられた。
堀家のような豪農が存在する集落では、富裕層で引き受けて応じることが出来たが、富裕層の存在しない集落では御用金上納金に応じることが出来ず、周辺の集落の豪農や商家に融資を受け、何とか命ぜられた金額を納めていた。
堀家には、農地改革まで、周辺地域だけでなく、遠隔地に纏まった農地所有が何か所も存在した。それは、その集落が領主から命ぜられた上納金の為の融資を堀家に求め、その農地を抵当として差し出すが、御用金が自前で用意できない集落に返済する余地もなく、最終的に広大な農地が堀家の所有に移ることとなったからである。
一橋家の堀家への経済的な依存度は大きくなり、年貢米も名目的に収納し、堀家に年貢米売り払い御用を命じて相当額を金納させている。
売り払いを命ぜられた年貢米も、実際には堀家が公定価格で買い取り、転売して利ザヤが稼げた。
また、当時播磨地域で盛んに行われていた木綿栽培を、専売制として利ザヤを得ようとした一橋家では、潤沢な資産を保有する堀家に日飼会所を設けて手形決済等の公金の取り扱いも命じた。
度重なる貢献で苗字帯刀を末代まで許され、百姓身分では最高の待遇を受けていたが、一橋家では最終的に堀家を士分に取り立てている。
それまでは「一橋大納言様御料日飼村庄屋堀彦左衛門」と名乗っていた堀家当主が、「一橋家堀甚三郎」と名乗るようになり武士としての待遇と扱いを受けた。
堀家四代当主延元以降の歴代の当主が蓄積された潤沢な資産を活用しながら時流を上手く乗り切ったと言うことだが、経済活動だけでなく潤沢な資産を後ろ盾に、文化面の造詣も深く、七代当主惟賢は播磨地域有数の文化人となり、多くの文人墨客のパトロン的存在として西播磨地域の文化の向上に大きく貢献したことは確かである。
その様なことで堀家の資産形成の経緯は草創期は不明ながら、歴代当主が堅実に資産を増やしてゆき、余剰資産を上手く活用して潤沢な資産形成を行い、時流を上手く乗り切ったと言うことである。
その勢いで七代惟賢、八代甚三郎が明治維新の激動を上手く乗り切って行く。
前嶋第誓 著
脇坂家領から一橋家領に領主が替わった江戸時代中期頃から堀家の経済活動は活発の一途を辿り莫大な資産を保有していた。
それにより、領主である一橋家のみならず、龍野藩や山崎藩等へも融資を行い、利息代わりに膨大な扶持米を得ていた。
幕末期の黒船来航に伴う沿岸警備や長州征伐等で、莫大な支出を強いられた諸藩から融資の要請にも、潤沢な資産から応じていた堀家であったが、明治維新に伴い、版籍奉還廃藩置県によって新政府の強権で終止符がうたれた。
旧藩時代の債務は新政府が引き継ぐが、一方的な整理のために堀家も大打撃を受けたと思われる。
一定の基準で債権と認定された金額は、無金利50年賦とされて公債証書を下付された。
現段階ではこの時の公債額面の総額は不明ながら、明治初期の近代化政策に伴い設立されて行く銀行や会社の資本金として活用されて行く。
当時の堀家の資産の全貌は現段階ではよくわからないが、廃藩置県で各藩への債権を整理されて大打撃を受けた筈であるが、堀家では、まだ莫大な現金を保有していたようである。
明治10年代頃の堀家の「貸付帳」を見ると、毎月諸方に高額な貸し付けを行っており、龍野に設立された最初の銀行である資本金5万円の第九十四国立銀行にも3000円の貸し付けを行っている。
幕末から明治維新の混乱期の堀家では隠居の七代惟賢と養嗣子の八代甚三郎で困難な状況を乗り切って資産を守った手腕の詳細も今後明らかに出来ればと思う。
明治6年(1873)に明治の近代化政策の一環として「地租改正」が全国で行われて土地の所有権が確立され、堀家では膨大な土地の所有権が確定された。一筆ごとの地券が発行され、堀家には山積みされた地券が残されている。
堀家は遠隔地にもまとまった農地を所有していたが、それは幕末の混乱期に、領主からの上納金に応じるために農地を抵当にして堀家から融資を受けていた所であり、返済が滞っている地域の農地は融資の時の証文を根拠とし、堀家の所有として地券が発行された。
七代惟賢と八代甚三郎が幕末維新の動乱期に守り抜いた堀家の資産を引き継いだ九代謙治郎は、実弟豊彦と協力して活発な経済活動を行った。
明治22年(1889)に憲法が発布されて議会制度が確立され、翌年の明治23年(1890)には第一回帝国議会が開催された。謙治郎は兵庫県下の8番目の高額納税者として貴族院の多額納税者議員の選挙権を与えられ、当時の兵庫県庁で行われた互選会で一票を投じている。
この貴族院多額納税者議員の選挙権は、貴族院廃止まで十代真一が有していたようである。
当時堀家が関わった代表的な企業は、堀倉庫、兵庫県農工銀行、龍野醬油株式会社、龍野電気鉄道、網干銀行、堀銀行等があり、さらに経営権を持たない投資先は数多に及び、北九州の地方鉄道にまで投資をしていたことがわかった。
堀家では九代当主謙治郎が莫大な資産を運用する実務面を担い、実弟豊彦を県会議員衆議院議員として表舞台に立たせている。
