前芝の海について

橋を渡るときに川に目を向けると船が浮かんでいる。その川の流れる先には、青色の光り輝く空間が広がる。海だ。バイパスを通るときは、また違ったストーリー。両側のフェンスが途切れると、こちら側の陸とあちら側の陸、その間には、広い干潟と海。それを上から見渡しながら車で走る。バイパスを降り、駐車場に車を停め、狭い路地に入る。海の匂い。庭に干してある洗濯物と子供達の声。こうした空間をすり抜けて前芝地区市民館に着く。

私は、市民大学トラム「三河湾海辺のくらし‐歴史と環境」に参加していた。そこで語られる光景と前芝でこれまで私が目にしていた光景が入り混じり、私の「前芝」のイメージを形作る。今あるものと、昔あったもの。昔はあったが、今はないもの。等々。こうした変化の中で、特に「海」は大きな存在だ。言葉の上では同じ海だが、現在と過去では、その在り様が異なっている。

「昭和40年、41年は、海苔の大不作。漁業組合も漁業補償に応じなければならなくなった。」

当時、新聞記者をしていた長谷川哲男氏によって語られた「漁業補償」は、その変化の境目の出来事として感じとれる。その後の海。豊橋市美術博物館ホームページにある「郷土の歴史」で書かれている「豊橋港」の箇所を引用しよう。

「国際貿易港・豊橋港は、豊橋市の新たな顔として、また臨海工業地帯の中心的役割をになう地域として、最近注目されています。昭和38年(1963年)に工業整備特別地域と重要港湾の指定を受け、三河港づくりと臨海工業地域の計画は進められました。そして漁業補償問題などの難問を乗り越え、昭和47年に豊橋港は正式に開港しました。」

私は、こうした変化の中に生きた人たちの声を聞き、今を見つめる。最後の回で、全校区自治会長である山本章司氏の声で、「前芝」の今が伝えられた。中学生に聞いた「前芝」のイメージ。「最古の二宮金次郎像」「銅鐸の発見」「燈明台」。私がまだ知らなかった前芝。

私は、学生時代を含めて合計10年ほど豊橋市に住んでいる。この10年という長い年月の中で、地元の人の話を聞く機会はほとんどなかった。しかし、2011年秋からはじまった豊川浄化センターでのバイオマスプロジェクトのために、私は頻繁に前芝を訪れるようになり、前芝の人達と話をする機会を得た。そこで、出会った人達は、時々、前芝のことを話してくれた。「田舎」「農家」「広い土地」。一方、外から移り住んだ私にとって、前芝は豊橋の中で一番海に近い場所だ。それは前芝を歩くとよくわかる。

市民館を出るとその右手に神社がある。その境内の広い空間を見るとなぜかホッとする。その先の狭い路地を進むと、だんだん空が広がってくる。そこに吹き込んでくる潮風を浴びながら、船溜まりを横目に堤防沿いを歩く。その向こう側では、干潟が待っている。道を降り、ピタピタと潮溜まりを避けながら歩く。ふと顔を上げると橋げたが海に浮かんでいる。その上には行きかう車、自転車と人。さっきとは違った海の姿が私の目に映る。

蒲原弘継

みなと塾第64号

平成26年9月3日(水)掲載