堀家には出自を遡る家系図が現段階では存在が確認できず、先々代真一が作成した略系図のみの存在が把握されている。
仏壇の抽斗の中に残されている過去帳と真一作成の略系図を照らし合わせると、古い時代の先祖に関しては過去帳に基づいて略系図が作られたと判断できる。
過去帳からは、初めに天和2年〈1682〉没の法号寿閑とその妻で貞享2年〈1685〉没の法号貞閑が記載されている。
真一作成の略系図ではこの夫婦を堀家初代としている。それに続いてともに元禄16年〈1703〉を没年とする法号清閑妙閑夫妻を記載されている。
この後に三代目とされている法号敬秀(享保19年〈1734〉没)と妙林(元禄9年〈1696〉没)が記載されている。
過去帳の冒頭部分を念入りに見ると、そのあとの四代法号敬順(延享2年〈1745〉没)と貞順(明和4年〈1767〉没)までが同じ筆跡と思われるが、四代の妻貞順の没年は明らかに別人の筆跡であることがわかる。
また、初代から三代までは同時期に記載されたように思われ、初代夫婦にしても普通は余白とされる部分に記載があるので二代三代よりあとに同じ筆者により加筆された可能性も窺える。
それで想起されるのは、この過去帳は四代法号敬順の初代彦左衛門(通称)諱(いみな、本名)延元(のぶもと)の時代に作られたのではないのか?
延元が死期を悟り生前に夫婦で法号を頂き、その時に父母と祖父母の法号も記載した過去帳の制作を寺院に依頼したもので、制作後すぐに曽祖父母の没年も判明したので、法号とともに冒頭の本来余白にする部分に同じ僧侶に加筆して貰ったのではないのか?
また過去帳の裏面には、四代妻貞順の没年を記した同筆と思われる筆跡で、三代四代の俗名等が記載されている。
龍野歴史文化資料館の図録「庄屋の生活」に八木哲浩先生が堀家の家系に触れており、その中で文化5年(1808)の堀家資料に「彦左衛門倅(せがれ)新右衛門」の記載を根拠として明暦元年(1655)から享保元年(1716)に日飼村庄屋を勤めた新右衛門も堀家の当主と推定している。
それを図録「豪農に伝来する絵画」でも踏襲している。もしそれが正しいとするのなら、系図の初代から三代の寿閑貞閑敬秀の年代に該当する。
それなら1767年に没した四代妻貞順の没年を記した筆者が、過去帳の裏面に三代四代の俗名を記載するときに、50年から100年前に庄屋をしていた新右衛門が堀家のその頃の当主であることを把握して、二代か三代の俗名を新右衛門と記載したと考える。
堀家の主屋が明和4年(1767)に竣工したことからも、堀家が豪農と言われるほど資産を所有するようになったのは、系図の四代目である初代彦左衛門延元(のぶもと)からではないのか?
過去帳は系図で4代目の延元の時に制作されたように思われ、広大な堀家墓地にも延元夫妻の墓石から残されている。
堀家に残された膨大な古文書も、日飼村文書と言うべき内容のものは江戸時代初期からを含むが、堀家文書と言うべきは殆どが五代延祐(のぶすけ)からであることからも、堀家が財を成して庄屋を勤めるほどに成ったのは1700年代に入ってからと考えるべきである。
もう一つ重要なのは、堀家の仏間に祀られる「御親像」の存在である。7代当主惟賢が描いた4代延元(のぶもと)5代延祐(のぶすけ)6代延政(のぶまさ)の肖像画である。
惟賢の生年から判断して、祖父延祐の顔すら記憶にないはずである。顔を知らない祖父曽祖父の肖像画を描いて、父の肖像画と合わせて「御親像」としたのなら、堀家の祖である初代寿閑を描かなかったのは何故なのか?
それは、堀家に本格的に富をもたらしたのは4代延元からと惟賢も認識していたからではないか。
また、堀家当主の通称である彦左衛門の初代が延元からおもわれるのもそれを物語るのではないのか?
決定的な学術的根拠は、堀家が御徒格として士分に取り立てられた時に一橋家の役所に提出した「親類書」に「寛政年間より御用金に応じ」という記載がある。
1789年に始まる寛政年間は6代延政の時代からとなる。4代延元5代延祐の頃には積極的に富の集積を行い、それが安定し御用金に応じられるようになったのが寛政年間と判断出来るのではないか。
さてそうなると系図と過去帳の初代から三代までの扱いがどうなるのか?
この三代の敬秀の重左衛門以外は俗名も伝わらず、経歴は現段階ではほぼ不明としなければならないが過去帳に没時の年月日の記載があるので実在の人物なのは確実としなければならない。
堀家の富の蓄積が始まったのはいつ頃からなのか?堀家には富の蓄積に至る伝承は殆ど伝わっていないが、延元の代に急激に富が蓄積されたのであれば延元を初代とするはずと思われる。
それを延元までに3代の祖を置くのは寿閑、清閑、重左エ門敬秀も富の蓄積に拘わったと考えるべき。
堀家文書のリストには元禄期からの膨大な田畑の売買証文の存在が確認できる。これらの売買証文からは2代清閑から田畑を増やしていったと考えられる。
堀家文書に含まれる日飼村文書と言うべき古い検地帳により、4代延元以前の堀家所有の田畑の面積が把握できるかもわからないが、残念ながら初代2代は法号以外は伝わらず俗名が不明のため、古い検地帳で堀家の先祖を特定するのが難しい。
田畑の売買証文と同じくたつの市へ寄託の堀家文書には堀家の公私に渉る日々の出来事を記載した「万日記」(よろずにっき)「万覚帳」(よろずおぼえちょう)が膨大に残されているがこれらに関しては延享4年(1747)以降しか存在しない。
田畑の売買証文や「万日記」「万覚帳」は、廃棄されずに代々継承されるものと思われるが、延享以前のものが存在しないのは堀家が日々の出来事を記録しなければいかないほどの家では無かったと言うことでは無いのか?
しかし、堀家文書の大多数が延享以降しか残されていないのはちょうどこのころから始まった主屋の普請で襖の制作に膨大な下貼りの紙が必要で堀家の文書が使用されて残されていないことも否めないために一概に古い時代の古文書の不存在を根拠にそれまでは堀家の家格が低かったとも言い切れない点も留意しなければならない。
それでも、堀家に立派な「家譜」や「系図」残されていないことは謎である。
堀家の権勢と財力をもってすればそれらの制作は容易なことであったと思われる。惟賢か謙治郎がその気に成れば体裁の整った素晴らしい「家譜」が作れたはずなのにそれをしなかったのが不可解。
出自や家系に「こだわり」が無かったのかと言うとそうでもなさそうである。それを物語るものに御徒格として士分に取り立てられた時に一橋家に提出した「親類書」(しんるいがき)を見ると、当時安志藩領であった宍粟北部の村の庄屋であった安積家と二代続けて婚姻関係を結んでいる。
安積家は江戸時代の初めに幕府から鎌倉時代から続く名族として百姓でありながら身分だけは武士の扱いを受ける「郷士」とされた家で実際には集落の庄屋でありながら同じ庄屋層とは婚姻関係を結ばずに播磨地域の小藩の藩士の家と結んでいたようで、堀家の「親類書」には安積家との婚姻により姻戚となった播磨地域の小藩の藩士の名前が多く記載されている。
安積家との婚姻は堀家の家格の上昇に依ってそれに相応しい家として安積家を選んだのは間違いないが、それだけでなく百姓町人身分である他の豪農豪商を選ばずに安積家としたのは郷士の身分で士分に姻戚が多いことが要因だったのではないか。
堀家では堀を姓とした経緯が伝わらないが、財をなす前から堀の姓であったと思われる。
明治以前は武士以外は姓を持たなかったとするのは俗説で、実際には公式には名乗れなかっただけで多くの庶民は姓を持っていた。
堀と言う姓は全国的に存在するし播磨地域にも昔から堀姓の家は多い。堀家の姓がなぜ堀なのか?
