資料1の表を利用.東京ドームの容積は 1240000m³.
1)主として大矢野島.2)宇土,飽田,玉名の3群.3)停泊中の船の住人を除く,深溝世紀によれば,9534人.4)うち106人は間もなく死亡.5)住居のみ
資料1の表を加工
資料2の図を加工
資料2a に掲載されている表を加工(オリジナル論文は資料5)
津波の高さを示した図を加工(資料4)
2023年10月13日修正
碑の正面に は、南無阿弥陀仏と大害され、三面には次の 文が刻まれている。「ことし寛政四の年壬子 正月より肥前国温泉乃獄煙たち炎火日に月に 職にして、おなしき四月一日の夜山崩れて海 に入り潮溢れて我が国飽田宇土玉名三郡の浦 浦に及び良民溺れ死する者玉名郡に二千二百 余人飽田宇土を合わせて四千数百余人たまた ま活き残りたるも父母を失い或は老いたるか 子むまごにおくれて泣きさまようあわれとい うもさらなりかかる事はふるき史にもまれな る こ と に な ん 夫 民 は 国 の 本 な り と て 同 じ き 六 月に宮より僧に命して追福の事を修せしめそ の九月に一郡に一基の塔を建てられ死者の名 を録してここに納め霊魂を鎮せしむ死者もし 志る事あらば千年の後までも死して朽ちずと お も う な る べ し 」 。(文献2より引用)
参考論文および資料
1)寛政4年(1792年)の普賢岳噴火と眉山山体崩壊 - 国土交通省 九州地方整備局
2)a) 堀川治城,熊本地学会誌.86,1−14(1987−12−01),眉山大崩壊と津波被害(熊本大学学術リポジトリ)
b) 堀川, 治城 ,熊本地学会誌, 140: 2-17(2005-11-26 ), 寛政大津波, 熊本側の波先侵入 : 防災意識高揚の資料と して (同上)
3)a)『碑に込められた願い』島原大変肥後迷惑(慰霊碑11箇所の写真が掲載されている)
b) 20151212_4_碑に込められた願い~鹿子木量平~ - YouTube
c) 蓮光寺のストリートビュー(鹿子木量平の碑).蓮光寺山門横の供養碑(市の指定有形文化財)には,「寛政四年壬子四月朔日死者七六五人」と刻まれている. 文献4によれば,五丁手永(白浜,船津,河内,塩屋,近津の五集落)の被害者数.
4)寛政四年(1792)島原半島眉山の公開に伴う有明海津波の熊本県側における被害,および沿岸遡上高,郡司嘉宣,日野貴之,地震研究所彙報,68 (1993) pp. 91-176.
5)表3の原報 :菊池万雄(1980):日本の歴史災害一江戸後期の寺院過去帳による実証一。古今書院、 95-121.
6)島原大変の教材化と防災意識を高める学習指導,堀川治城,地学教育,第45巻第 5号〈通巻第220号〉 日本地学教育学会
7)託麻郡の津波供養塔:熊本市西区小島の坪井川沿いの小島小学校入口に立てられている島原大津波供養塔(坪井川が海に注ぐ地点まで2.8km程度,当時は海まで1.4km).この慰霊塔は池田手永(熊本市南部)における犠牲者を供養したものと考えられる.すこし上流の高橋では浸水したものの被害は少なかったと言われている.津波の先端は白川河口から8kmの熊本城下まで達し.長六橋で3尺程度の水位の上昇がみられたという.緑川,加勢川筋においては,川尻御蔵前船着場(旧藩時代の重要な物資集積,積出港,現JR鉄橋付近)の石壇の上段まで波が及んだと言われている.
8)九州災害履歴情報データベース(トップ)から熊本県(主な災害)の雲仙岳噴火・地震(島原大変非ご迷惑)を選択.熊本県(熊本市・宇城市・宇土市)の現地調査概要