堀家のあらまし
堀家は万治元年(1658年)の記録に彦左衛門とあり、古くから農業を営んでおり、享保18年(1733年)からは庄屋を勤めていました。
延享4年(1747年)脇坂藩内の島田・日飼・小宅北・中村・新宮町佐野・下野田の六か村を一橋徳川家領(天領)とすることになり、堀家は、その六か村の取り纏め庄屋を命ぜられました。堀家を大庄屋と言わないのは、揖東郡の一橋領六か村の庄屋年寄り連名で一橋徳川家に大庄屋制の廃止を願い出ており、一橋徳川家領内で大庄屋制は見られない。
一橋徳川家領庄屋として活発な経済活動を行うことで財を蓄積し、度重なる上納金の要求に答え、御徒格として一橋家の士分とされ、幕末には一橋徳川家を支える存在となりました。明治3年に一橋徳川家の行った摂津、和泉、播磨の各国所領の有力者のリストアップによると、堀家は唯一「上等」の者とされていました。
一橋徳川家の財政立て直しの為に、渋沢栄一が行った播州の木綿預手形(今市札)発行に際しての準備金では、総準備額の約4割にあたる2500両を出資しています。
一橋徳川家に対してだけではなく、近隣の山崎藩・平福陣屋などへも多額を貸付け、西播の小規模な領主の財政を支えており、また凶作時などは米を近隣地域の者に対して施予し、地域住民の生活保障も一定程度担っていました。
幕末までの蓄財と地租改正により所有権を得た膨大な土地を基に明治維新後は、私立銀行を創立して地方金融界の便を図り、龍野醤油会社を設立して地方物産の振興を画する等々実業界に尽くし、地域経済の近代化ばかりでなく、日本資本主義の発展に尽力しました。
明治31年(1898年)9代当主謙治郎は、兵庫県下の8番目の高額納税者として貴族院の多額納税者議員の選挙権をもち、自らは資産運用の実務面を担う一方、実弟豊彦を県会議員衆議院議員として表舞台に立たせました。
その後、農地解放や財産税により経済的に困窮する状況となりましたが、大きく減少した資産の中からでも公益に貢献することを怠らず、10代当主真一は「龍野市功労者」として顕彰されています。
堀家住宅は、平成25年に国指定重要文化財に指定され、今後はたつの市の活性化に役立つ存在となっていくことを期待しています