中世の赤松家の家臣にも堀姓が存在するので、堀家の家紋「向蝶」を手掛かりに日飼以外の播磨地域に古くから住む堀家との拘わりを見出すことが出来るかもしれない。
周辺の庄屋層で出自を誇る系図や始祖を、帰農した赤松遺臣とする家が多くあるが、それらは江戸時代のごく初期から集落の支配層であったために虚構の家譜でも信じ込ませることが出来たが、堀家の場合は富を築くのがそれらの家よりも後の時代なので、虚構の家譜の作成は意味のないことと歴代の当主は把握していたので、堀家の出自と家系は子孫に伝えるほどのことでは無いと、敢えて伝えなかったのではないのか?
国指定重要文化財堀家住宅を説明するうえで建築物の説明だけでなく堀家の歴史と屋敷を広げ建物を増やしそれを維持してきた堀家歴代の人々の経歴の紹介も必要だが、現段階では4代延元以前のことは殆ど不明であり綿密な調査をもってしても判明することは殆ど無いと思われる。
過去帳の存在とその記載を根拠として寿閑貞閑夫妻を初代としてその没年から判断して堀家の歴史は400年とするも「初代から3代までの詳細は伝わらず」とするべきであろう。
前嶋第誓 著
堀家の家系の考察で、系図の初代から三代までの事績は殆ど伝わっておらず、堀家が資産を築く草創期のことは不明と言わざるを得ない。
何か大きなきっかけで富を築いたのなら、当然何らかの形で堀家に伝承されていなければならないが、それも無いと言うことは堀家の草創期の数代が堅実に資産の蓄積をはかったことが子孫の繁栄に繋がったと思われる。
豊臣政権の太閤検地で中世の土地所有制度が否定され、江戸時代の初めの本格的な検地で耕作する農民の土地所有が明確にされた。
ただ、全てもの農民が平等に農地の分配を受けたのではなく、従来の既得権によって貧富の差は存在した。
当時の社会基盤は、農民から年貢の徴収によって成り立っていたと言っても過言でなく、武士階級の生活の基盤である年貢の徴収は徹底していた。
一般的な年貢の税率は、その年の取れ高で増減される検見法と豊凶に関係なく、毎年同じ量を納める定免法であったと言われている。
定免法の適用を受けていると、豊作の時に農民は潤うが凶作の時は困窮を極めることとなる。
検見法であっても最低限の年貢は徴収しないと、武士階級の生活基盤が成り立たなくなる。
そのため数年おきに起こる凶作の時は、収穫が皆無か収穫出来ても年貢として納める量にも満たないということが頻繁に起こった。
貢納は絶対の義務であり免れることが出来ないので、不足分は農地を売り払うか抵当に入れて補わないといけなかった。
その繰り返しで、比較的裕福であった農民に困窮した農民の土地が集まるようになった。
数代にわたり実直に資産を増やしていた堀家に凶作のたびに困窮した農民の土地が集まり、堀家四代延元の時代には豪農と言われるほどの地主になっていたようである。
現在の堀家の主屋の普請に取り掛かったのも四代延元の晩年のことであり、堀家当主の通称である彦左衛門を確実に名乗ったのもこの人からと思われる。
その後も歴代の当主により資産が増やされて行ったのは言うまでもないが、その要因の一つに、龍野藩領から一橋家領に領主が替わったことも考えられる。
堀家四代延元が没した直後の延享4年(1747)、揖東郡6ヵ村が、それまでの龍野藩脇坂家の領地から将軍連枝により創設された一橋家領とされた。
(一橋家領とされた揖東郡6ヵ村は、日飼、島田、中村、小宅北、佐野、下野田)
一橋家は幕藩体制が確立された18世紀中ごろの創設のために纏まった領地をあてがうことが出来ず、散らばった地域で10万石が一橋家領とされたが「藩」として藩政機能が存在したわけでなく、10万石の領地の支配が、一橋家付とされた幕臣によって構成された一橋家の家政機関に委ねられたのであって、江戸幕府の直轄地(天領、幕府領)と支配体制は変わらなかった。
龍野藩を例にとると年貢の収納は、年貢の納入日には藩士が集落まで出向き、立ち合いのもとで決められた地点に納め終わるまで監視を受けた。
しかし、幕府領では指定された蔵屋敷等へ納入するまでは庄屋等の村役人の責任で行われて、規定の年貢おさめるだけで監視を受けることは無かった。
年貢の納入だけでなく、大名領と比べて大幅な自治が認められて、比較的自由に活動が出来たようであった。
また、幕藩体制下では領主の違う地域の揉め事が解決できないときは、幕府の代官所若しくは奉行所に仲裁を仰ぐことが例とされており、それぞれの領主の力関係で裁定が大きく左右された。ましてや一橋家領と他領では、一橋家領の方が確実に有利であったと思われる。
従来は堀家を「大庄屋」と認識されていた向きもあったが、脇坂家領から一橋家領にされた時に六ヵ村の庄屋が連名で「大庄屋」の設置を行わないように嘆願書を提出して「大庄屋」は置かれなかったので、堀家は大庄屋では無かったが、一部の古文書に堀家が「取纏庄屋」と記載されているので、実質的に堀家は「大庄屋」のような存在で、その権勢は大きく、自由で活発な経済活動が出来た筈であった。
堅実に農地を増やし、着実に収入が増えた堀家では、余剰資産で活発な商品取引を行い、資産は増える一方となった。
現在の重厚な主屋が竣工したのは瓦銘から、四代延元が普請を思い立った20年後の明和4年(1767)である。
しかし、現在見ることが出来る豪壮な主屋は、幾度もの増築を経て現在の姿になっており、本来の主屋はその当時の周辺地域の庄屋の主屋建築と規模はそれほど変わらない。
主屋以外の建物の建築年代は殆どが19世紀前半のものである。
また、従来は建物だけに重点を置いた研究がされてきたが、最近の古文書の再調査で堀家の現在の広大な敷地は19世紀前半の他の建物の普請の時に数度にわたり広げられ、現在の広さになったことがわかる。
よって、堀家が周囲に比類なき豪農大地主となったのは19世紀初頭のことであろう。
時期を同じくして、経済の発展とともに一定の年貢収入しかない支配階級の武士層の経済的な困窮に拍車がかかるようになるが、年貢の増徴には限度があり、領内の富裕層に御用金や上納金を命じるようになるが、それにも限界があり、融資先を幕府領の富裕層に求めるようになる。
実質は幕府領である一橋家領の堀家も、周辺諸藩から融資を求められるようになる。
山崎藩はその顕著な例で、堀家に残された古文書から莫大な融資残高が存在して、毎年利息代わりの扶持米が、山崎から高瀬舟で堀家の米蔵に運ばれたことがわかる。
度重なる融資の申入れに返済の限界を見抜いた堀家では、山崎藩本多家が長州征伐に出陣するときに求められた融資には、出陣する山崎藩主への餞別名目で150両を渡している。
山崎藩の場合は藩だけでなく、藩士の多くも堀家に個人的な融資を依頼していた。
自藩の富裕層に融資を求めることが憚られる山崎藩士にとって、堀家は都合の良い借入先とされていたようである。
藩債に関しては、明治以降に新政府に引き継がれ、元本は名目的に償還されたが、多くの山崎藩士への個人的な融資残高はどうなったのか?
