浄泉寺の歴史
鯉原山 浄泉寺の歴史
(平成10年(1998)10月17日 「鯉原山 浄泉寺 蓮如上人500回遠忌・浄泉寺創建500年 法要」パンフレットより)
【史料】
手抄史料
1 『記録』 8世現住盛明(=義円、1745年より寺務)編、以降相伝。
2 『由緒書』浄専寺9世恵空記
書末識語「天明四辰(1784)八月
先大津郡新別名村 真宗鯉原山 浄専寺 恵空[印]」
3 『由来書』 浄専寺9世恵空(前書と同筆)記
書末識語「天保十三年(1842)十一月 先大津新別名村 真宗 浄専寺」
4 安部家伝来『安部系図」(北九州市小倉南区、安部義弘氏所有)
印刷史料
5 『風土註進案』前大津宰判・先大津宰判 大津郡教育会 大正年間刊行
天保13年から弘化3年に至る4ケ年に編集(序より)
浄専寺の項の資料は下記のように提供。
「享保拾三申(1728)九月六日 大津郡日置庄新別名村 真宗鯉原山 浄専寺 恵俊」
6 『大日本寺院総覧』 浄泉寺の項(2348頁)、大正初年刊。
7 『防長寺社由来』第5巻、新別名村 浄専寺の項(209~215頁)、昭和59年刊。
【歴代住職】
開基・了専 文明11年(1479)~永禄10年(1567)、享年89歳。
二世・道専 大永3年(1523)~元和1年(1615)、享年92歳。
三世・教清 慶長6年(1601)~寛永12年(1635)、享年34歳。
四世・浄信 慶長7年(1602)~正保1年(1644)、享年42歳。
五世・道円 寛永2年(1625)~万治1年(1658)、享年33歳。
六世・了円 正保4年(1647)~延宝5年(1766住職任免)~元禄15年(1702)、享年55歳。
七世・周円 寛文12年(1672)~元禄15年(1702住職任免)~延享2年(1745)、享年75歳。
八世・義円(又号盛明) 宝永2年(1705)~延享2年(1745住職任免)~明和5年(1768)、享年64歳。
九世・説円(又号恵空) 寛保1年(1741)~安永5年(1776住職任免)~寛政11年(1799)、隠居。享年不明。
十世・管蠡(かんれい) 明和3年(1766)~寛政11年(1799住職任免)~天保14年(1843)、享年77歳。
十一世・受慶 寛政10年(1798)~天保3年(1832住職任免)~嘉永5年(1852)隠居。享年不明。
十二世・盛朗 文政11年(1828)~嘉永5年(1852住職任免)~明治32年(1899)、享年71歳。
十三世・月潭 慶応1年(1865)~明治29年(1896住職任免)~大正9年(1920)、享年56歳。
十四世・城守 明治26年(1893)~大正11年(1922住職任免)~昭和56年(1981)、享年88歳。
十五世・大峻 昭和9年(1934)~昭和51年(1976住職任免)~令和4年(2022)、享年89歳。
十六世・大信 昭和45年(1970)~平成30年(2018住職任免)~現在。
【創建の縁起】
貞和の頃(1345~1350)、上山六郎左衛門高元という者が足利尊氏の幕下におり、楠正行と戦い四条縄手で戦死した。その子に兵庫助良房がいて、防州に移り多々良の家臣となっていた。その孫に六郎良詮という者がおり、役目を辞して長州の美祢郡に隠遁していたが、明応(1492~1500)の時に上洛し、山科本願寺の南殿に隠棲しておられた信証院(蓮如上人)に拝謁し、「弥陀図像」と蓮如上人真筆の「六字名号」をいただいて帰り、その後永正の末(1520)に日置庄の実広の地にお堂を創建した。それが浄泉寺(および光明寺)の創めである。
浄泉寺に伝わる蓮如上人筆六字名号とお厨子
【浄泉寺の寺号】
「浄泉寺」(古くは浄専寺)の寺号は、寛永11年(1634)に時の門主良如上人(教興院)より下付された。このとき阿弥陀如来木仏も賜った。
【光明寺との関係】
二世道専に二男子があり、長男・教円が光明寺(寺号は寛永17年に下付)を建て、次男・教清が浄泉寺を継いだ(『光明寺誌』による。浄泉寺には記録なし)。
【寺基移転】
三世教清のとき実広の地より「上野(あがりの)」(不明)に移り、五世覚円のとき上野より「小盧山」に寺基を移す。第六世良円の元禄14年(1701)にさらに新別名村鯉原山に移転して現在に到る。
【毛利家との関係】
『由緒書』によると、二世道専が大坂の端坊(はしのぼう)で役僧を勤めていたとき、関ヶ原の合戦で破れた毛利輝元を匿(かくま)い朝夕給仕した。このことにより紋服などを賜った。この因縁により輝元公(天樹院)の位牌を設け、ご命日27日に読経した(三世教清の記)。浄泉寺が毛利家の紋を免許されているのはこの因縁によるものであろう。天樹院の位牌、輝元公の判物現存。
【主な事績】
七世周円代の宝永3年(1706)に本堂、庫裏、梵鐘を調える。
十一世受慶代の天保3年(1832)に庫裏を新築、ついで弘化2年(1845)に本堂を再建。
十二世盛朗代の明治22年(1889)「愛心講」結構。明治29年(1896)鐘楼門を建築。
十三世月潭代の大正2年(1913)「西津仏教婦人会」結成。
十四世城守代の大正10年(1921)に七間の本堂を九軒に広げ、茅葺き屋根を瓦葺きにする。昭和2年(1927)5月、九条武子夫人を迎える。昭和12年(1937)山門改築。
十五世大峻代の平成1年(1989)本堂屋根葺替え、御本尊宮殿修復、平成10年(1998)本堂内陣、庫裏など修復。同年10月17日、蓮如上人500回遠忌・浄泉寺創建500年法要を勤修。