ランダムネスの導入
安定有機ラジカルの1つであるフェルダジルラジカルを金属原子に配位させて、分子性の金属錯体Zn(hfac)2(AxB1-x)を合成した。金属原子に配位させることでラジカルの分子内回転自由度が消失して、図1に示すように分子構造にCl原子の位置が異なるA-typeとB-typeの2種類の異性体が構築される。これらの分子を含んだ溶液で再結晶を行うことで、両方の分子を取り込んだ結晶が育成される。X線構造解析から、結晶中ではこの2種類の分子がランダムに配列していることが明らかになった。1分子はスピン1/2を持っており、分子軌道計算の結果から、分子軌道の重なりによってスピン1/2が3種類の磁気相関によってつながっており、ハニカム格子が形成されていると予想された。さらに、A-typeとB-typeの分子の存在と分子間の対称性を考慮することで、各磁気相関には3つのパターンが存在していると考えられた。結果として、ハニカム格子を形成する磁気相関には9 (=3×3)パターンが存在して、それらがランダムにつながることで磁気相関にランダムネスが構築される。
ランダムシングレットの形成
スピン1/2が反強磁性的に結合した場合には、量子的なシングレット状態が形成されてスピンが消失する。本系におけるハニカム格子上のランダムな磁気相関においては、温度低下に伴って強い反強磁性相関を持つスピンのペアから順次シングレットを形成していく。その際、シングレットを形成して消失したスピン対を飛び越えた高次の反強磁性相関も有効になる。従って、ハニカム格子をつくる磁気相関は9パターンであるが、シングレットを形成する磁気相関のエネルギーはほぼ連続的に分布することになる。この乱れによって形成されるランダムシングレット(valence bond glass)においては、図2に示すようにそれぞれのスピンが空間的にランダムにシングレットを組み、ギャップレスの非磁性状態となっている。それ故に量子スピン液体として報告されている振る舞いと同等な物性が観測されると予想されている。非常に弱い高次の反強磁性相関によってシングレットを組んでいるスピンは、有限の磁場でトリプレット状態へと励起されるため、低温での磁化率には常磁性的なスピンの寄与が現れる。また、連続的なエネルギー準位の分布を反映して、磁化曲線は線形的になり、磁気比熱は低温で温度に比例した振る舞いを示す。本研究では乱れの大きなx = 0.64と0.79の試料の合成に成功し、低温での物性検証を進めた。その結果、図3のように、磁化率、磁化曲線、磁気比熱の全ての実験結果において、明瞭にランダムシングレットで予想されている量子スピン液体的な振る舞いが再現された。
今後の展開
乱れを導入することによって実現した量子スピン液体は、従来の量子スピン液体のモデルとは異なる発現機構を備えている。現実の物質で観測されている量子スピン液体の理解に一石を投じるとともに、その本質に迫る重要な知見となった。さらに、空間的に離れたシングレットを持つランダムシングレット状態では長距離のスピン輸送も期待できる。反強磁性絶縁体をベースとしたスピンデバイスの開発につなげていきたい。
ランダムシングレットを実現するためには通常の磁性体で安定化する磁気秩序を壊す必要があるために、フラストレーションの存在が必須であると理論的には予想されてきた。一方で本系では、磁気秩序を形成するモデルをベースとしていないために、シングレットダイマーをランダムに配列させることによって実現していると見なすことができる。そのような場合には、ランダムなシングレットの形成を抑制するものはなく、必ずしもフラストレーションを必要としないと考えられる。本研究は、ランダムシングレットが多くのスピンモデルにおいて実現する普遍的な量子状態である可能性を実験的に提唱するものとなっており、今後の検証に期待が高まる。