百姓町人であれば不動産の抵当で融資を受け、返済が滞ればそれで清算が出来た。また当時は「年季奉公」と言う名目で、労働力で返済させることも出来た。しかし相手が武士となると、多分信用貸しであり、堀家ではその清算をどのように片付けたのかが気になるところであり、今後解明して行きたい。
堀家は、山崎藩のみならず龍野藩にも相当な金額を融資しており、見返りに扶持米を支給されていた。
龍野藩の場合も廃藩直前の融資の申入れに対して返済の見込みが無いことを悟ったのか、堀家では「300両上納」で終わらせている。
周辺諸藩のみならず一橋家からも御用金上納金を度々命ぜられた堀家では、蓄積された資産から頻繁に応じており、一橋家から苗字帯刀を許され、ご褒美を度々頂戴し、扶持米の支給を受けていた。
堀家では判明しているだけでも、領主である一橋家のみならず龍野藩や山崎藩からも扶持米を受けていたこととなる。
幕末期の御用金上納金に関しては、武士階級の領主の徴税権は絶対であり、この時期にはどこの集落も規模に応じて上納金・御用金を命ぜられた。
堀家のような豪農が存在する集落では、富裕層で引き受けて応じることが出来たが、富裕層の存在しない集落では御用金上納金に応じることが出来ず、周辺の集落の豪農や商家に融資を受け、何とか命ぜられた金額を納めていた。
堀家には、農地改革まで、周辺地域だけでなく、遠隔地に纏まった農地所有が何か所も存在した。それは、その集落が領主から命ぜられた上納金の為の融資を堀家に求め、その農地を抵当として差し出すが、御用金が自前で用意できない集落に返済する余地もなく、最終的に広大な農地が堀家の所有に移ることとなったからである。
一橋家の堀家への経済的な依存度は大きくなり、年貢米も名目的に収納し、堀家に年貢米売り払い御用を命じて相当額を金納させている。
売り払いを命ぜられた年貢米も、実際には堀家が公定価格で買い取り、転売して利ザヤが稼げた。
また、当時播磨地域で盛んに行われていた木綿栽培を、専売制として利ザヤを得ようとした一橋家では、潤沢な資産を保有する堀家に日飼会所を設けて手形決済等の公金の取り扱いも命じた。
度重なる貢献で苗字帯刀を末代まで許され、百姓身分では最高の待遇を受けていたが、一橋家では最終的に堀家を士分に取り立てている。
それまでは「一橋大納言様御料日飼村庄屋堀彦左衛門」と名乗っていた堀家当主が、「一橋家堀甚三郎」と名乗るようになり武士としての待遇と扱いを受けた。
堀家四代当主延元以降の歴代の当主が蓄積された潤沢な資産を活用しながら時流を上手く乗り切ったと言うことだが、経済活動だけでなく潤沢な資産を後ろ盾に、文化面の造詣も深く、七代当主惟賢は播磨地域有数の文化人となり、多くの文人墨客のパトロン的存在として西播磨地域の文化の向上に大きく貢献したことは確かである。
その様なことで堀家の資産形成の経緯は草創期は不明ながら、歴代当主が堅実に資産を増やしてゆき、余剰資産を上手く活用して潤沢な資産形成を行い、時流を上手く乗り切ったと言うことである。
その勢いで七代惟賢、八代甚三郎が明治維新の激動を上手く乗り切って行く。
前嶋第誓 著
脇坂家領から一橋家領に領主が替わった江戸時代中期頃から堀家の経済活動は活発の一途を辿り莫大な資産を保有していた。
それにより、領主である一橋家のみならず、龍野藩や山崎藩等へも融資を行い、利息代わりに膨大な扶持米を得ていた。
幕末期の黒船来航に伴う沿岸警備や長州征伐等で、莫大な支出を強いられた諸藩から融資の要請にも、潤沢な資産から応じていた堀家であったが、明治維新に伴い、版籍奉還廃藩置県によって新政府の強権で終止符がうたれた。
旧藩時代の債務は新政府が引き継ぐが、一方的な整理のために堀家も大打撃を受けたと思われる。
一定の基準で債権と認定された金額は、無金利50年賦とされて公債証書を下付された。
現段階ではこの時の公債額面の総額は不明ながら、明治初期の近代化政策に伴い設立されて行く銀行や会社の資本金として活用されて行く。
当時の堀家の資産の全貌は現段階ではよくわからないが、廃藩置県で各藩への債権を整理されて大打撃を受けた筈であるが、堀家では、まだ莫大な現金を保有していたようである。
明治10年代頃の堀家の「貸付帳」を見ると、毎月諸方に高額な貸し付けを行っており、龍野に設立された最初の銀行である資本金5万円の第九十四国立銀行にも3000円の貸し付けを行っている。
幕末から明治維新の混乱期の堀家では隠居の七代惟賢と養嗣子の八代甚三郎で困難な状況を乗り切って資産を守った手腕の詳細も今後明らかに出来ればと思う。
明治6年(1873)に明治の近代化政策の一環として「地租改正」が全国で行われて土地の所有権が確立され、堀家では膨大な土地の所有権が確定された。一筆ごとの地券が発行され、堀家には山積みされた地券が残されている。
堀家は遠隔地にもまとまった農地を所有していたが、それは幕末の混乱期に、領主からの上納金に応じるために農地を抵当にして堀家から融資を受けていた所であり、返済が滞っている地域の農地は融資の時の証文を根拠とし、堀家の所有として地券が発行された。
七代惟賢と八代甚三郎が幕末維新の動乱期に守り抜いた堀家の資産を引き継いだ九代謙治郎は、実弟豊彦と協力して活発な経済活動を行った。
明治22年(1889)に憲法が発布されて議会制度が確立され、翌年の明治23年(1890)には第一回帝国議会が開催された。謙治郎は兵庫県下の8番目の高額納税者として貴族院の多額納税者議員の選挙権を与えられ、当時の兵庫県庁で行われた互選会で一票を投じている。
この貴族院多額納税者議員の選挙権は、貴族院廃止まで十代真一が有していたようである。
当時堀家が関わった代表的な企業は、堀倉庫、兵庫県農工銀行、龍野醬油株式会社、龍野電気鉄道、網干銀行、堀銀行等があり、さらに経営権を持たない投資先は数多に及び、北九州の地方鉄道にまで投資をしていたことがわかった。
堀家では九代当主謙治郎が莫大な資産を運用する実務面を担い、実弟豊彦を県会議員衆議院議員として表舞台に立たせている。
この当時の堀家の特筆すべき事績として龍野醬油株式会社の設立である。会社組織にされたのは明治31年(1898)で、公刊された揖保郡地誌によると、資本金10万円で龍野を代表する醤油醸造会社であった。
たつの市龍野町富永地区の通称「上富」と言われる地域に、広大な醤油蔵群が並んでいるのが古い絵葉書で確認出来る。それが龍野醬油株式会社であり現在も門柱が放置状態で残され、僅かに痕跡を残している。
この龍野醬油株式会社の経営権は、大正時代に真一によって浅井醬油合名会社に譲渡されるが個人資産の敷地はその後も長らく堀家が所有していた。
龍野を代表する産業である醬油醸造業の近代化に堀家が大貢献したことは、紛れもない事実である。
その様なことで従来は豪農とされていた堀家であるが、明治時代には経済活動を活発に行っている「地方財閥」の位置づけでも過言では無いと思われる。
明治以降の堀家に関してはほぼ未調査である。詳細は今後の解明となるが、資産を増やすことのみでなく公益に寄与したことは断片的な資料から多数確認できる。
謙治郎は、明治20年に制定された旧制度の銀製黄綬褒章を授与されている。
これは「防海事業」へ千円以上献金した者に授与されたもので、全国で600人余りが授与された。「防海事業」とは沿岸防衛の軍事施設の充実をはかるための献金であった。
堀家では、当主謙次郎が家格に相応しい金額として2,000円を献金した。
時代は下り大正7年(1918)のことだが、燎原の火の如く全国規模で広がった米騒動が龍野周辺でも不穏な動きとなり、堀家ではすぐさま米蔵を開いて当時の小宅村役場に提供して、困窮者に廉価で販売させた。
そのために大きな騒ぎにはならなかったが、この時の米の売却損の約千円は、堀家からの寄付と言うことで処理された。
大正11年には当時の宮内省から堀家に新嘗祭の献穀を命ぜられた。
先年の9代謙治郎の急逝でまだ20代の独身であった10代当主真一には荷が重かったであろうが、存命の叔父豊彦の後見を得て見事に重任を果たしたようである。
