図1: スピン1三角格子における拡張ハルデン状態の イメージ図.
電子のスピン自由度が結晶中で引き起こす量子多体現象の探求は、物性研究の重要なテーマとなっています。その舞台の一つとなるのがスピン間に働く磁気相関が競合するフラストレーション系です。三角格子系を中心として、実験理論の両面から現在も尚精力的に研究が進められています。フラストレーション系では基底状態が比較的不安定であるため、僅かな環境の変化によって基底状態が大きく変化すると予想されています。その要因の一つとなり得るものが空間的な異方性(スピン格子の歪)です。スピン1/2の歪んだ三角格子系では、一次元系特有の朝永・ラッティンジャー液体(TLL)を形成することで、より安定な状態へと落ち込むことが知られています。フラストレーションを解消するために実効的な格子の次元性を低下させることに相当しており、フラストレーションによる低次元化として理解されています。スピン1の歪んだ三角格子系においても同様な低次元化の発現が期待されています。その場合は、スピン1の一次元系特有のハルデン状態が二次元系に拡張された特異な量子状態(拡張ハルデン状態)が実現すると予想されています。
本研究では、独自のマテリアルデザインにより開発した新規磁性体において、拡張ハルデン状態の形成を示唆する量子物性を初めて観測することに成功しました。
安定有機ラジカルの1つであるフェルダジルラジカルを配位子として設計しました。それを非磁性の遷移金属元素Znに配位させることで、新規金属錯体 [Zn(hfac)2] (4-Br-o-Py-V)を合成しました。図2(a)のような分子骨格となっており、ラジカルのスピン1/2が磁性を担っています。先行研究によって得た物質設計のデータベースを基に、四角形のスピン配列を構築するように分子設計を施しています。四角形を構成する4パターンの分子間磁気相関は、3つの強磁性相関JF1、JF2、JF3と、1つの反強磁性相関JAFとなっています(図2(b)、2(c))。さらに、強磁性相関と反強磁性相関の競合によりフラストレーションが生じています。
磁化率の温度依存性から、実際に強磁性相関が支配的であることが確認できます (図3(a))。さらに、スピンギャップを示唆する磁化曲線の振る舞いが観測されました(図3(b))。磁場によってスピンギャップが潰れた領域では、一次元スピンギャップ系における磁場誘起TLLへのクロスオーバーを示唆する振る舞いが見られており、本系が一次元的特性を備えていることが分かりました。より低温領域では、磁化率および比熱において長距離磁気秩序への相転移を示唆する振る舞いが見られました。得られた温度磁場相図(図4(b))における、相境界のドーム型形状とその直上のTLLへのクロスオーバーは、一次元スピンギャップ系の典型的な振る舞いとなっています。一方で、エントロピー変化、低温比熱の温度依存性、磁化曲線の緩やかな立ち上がりには、二次元系の特性が反映されています。
本スピンモデルを構成する4つの磁気相関では、強磁性的なJF1が最も支配的となっています。その場合、低温ではJF1による実効的なスピン1が形成されていると考えられ、図2(d)のようなスピン1の歪んだ三角格子へとマッピングすることができます。従って、実験結果が示すスピンギャップ的振る舞いは、JAFをベースとしたハルデン状態に起因している考えられます。これはスピン1の歪んだ三角格子系で予想されている拡張ハルデン状態に対応しています。本系のマッピングモデルでは、JAF以外が強磁性相関である点が先行理論研究とは異なっています。量子状態(singlet)は強磁性相関によって繋がる方が壊れにくい性質があるため、本系においてはむしろハルデン状態がより安定化していると考えられます。一次元性と二次元性の特性を併せ持つ本系は、フラストレーションの効果で二次元系に拡張されたハルデン状態の実現を示唆するものです。二次元のスピンモデルを舞台とした量子多体現象の希少な実現例として、大変重要な研究成果となっています。
図2: (a)新規金属錯体 [Zn(hfac)2] (4-Br-o-Py-V)の分子骨格。(b,c)4種類の分子間磁気相関によって形成される四角形のスピン配列。(d)低温でのマッピングモデル。JF1が作る実効スピン1が三角格子を形成。
図3: [Zn(hfac)2] (4-Br-o-Py-V)の(a)磁化率と(b)極低温での磁化曲線。約0.35 Tのスピンギャップを示唆。
図4: [Zn(hfac)2] (4-Br-o-Py-V)の(a,c)比熱、(b)温度磁場相図、(d)エントロピー変化。
更新日 2022/2/19