独自の有機磁性体を用いた構造・物性の検証を通して、これまでに200パターンを超える大規模な物質設計のデータベースを蓄積しています。それらの知見を基に分子設計を施した有機ラジカル系α-2,6-Cl2-Vでは特異な分子配列が形成されています。分子軌道の重なりは、図1のような五角形が部分的に頂点を共有して三次元的に拡がるスピン配列を形成しています。競合する磁気相関が働くフラストレーション系では、量子スピン液体やカイラリティーに起因する物性等、数多くの革新的な研究テーマが提唱され、近年精力的に研究が進められてきました。それらにおいては、主に三角形をベースとしてフラストレーションが生じています。五角形をベースとしたモデルにおいても同様なフラストレーションが生じますが、無機物の対称性と安定性からは形成が困難でした。このα-2,6-Cl2-Vでは、五角形をベースとした初めての量子的なスピンモデルとなっています。
このスピンモデルには、2つの非等価なスピンのサイトα、βが存在しています。αサイトは、配位数2であり、2つのβサイトと繋がっています。一方、βサイトは、配位数4であり、1つのαと3つのβサイトと繋がっています。第一原理計算から予想されている相互作用の値は、J1/kB = -1.6 K、J2/kB = 3.9 K、J3/kB = 3.3 Kとなっており、J1 - J3- J3- J3- J1から成る五角形によってフラストレーションが生じています。また、磁気的なユニットは、2つのαサイトと4つのβサイトから成る6つのスピンで構成されています。
図1: α-2,6-Cl2-Vのねじれた五角形から成るスピンモデル. J1は強磁性、J2、J3は反強磁性.
量子性が顕著に現れている磁化曲線の振る舞い(図2)を基に、量子状態を考察することができます。まず、明瞭な1/3磁化プラトーが観測されていることが分かります。6スピンのユニットであることを考慮すると、この1/3の磁化はαサイトのスピンから来るものであると考えられます。比熱ではゼロ磁場で、磁気相転移を示唆する振る舞いが観測されました。つまり、1/3磁化プラトー以下の磁場領域(i)では、高次の摂動によって三次元的な繋がりをもつαサイトのスピンが、反強磁性的な磁気秩序状態を形成しています。1/3磁化プラトー領域(ii)では、図2のイラストに示すようにαサイトのスピンが完全に磁場方向へと偏極しています。このとき、βサイトのスピンは消失しているので、反強磁性相関であるJ2もしくはJ3によって非磁性状態が形成されて、励起状態間にエネルギーギャップが生じていると考えらえます。ギャップの潰れた領域(iii)では、αサイトのスピンは偏極して自由度を持たないので、βサイトのスピンのみを考えることで定性的な議論が可能になります。βサイトのスピンの状態を決めているのは2種類の反強磁性相互作用J2、J3であり、この大小関係によって定性的な違いが生じます。J3/J2<<1の場合は、J2によるシングレットダイマーが形成されてエネルギーギャップが生じます。このとき、ギャップの潰れる磁場近傍(1/3磁化プラトーの始端)では、スピンギャップ系特有の H1/2 に比例した磁化の立ち上がりを示します。一方で、J3/J2>>1の場合は、J3によって朝永ラッティンジャー液体を基底状態に持つ反強磁性一次元鎖が支配的になるために、エネルギーギャップは減少して磁化は緩やかに増加する傾向が高まります。実験値では、磁化の磁場微分(dM/dH)の明瞭なピークが示すように、僅かながらH1/2 型の振る舞いが観測されています。この振る舞いを再現するように、J3/J2の値を大まかに見積もること、図2(b)、2(c)に示すように、J3/J2<<1の描像で考えられると判断できます。
このようなスピンギャップ系では、計算値が示すように、飽和磁場の近傍でもギャップが潰れる近傍と同様な磁化の変化が通常は観測される。ところが、この系においては、飽和近傍の領域(iv)では、dM/dH が一定の値を示す特異な傾向が観測されました。ここまでの議論で示した、αサイトとβサイトの状態を切り離して捉えたフラストレーションを持たないモデル、つまり偏極したαサイトのスピンとβサイトのシングレットダイマーでは、この振る舞いは説明することはできません。従って、正しくフラストレーションの効果に起因したものであると考えられます。磁場中の比熱では、この領域において、何らかの相転移に向かうような振る舞いが観測されています。強磁性相互作用J1によって安定化された3つのマグノンの束縛状態が、飽和磁場近傍でスピン多極子状態をもたらしているのではないかと期待されています。
図2: (a) α-2,6-Cl2-Vの磁化曲線とその磁場微分. (b, c) J2とJ3から成るスピンモデルを仮定した場合の、量子モンテカルロ法による計算値との比較.