これは過去帳から遡れる堀家400年で最大の栄誉であった。
また最近の調査で、旧龍野藩主であった脇坂家と堀家は頻繁に交際があったことがわかる。
堀家に残された古い写真に、旧脇坂子爵邸で行われた旧臣会に真一も招かれて、旧臣たちに遠慮してか、後ろのほうに立つ姿が映されている。
堀家と龍野藩主脇坂家とは、旧幕時代は身分に大きな隔たりがあったが、明治中期以降は、堀家は多額納税者として貴族院議員の互選権を有し、脇坂家は貴族院子爵議員の互選権を有し、当時の揖保郡在住者で貴族院議員の有資格者は脇坂家と堀家だけであり、脇坂家と堀家は家格が対等として付き合われていたのではないかと思う。
堀家に龍野電気鉄道と姫新線の大型の図面が残されている。
その図面と堀家の所有地を記した地図を重ねると、堀家の所有地の多くが軌道にされたことがわかる。
これは従来はあまり取り上げられなかったが、龍野電気鉄道(播電鉄道)が龍野橋を渡らずに当時の小宅村を縦断しており、姫新線が当初の計画を変更して大きくカーブして本竜野駅が作られたのも堀家の積極的な動きがあったからと思われる。
謙治郎が急逝して若くして当主になった真一は、堀家が保有していた数多の企業の経営権を手放している。
昭和3年(1928)時点の真一の肩書は多額納税者、農業の他は堀銀行が他行と合併して出来た龍野銀行の取締役のみである。
明治時代に積極的に経済活動を行っていた堀家だが、豊彦の政治資金の関連もあってか翳りが出てきたようである。
残された真一の資料の中に、大正時代に堀家の個人資産を抵当として住友銀行から堀銀行が融資を受けた時の手形が大量に存在している。
これは堀銀行の当座現金が不足した時、借り入れを頻繁に行っていたようである。
明治20年頃の残された資料から、謙治郎の個人所得は7,000円程だったようである。
それが昭和13年(1937)の真一の収支帳では、その年の米の売却益が約7,000円である。米の売却益以外にも地代収入や配当で、真一の個人所得は10,000円を越していたと思われる。
単純に金額で比較すると所得に大きな変化のある内容だが、明治20年頃と昭和10年代では貨幣価値が全く違うため、堀家の資産は額面では変わらなくても実質的な価値は大きく目減りしていたと考えられる。
謙治郎の急逝で若くして当主となった真一は、潤沢な資産をリスクを冒してまで増やさなくても良いと堅実な考えで、リスクのある経済活動から撤退したのではないかと考えられる。
堀家の所有農地は約50町歩と言われている。真一はその広大な農地から入る小作米と農地以外の所有地の地代や配当で、家屋敷と体面を維持できる生活が出来るという堅実路線を選んだが、戦後の農地改革で一気に瓦解してしまう。
それでもなお真一は龍野の名士とされ、大きく減少した資産の中からでも余剰があれば公益に貢献することを怠らなかった。それで真一は「龍野市功労者」として顕彰されている。
従来から堀家は、豪壮な家屋敷と広大な農地を所有した大地主であった事だけが語られたが、堀家が龍野と周辺地域の経済の近代化に大きく貢献し、公益に尽くすことも熱心であったことを明らかにしてゆきたい。
前嶋第誓 著
堀家第10代当主・堀眞一は、明治26年(1893)に生まれ、戦前・戦中・戦後という、日本社会が最も大きな変化を経験した時代を当主として生き抜いた人物である。昭和57年(1982)に没するまで、その生涯の中で多くの手紙や資料を書き残している。
眞一の昭和18年の日記を中心に、当時の堀家の日常と、その背後にある時代状況について考察を行う。簡潔な記述が連なる日記からは、戦時下という緊迫した社会状況の中で、堀家が直面していた現実や、当主・眞一が担っていた役割の一端が静かに浮かび上がってくる。華々しい戦争の記録ではなく、むしろ「当たり前の日常」がいかに戦争と結びついていたかを示す点に、本日記の史料的価値がある。
1. 狩猟 ― 日記に反復される「鹿狩り」の意味
眞一の日記には、「鹿狩りに行く」という簡潔な記載が、驚くほど頻繁に現れる。
元旦には特段の記述が見られないにもかかわらず、1月2日には早くも「狩猟に行く」とあり、それ以降も断続的ではなく、むしろ反復するように同様の記録が続いていく。
この記載の多さだけを見ると、眞一が個人的な趣味として狩猟に熱心であったかのようにも受け取れる。しかし、当時の時代背景を踏まえると、別の側面が浮かび上がってくる。戦時下の農村において最大の使命とされたのは、銃後を支えるための食料増産であった。農作業には成人男性だけでなく、女性や子どもまでもが動員され、その一方で深刻化したのが鹿による農作物への食害である。
日記に頻出する「鹿狩り」は、単に獲物を得る行為というよりも、里山を巡回し、猟銃を携えて姿を見せること自体に意味があったと考えられる。実際、鹿を射止めた記述がない日も含め、狩猟に出かけた事実だけが淡々と書き留められている。これは、継続的な威嚇によって鹿を人里から遠ざけ、被害を未然に防ぐ行為であった可能性を示している。
こうした行動は、地域の大地主であった堀眞一といえども、戦時下の緊迫した社会状況に応答せざるを得なかったことを物語る。個人の生活と国家的要請とが、日常の行動レベルで結びついていたのである。
2. 龍野公園 ― 戦時下における「調練場」開墾の記録
昭和18年2月の眞一の日記には、次のような一文が記されている。
「調練場開墾につき、郡農会片岡氏、町役場近藤氏の両人、了解を得に来る」。
ここで言う「調練場」とは、現在の龍野公園内にあるグランドを指すものと推測される。実際、戦時下には各地で軍事教練や集会に使用されていた空地が、食料増産政策の一環として農地へ転用される例が見られた。龍野公園のグランドもまた、その対象となった可能性が高い。
しかし、この記録にはいくつかの疑問点が残る。当時、龍野町と小宅村はまだ合併前であり、眞一の住む小宅村の堀家に対し、なぜ龍野町側の案件について了解を求めに来たのか、その具体的な理由は日記からは読み取れない。土地の所有関係、あるいは堀家が地域有力者として何らかの調整役を担っていた可能性も考えられるが、現時点では確証はない。
さらに同年7月の日記には、次の記述が見える。
「龍野町役場 古林伊代治氏、砂糖を持ち、大慈庵青年学校へ耕作に委せたる由にて、礼に来る」。
ここで言及される「大慈庵」とは、調練場と呼ばれていた龍野公園のグランド一帯を指す地名である。グランド周辺は古くから字(あざ)を「大慈庵」と称しており、日記の記述とも符合する。すなわち、開墾された調練場の土地は「大慈庵青年学校」によって耕作され、その謝意として町役場関係者が眞一を訪れたことがわかる。
青年学校とは、戦時体制下において中等教育を受けず、初等教育あるいは小学校高等科修了後に社会に出た青年を対象に設けられた教育機関である。休日や就業後に集まり、軍事教練を中心に、座学や勤労動員が行われていた。龍野公園のグランドが、こうした青年学校の耕作地として利用された事実は、地域社会が総動員体制の中に組み込まれていく過程を具体的に示している。
眞一の日記は、行政文書のように詳細を語ることはない。しかし、簡潔な記録の背後には、戦時下における土地利用の転換、行政と地域有力者の関係、そして青年たちが担わされた役割が静かに浮かび上がってくる。龍野公園の一角で行われたこの開墾もまた、当時の日常に深く入り込んだ戦争の一断面であったといえるだろう。
3. 引原からの移住者 ― 揖保川治水と堀家の移住者の受け入れ
揖保川は、引原ダムが完成する以前、たびたび大洪水を起こす「暴れ川」として知られていた。氾濫のたびに流路を変え、その影響は地形や行政区分にまで及んだ。古代の終わり頃、揖保郡(こおり)が揖保川によって東西に分断され、揖東郡と揖西郡に分かれたことも、その象徴的な例である。明治期においても、揖保川の西側に揖東郡、東側に揖西郡の一部が存在するという複雑な郡境が残っていたが、これは長い歴史の中で繰り返された洪水と流路変動の結果と考えられている。