この当時の堀家の特筆すべき事績として龍野醬油株式会社の設立である。会社組織にされたのは明治31年(1898)で、公刊された揖保郡地誌によると、資本金10万円で龍野を代表する醤油醸造会社であった。
たつの市龍野町富永地区の通称「上富」と言われる地域に、広大な醤油蔵群が並んでいるのが古い絵葉書で確認出来る。それが龍野醬油株式会社であり現在も門柱が放置状態で残され、僅かに痕跡を残している。
この龍野醬油株式会社の経営権は、大正時代に真一によって浅井醬油合名会社に譲渡されるが個人資産の敷地はその後も長らく堀家が所有していた。
龍野を代表する産業である醬油醸造業の近代化に堀家が大貢献したことは、紛れもない事実である。
その様なことで従来は豪農とされていた堀家であるが、明治時代には経済活動を活発に行っている「地方財閥」の位置づけでも過言では無いと思われる。
明治以降の堀家に関してはほぼ未調査である。詳細は今後の解明となるが、資産を増やすことのみでなく公益に寄与したことは断片的な資料から多数確認できる。
謙治郎は、明治20年に制定された旧制度の銀製黄綬褒章を授与されている。
これは「防海事業」へ千円以上献金した者に授与されたもので、全国で600人余りが授与された。「防海事業」とは沿岸防衛の軍事施設の充実をはかるための献金であった。
堀家では、当主謙次郎が家格に相応しい金額として2,000円を献金した。
時代は下り大正7年(1918)のことだが、燎原の火の如く全国規模で広がった米騒動が龍野周辺でも不穏な動きとなり、堀家ではすぐさま米蔵を開いて当時の小宅村役場に提供して、困窮者に廉価で販売させた。
そのために大きな騒ぎにはならなかったが、この時の米の売却損の約千円は、堀家からの寄付と言うことで処理された。
大正11年には当時の宮内省から堀家に新嘗祭の献穀を命ぜられた。
先年の9代謙治郎の急逝でまだ20代の独身であった10代当主真一には荷が重かったであろうが、存命の叔父豊彦の後見を得て見事に重任を果たしたようである。
これは過去帳から遡れる堀家400年で最大の栄誉であった。
また最近の調査で、旧龍野藩主であった脇坂家と堀家は頻繁に交際があったことがわかる。
堀家に残された古い写真に、旧脇坂子爵邸で行われた旧臣会に真一も招かれて、旧臣たちに遠慮してか、後ろのほうに立つ姿が映されている。
堀家と龍野藩主脇坂家とは、旧幕時代は身分に大きな隔たりがあったが、明治中期以降は、堀家は多額納税者として貴族院議員の互選権を有し、脇坂家は貴族院子爵議員の互選権を有し、当時の揖保郡在住者で貴族院議員の有資格者は脇坂家と堀家だけであり、脇坂家と堀家は家格が対等として付き合われていたのではないかと思う。
堀家に龍野電気鉄道と姫新線の大型の図面が残されている。
その図面と堀家の所有地を記した地図を重ねると、堀家の所有地の多くが軌道にされたことがわかる。
これは従来はあまり取り上げられなかったが、龍野電気鉄道(播電鉄道)が龍野橋を渡らずに当時の小宅村を縦断しており、姫新線が当初の計画を変更して大きくカーブして本竜野駅が作られたのも堀家の積極的な動きがあったからと思われる。
謙治郎が急逝して若くして当主になった真一は、堀家が保有していた数多の企業の経営権を手放している。
昭和3年(1928)時点の真一の肩書は多額納税者、農業の他は堀銀行が他行と合併して出来た龍野銀行の取締役のみである。
明治時代に積極的に経済活動を行っていた堀家だが、豊彦の政治資金の関連もあってか翳りが出てきたようである。
残された真一の資料の中に、大正時代に堀家の個人資産を抵当として住友銀行から堀銀行が融資を受けた時の手形が大量に存在している。
これは堀銀行の当座現金が不足した時、借り入れを頻繁に行っていたようである。
明治20年頃の残された資料から、謙治郎の個人所得は7,000円程だったようである。
それが昭和13年(1937)の真一の収支帳では、その年の米の売却益が約7,000円である。米の売却益以外にも地代収入や配当で、真一の個人所得は10,000円を越していたと思われる。
単純に金額で比較すると所得に大きな変化のある内容だが、明治20年頃と昭和10年代では貨幣価値が全く違うため、堀家の資産は額面では変わらなくても実質的な価値は大きく目減りしていたと考えられる。
謙治郎の急逝で若くして当主となった真一は、潤沢な資産をリスクを冒してまで増やさなくても良いと堅実な考えで、リスクのある経済活動から撤退したのではないかと考えられる。
堀家の所有農地は約50町歩と言われている。真一はその広大な農地から入る小作米と農地以外の所有地の地代や配当で、家屋敷と体面を維持できる生活が出来るという堅実路線を選んだが、戦後の農地改革で一気に瓦解してしまう。
それでもなお真一は龍野の名士とされ、大きく減少した資産の中からでも余剰があれば公益に貢献することを怠らなかった。それで真一は「龍野市功労者」として顕彰されている。
従来から堀家は、豪壮な家屋敷と広大な農地を所有した大地主であった事だけが語られたが、堀家が龍野と周辺地域の経済の近代化に大きく貢献し、公益に尽くすことも熱心であったことを明らかにしてゆきたい。
前嶋第誓 著