こうした背景から、揖保川上流域における治水事業、とりわけダム建設は古くから構想されていた。しかし、この計画が現実の動きを見せるのは戦時下に入ってからである。電力不足が深刻化する中、ダム建設に付随する水力発電が、治水の「副次的効果」から、国策としての緊急課題へと位置づけを変えた。
引原ダムの建設工事は昭和16年(1941)に着手され、水没予定地の住民に対して移転・移住が奨励された。結果的にダムの完成は、戦後の工事中断を経て昭和33年(1958)まで待たねばならなかったが、昭和18年当時、すでに引原から下流域への移住者は増加しつつあった。
眞一の日記や関連資料からは、こうした移住者の一部が、堀家の所有地である日飼・島田地区の農地耕作者として受け入れられていたことが確認できる。国策である電力増産のため、移住を余儀なくされた人々を受け入れるという側面があったことは確かである。
一方、後年、当時を知る次代当主・堀謙二が対談の中で語ったところによれば、堀家側にもまた、新たな耕作者を必要としていたという現実があった。移住者の受け入れは、理想や同情だけでなく、農地経営という実務的判断とも結びついていたのである。
新天地に移った移住者が、地元住民と容易に交わることができない状況にあったことも、日記の行間からうかがえる。堀家当主として眞一が、地主の責務として彼らの生活を気に掛けていたことは確かであろう。ただし、その動機については慎重な読みが必要である。眞一自身は、彼らを「治水のための移住者」、すなわち揖保川の制御という公共的事業に伴う存在として認識していた可能性も否定できない。
移住者の居宅整備に対する協力姿勢は、とりわけ注目される。播電鉄道の電車道と姫新線の線路に挟まれた片山道(現・東中前道路)北側の土地は、矮小で農地には不向きと判断され、宅地として提供された。さらに、その住宅建築費用については、堀眞一が個人保証となり、銀行からの融資を受けられるよう手配している。
このほかにも、多くの耕作者を抱えていた堀家の当主として、引原移住者に対する細やかな心配りを示す記載が日記には散見される。それらは、戦時下という特殊な状況の中で、国家事業、地主経営、地域社会の再編が複雑に絡み合っていた現実を、静かに物語っている。
日本刀の供出 ― 個人の所蔵が戦争資源となった時代
昭和18年の眞一の日記には、「日本刀供出のため」との書き出しで、具体的な行動が記されている。長男・次男の二人に命じ、所蔵していた日本刀10振りを、姫路公会堂で行われた供出刀剣の審査へ持参させたという。その結果、6振りを供出し、4振りを持ち帰ったことが簡潔に記録されている。
この記述は、当時の日本社会において、個人が所有する武具がいかに直接的に戦争遂行と結びついていたかを示す一例である。戦線の拡大により軍人の数は急増し、それに伴って指揮官となる将校も、短期間の教育課程によって大量に養成されていた。
将校には軍刀の佩用が義務付けられていたが、その需要に対し、新規に製作される軍刀用の日本刀は決定的に不足していた。従来の刀鍛冶による生産だけでは追いつかず、各地で刀の増産が試みられた。若手刀鍛冶の育成に加え、包丁鍛冶や鋸鍛冶といった異分野の鍛冶職人にまで刀を打たせる動きが広がったが、それでもなお、養成される将校の数に見合う供給量には達しなかった。
その結果、各家庭や旧家が所蔵していた既存の日本刀が、軍刀へと転用されることになる。市中に存在する刀剣を供出させ、拵えを施して将校の帯刀用とする制度が、各地で実施されたのである。
眞一の日記に見える「10振りのうち6振りを供出し、4振りを持ち帰る」という具体的な数字は、無条件の没収ではなく、一定の選別や審査が行われていたことを示している。同時に、それは旧家が代々伝えてきた文化財的価値を持つ刀剣であっても、戦時体制の中では軍需資源として再定義され得たことを意味する。
この記録には、供出に対する感情や評価は一切書かれていない。だが、長男と次男にその役を担わせている点からは、家の財産である刀剣を「公」に差し出す行為が、次代に引き継がれるべき出来事として認識されていた可能性も読み取れる。
眞一の日記に残されたこの一件は、日本刀という伝統文化の象徴が、戦争の現実の中でどのように再編成され、個人の手を離れていったのかを静かに物語っている。
4. 農地問題 ― 「自作農増大」政策をめぐる攻防
堀家は本拠地周辺だけでなく、やや離れた現在の相生市若狭野地域にも、多くの農地を所有していた。昭和18年当時、これらの土地をめぐって、耕作者側から売渡を求める動きが顕在化していたことが、眞一の日記から読み取れる。
背景にあったのは、国が検討を進めていた「自作農増大」政策である。耕作者の意欲を高め、生産力の向上を図るという名目のもと、小作農に土地を取得させる方向性が示されつつあった。こうした国策の動向を根拠に、若狭野の耕作者から堀家に対し、農地売渡の申し入れが行われたのである。
しかし、この動きは政策理念だけによるものではなかった。戦時下において工場労働が奨励され、農家の中にも農作業の傍ら工場勤務に就き、現金収入を得る者が増加していた。給与所得の増大によって、従来は困難であった小作地の買い取りが、現実的な選択肢として浮上してきたのである。余剰となった現金を用い、小作料の負担から解放されようとする動きが、各地で見られた実情がうかがえる。
これに対し、眞一は農地の売却を明確に拒否している。その理由は、昭和18年3月19日付の日記に、几帳面な小さな文字で、ほとんど余白を残さず書き込まれている。そこには、感情ではなく、状況分析に基づく三つの理由が列挙されている。
第一に、政府から「自作農増大」政策についての詳細な説明や正式な指針が、まだ示されていないこと。方針のみが先行し、制度設計が不透明な段階での対応は、地主としても判断できないという姿勢であった。
第二に、公定価格と実際の取引価格との間に大きな乖離が存在する現状である。統制経済下に設定された公定価格での売渡を求められても、実勢価格とかけ離れており、地主側として応じることはできないと記している。
第三に、売却代金の6割が国債で支払われるという戦時下特有の法制度と、昭和11年当時の価格と比較して大幅な値上がりとみなされた場合に課せられる高額な税負担である。これらの条件が重なれば、耕作者側の要求に応じることは、地主にとって「死活問題」となりかねないと、眞一は冷静に記している。
この日の記述の末尾には、若狭野とは別に、隣村島田の某氏からも農地売却の意思の有無について打診があったことが追記されている。それに対する眞一の結論は簡潔である。「時期尚早にして売却の意思なしと申し置く」。感情を交えず、時勢を見極めようとする態度が端的に表れている。
戦時体制の進行により、農業以外の労働を通じて現金収入を得た耕作者が、土地所有へと踏み出そうとする一方で、インフレーションが進行する中、地主側もまた資産の流動化に慎重にならざるを得なかった。眞一の日記に記された農地問題は、戦時経済が農村社会の力関係を静かに揺り動かしていたことを示す、具体的な記録である。
5. 鴨池の禁猟問題 ― 解禁と撤回のあいだ
昭和18年3月15日、眞一の日記には、兵庫県の狩猟主任から速達で届いた一通の通知について記されている。内容は、旧藩時代から禁猟区として保護されてきた林田の鴨池について、狩猟を解禁するというものであった。
林田鴨池は、多くの水鳥が生息することで知られ、長年にわたり狩猟が禁じられてきた場所である。戦時下の深刻な食糧難、とりわけ動物性たんぱく質の欠乏という状況の中で、この禁猟区は一転して、重要な食料供給源として注目されることになった。行政から速達で通知が出されたという事実は、その緊急性を物語っている。
しかし、日記はその後の急展開も伝えている。3月26日の記述には、林田村からの要請によって、鴨池の狩猟解禁が取りやめになったことが記されている。解禁からわずか十日余りでの撤回であり、狩猟が可能であった期間は極めて短かった。
この短期間での方針転換は、単なる行政判断の揺れではなく、現場の実態を反映したものであったと考えられる。すなわち、正式な解禁がなされる以前から、戦時下の食糧難を背景に、禁猟区であるはずの鴨池では密猟が頻繁に行われており、すでに水鳥の数が減少していた可能性が高い。
林田村からの要請による解禁撤回は、残存する水鳥資源の枯渇を危惧した対応であったと見ることもできる。禁猟という制度が名目上維持されていても、戦時の逼迫した生活の中では、それを実効的に守り続けることが困難であった現実が、この一件から浮かび上がってくる。
眞一の日記に残された、解禁と撤回という二つの簡潔な記録は、戦時下において、自然保護と食料確保という相反する課題がいかに切迫した形で交錯していたかを、静かに示している。
6. 米の再供出 ― 配給制度の開始と屈辱の記録
昭和18年3月下旬、眞一の日記の紙面は、余白に至るまで「再供出」に関する記載で埋め尽くされるようになる。3月24日を起点として、およそ一か月の間、数日おきに同様の記録が繰り返されていることから、この問題が眞一にとっていかに重大であったかがうかがえる。
この再供出は、主食配給制度の徹底を目的とした法令改正によるものであった。すべての国民に等しく米を配給するため、農家であっても自家消費用の保有米は原則として認められず、収穫した米は全量を供出し、食べる米は配給によって受け取るという制度が導入されたのである。
日記によれば、堀家では4月までの自家消費分を差し引いた上で、3月末に保有米およそ25俵を再供出している。さらに4月3日には、区長宛に「4月中の保有米」として、玄米一俵、白米一斗八升の申告書を提出したことが記されている。その記述に続けて、眞一は「愈々当方も五月より配給米を受けることとなる」と書き留めている。
しかし、その直後から日記の筆致は変化する。
「非常時仕方これ無きも拙劣なる政策云々」
再供出政策に対する不満が、はっきりと表明されるのである。
揖保川流域最大級の農地を所有する大地主であった堀眞一にとって、自らが配給米の支給を受ける立場に置かれることは、大きな屈辱であったと考えられる。しかし、眞一の自尊心をさらに深く傷つける出来事が、その直後に起こる。
4月19日の日記には、「駐在所の巡査が供出米と小作米の関係を聞きに来る」とある。さらに21日には、特別高等警察の警察官が来宅し、米の買い上げ価格について事情聴取を受けたことが記されている。再供出をめぐり、日飼の集落全体が警察の監視対象となったのであった。
警察は、日飼の作付面積や地質条件などから算出した昭和17年度産米の予測収穫高と、実際に二度にわたって供出された米の量を比較し、なお一割程度の米が未供出で保有されていると判断したのである。
これに対し、4月22日の日記で眞一は、その理由をきわめて詳細に書き連ねている。
第一に、供出基準となっている作付面積が、実際よりも約二町(およそ二ヘクタール)多く算定されていること。その中には、米を作らず野菜を栽培している田が一町ほど含まれている。
第二に、他集落の者が耕作している田が約一町あり、そこからの収穫米は日飼の供出対象ではないこと。
第三に、引原からの移住者は移住直後で土地に不慣れであり、収穫量が少ない上、宅地化のため耕作できない部分もあること。
第四に、日飼は純農村ではなく兼業農家が多く、農作業に十分な時間を割けない家が多いため、必然的に収穫量が少なくなること。
この間、警察官二名が日飼集落内の各農家を巡回し、家屋内の調査を行い、最後に堀家にも立ち入った。眞一はこの日の記述に、「小生の色々と信じたるままを話す」と記している。
その夜、駐在所の巡査が陳謝に訪れたことも書かれているが、眞一はなお、「小生は無遠慮に斯様のことで警察が家宅捜索式のことをなすは不愉快なりと申し置く」と記し、強い不快感を示している。
国策に忠実に従い、大地主である堀家までもが保有米のすべてを供出しているにもかかわらず、机上の計算に基づいて警察から事情聴取を受けたことは、かつて貴族院議員の選挙人に名を連ねた眞一にとって、耐えがたい恥辱であったと推測される。
4月25日には、役場での会合の様子が記されている。
「四月中の飯米を喰い尽した農家も出始め、早急に円滑なる飯米の配給を行うことを地方事務所長が責任ある話の由し」。
そして、その直後に続く一文――
「保有米は本日をもって終り、明日より十日間の配給を受く。第一回の配給也」。
この箇所は、前後の記述よりもやや力のこもった、はっきりとした字で書かれており、眞一がこの出来事を強く意識し、後世に伝えるべき転換点として記録したことがうかがえる。再供出をめぐる一連の記載が数頁にわたって詳細に残されていることからも、その意図は明らかである。
この期間中の日記には、再供出問題と並行して、狩猟に頻繁に出かけた記録が数多く見られる。戦時下の食糧事情の中で、動物性たんぱく質の補給と害獣駆除を目的とした出猟は次第に集団化し、参加人数も増え、射止められる獲物の数も多くなっていった。
米という主食の統制が極限まで強化される一方で、山野に向かって銃を携える行為が日常化していく。この対照的な光景こそが、昭和18年という年の、農村における戦時の現実であった。
7. 田植 ― 二毛作と労働力不足の現場
昭和18年6月30日、眞一の日記には「部落内の田植始まる」とのみ記されている。極めて簡潔な一文であるが、当時の農業事情を考えると、この記載は重要な意味を持つ。現在と比べて田植の時期が遅いのは、小宅村のほとんどの農地で二毛作が行われていたためと考えられる。麦類の収穫を終えた後に水田へ切り替える農法が、地域全体に広く定着していたのである。
翌7月1日には、「隣保田植始まる。当方畔塗りが手遅れにして済み次第共同に入る」と記されている。堀家は広大な農地を所有していたが、そのすべてを小作地としていたわけではなく、わずかながら自作地も保持していた。平時であれば、これらの自作地は奉公人や手間賃による雇人に耕作を任せていたと考えられる。
しかし、戦時下における労働力構造の変化は、地主層にも影響を及ぼしていた。兵役によって若年層の男性労働力が減少しただけでなく、中高年層の男性も工場労働へと動員され、農村に残る労働力は著しく不足していた。その結果、堀家においても奉公人の数が減り、自作地の耕作を担う人手が確保できない状況に陥っていたことが、日記の行間から読み取れる。
7月3日の記載には、「本日当方分田全部、北・中・前・東垣内隣保にて植え付けてくれる」とある。ここから、当時の堀家の自作地が少なくとも四か所に分散して存在していたことがうかがえる。また、「植え付けてくれる」という表現からは、眞一自身が農作業に直接参加することはなく、隣保による共同作業に委ねていた様子が伝わってくる。
7月7日には、麦類の収穫報告を記した紙片が日記に貼り付けられている。それによれば、堀家では約一町(およそ一ヘクタール)の農地から29俵の麦類を収穫し、そのうち21俵を供出している。ここにも、戦時下における供出制度が、地主・農家の別なく厳格に適用されていた現実が示されている。
さらに日記には、小宅村全体の供出割当として「五九〇一俵、反当り二・二一俵」との注記が見られる。この数字から逆算すると、小宅村全体でおよそ二百六十町歩前後の農地で麦作が行われていたことになる。
この数値を、明治30年代に刊行された『揖保郡地誌』と照合すると、状況はより明確になる。同書によれば、小宅村の米作農地は約三百六十町歩、麦作農地は約三百二十町歩と記録されている。すなわち、明治期から昭和戦前期にかけて、小宅村のほとんどの農地で二毛作が行われていたことが確認できる。
眞一の日記に残された田植の記録は、わずか数行に過ぎない。しかし、その背後には、二毛作を前提とした農業構造、戦時下の労働力不足、そして隣保による共同作業に支えられた農村社会の姿が浮かび上がってくる。田植という年中行事の記録は、戦時体制に組み込まれた農村の日常を、静かに伝えているのである。
8. 戦争 ― 日記に刻まれる動員と不安
昭和18年7月11日の日記には、次のような記載がある。
「堀務君、臨時召集令状を受け早速大阪へ電話で報ず。召集令状、書留速達で送る」。
戦局の拡大に伴い、堀家の身内からも戦地へ赴く者が出始めたことを示す記録である。召集令状を受け取ったその日のうちに、連絡と発送の手配がなされている点からは、こうした事態がすでに日常の延長線上にあったことがうかがえる。
7月16日には、「正井治君午後来たる」とあり、甥の正井治が堀家を訪ねている。続く記述によれば、治は徴兵検査で第二乙種となり、11月に入営予定であるという。さらに「幹部候補生希望に付き刀剣入用にて当方へ頼みに来た由」とあり、翌17日には「日本刀四振り持ち帰る」と記されている。
戦時下では、短期間の養成によって将校を大量に育成する制度が取られていたが、その一方で、将校の正式装備である軍刀は慢性的に不足していた。眞一の日記は、こうした制度の歪みを、私的なやり取りの形で伝えている。
現在、堀家には刀剣類はほとんど残されていない。戦時中の供出や贈与、戦後の銃刀法による処分などを経て失われたと考えられる。例外として、眞一が長男浩一のために拵えた軍刀一振りが、現在は龍野歴史文化資料館に寄贈されている。
10月26日の日記には、「正井家へ行く。夜大阪田中洋服屋来りて小生国民服の寸法を採る。洋服地は正井へ贈りたる日本刀のお礼として貰う」とある。日本刀の返礼として国民服を仕立ててもらったことが分かる。国民服とは、戦時下における男性の標準服として定められたもので、カーキ色の、軍服に似た実用性を重視した服装であった。日常生活においても、戦争が視覚的に入り込んでいたことを示す一例である。
7月28日には、「勤労報国隊は左記の年齢の由隣保より聞く」として、
「男子十四歳から五十歳、女子十六歳から二十五歳(未婚者、但し学生は除く)」
と年齢条件が書き留められている。戦時下では、職業に就いていない者や不要不急とされた職業の者は、半ば強制的に軍需産業や食糧増産に動員された。とりわけ、有閑層の男性や良家の若い娘は、重点的な動員対象とされたことが知られている。
その一方で、動員を回避するため、富裕層の男性が名目的に軍需関連企業の役員に就いたり、良家の娘が無給を条件に軍需工場の事務員として在籍したりする例もあった。眞一の日記は、制度そのものを批判することはないが、断片的な記録の積み重ねから、当時の社会の歪みが浮かび上がる。
8月7日には、「金属供出に付き早朝より準備を為し云々」とある。軍需に不可欠な金属の供出は頻繁に行われ、そのたびに堀家でも相当量の供出を余儀なくされた。
日記には、宣徳火鉢小十対、大一、竈に用いると見られる鉄・銅製品、横樋四本、雑古鉄、寝台一と、具体的な品目が列挙されている。生活道具そのものが、戦争の資源として吸い上げられていった様子が具体的に記録されている。
8月11日には、「午後小寺方西村氏を訪問、浩一の勤労奉仕の証明依頼をなす」とあり、27日には証明書を受け取っている。昭和18年当時、大学生も学業の合間に軍需産業での労働を強いられ、夏休みであっても自由な帰省は許されなかった。特例として、実家近くの軍需関連工場での勤労奉仕を条件に、帰省が認められる場合があった。
ここに記される「小寺」とは、日飼の隣村・島田にあった分銅醤油小寺合名会社を指す。堀家の長男浩一は、帰省中、この工場で勤労奉仕を行っていたことを証明してもらい、大学へ提出していたのである。
9月23日の日記には、「内国戦時体制強化のため云々、法経科学生の一時的徴兵猶予を停止等重要政策の発表あり」と書かれ、その後に「浩一来年徴兵のこととなる」と付け加えられている。
明治初期の徴兵令以来、男子は20歳を兵役適用年齢とされていたが、学生については卒業まで徴兵猶予が認められていた。眞一は、浩一が学生である間に戦争が終結することを願っていたと考えられるが、この猶予停止により、来年20歳となる浩一が兵役に就く可能性が高まったことへの落胆が、簡潔な一文の背後に滲んでいる。
11月7日には、美作の土居英治に嫁いだ妹つやの長男、一郎が堀家に宿泊している。一郎は東京の大学に通っていたが、徴兵猶予停止により、津山で臨時徴兵検査を受けるため帰省し、その途上で伯父の家に立ち寄ったのであった。第三乙種で、12月1日入営予定と記されている。
11月28日、眞一は津山の土居家を訪れ、一郎の入営祝宴に出席している。当日夜の最終列車で帰宅し、翌29日には、姫新線で入営地へ向かう一郎を、息子の謙二・信三を伴って本竜野駅から姫路まで見送っている。
その胸中には、来年には自らも長男の入営を見送る立場になるであろうという思いが去来していたに違いない。
実際に、その一年後、浩一は入営することとなる。主屋の座敷で、家族と近親者のみが集まり、質素な料理が並べられた入営祝宴の写真が、現在も残されている。
土居一郎は大正11年(1922)生まれ、堀浩一は二歳年下の大正13年(1924)生まれである。年齢差わずか二年の間に、戦争は「甥の出来事」から「我が子の現実」へと変わっていった。
眞一の日記に記された戦争は、戦場の出来事ではない。召集令状、軍刀、国民服、勤労奉仕、供出、見送り――それらの断片が積み重なり、地方の一地主の生活の中に、戦争が不可逆的に浸透していく過程を、静かに記録しているのである。
9. 献納飛行機「小宅村民号」― 愛国行為としての寄付
昭和18年9月13日の日記には、小宅村長以下の役場関係者が堀家を訪れたことが記されている。用件は、軍への献納飛行機、「小宅村民号」への寄付の依頼であった。
翌14日、15日にもこの件について詳細な記録が残されており、眞一がこの問題を重要な案件として受け止めていたことが分かる。
献納飛行機とは、戦時下において団体・企業・個人が軍用機を陸海軍に献納する運動である。当初は実際に飛行機を購入して献納する形式であったが、この頃には一機あたり八万円と定められ、現金を納付する方式に統一されていた。献納の返礼としては、機体の翼に合成で機番と機名を記した写真が送付されるのが通例であった。
当初、揖保郡全体で複数機を献納する「揖保郡民号」の計画が立てられていたが、龍野や網干といった町では、単独で一機分の寄付を集めることが可能であったため、それぞれ独自に献納する方針が取られた。一方、単体での献納が難しい町村については、郡として集約し「揖保郡民号一号・二号」として献納された。
小宅村役場では、何としても単体で「小宅村民号」を献納したいという意向があったようである。そのため、まず村内有数の大地主であり高額納税者でもある堀真一のもとに話が持ち込まれたと考えられる。
役場側の当初案では、村内の高額納税者五名で三万五千円を負担し、残り四万五千円を一般村民から募るというものであった。しかし、この金額配分に対し、眞一は異議を唱えている。その理由として日記に記されているのは、村内の高額納税者五名の納税額が、村全体の住民税総額のおよそ二割程度に過ぎないという点である。
献納飛行機は「村民すべての愛国心の発露」である以上、できる限り多くの村民から寄付を集めるべきであること。
仮に寄付が目標額に達しなかった場合、最終的には高額所得者が不足分を負担せざるを得なくなること。
さらに、農家から寄付負担に耐えられないという声が多く上がるようであれば、計画そのものの中止も検討すべきではないか。
眞一は、献納そのものを否定したわけではないが、寄付のあり方については極めて現実的かつ冷静な見解を示している。この姿勢は、献納飛行機が半ば「自発的協力」を装いながら、実際には強い同調圧力のもとで進められていたことを示唆している。
9月19日の日記には、眞一が考えを変えず、自身の寄付額を七千円と定めたこと、小寺・三木の両名がそれぞれ三千五百円に決したことが記されている。夜には村長が来訪し、その旨を直接伝えている。
翌20日には、「献納機小宅村民号献金七千円を組合小切手にて区長に持たせやる」とあり、寄付が実行に移されたことが分かる。
11月3日には、「海軍献納機命名式が龍野国民学校で挙行される。小生も参列」とある。献納行為は、単なる金銭の提供にとどまらず、式典を通じて公的に可視化され、地域社会の結束と忠誠心を確認する場ともなっていた。
この年、小宅国民学校では、昭和15年の紀元二千六百年記念事業として建設が進められていた奉安殿が完成している。12月8日の開戦記念日には、その落成式と併せて「報国小宅村民号」の武運長久祈願祭が挙行され、眞一もこれに参列したことが日記に記されている。
さらに、12月8日の式典で配布された工事報告書が、日記の巻末に挟み込まれていた。「式後に記念写真、宴会あり」との記述もあり、この時の写真は、近年、堀家から実際に発見されている。
献納飛行機「小宅村民号」は、表向きには村民の自発的な愛国行為として記録されている。しかし眞一の日記を丹念に読み解くと、その背後には、寄付負担の偏在、村民の生活力との乖離、そして計画を成立させるための調整と葛藤が存在していたことが明らかとなる。
戦争は、兵士としてだけでなく、資金の提供者としても、人々を等しく動員していたのである。
日記全般 ― 個人の記録に映る戦時下の地域社会
昭和18年の堀眞一の日記を通読すると、まず目につくのは、狩猟に関する記載の多さである。若いころからの趣味であった狩猟は、この年においても日常的に記されている。しかし、その内容を丁寧に読み解くと、単なる趣味の継続とは言い切れない性格を帯びていることが分かる。
戦時下において、農村に課された最大の使命は食料の増産であった。鹿や猪による農作物被害を防ぐための害獣駆除、そして慢性的な動物性たんぱく質不足を補うための狩猟は、結果として戦時体制を下支えする行為となっていた。日記には獲物の有無にかかわらず頻繁に出猟したことが記されており、猟銃を携えて里山を歩く行為そのものが、鹿を人里に近づけさせないための抑止となっていたこともうかがえる。
同時に、射止められた獲物が、堀家の家族のみならず、関係者に分配されていたことを示す記述も散見される。害獣駆除という表向きの使命の裏で、堀家を中心とする人々の栄養事情を支える役割を果たしていたことは、戦時下の農村の現実を如実に物語っている。
もう一つ、この日記で特筆すべき点は、引原からの移住者に対して、眞一が終始心を砕いていることである。揖保川上流の引原ダム建設に伴い、国策として移住を余儀なくされた人々を、堀家は耕作者として受け入れた。日記には、耕作状況や生活の困難さへの配慮、住居建築への協力など、細かな記載が繰り返し現れる。
これらの記述からは、単なる地主と小作人の関係を超え、移住者を「治水のために移動してきた人々」として受け止め、地域に定着させようとする姿勢が読み取れる。後年、次代当主となる謙二の証言と照らし合わせると、そこには人道的配慮と同時に、農地経営の現実的判断があったことも否定できない。しかし、日記の行間には、新天地で孤立しがちな移住者を気遣う、当主としての責任感が確かに刻まれている。
堀眞一は明治26年(1893)生まれで、この日記が書かれた昭和18年には50歳を迎えていた。人生の折り返しを過ぎ、家の当主として、また地域有数の地主として、戦時体制に深く組み込まれた立場にあった。日記の記載は簡潔で、未記入の頁も少なくないが、その簡潔さゆえに、日々の出来事の取捨選択には眞一自身の価値観が色濃く反映されている。
献納飛行機、米の再供出、金属供出、勤労奉仕、徴兵と入営の見送り。そうした国家総動員体制の諸相が、この日記には断片的ながら連続して記録されている。そしてそれらは、特別な出来事としてではなく、「日常の延長」として淡々と書き留められている点に、この史料の重みがある。
この日記は、堀家という一つの旧家の内情を伝えるにとどまらない。日飼を中心とした小宅村、さらに龍野周辺地域が、どのように戦時体制へ組み込まれ、どのような葛藤と順応の中で日々を送っていたのかを知るための、きわめて貴重な一次史料である。
簡潔な筆致の背後には、戦争という巨大な力に翻弄されながらも、家と地域を維持しようとした一人の当主の現実的な判断と、静かな感情の揺れが刻まれている。
日記より読み解く 堀 眞一 ― 戦時下を生きた地方地主の肖像
堀眞一は、明治26年(1893)に生まれ、堀家第十代当主として、戦前・戦中・戦後という激動の時代を生き抜いた人物である。昭和18年(1943)に記された日記は、眞一が五十歳を迎えた年の記録であり、当主として、地主として、そして一家の長として、戦時体制のただ中にあった彼の姿を最も端的に伝えている。
この日記は、饒舌ではない。記載は簡潔で、未記入の頁も少なくない。しかし、そこに書かれた事柄の取捨選択には、眞一という人物の価値観と立場が明確に反映されている。
現実主義者としての当主眞一は、戦時体制に対して感情的な賛否を日記に書き連ねることはない。献納飛行機、米の再供出、金属供出、勤労奉仕といった国家総動員政策に対しても、表立った抵抗は見せていない。しかし、その一方で、机上の理屈と現実との乖離には鋭敏であった。
献納飛行機「小宅村民号」をめぐる記述では、村民全体の負担能力や寄付の公平性に言及し、安易に高額所得者に過重な負担を押し付ける構図に異を唱えている。農地売却問題においても、「自作農増大」という国策を否定することなく、価格制度や課税の不合理を理由に、拙速な対応を拒んでいる。
これらの記録から浮かび上がるのは、国策に組み込まれながらも、その実施過程における矛盾を冷静に見極めようとする、強い現実主義者としての姿である。
狩猟者としての顔と責任意識
昭和18年の日記で最も多くを占めるのは、狩猟に関する記載である。若いころからの趣味であった狩猟は、戦時下において新たな意味を帯びていた。鹿や猪による農作物被害を防ぐ害獣駆除、そして深刻な動物性たんぱく質不足を補う手段としての狩猟は、結果的に地域の食糧事情を支える役割を果たしていた。
眞一は、獲物の有無にかかわらず頻繁に出猟している。猟銃を携えて里山を巡る行為そのものが、害獣を人里から遠ざける抑止となることを、彼は経験的に理解していたのであろう。射止められた獲物が、堀家のみならず関係者にも分け与えられていたことを示す記述からは、狩猟が個人的な楽しみを超え、当主としての責務の一部となっていたことが読み取れる。
移住者への眼差し
この日記で、もう一つ際立つのは、引原からの移住者に対する眞一の細やかな配慮である。引原ダム建設という国策によって移住を余儀なくされた人々を、堀家は耕作者として受け入れた。眞一は、彼らの耕作状況や生活環境、住宅建築に至るまで、具体的な形で関与している。
地主として新たな耕作者を必要としていたという経営上の側面は否定できない。しかし、日記に繰り返し現れるのは、新天地で孤立しがちな移住者を地域社会に定着させようとする意識である。眞一にとって彼らは、単なる労働力ではなく、揖保川の治水という国家的課題のために移動してきた存在であったと考えられる。
誇りと屈辱のあいだで揖保川流域有数の大地主であり、かつては貴族院議員選挙人にも名を連ねた眞一にとって、米の再供出とそれに伴う警察の立ち入り調査は、大きな屈辱であったと推測される。日記には、巡査や特高警察の訪問に対する不快感が率直に記されており、国家への協力を尽くしてきたという自負と、末端行政から疑念を向けられる現実との落差がにじみ出ている。
それでも眞一は、感情を爆発させることなく、事実を整理し、理由を丁寧に書き残している。この姿勢は、後世に向けて「なぜそうなったのか」を伝えようとする、記録者としての意識の表れでもある。
戦争を「日常」として生きる眞一の日記に、戦況や思想的な言葉はほとんど登場しない。そこにあるのは、田植えの開始、狩猟、供出、来客、入営の見送りといった日常の断片である。しかし、その一つひとつが、戦争という巨大な構造に深く結びついている。
眞一は、戦争を英雄的に語ることも、悲劇として嘆き続けることもなかった。ただ、当主として、地域の一員として、その時々に求められる役割を果たそうとし続けた。その姿勢こそが、この日記の行間から最も強く浮かび上がる人物像である。
昭和18年の堀眞一は、時代に抗う人物ではなかった。しかし同時に、時代に流されきる人物でもなかった。
この日記は、戦時下の地方社会を支えた一人の現実主義者の静かな記録であり、戦争を「生きた人間」の具体的な姿を、今に伝えている。
前嶋第誓 著